■第三章/黄金の鷹-1


 水の引いたあとの沼地には、騒々しい日々が訪れていた。水溜りに取り残された魚たちを目当てに集まってきた水鳥たちのせいだ。朝は夜明け頃から、鳥たちの騒ぐ声で目を覚ます。昼頃になると、中州には日向ぼっこをするワニたちの姿もあった。そんな光景を眺めながら、シェヘブカイは水路の土手を作っている。種を撒いたばかりの畑には、早くも小さな芽がぽつぽつと見えはじめていた。
 「うん、いい感じだ」
汗を拭いながら、彼は周囲を見回した。初めての年にしては上出来だ。川から家の近くまで水を引き込む水路は、まだ未完成ながらも立派に機能し、栄養たっぷりの黒い水を畑に流し込んでいる。
 シェヘブカイが考えているのは、毎年の増水に左右されにくい畑を作ることだった。
 水から遠すぎれば水位の低い季節には畑が干上がってしまい、水に近すぎれば収穫が終わる前に畑ごと水に流されてしまう。けれど、深い水路を張り巡らせて水の流れに沿って土手を作り、増水の季節には土手の一部をわざと壊して、水を引き込むようにすれば、河の水位をあまり気にすることなく作物を作れる。高低差が少なく、かつて水の流れていた水路跡が無数にあるこの土地なら、増水の始まりとともに水に浸され、水が引く頃にはいち早く水面上に現れるような理想的な耕地も作れるかもしれない。
 シェヘブカイは、祠の向こうに広がる葦ばかりの生えた沼地に目を向けた。もしも、荒地に囲まれたこの沼地がすべて緑なす豊かな畑に変わったならば――それはどんなに素晴らしい眺めだろう。
 出来るかどうかなど、気にも留めなかった。シェヘブカイの胸にあったのは、ただ自分の成すべきことを見つけた喜びと、見えない明日への希望だけだった。


 沼地のほとりへ戻ってきた日、シェヘブカイは真っ先に祠を訪れた。アメンティはいつものように木陰にいて、シェヘブカイが持ち帰った左目の石を見せても、静かに小さく頷くだけだった。
 「受け取らないの?」
 「それ自体には意味はない」
前にも聞いたのと同じ言葉を繰り返したアメンティの、長い髪の下に隠されていた左の眼窩に、いつのまにか眸が戻っていることにシェヘブカイは気がついた。だが、その色は灰色で虚ろなままだ。
 「その目、もう元に戻らないのかな」
 「さあな…だが、あれはここにいる」
片手を、色を失ったままの左眼の下にやる。「お前がそれを取り戻してくれた晩に、戻ってきた。」
 そう言われると確かに、アメンティの気配は変わった。いま目の前にいるのは、今にも消えてしまいそうに思えた、眠ってばかりの弱々しい存在ではない。しかし、禍々しささえある威圧感を纏った、影のような半身のそれでもなかった。
 「お前には、私はどう見えている?」
 「うん?」
 「今も、まだ以前と同じように見えているか?」
シェヘブカイは、ちょっと首をかしげ、じっと目の前の存在を見つめた。「――同じだよ。前と変わらない。」
 「何故だ?」
金の色を宿したほうの眸が、彼を覗き込む。
 「お前が今見ているものは、現実とは違う。お前自身が"思った"姿だ。――お前は、私の正体をもう知っている。だのになぜ人間の姿を与え、人間と同じように名を呼ぶ?」
 「…何故、って…。」
眉を寄せ、何度か目をしばたかせ、相手の姿をじっと見つめる。ただ、どう足掻いても、どう考えてみても、目の前で緑の中に座っているのは、真っ白な髪と肌を持つ、端正な顔立ちをした、影のように揺らめく青年なのだった。
 「分からないよ、そんなこと。だけどもしかしたら、はじめて見た時に思ったからかもしれない。あんたは、ただの獣じゃない、って。心があるものなんだって」
 「心?」
 「悲しいとか、嬉しいとか、…寂しいとか感じるもののことさ。目を見てると、なんとなく分かるんだ。猫や牛にだって、それはあるけど、あんたは…なんていうか…、それより複雑な感じだったから。はじめて会ったとき、おたまじゃくしのことを考えてた。それから、畑の隅にいると邪魔になるかもしれないって気にしてた。そんなこと考えるのは、人間以外にはあまり居ない」
 「……。」
 「だから、信用しようと思ったんだ。悪霊だったら、他のものに気を遣ったりしないもの。」
涼しい風が腕を撫でて通り過ぎてゆき、緑が揺れる。その時、シェヘブカイは初めて、アメンティが声をたてて笑うのを聞いた。
 一呼吸のち、白い青年は、視線を遠くに向けて謳うように言った。
 「災い、悪霊、それも嘘では無い。本来の私は、ただの"水に棲むもの"に過ぎない。良きものも、悪きものも、ともに此処にある。人を襲い、牛や羊を食らうのも、草花を育て、沼地を豊かに保つのも、共に我が本質。」
 「アメンティ…」
 「その名は、もう使われない。左眼はもうここにあるのだから」
静かに、だが、かつてとは違う口調で、彼は問うた。
 「今の私には名前がない。シェヘブカイ、お前は、私を何と呼ぶ――?」


