■第三章/黄金の鷹-3


 重たく穂を垂れる麦が朝日に輝く。今日も良い天気だ。
 畑は、間もなく実りの季節を迎える。カイエトなどは、もう何日も前から穂の様子を確かめながら、収穫の日を計っていた。その日に向けて、カイエトは落穂ひろいのための籠を作り、ティティスはビールづくり用の壷と刈り入れの石鎌を、シェヘブカイは穀物を蓄えるための貯蔵庫を新しく建てた。準備は整っている。カイエトの話では、明日から始めれば丁度いいということだった。収穫は、急いでやらなければ穂が落ちてしまう。だから、ゆっくりできるのは今日が最後だ。今のうちにとシェヘブカイは、庭で漁のための網をつくろっていた。庭では、やんちゃ盛りのまだらの子猫が蝶を追い回して騒いでいる。彼は顔を上げ、子猫に声をかけた。
 「こらセブ、あんまり遠く行くなよ。水辺に近づきすぎてワニに食われても知らないぞ」
そうは言ってみても、人間の言葉など分からないな子猫は知らんぷりだ。彼のほうも、あまり心配はしていない。そうはならないことを知っているからだ。この辺りは「大鰐」の庭だ。普通のワニたちは、水辺には近づいて来ない。恐れ知らずの子猫は、祠に入る時すら遠慮しない。来たすぐの頃は、木陰で昼寝をしている祠の主にすら、面白がってじゃれついていたものだ。今も、足によじ登ろうとして…
 「えっ」
子猫が飛びついていった白いものに気づいて、シェヘブカイは思わず声を出した。家のまわりを囲む垣根の入り口に、<緑の館の主>が立っていたのだ。祠はすぐ隣とはいえ、彼が陸の奥深く上がってくることは珍しい。慌てて子猫の首ねっこを捕まえて、引き離す。
 「どうしたんだ、わざわざ訪ねてくるなんて」
 「来てくれ」
そう言って、<緑の館の主>は沼地のほうへ視線をやる。何が、とは聞かなかった。わざわざ呼びに来るほどの用事があるのなら、行けば分かるはずだ。
 「わかった、すぐ行く」
子猫を家の中に入れて、シェヘブカイは水辺にある葦舟へと向かった。棹を差し入れると水面をすべる虫たちが散り、草むらに隠れていたトカゲらしきものが慌てて奥へ去ってゆく。実りの季節、水位は低く、川は土手の下のほうに浅い流れとなってわだかまっている。茂みの奥で大きな魚がぱしゃんとはねた。その脇を、浮きつ沈みつしながら白い影が通り過ぎてゆく。やがて影は大きな中州の前で止まり、シェヘブカイに一点を指し示すと、どこかへ泳ぎさっていった。
 「あそこかな」
彼は、<緑の館の主>が指したあたりに舟を寄せた。そこは、沼地の端にある、背の高い葦の茂る中州だった。目を凝らすと、葦草の間になにかが横たわっているものが見えた。
 人だ。
 葦舟を止め、中洲に飛び移る。乾いた葦を払いのけながら近づいてみると、それは、若い男だった。シェヘブカイよりは、いくつか年上だろうか。片方だけのサンダルは、泥にまみれている。シェヘブカイが肩に手をかけると、うう、と小さく呻いた。
 「大丈夫ですか?」
怪我はしていない様子だ。抱きおこそうとしたとき、ぐううっ、と盛大な腹の音がした。
 「……。」
ぽかんとして、彼は無精ひげを生やした男の顔を見下ろした。泥にまみれた頬がゆるみ、小さなため息とともに声が聞こえた。
 「…腹が減った。」
どうやら単に空腹なだけで、命に別状はないらしい。
 ほっとすると同時に、拍子抜けした。
 連れ帰ろうと肩を貸して舟に乗せながら、シェヘブカイは、この男は一体どうしてこんなところにいたのだろうと思案した。旅人にしては身なりが良すぎる。もっとも何者にせよ、よりにもよってこんな陸でも川でもないところで行き倒れるからには、何がしか理由があるに違いないのだ。


 ほとんど身動きせず、半ば死んだようになっていた男は、食べ物を与えられたとたん急に生き返ったように見えた。パン、干し魚、炒り豆、差し出されたものは片っ端から何でも凄まじい勢いで飲み込んで、おかわりまで要求するありさまだ。遠慮する気配もない。シェヘブカイは、呆れつつも男が満足するまで腹いっぱい食べさせてやった。
