■第二章/鰐の棲む沼地-5


 シェヘブカイが家に戻ったのは、日が高くなりはじめた頃だった。勝手口から家に入ると、ちょうど二階から降りてきたセアンクと、ばったり会う。
 「あれ、父さん? 今日、仕事じゃ」
 「はは、さすがに祭りの翌日まで出て来いとは言われんさ。工夫も集まらん」父は笑いながら言い、シェヘブカイのごわごわした髪に手を伸ばす。「それより、お前のほうはどうなんだ。二日酔いで寝込んでたと聞いたが。いかんぞ、酒を飲みすぎてはな」
 「わかってるってば。二度とこんな目に遭いたくないよ。それより、今日は兄さんだけで仕事?」
 「いや。友達のところにでも行っているんじゃないのか」
言いながら、そのまま通り過ぎてゆく。
 また、微かな違和感を覚えた。
 シェヘブカイは、父を追って台所へ向かった。父は、母から水の入った器を受け取って、うまそうに喉を潤している。
 「今日は二人とも仕事だと思ってた」
 「ああ、午前中は少しな。昨日、祭りにあわせて神官たちが神殿でなにやら儀式をやっていた。その片付けだな」
 「兄さんは、行かなかったの?」
 「そのはずだが。何か用事か? 夕方には戻るだろう」
 「いや、…うん」
昨日、ぶどう酒を勧められるとき、メンケペルは確かに「明日も仕事だ」と言っていた。それは母も聞いていたはずだ。
 シェヘブカイは、イティにちらりと目をやった。聞き間違いでなかったかどうか、確かめてみようかとも思った。だが、聞けば、母は何か感づいてしまうかもしれない。
 「そうそう、お前が戻ってくるのも久しぶりだなあ」
セアンクは何も疑う様子もなく、楽しげに話しかけてくる。
 「どうだ、向こうは。お前の建てたとかいう神殿は、よく出来てたらしいじゃないか。」
 「え?」
 「なに、メンケペルがな。基礎は未熟だが、趣はいいと。住む者のことをよく考えて作った"家"だと言ってたぞ」
あの時、兄は悪いところしか指摘せず、シェヘブカイには一言だって褒めるようなことは言わなかった。それなのに。
 ぽん、と大きな手が頭に置かれた。
 「お前もいつのまにか、一人前だな。」
 「…まだまだだよ」
照れたような表情を見せまいと、彼はわざとそっぽを向いた。
 それにしても、父と話すのは久しぶりだ。
 春に家を出てから、もう三ヶ月ほどになる。昼間戻ってもセアンクははいつも仕事に出ていて不在だったし、泊りがけで家に帰るのは、数ヶ月ぶりのことだ。シェヘブカイは、父の膝の赤黒く盛り上がった傷に目をやった。既に完全に塞がってはいるが、引き裂かれたような跡が、膝から脛にかけて痛々しく刻まれている。
 「――ねえ父さん」
 「ん?」
 「まだ、ちゃんと聞いてなかったよね。足の怪我をしたときのこと。その傷、鰐に襲われたものじゃないよね?」
あの夜、何があったのか。何人もの村人が犠牲になり、父も大怪我をした。そのせいで動転していて、詳しく聞くことも出来なかったのだ。父の膝の傷が鰐に襲われてついたように見えないことに思い当たったのは、最近になってからだ。
 セアンクは軽く自分の膝を撫でて、傷のある足を引きずりながら椅子に腰を下ろした。
 「気づいていたか。無様な話なので、お前には、あまり言いたくなかったんだがな…これは…"災いの主"を捕らえるための罠が壊されたときについたものだ。怪我をしたのも、死んだのも、罠の周りにいた者たちだったよ。」
ひとつため息をつく。「お前に"災いの主"を探せと申しつけておきながら、王は、それだけでは信用ならなかったらしい。あれが川からやってくる事は分かっていたからな、川べりに仕掛けを作らせたんだ。河馬狩りで使うようなやつだ。」
 「かかったの?」