 あの時は、とっさに答えることが出来なかった。シェヘブカイは今も、新しい名前を考え続けていた。<白い大鰐>ではあまりにもそのまますぎ、レニセネブやティティスの呼ぶ"ワニ様"は、もっとしっくりこない。そうして考えているうちにいつしか日が過ぎて、今に至る。
 あの日から、アメンティ――いや、正確にはもう左眼とともにあるそれは、少し変わった。それが分裂してしまう前の元通りの彼なのか、分裂した時とは違うのか、シェヘブカイには分からない。ただ確かなことは、川べりに夜な夜な出没していた"災いの主"は、もう居ないということだ。
 一休みしようと、シェヘブカイは祠に足を向けた。前庭に入ると、涼しいナツメヤシの木陰に腰を下ろす。季節が移ろい、咲いている花の種類は変わっても、そこには以前と相変わらず、良い香りのする花の茂みがあった。違うのは、その茂みの中に四六時中寝そべっていた祠の主が、最近は昼間は留守にしていることが多いということ。
 季節が変わり、日中も涼しくなった。シェヘブカイが作った水路のお陰で浅瀬には水が溜まり、その中をワニたちがのんびりと泳ぎまわっている。祠の主もどこかで泳いでいるのだろうか。
 そんなことを考えながら心地よい風に吹かれているうちに、いつしかうとうとしかかっていたらしい。ふとふと目が覚めたとき、すぐ近くに、自分を覗き込んでいる金色の眸があった。花の茂みにもたれかかるようにしてくつろぐ上体に長い髪が絡みつき、そこから真っ直ぐに水が滴り落ちている。
 「よく寝ていたな。」
 「うん―― そうみたいだ」
小さく伸びをして起き上がると、シェヘブカイは、入れ替わりに眠りに落ちようとしている祠の主を見やった。
 「どこへ行ってたの?」
 「近くを見て回っていた。奥のほうにも行った」
 「奥の湖?」
祠の主は、ちょっと肩をすくめた。
 「村があったな」
 「うん、でもあの人たちは、あんたを恐れてる――」
 「そのようだな。」
なぜ、わざわざ見に行ったりしたのだろう。それに、人の足で何時間かかかる距離なのに、どうやってこんな短時間に往復してきたのだろう。そんなことを思いながら、シェヘブカイは立ち上がった。
 「さて、よく寝たし僕はそろそろ仕事に戻るよ。」
返事はなかった。祠の主は涼しい木陰で、すでに眠りに落ちている。シェヘブカイが畑づくりに忙しいように、彼には彼なりの仕事があって忙しいのだろう。立ち去りかけて、ふと振り返り、もう一度よく見る――だが、シェヘブカイの目にはどう見ても、そこに眠っている存在は人間の姿をしたものとしか見えなかった。