 「ああ、美味かった。生き返った!」
 「…そりゃ、どうも。」
大きく膨らんだ腹をさすりながら、男は周囲を見回している。シェヘブカイのほうも、猫と一緒になって男を観察した。よれよれになって汚れてはいるものの、服は、町のお金持ちが着るような上等な布だ。それにサンダルは漂白した皮でできていて、村の住民が履くような、葦やヤシの葉を編みこんだものとは違っている。
 「あんた、一体…」
 「おっと。自己紹介が遅れたなぁ。おれは、…メネス。前は町役人をやってた」
 「"前"…?」
 「あーまあな。なんつーかちょっと…こう、あれだ…」
 「やめたってこと? つまり…ええと」
 「おいおい、そんな顔するなよ。まあ色々あったんだよ。あーそうだな、不真面目で首になった、とか…ま、色々とな。」
へらへらとした作り笑いと投げやりな話しぶり。とても信用できそうにない。だが、犯罪者などではないはずだ、もしそうなら、<緑の館の主>が、わざわざ助けるよう促すとは思えない。
 シェヘブカイは、それとなく男を観察した。怪我はしていないが、逃げてきたにしては荷物もなく、着のみ着のまま飛び出してきたという雰囲気だ。おまけにこの男を見つけた中洲は、人目にもつきにくく、しばらく隠れているには好都合だ。
 「もしかして、逃げてきたのか?」
 「んーまあな、結果的には」
さばさばとした言いようだ。
 「っつっても、犯罪者じゃねーぞ。悪いことは…あぁ、まあ…ちょっとは、したけどさ」
シェヘブカイの疑わしげな眼差しに、男はにやりとした。
 「ま、そんなわけで、ほとぼりがさめるまでしばらく置いてくんねえ? 町には戻れねえんだ。そのぶんちゃんと働くから、な?」
 「それは構わないけど、あんたに出来ることって?」
 「なーに。こう見えておれは、色々と経験済みなんだ。家庭教師から家計簿の管理、指輪磨きから椅子の修繕まで、何でも出来るんだからな」
 「今必要なのは、小麦の刈り入れ手伝ってくれる人なんだけどさ」
シェヘブカイは、立ち上がって皿を片付け始めた。足元で子猫が鳴いている。
 「あーそうだごめん、さっきこの人を拾ってたお陰でお前の魚とってこれなかったんだったな。ほんと迷惑な人だよね」
 「こらこら、そんな聞こえよがしなイヤミを言うことないだろう」
 「悪いと思うんだったら、手伝ってよ」
 「何、こっちはさっきまで死に掛けてたんだぜ?」
 「空腹で、でしょ? 食べたんだからもういいじゃないか」
振り返ってシェヘブカイは、無精ひげを生やし、泥で真っ黒に汚れた男の顔先に魚篭を突き出した。
 「どうする? 手伝うの? 出て行くの?」
 「…分かったよ、ちぇっ」
メネスと名乗った男は、ぼりぼりと頭をかいて、片手で魚篭を受け取る。だがその手は、ペンしか持ったこともない町役人のものとは違っていた。同時に、シェヘブカイは、あることに気がついた。男の手には、――ただの町役人にはあるはずのないものが、ついていた。
 だが、今は気づかないふりをする。
 「じゃあ、よろしく。僕はシェヘブカイだよ」
 「おう」
並んで舟に乗り込みながら、シェヘブカイは、この男は本当は一体何者なのだろう、と思い巡らせていた。


 結局、戻ってきたのはその日の夕方になってからのことだった。
 シェヘブカイの操る小舟が、水面を滑るようにして家の近くの岸辺に着く。魚篭の中は半分ほど埋まっていた。半日かけたにしては少ないが、少なすぎてがっかりするほどでもない。もとより、水位の低い今の時期、魚は他の季節より獲りづらいのだ。
 「はあ…疲れた」
メネスは、演技ではなく本当に疲れた様子で船べりにもたれてぐったりしている。
 「漁は初めて?」
 「ああ、こんな大変だと思わなかったぜ全く。腰が痛い…。これからは感謝して魚を食べることにする」
 「そんな大げさな…。っていうか、気合いいれすぎだよ。もっとゆっくり、力を抜き気味にやってよかったのにさ」
