■第三章/黄金の鷹-4


 季節は夏に向かっていた。
 照りつける太陽の下、収穫の終わった畑にはひびが入り、次の氾濫を待っている。脱穀された小麦は穀物庫に収まり、人々は、しばしの休息をとる。だが勤勉な者にとっては、この時期さえも労働の季節なのだ。
 川べりに生い茂る鬱蒼とした夏草の中、シェヘブカイはカイエトの家を訪れていた。日干し煉瓦で作られた真新しい壁は、まだ少し土の香りがする。子供たちの希望通り子供部屋をつくって建て増しした家は、立派な庭付きの屋敷になっていた。カイエトは、台所の床で石臼に向かっていた。パンを焼くため、麦を粉にするのだ。
 「こんにちは、大変そうですね」
 「あら、いらっしゃい。」
声をかけると、カイエトは、汗を拭い、腰をさすりながら体を起こした。黒髪のひとふさが垂れて、上気した頬にかかっている。
 「これからティティスのところへ行くんですけど、何か言伝はありますか」
 「いいえ。今日は特には」
 「そうですか」
言いながら、シェヘブカイはそれとなく家の中を見回した。石臼のかたわらには、パンをつくるため粉にひかれた小麦粉が壷の半分ほどまで入っている。堅い実をすりつぶす作業は人力でやるしかなく、重労働だ。奥の土間には、食事のためのビールを発酵させている壷がいくつか、地面に掘った穴に差し入れて立ててある。家の中は妙にしんとして、ほかの気配はない。
 「――そういえば、今日は子供たち居ないんですね」
 「ええ、最近はメネスさんによく面倒を見ていただいているんです。一緒にどこか行ってるんじゃないかしら」
 「メネスが?」
シェヘブカイの驚いた表情を見て、カイエトがくすくすと笑う。
 「良い方みたいですよ、うちの子たちはすっかり懐いて。子供の扱いも手馴れているみたい。」
 「そうなんですか?」
 「ええ。兄弟が多かったそうなんです。」
そんな話は、本人からは一言も聞いていなかった。というより、シェヘブカイのほうが敢えて聞かなかったのもあるのだが。
 「メネスさんは、いつまでここにいるんでしょうね。あの人って貴族様じゃないんですか?」
 「分かりません…」
ここにやって来てから、もう半年近くになる。何か事情があるらしいが、何があったのかは言いたくない様子だった。町に戻ることは諦めているのか、このところは脱穀や漁も進んで手伝うようになっていた。
 「いいんじゃないですか。ここが気に入ったんなら今のままで。手先が器用だし、人手は多いほうが助かるから」
 「それは、そうなんですけれどね。」
曖昧に微笑んで、カイエトは手元に視線を落とした。シェヘブカイも、挨拶をしてその場を辞した。メネスが何を考えて、どうするつもりなのかは、シェヘブカイにもよく分からなかった。


 シェヘブカイが家を訪れたとき、家主のレニセネブは、きつく絡まった荒縄を解いているところだった。
 「こんにちは」
 「おお、来てくれたか。ティティスは裏にいる。すまんな、手伝ってもらって」
 「いえ、いつもこっちが手伝って貰ってるので、たまにはこのくらい。」
裏庭のほうからは、荒っぽい牛の鳴き声が響いている。土間を突き抜けて裏庭を覗いてみると、ティティスが、厩舎の前でけんめいに足を踏ん張っているところだった。縄の先では、子牛が一頭、母牛から離されまいと抵抗している。
 「ちょっと、遅いじゃない! これ。どうにかして頂戴。」
ティティスは力ずくで縄を引っ張っている。まるで牛との綱引きだ。笑みを噛み殺しながら、シェヘブカイは子牛に近づいて優しく頭に手をやった。
 「ほら、怖くない。大人しくして」
耳元で声を掛けると、興奮が鎮まってきた。尾を大きく振り回しながら、戸惑うように母牛とシェヘブカイを見比べている。
 「それ、貸して」
ティティスから差し出された縄を握ると、シェヘブカイは前庭のほうへ歩き出した。子牛はおとなしく後ろからついてくる。ティティスは、不満げな顔だ。
 「何よ、あたしの時はあんなに嫌がってたのに」
 「落ち着いて接すればいいだけだよ。言葉は分からなくても、心はちゃんと伝わる。で、この仔を売りに行くの?」
 「そ。沼地の奥にある、湖のほとりの村にね、この時期は市が立つから」
頼まれたのは、今年の春に生まれた子牛を、市で羊と交換することだった。レニセネブの家には既に、乳牛も、労働用の雄牛もいる。毛が取れる羊がほしい、というのだ。市は、そうした物々交換にはもってこいの場所だ。
 「舟で行くの?」