 畑に戻ると、ちょうど、家の前でティティスと出くわした。手には取り込んだばかりの洗濯物を抱えている。
 「あら、いたんだ。出かけてるかと思ってた」
ここのところ、ティティスは勝手にやってきては、勝手に家事を手伝って帰っていく。時々は持ち込んだ食材で晩御飯を作ってくれて、一緒に食べることもあった。
 シェヘブカイが口を開こうとしたとき、裏庭のほうから、モーウという牛の間の抜けたような長い声が響いてきた。
 「牛、貸してくれるって?」
 「うん。あんまり使ってない子だから、ずっと使ってもいいって、父さんが」
ティティスの父レニセネブは、乳を搾る雌牛を含む三頭の牛を飼っていた。数日前、シェヘブカイはそのうちの一頭を、土を耕すのに使わせてくれないかと頼みに行ったのだ。堅い地面は人の手で掘り起こすには辛いが、牛に鋤をつけて引かせれば早い。
 「でも、いちばん年寄りの牛だから、あんまり重労働は耐えられないかもしれないわよ」
 「自分で掘るよりだいぶかマシさ。助かるよ、お礼を言っておいて。」
 「いいけど…。その代わりといっちゃなんだけど、こんど、うちの従姉妹がこっちに来ることになったの。ここに住まわせてあげてくれる? うちの畑だけじゃ食べていけないから」
ティティスは、少し申し訳なさそうな顔をしている。
 「その人は、対岸の町に住んでる人で、あたしよりずっと年上の未亡人なの。旦那さんが亡くなってから、ろくな仕事もなくて、貧しい暮らしをしてるの」
 「ふうん。いいんじゃないかな、僕一人じゃ、今ある畑の面倒も見切れないし。来年はもっと畑を広げるんだからさ」
 「野心家ねえ」
少女は、呆れたように言って肩をすくめた。「じゃあついでに言いますけど、彼女の家も建ててくれる?」
 「もちろん、任せてよ。何人家族? 部屋はいくつほしい? お望みなら二階建てでも」
 「あらま。建築家さんはやる気いっぱいね。けっこうなことだけれど、働きすぎて倒れないように。」
 「大丈夫だよ、むしろ葬祭殿で働いてた頃より楽だよ」
それは本当だった。日中の暑い時期は昼寝をしてやり過ごせるし、水辺の日差しはそれほど強くない。一日中、暑い時間帯まで日陰もほとんどない建築現場を駆け回っていた頃に比べれば、気持ちも体も負担が少ないのだ。
 家の裏手に回ってみると、ティティスの連れてきた年老いた雄牛が石に繋がれて、のんびりと草を食んでいた。ごつごつした筋肉質な背中をさすり、そこにとりつける鋤を思い描く。銅の鋤先だけは、父に頼んで葬祭殿で余ったものを何本か融通してもらった。道具作りはあまり得意ではないが、やってみるしかない。
 「そういえば、葬祭殿、もう仕上げに入ったらしいわよ」
表のほうから、洗濯物を干しているティティスの声がする。
 「最後の柱を運んだら、あとは内装とか彫刻の部分がほとんどだから、労働者は半分くらい暇になるって。」
 「ふーん、順調に進んでるんだな。…って、」
広げた手の平で牛の背の寸法を測っていたシェヘブカイは、ふと手を止めて声のするほうに顔を向けた。「なんでそんなこと知ってるの?」
 「昨日、あんたのお母さんに聞いたのよ」
 「…え?」
なんとなく、そんな気はしていたのだ。祭りの時に母のイティとティティスを引き合わせて以来、シェヘブカイが実家に戻っても、母は前ほど口うるさく「帰って来い」とは言わなくなったし、沼地での出来事は、シェヘブカイが報告する前から知っている。ティティスが、どこからともなく実家からの言伝を持ってくることもあった。
 「うちの家には、頻繁に行ってるの?」
 「それほどじゃないわ。今の季節はそんなに忙しくないから、たまに、って感じ。あたし、お母さんいないからね。ちっちゃい頃に死んじゃったし。お料理とか教えてもらってるの。」
ああ、それでか、とシェヘブカイは納得した。最近、ティティスが持ってくるパンの味が、妙に懐かしいような気がしていた。
 家の表に回ってみると、張り渡した荒縄の上に広げられた洗濯物が並んではためいていた。ティティスは、小屋の入り口に立って満足そうに自分の仕事を眺めている。
 「兄さんには会った? 元気そうだった?」
 「ええ、最後に会った時はね。昼間は家にいないから、ちょっとすれ違った程度だけど」
 「…そう」
あの日以来、兄のメンケペルとは顔を合わせていない。帰ってみるといつも不在か、理由をつけて家を出てしまうからだ。避けられているのかもしれない。
 だが、どうしても、もう一度会って、ゆっくり話がしたかった。兄のことは今でも好きだと伝えたかった。葬祭殿の仕事がなくなったら、兄も暇になり、家に戻ってくるだろうか。
 風が吹いて、洗濯物が大きくはためく。
 ふいにティティスが言った。
 「あんたが、ここに来てから半年くらいね」
 「ああ…、もう、そんなになるんだっけか。」
 「ずっとここにいるの?」
 「そのつもり。アメンティとも約束したしね」
 「そう」
ティティスは、風に吹かれた黒髪を手で撫で付けながら遠くに目をやった。黒い瞳は空の蒼を映し、初めて会った時よりも少しだけ大人びたその横顔。季節が過ぎ、また一つ、年をとる。出会ったのは、ほんの些細な偶然からだった。ずっと葬祭殿に建築に関わっていたら、あのまま毎日を過ごしていたら――アメンティとも、ティティスとも出会うことは無かった。それが今では二人とも、かけがえのない大事な存在になっていた。いつの間にか此処に住み着いて、離れられなくなった、この場所のこともだ。
 胸が一杯になって、思わず口をついて出た。
 「ねえ、ティティス」
 「ん?」
 「僕は君と、ずっと先もこの場所で空を見ていたいよ。五年後も、十年後も。――」
澄んだ色の空の奥に、鷹が一羽、翼を広げ、高く舞っていた。