苦笑しながら、シェヘブカイは魚篭をとりあげ、岸辺に飛び移った。待ち構えていた子猫が、家から出てきて足元にまとわりつく。
 「ああ、ちょっと待ってな。先に祠に一匹あげてから、お前の分だから。」
 「…祠?」
男が、船の中から体を起こした。「ここ、土地神いるのか」
 「うん、そこの祠にね。」
魚篭をかつぎ、子猫を従えて、シェヘブカイは先に歩き出した。西日に照らされて、白い漆喰塗りの壁が風景の中に明るく浮かび上がっている。前庭に入ると、微かな花の香りが漂ってきた。いつも寝そべっている木陰に祠の主の姿はない。あのあと、どこかへ出かけてしまったようだ。
 「――へえ」
振り返ると、メネスは顎髭を撫でながら祠を見回していた。「ちっちゃな村にしちゃあ、立派なもんじゃないか。」
 「そうかな?」
 「祭神は、っと…」祠の中を覗き込んだ男は、ぎょっとして足を止める。「おい、おい。神像が粉々じゃねえか」
 「仕方ないだろ、直せないんだから」
メネスを押しのけるようにして中に入ったシェヘブカイは、魚篭の中から一番大きな魚を取り出して、壊された神像の前に据えた籠の中に、そっと置いた。傍らには、子供たちが供えたらしい花束と、泥で作った不恰好な人形のようなものが置かれている。彼は思わず微笑んだ。
 「いいんだよ、これで。ちゃんと主はここにいるんだからさ。今日、あんたが中州にいるって教えてくれたのも、ここの主だよ。命の恩人なんだから感謝してもらわないとね」
 「なるほど? そいつは確かに感謝しなきゃな」
面白がるような、他人事のような口調だ。「それで、ここのヌシさまは何て名前の、どんな方なんだい?」
 「<緑の館の主>、この辺りの沼地を守ってくれている豊穣をもたらすもの。白い大鰐だ」
 「鰐<ソベク>だって? ワニが人を守護するなんて、聞いたことも無いな。この辺にいるのかい?」
 「今はいないよ。出かけてる。居ても、普通は見えないものみたいだけど…」
言いながら、シェヘブカイはふと不安になった。メネスの反応は、どこか普通の人間とは違う気がした。外からやってきた人間、レキやスィトに紹介したときとは、何かが。
 祠をあとに、家に戻ろうと並んで歩いていると、ちょうど向こうからティティスがやって来るのが見えた。シェヘブカイが見知らぬ男といるのを見て足を止め、じっとこちらを見ている。
 「あ、ティティス」
手を振って、シェヘブカイは駆け出す。
 「何、あの人」
 「行き倒れ。メネスっていうんだ、お腹空かせててさ…」
 「拾ったの? 子猫じゃないんだから、ホイホイ拾っちゃだめでしょう」
 「聞こえてるよ、おじょうちゃん」
苦笑しながらメネスが近づいていく。ティティスは、用心するように半歩、シェヘブカイの後ろに下がった。
 「心配しなくったって、あんたには手を出さないって。」
 「"あんたには"ってどういうことよ。カイエトに何かしたら許さないわよ。」
 「ん。ほかに美人がいるの? カイエトさんっていうの? あとでこっちの兄ちゃんに紹介してもらおうかな」
 「なんですって?!」
 「ちょっと、やめろよ二人とも。なんで初対面でケンカになってるんだよ」
シェヘブカイの足元で、困ったように子猫が鳴く。
 「そんなことよりティティス、何か用事だったんじゃないの」
 「あっと。そうだったわ、刈り入れ、明日からでしょ? 様子を見に来たの」
そう言って、ティティスは背後に広がる畑を見やった。「きっと手がかかるだろうと思ってね。うちの畑のほうが終わったら手伝いにくるけど、それで間に合うわよね」
 「うん、助かるよ。あと、このメネスも手伝ってくれるしね」
 「お、おう。食った飯の分は働くぜ、…やったことないけど」
 「麦刈りもしたことないの? どこの豪商のお坊ちゃんよ。見たところ、力は強そうだけど。足手まといにはならないでよね」
言うだけ言って、ティティスはツンとした顔で踵を返し、元来た道をさっさと歩いていった。いからせた肩先に、豊かな黒髪が揺れている。