 「だめね。この季節は水位が低くて、途中が干上がってしまっていて使えないの。歩くしかなくて…だから早く出るつもりだったんだけど…」
そう言って、ティティスは空を振り仰いだ。太陽は中天にかかろうとしている。遅すぎる時間ではないが、交渉が長引けば、日が暮れるまでに戻ってこられないかもしれない。
 二人は、子牛を挟むようにして並んで歩きながらレニセネブの家を出た。徒歩で向かうのだ。湖のほとりの村は、川の流れを離れて日の沈む方角にある。シェヘブカイたちの住んでいるあたりからずっと陸の奥のほうで、川の流れはそこで窪地に注ぎ込んで、大きな湖になっているという。
 「僕、奥の湖に行くのは初めてだな」
 「湖って言っても、この季節はあんまり水ないわよ。氾濫の季節は、一面が水に変わるんだけど」
湖のほとりに住む人々は、かつては、いまシェヘブカイの住んでいるあたりに暮らしていたという。川の流れが変わり、水が届かなくなっていらい、奥地へ移住していった人々なのだ。
 「親戚もいるわ、遠縁だけど。うち以外は、みんな奥に引っ越しちゃったらしいから。」
 「レニセネブさんは、どうして残ったんだろう」
 「さあね。きっと、大した理由なんてないのよ。お祖父さんの代にはもうここに住んでたらしいし、単に動くのが面倒くさかったのかも。」
沼地の縁を歩きながらシェヘブカイは、湖に至る道を眺めていた。かつて畑だったらしい場所は、今は完全に干上がってひび割れた泥の塊と化している。細い水の流れはやがて途切れ、かわりに、沼地の反対側に太い川の支流が流れているのが見えた。湖へと繋がる流れは、それなのだろう。かつては今歩いている土手側のすぐ下を流れていたものが、流れを変えたのだ。だが、その流れは浅く、またすぐに変わってしまいそうにも見えた。葦の茂る沼地には幾筋もの曖昧な水路が走り、わずかに突き出した高台に張り付くようにして小屋が建てられている。
 「亀の背、っていうのよ、あれは」
隣を歩くティティスが言う。
 「氾濫の季節になると、このへん一体は水に浸かるの。で、島みたいに高台が残る。まるで水に浮かぶ緑の亀の甲羅みたいだから、亀の背っていうの。みんなそこに家を建てるわ」
 「でもあそこ、そんなに高くないよね。水位が上がりすぎると沈んでしまいそうだ」
 「また、何か面白いこと考えているんでしょ。次はどうするの? 亀の背の周りに堤防でも作るの?」
 「いや。流れを安定させれば、もっと安全になるし、畑も増やせるんじゃないかって。…ん、何笑ってるの」
 「なんでもない」
くすくすと笑いながら、ティティスは片方の腕を差し上げ、行く手の一点を指した。
 「ほら。あれよ、村は」
湖のほとりからかなり離れた場所にぽつんと、茶色く家々の集まる場所があった。道は、そこへと続いている。
 それは、どこにでもある鄙びた村といった雰囲気の場所だった。二十軒ほどの家が軒を連ね、村の外には畑や、畜産を飼う囲いがある。収穫を終えた麦の穂が、束ねて積み上げてある。湖のほとりには、水位の変化を示す茶色い段々が刻まれ、その縁に、葦舟が無造作に置かれている。村の中心には猫の額ほどの広場があり、近隣の人々が集まって茣蓙を広げ、賑やかに品物を交換しあっていた。そこが市らしい。
 「それじゃ、行って来るわね。あんたも自由に見て回りなさいよ。ここで待ち合わせ。いい?」
 「ああ、それでいいよ」
子牛の綱を握ったまま、シェヘブカイは辺りを見回した。湖のほとりのこの場所に建っている家と、来る途中で見た"亀の背"の家をあわせれば。四十軒ほどになるだろうか。かつて両親と暮らしていた村と同じくらいの規模だ。漁や畑仕事で生計をたてている者がほとんどらしく、素朴な雰囲気の村だ。
 人通りを眺めながら歩いていると、籠を頭に載せて通りかかった老婆が一人、目の前で立ち止まった。
 「あんた、見かけない顔だね。」
 「ティティスの付き合いできたんです、牛を売りに」
 「ティティス…、あぁ、レニセネブんとこの娘かい。そうかい、あの変わり者のね」
じろじろと、上から下まで値踏みするようにシェヘブカイを見やる。
 「うわさは聞いているよ。他所から来た若いのが、大鰐に取り憑かれて祠を建て直したってね。お前さん、まさか誰か祟り殺させる気じゃないだろうね?」
 「祟り殺す…?」
 「あれは恐ろしい神さ。昔、あれのせいで人が死んだことがあるんだ。」
老婆の目はぎらついていて、異様な威圧感があった。シェヘブカイは思わず視線を逸らす。
 「信じないのかい?」