 ティティスの従姉妹だという未亡人が、幼い子供たちを連れてやって来たのは、それから一週間ほど経った後だった。
 町で貧しい暮らしをしていたというのは確からしい。最初に会った時のティティス以上に擦り切れたぼろを着て、荷物は小さな籠に押し込んだ衣類や小間物と幾つかの壷だけ。それらを痩せこけたロバの背に乗せて、彼女は沼地のほとりにやって来た。
 「こちらがカイエト、あたしの従姉妹よ。子供たちはレキとスィト」
 「こんにちは!」
 「はじめまちて」
一つか二つしか年が違わないように見える幼い兄妹は、母の服の裾をつかんだまま元気いっぱいに挨拶した。シェヘブカイは、思わず顔をほころばせ、腰をかがめて子供たちに視線の高さを合わせた。
 「こんにちは。僕はシェヘブカイ、よろしくね。」
 「ごめんなさいね、急に押しかけたりして…」
子供たちの年からすればまだそれほど老いているとも思えないのに、生活苦のせいか、カイエトはイティほどの年齢にも見えた。痩せた腕と、白髪交じりの髪のせいかもしれない。おどおどと周囲を見回し、畑に目を留めた。
 「ここが、あなたたちの畑なの?」
 「うちの、っていうよりシェヘブカイの畑ね。今年から作り始めたの」
 「とてもそうは見えないわ。手入れが行き届いてて、芽もしっかり出ているし…」
ティティスは、意味ありげに笑った。
 「それ、"ワニ様"のご加護らしいわよ」
 「ワニ様?」
 「むかし沼地に住んでた、白い大鰐よ。シェヘブカイが連れ戻してきたの。ちゃんと祠もあるのよ。あとで案内するわ。ね、シェヘブカイ」
 「ああ、いいよ。でも、まず住む所だよ」
そう言って、彼は畑の向こうに建てている最中の小屋に母子を案内した。そこは水はけのよい土手の奥にあって、シェヘブカイの家よりは水辺から離れていた。
 「まだ作りかけなんだ、思ったより早く着いたから。でも、とりあえず台所と屋根はある。あとで部屋を建て増すよ」
 「まあ、こんな立派な家」
カイエトは目を丸くし、子供たちは大喜びだ。
 「ひろーい! すごーい」
 「あたし自分の部屋ほしい!」
 「あーずるい、ぼくも」
 「こら、あんたたち。…ごめんなさいね、町では借り部屋住まいで、三人で部屋一つだったものだから」
 「いいですよ、ここは誰も住んでないんだから」
シェヘブカイは、笑って手を振った。「それに、家を建てるのは慣れてるから」
 「でも、水を汲むには少し遠くない?」
と、ティティス。
 「ああ、今から水路を引くから大丈夫。それに、あんまり水際だと浸水するかもしれない」
 「そうなの?」
 「うん、土の色で分かるよ。川の水位は、どこまで上がるか毎年違うだろ? 黒っぽいところは、何年か前に、そこまで水がきたことがあるしるしなんだ。水位の高い年があったら浸水してしまう。」
 「ふーん、なるほどね」
少女は、納得したような顔をした。「それじゃ家のことは問題ないわね。あとは…」