 「はー、なかなかの美人だけど、ありゃ気が強くてとても手に負えんぜ。あんたも物好きだね」
 「ほっとけ。」
 「女にゃ気をつけたほうがいいぞ。腹の中で何たくらんでるか分かりゃしない、恐ろしい生き物なんだから」
 「あんた、もしかして、…そういう関係で仕事クビになったの?」
 「ははっ、さあ、そうかもな」
笑って、メネスは腰に手を当てた。
 「さーてよく働いたし、腹減ったな。メシにしようじゃないか、その魚でさ。」
 「さっきあんなに食べたじゃないか…。」
呆れつつも、シェヘブカイは魚篭を提げて家に入っていった。暮れ始めた西日にまじって、夜風が通り過ぎてゆく。その風にメネスがふと足を止め、鋭い目で川辺のほうを見つめたことに、彼は、気づかなかった。


 翌朝目覚めたとき、家の中はしんとしていた。隣に敷いた茣蓙の上はからで、掛け布団代わりに貸した麻布は折り畳まれて枕元に置かれている。
 日はまだ昇って間もない。扉を開けると、眩しい光が視界を真っ白に埋めた。畦道を走る子供たちの甲高い声が聞こえてくる。目をこすりながら畑のほうに行ってみると、穂の間に行きつ戻りつしているカイエトの姿が見えた。
 「あら、おはようございます」
目が合うと、彼女は小さく頭を下げた。手には、磨がれたばかりの石の刈り鎌が握られている。そうだった。今日から刈り入れを始めるんだったのだ。
 「遅れてすいません――すぐ、準備してきます!」
シェヘブカイは、慌てて家に取って返した。昨日は色々あったせいで、刈り入れのことがすっかり頭から抜け落ちていた。この土地に来てはじめての麦の収穫だ。台所の甕の水をくんで顔を洗い、道具を手に家を出ようとしたちょうどその時、姿を消していたメネスが、ぶらぶらと戻ってきた。
 「おう、起きたか」
 「ちょっと寝坊したけどね。これから収穫の始まり…って…」振り返ったシェヘブカイは、ぽかんとして男を見つめた。
 「どうした?」
川辺で整えてきたのだろう。無精ひげをきれいに剃り、真っ黒に汚れていた顔をきちんと洗って、ぼさぼさだった髪が梳かししつけられている。たったそれだけなのに、まるで昨日とは別人のようだ。
 「…なんでもないよ」
喉元まででかかった言葉を飲み込んで、シェヘブカイは研いであった鎌をぶっきらぼうに差し出した。
 「使い方は、見てれば分かる。朝ごはんは少し働いてからだ。行くよ」
 「仰せのままに。」
足早に畑へ向かうシェヘブカイの後ろを、男は昨日と同じニヤニヤした笑みを浮かべたままでついてくる。それが、不思議だった。黙って真面目な顔をしていればそれなりの美男に見えるはずなのに、どうしてこの男は、一目で作り笑いと分かる笑みを絶やさないのだろう。女性問題で逃亡したという話は、本当なのだろうか。


 豊かな実りに恵まれた畑に金の穂が揺れ、汗を拭いながら黙々と働く大人たちの傍らで、子供たちの声が響く。収穫は、夕方、暗くて手元が見えなくなるまで続いた。刈り取った穂は、何日か天日で乾かすため、束ねて逆さに吊るしておく。そして翌朝は日の出の少し前、明るくなり始める頃には畑に出る。その繰り返しだ。三日目にはティティスも手伝いに来て、収穫は順調に進んだ。あまりの忙しさに、日を数えることも忘れるくらい。
 そして今日、ようやく最後の穂の刈り入れを終えた。
 一年で最も忙しい季節を乗り切った安堵感。心地よい疲労の中、シェヘブカイたちは小さな火を起こし、遅い夕飯をとっていた。レキとスィトの兄妹は、疲れて母の膝に頭を置いて眠りこけている。
 「さすがに疲れたな。でも、思った以上の収穫だった」
 「ええ」
カイエトは嬉しそうに微笑み、眠っている子供たちの頬を撫でた。「ここへきて良かった。今年はようやく、この子たちにお腹いっぱい食べさせてやれます。町に住んでいた頃は、一日一食がやっとでしたから…。」
 「たくさんパンが焼けるね。感謝しないと」
 「そうだ。シェヘブカイさん、これを」
カイエトは、側に吊るした麦の穂から一房を取り、焚き火ごしに差し出した。