顔を近づけてくる老婆の息からは、死の匂いがした。「あんたも、そのうち取り殺されちまうよ。」
 「嘘ですよ、そんな話。」
 「なんだって?」
老婆は哀れむような顔をして、シェヘブカイを見上げた。「あれは大鰐だよ。鰐は何でも襲う。お前さん、本当に取り憑かれとるのかね」
 「……。」
老婆は深々とため息をついくと、ふいにシェヘブカイから目を逸らすした。そして、何かブツブツと呟きながら、足をひきずり、背を丸めて去って行く。その後姿からは、奇妙に寂しげな雰囲気だけが漂っていた。彼は足を早めてその場を立ち去った。胸がどきどきと高鳴っている。今聞いた話は、本当だろうか。<緑の館の主>のせいで、昔、死んだ人間がいるというのは。


 待ち合わせの場所に戻ってみると、ティティスは、羊を二頭連れて立ち話をしていた。
 「ごめん、待たせた?」
 「それほどでもないわ。それじゃまた――」
ティティスは、話をしていた同じ年頃の少女に別れを告げる。相手の少女は、ちらとシェヘブカイに一瞥をくれて意味ありげな笑顔を向けてから走り去っていった。
 「友達?」
 「ええ。久しぶりに会ったから、色々話してたの。あんたのこともね。はい、これ持って」
言いながらティティスは、シェヘブカイに綱を差し出した。シェヘブカイは、渡された綱の先につないだ羊に視線をやった。丸々と太ったイキのいい若い羊だ。
 「交換は、うまくいったみたいだね」
 「ええ。これで織物が作れる」
 「ティティスが作るの?」
レニセネブの家には機織はなかったし、ティティスは、お世辞にも裁縫など細かい作業が得意なほうではないと思っていたのだが。
 「残念ね。カイエトよ。彼女、昔は織物職人だったの。糸紡ぎからやってた。結婚して町に住んでからは、町じゃ羊が飼えないからって、ずっとやってなかったのよ」
 「へえ。それなら納得。」
 「あら何よ。まるで、あたしには無理みたいな言い方」
 「あ、いや。そういうわけじゃないんだけどさ。――」
並んで元来た道を歩きながら、シェヘブカイは、ちらとメリエトのほうを伺った。
 「ねえ、僕のことって、何を話してたの」
 「ん? 例の"ワニ様"のことよ。」
並んで歩く影が、背後からの陽に照らされてゆく手に真っ直ぐ長く伸びている。
 「皆、ずいぶん気にしてたのね。そんなに気にするなら、最初から要らないなんて言わなきゃよかったのに」
 「要らないって?」
 「祠のこと。もう誰も拝んでない昔の祠だから、って、石を集めに来た王様の役人にそう言っちゃったらしいの。それで、前にあそこにあった石の祠は解体されて、中にあった像と一緒に葬祭殿に使われてね」
胸の中に生まれたざわめきが、大きくなっていく。自分は、――彼の昔のことは、何も知らない。
 「祟りなんて、あるわけないと皆思ってた。でもなんとなく気味が悪くて、近づきがたくて、いっそ無くなってくれれば、って心のどこかで思っていたんだと思う。」
 「…人を殺したことがある、っていうのは、本当なの?」
 「ワニ様が? さぁ。その話は聞いたことないけど…、あそこに村があったのって五十年くらい前らしいから、もう覚えてる人なんてほとんどいないんじゃないかな。あたしも、湖のほうに来たときに聞いた噂しか知らないし」
シェヘブカイは、唇を噛んで足を止めた。
 「どうしてもっと早く、言ってくれなかったんだ」
 「え?」
ティティスが振り返る。
 「ただ村が移動したから、あそこに置き去りにされたんだと思ってた。それじゃ、彼は捨てられたんじゃないか」
 「彼、って…。やだ、なんでそんな顔してるの? あたし、何か悪いこと言った?」
シェヘブカイの表情をしばらく見つめていたティティスだったが、やがて、一つ小さなため息をつき、くるりと踵を返しながら、ゆっくりと歩き始めた。
 「…そうだったわね。あんたにとっちゃ、あの"ワニ様"は友達みたいなものなんだったわね。羨ましいわよ、そうやって心から誰かを信じられるって。だからあんたには、色んなものが懐くんだわ。」
 「置き去りにされるのは、誰だって悲しいよ」
 「うん」
 「居なくなってくれればいいって思われるのは、もっと辛いよ…。」
歩きながらシェヘブカイは、左眼<イアビィ>の、葬祭殿を襲った半身のことを思った。人に捨てられ、人に裏切られた怒りと哀しみが、かつて一つだった存在を引き裂いてしまったのだ。それもまた、紛れもない、彼の一部なのだった。


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