 「ああ。だが河馬のようにはいかなかった。あれは大暴れして、石積みを崩し、縄を体にひっかけたまま水の中へ逃げてしまった。死んだのは、そのとき運悪く縄を握っていた者たちだよ。この足は、倒れてきた木材と石の間に挟まれて裂けた。お前に任せよというご神託を信用しなかったバチが当たったのかもしれないな」
では、やはりアメンティの半身――左眼<イアビィ>が自ら人を襲ったわけではないのだ。わだかまりが溶けていくような気がした。ほっとして、シェヘブカイは思わず笑みをこぼした。
 「どうした? なんで笑ってる」
 「…ううん。なんでもないよ」
彼は、窓の外に目をやった。
 「"災いの主"は、まだ、このへんをうろついているんだよね?」
 「そうらしいな。」
 「連れて帰るよ」
セアンクは大きく目を見開いたが、何も聞き返さなかった。シェヘブカイは、足に体をこすりつけてくる猫を抱き上げ、二階の部屋へ戻って夜を待った。


 少し眠って、日が暮れ始めた頃に家を出た。
 斜めに射す日が村を赤く照らし出している。お祭りの翌日は、いつも静かだ。牛をひいて家路を辿る老婆が一人、長い影を共に連れてゆっくりと通り過ぎていく。それ以外に動く影はない。
 「あ、そうか。舟がないんだった」
川べりに来てから、シェヘブカイはそのことに思い当たった。いつも使っている葦舟は、ゆうべ川に沈んでしまった。今から作り直すわけにも行かない。どうやって左眼<イアビィ>を探そうかと思いながら岸辺を歩いていたとき、思いがけず彼は、向こうからやってくるメンケペルと出くわした。
 「兄さん?」
気づいていなかったのだろう。呼ばれて、兄はぎょっとしたように足を止めた。
 「…お前、まだいたのか」
 「明日には帰るよ。どこ行ってたの?」
何気なく聞いたつもりだったのに、メンケペルは何故か表情をこわばらせ、目を剥いてシェヘブカイの肩をつかんだ。
 「何を知っている。誰かに聞いたんだな」
 「い、痛いよ。どうしたの」
 「俺を脅すつもりなのか? そうなんだろう」
肩に置かれた手を振り払いながら、シェヘブカイは、困惑した表情で兄を見上げる。
 「何のこと、今日は本当は仕事じゃなかったって話を聞いただけだよ。なんで嘘をついたのかは知――」
 「嘘なんかじゃない」
未だかつて聞いたことのない激しい言葉が頭の上から降って来る。その時、シェヘブカイは、メンケペルの息に漂う酒気に気がついた。酔っているのだ。どこかへ出かけて、飲んできたのだろうか。
 「お前はいつだってそうだ。何も知らないふりをして、上から目線でものを言うんだ。ようやく出て行ってくれてせいせいしたと思ったのに、母さんはお前のことばかり。おまけに、お社を建て直すだと? それで褒めてもらうつもりか? 俺はようやく建築監督の一人になれたばかりで図面も引かせてもらえないというのに、お前は自分の好き勝手に神殿を建てるのか」
 「僕は――、 そんなつもりじゃ――」
 「お前なんていなくなってしまえばよかったんだ」
吐き捨てられた言葉に、一瞬、思考が停止する。
 「俺はお前が嫌いだった。父さんは俺のことなんか気にかけてくれやしない。本当の子供じゃないんだからな、当然だろう。そればかりか母さんまで、お前が生まれてからはずっとお前のことばかりだ。建築技師だって? 俺は、そんなものなりたくなかった。今の父さんがそうだから、仕方なくあわせただけだ。本当の父さんは、ただの農夫だった。分かるか、お前に? 俺は本当の生まれすら忘れられようとしてるんだぞ」
次々と押し寄せてくる荒々しい言葉の前で、シェヘブカイは、ただ立ち尽くしていることしか出来なかった。何を言っているのかわからない。兄は自分を好いてくれていると思っていた。表向きはキツいことを言っていても、本当は思っていてくれているのだと。