 ティティスがカイエトとこまごました話をしながら今後の生活を話し合っている間に、シェヘブカイは、幼い兄妹を連れて水場を案内することにした。兄のレキはさっそく畑の縁に生えていた草を一本折りとって、むちのように振り回しながら遊んでいる。妹のスィトは、シェヘブカイの指を握って、しきりと辺りを見回していた。
 「この先が沼地だよ。今は水はあんまりないけど、川の水位が上がる季節には深くなるから気をつけて。あと、ワニがたくさんいる」
 「えー、ワニ? それって悪いやつなんでしょ」
 「食べられちゃうよ、こわい」
 「心配しないでいいよ、この辺りの鰐は人は襲わないからね。それに、これから会いに行くのは、人間を食べたりしない良い鰐だよ。」
そう言って、シェヘブカイは行く手の祠をさした。白い漆喰で塗り固められた祠は、緑の中に白く輝いて見える。ここのところ留守にしていることの多い祠の主も、今日は中にいるはずだ。新しい住人が来るからと、出かけないよう頼んでおいたからだ。
 中庭に入ると、スィトが真っ先に花の香りに気づいた。
 「いいにおいがする! お花だ」
シェヘブカイの指を離して駆け出したかと思うと、茂みの前で足を止めた。
 「何かあったの?」
兄のレキも続く。
 「…何かいる」
幼い少女は、茂みの中に目を凝らして不思議そうな顔をする。「…なんだろう、よく見えないや」
 「ああ、それがここの主様だよ。そこがお気に入りの場所なんだ」
緑の茂みが揺れて、眠っていた祠の主が目を開いて起き上がった。
 「紹介するよ。今日からお隣さんになったレキとスィト。よろしく」
レキは不思議そうな顔をしているだけだが、スィトは、目が合った瞬間、あわててシェヘブカイの後ろに素早く隠れた。用心深そうに真っ白な青年を見上げている。祠の主は、ひとつあくびをして金色の眸で子供たちを見比べると、口元にうっすら笑みを浮かべた。
 「よろしく、な。」
それだけ言うと、元通り茂みの中に寝そべってしまう。いったん眠ってしまうと、叩き起こしでもしない限り目を覚ましそうにない。シェヘブカイは、子供たちを促してその場を離れた。
 「ねえ、誰と話してたの?」
レキは不思議そうな顔でシェヘブカイを見上げる。「何も見えなかったよ。スィトは見えた?」
 「うん…、でも、真っ白な何かしか分からなかったの。ぼんやりしてた」
シェヘブカイは、笑って二人の頭を撫でた。
 「そのうち見えるようになるかもしれないね。人によって見え方が違うらしいけどね」
 「あれは、かみさまなの?」
 「そうだと思えば、神様になる。僕らを守ってくれるんだ。だから、お昼寝の邪魔はしないようにね。」
 「はーい」
子供たちは素直に頷いたが、すぐさま前庭の池の魚に気づいて歓声を上げながら走り出した。やれやれ、とシェヘブカイはため息をつく。これは、しばらくは祠の主も、落ち着いて眠れまい。ただ、それでも少し嬉しかった。レニセネブやティティス以外の、よそから来た人に祠の主を紹介できたことが。――彼らが、祠の主を認めてくれたことが。
 子供たちを追って立ち去りかけたとき、ふといま自分自身の言った言葉に気がついて、シェヘブカイは足を止めた。

 "そうだと思えば、神様になる。"

人でも、獣でもなく、かつては祠に祀られた存在であり、災いとも悪霊とも呼ばれたもの。
 今まで、はっきり意識したことも、疑問に思ったこともなかった。
 そうか。だからあの時、アメンティは言ったのか。「信じてくれるか」と。だから、「名前がない」と――。

 "だから、信用しようと思ったんだ。"

信じようと決めたときから、彼は"悪霊"ではなく"良き霊"となった。右眼と左眼は、ともに同じものの一面であり、良きものと悪きものは裏表なのだ。決めたのはシェヘブカイ自身だった。そうだったのだ。
 「…緑の館の主」
反応するように、茂みの中にあった白い身体が身じろぎする。
 言葉の響きを確かめるように、シェヘブカイはもう一度、繰り返した。
 「<緑の館の主>。いつでもここに戻ってこられるよう、そう呼ぶよ。水に棲むもの、沼地の偉大なるもの、穀物を実らせるもの。…神官みたいにはいかないんだ。うまい言葉とか、綺麗な言い方とか、形式ばったものは何も分からないけど、…さ」
彼は真面目な口調で、精一杯に礼儀正しく、こう言った。
 「あなたに願う、<緑の館の主>、この地の守り主。どうか、あれら祈る者たちを守ってやって欲しい」
薄く眸を開くと、それは、小さく頷いた。
 「心得た。」


*****

 すべての名を持つ良きものは、知恵の神の持つ巻物の中に、存在と名を記される。
 これより先、"大いなる湖と沼地の守護者"、<緑の館の主>は、豊穣と水辺の神として、近隣にその名を知られることとなる。


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