 「祠のワニ様に差し上げてください。来年もよろしくと」 
町からやってきて間もないというのに、カイエトは、今や大鰐の立派な信者なのだった。パンをかじっていたメネスが手を止めた。
 「ワニが小麦なんて食うのかい?」
 「食べないでしょうけど、気持ちは大事なんです。そういうものですよ。」
 「ふーん」
 「さ、早く食べて片付けてしまいましょう。明日からは、少しゆっくりできます」
カイエトはがてきぱきと食器を片付け、眠っていた子供たちを起こして家のほうへ追いやる。夜風が吹き始めている。
 「それじゃ、おやすみなさい。」
 「ええ。おやすみなさい」
シェヘブカイが腰を浮かすのと同時に、メネスも立ち上がった。昼のほのかな赤みは完全に消え、空は満天の星空だ。闇に紛れて、刈り取られたばかりの麦の、かすかに青臭い香りが鼻孔をくすぐる。
 「で、"ワニ様"のところへ行くのか?」
星明りに照らされた畑の畦道を歩きながら、男は、シェヘブカイの持つ麦の穂に視線をやる。
 「ああ。この時間だと、祠の前で水浴びしてるかも。涼しい夜のほうが好きみたいなんだ」
 「あんた、まるで友達みたいに言うんだな。見えるのか?」
 「うん、まあね。…おかしい?」
 「いいや」
メネスは、ふざけたような口調のまま空を振り仰いだ。
 「おれも昔は、神ってやつが少しは見えると思ってたことがあるよ。けどな、そういうの信じられなくなって、いつのまにか、みんな消えちまった。神なんつっても、みんな身勝手なもんさ。願いなんて――」
祠の入り口に差し掛かり、シェヘブカイは、足を止めた。メネスも口をつぐむ。
 祠の前の水際に、白い影が見えた。かすかな水音と、水面に広がる長い髪。小さな波が闇の中に広がっているる
 「なんだ、ありゃあ」
シェヘブカイは、驚いて振り返った。
 「あんたにも見えるの?」
 「ああ。真っ白な、えっらく年食ったでっけぇ鰐がな」
白い影は、振り返ってこちらに近づいて来る。滑るような動きで水辺にたどり着き、葦の茂みを搔き分けながら立ち上がる。メネスは慌てて目をこすった。
 「いや、…違うな。足…人間…? これは…」
 「あれ、その眼」
混乱しているメネスをよそに、シェヘブカイは<緑の館の主>の顔を見上げていた。揺れる長い髪の下に輝く金の眸は、左眼だ。昼間とは逆に、右眼のほうが色彩のない灰色に変わっている。
 「左眼<イアビィ>なんだね。これ、麦の収穫が終わったから、報告に持ってきたんだけど…昼間のほうが良かったかな」
<緑の館の主>は差し出された麦の穂をただ一瞥しただけで、そのまま視線をシェヘブカイの後ろの男へと向けた。
 「…お前の守護者は、そこにいる」
そう言って、暗い空の向こうに視線を投げた。メネスもそちらを見上げる。シェヘブカイの前には星空しかなかったが、メネスには何か見えているのだろうか。
 「帰らないのか?」
 「チッ、ったく。どこまでもついてきやがる――あいつとはもう、縁切ったはずなのによ。ほかの連中は、嬉々として離れてったぜ?」
 「血の守護神、家系を守る者だけは、死ぬまで離れない。あれは自分の意志では離れられないものだ」
 「まったく、面倒くさい縛りだよ」
 「…メネス、そういう言い方は失礼だよ」
シェヘブカイは、たしなめるように言って、もう一度、空を眺めた。やはり何も見えないが、――空にいるからには、空を飛ぶもの、鳥か何かの姿をした神なのだろう。
 「なあ、ワニ様。おれは、あいつの監視が離れたいんだが。どうすりゃ離れられるんだい?」
あまりに不遜な質問だったが、<緑の館の主>は表情一つ変えずに、淡々と答えた。
 「――何もする必要はない。じきに消える。そう長くはない。」
メネスの表情が、はっとしたようになった。
 「お前は長いこと、あれに何も与えてやらなかった。恐怖でも、感謝でも、人が何かの思いをかけなければ、肉体なき存在は消える」
 「……。」
 「殺したいなら、好きにしろ。あれはお前のために存在するものだ」
それだけ言うと、<緑の館の主>は、ふわりと長い髪をひるがえし祠の入り口に向き直った。そして、歩き出したかと思うと、、白い影は闇に溶けるように視界から消えた。


 祠に麦の穂を収めた帰り道、シェヘブカイは、どこか放心した様子のメネスにたずねてみた。
 「メネス…、あんた、本当は何者なんだ? 町役人なんて、嘘なんだろ」
 「なんでそう思う」
シェヘブカイは無言に、男の手を指す。左手の、人差し指の付け根のあたりに皮がこすれてタコが出来ている。
 「それ、弓弦の跡でしょ」
ああ、と言ってメネスは指をこすった。
 「気づいてたのか。――」
 「それに、皮のサンダルを履いてた。町役人だとしたら、相当いい身分だったはずだ」
 「…それは否定しない。ただな、嘘は言っちゃいない。家庭教師に帳簿の管理、指輪磨きも椅子の修繕も、今まで実際にやってきたことさ。神官の見習いみたいなことをしてた時期もあった。」
 「神官?」
 「ああ。えらい神様連中とはその昔に仲たがいしたっきりだ。どうにも性に合わなくてなあ。んで、神官修行から逃げ出して軍にな。」
笑いながら肩をすくめ、彼は珍しく真面目な口調で言った。「…あの大鰐の守護神は、実りをもたらす神だと言ったな」
 「うん」
 「それだけとは思えんな。さっきのあの気配、ありゃまるで、戦さ神だったぞ。」
 「それは、さっきのが左眼<イアビィ>だったからさ。左眼は――もう一つの姿は…怒りと憎しみだって、彼は言っていた。でも、それはもう昔のことだよ。二つは一つなんだ。いつもは、もっとずっと穏やかな感じでさ」
 「”憤怒”か。」
 「え?」
メネスは足を止め、足元の石ころを拾い上げると、暗い地面に文字を書いた。"憤怒"。その言葉の後ろには、鰐の形をした文字がつけられる。
 「鰐ってのは、こういうものだろ」
言いながら彼は、鰐という文字がつけられる言葉を次々と地面に書いていった。貪欲、憤怒、攻撃、――。水辺で鰐に襲われて命を落とす者は、沢山いる。夏場になると、毎年のように近隣の村で誰かが水の中に攫われる。多くの村や町で、鰐が守護者ではなく、恐怖の対象とされているゆえんだ。
 「こうして見ると、"ワニ"で表現される言葉は、あまりいい言葉じゃないんだね」
 「それは取りようの問題だ。元が強烈な性格だからこそ、強力な守護者にもなり得る」
メネスは、じっとシェヘブカイの顔を覗き込んだ。
 「鰐は縄張り意識が強い。意外と仲間意識も強いんだ。あれで、まめに子育てもする。貪欲さは、自分の守る対象に対して発揮されるなら良いものだ。縄張り、仲間、所有物――。」
 「……。」
兄のメンケペルを追ったあの夜、現れたイアビィが言った言葉が蘇ってくる。

 『お前の命は"私のもの"だ。奪われるなら戦う』

そうだったのか。だから。
 ふいにメネスは、にやりと笑って石を放り投げ、いつものふざけたような口調で言った。
 「なあ。ってことは、この村に棲みついてあいつのものになれたら、おれも、守ってもらえるかな?」
 「なんだよ、それ。あんた自分の守護者がいるって、さっき」
 「あいつじゃダメだ。」
即座に返ってくる、堅い声。
 「でも…。無視していたら、消えてしまうんだろ」
 「それでもいい。おれはもう、あんなものに縛られていた頃には戻りたくない。」
 「……。」
さっと歩き出しながら、メネスはわざとらしく、ひとつあくびをしてみせた。
 「あーあ、疲れたな。もう寝ようぜ。明日は早起きしないでいいんだろ?」
言いながら、さっさと家の中に入っていく。メネスは何か隠している、とシェヘブカイは思った。仕事を辞めて逃げ出してきたのは、そう単純な話ではないのだ。自分の守護神まで捨てたいというのも。
 沼地のほうから、かすかに虫の声が聞こえる。寝静まる小さな集落を見下ろす夜空の下には、見えざる鷹の羽ばたきが空しく響いていた。


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