 「ウソだ」
 「ウソもんか」
 「だったらなんで…」
 「体裁さ。取り繕わなきゃやってられないだろ。ああ、そうさ。みんな消えてしまえばよかったんだ。父さんも、お前も。」憎憎しげな口調で、メンケペルは、吐き捨てるように言った。「鰐に食われるか、溺れちまえばよかったのに」
 「……!」
聞き返すより早く、メンケペルは踵を返して足早に元来た道を辿り始めた。
 「待ってよ! どこ行くの、こんな時間に」
 「うるさい」
イティとティティスの話では、シェヘブカイは岸辺にいたところを見つけられて家に連れ帰られたのだ。それ以上のことは二人とも知らなかった。なのにメンケペルは、どうして川で溺れかけたことを知っているのだろう。昼間、一度戻ってきたときに母から聞いたのか? いや、そうならさっきセアンクと話したときにそう言っただろう。メンケペルは最初から知っていた。昨夜、酔い易いぶどう酒を持ってきたのも、しきりと勧めてきたのもメンケペルだった。でも、まさか。
 次第に宵闇に沈んでゆく川べりの道を足早にゆくメンケペルの歩調は速く、走らなければ追いつけそうにない。走り始めたとき、シェヘブカイは頭の芯に軽い頭痛を覚えた。ひどい二日酔いのせいで、まだ、体が本調子ではない。シェヘブカイが追ってきていることを知って、メンケペルの歩調はますます速くなった。追いつけない。
 メンケペルが、角を曲がって姿を消した。
 と、その時、行く手で悲鳴が上がった。
 「兄さん?!」
シェヘブカイは、走りながら行く手に目を凝らした。葦の茂みの中でもがいているメンケペルの上体が見えた。顔は、恐怖で引きつっている。
 「何が――」
 「ひ、ひいっ」
弟を突き飛ばすようにして這い上がってきたメンケペルの体は泥まみれで、サンダルが片方なくなっている。葦の茂みの中、水と陸の境目で、何かがうごめいた。黒っぽい塊の上に、金色の眸が開く。
 ずる、ずると重たい音をたて、体を引きずって道の上に上がってきたそれは、メンケペルが行こうとしていた方向を塞ぐようにして膝をつき、慣れない動作でゆっくりと立ち上がった。シェヘブカイは、目を凝らした。姿はアメンティと全く同じだ。違うのは、額に垂れる真っ白な髪の間に見えている片眼が左側だということ、体全体の輪郭が影のようにゆらめいて不安定なこと。
 それは、"災いの主"と呼ばれたものに間違いなかった。身に纏う濃い闇のせいで、そこだけ夜が濃縮されたようにも見える。
 ふいにメンケペルが壊れたように笑い出した。
 「殺すのか? 俺を殺すんだなシェヘブカイ。この化け物を使って、俺を」
 「兄さん…」
 「皆の言うとおりだ。お前は悪霊と契約したんだ、だから…」
影が一歩、前に進む。
 「だめだ」
シェヘブカイは、近づいてこようとする影と兄の間に体を割り込ませた。
 「あんたは、何もしなくていい」
 「…だガ、そいつハお前ヲ殺そうトシた。」
イアビィは、アメンティとは似ていない低い声で答えた。ひび割れて、どこか井戸の底から響いてくるような声だ。
 「奪わセない…」
 「奪わないよ、誰も。何も。大丈夫。」
そう言って、シェヘブカイは、振り返ってメンケペルの肩をつかんだ。
 「兄さん、僕を見てよ」
恐怖に強張った顔を覗き込むと、相手の瞳に、自分が映る。その目を見た瞬間、シェヘブカイはすべてを悟った。
 どうして気づけなかったのだろう。
 兄はいつも、寂しげな目をしていたのに。一緒に食卓についていても、話していても、心はずっと一人でいた。川辺で拾った子猫や、木陰で遠くを見ていたアメンティと同じように、居場所を見つけられない者の目だった。そこにいて、そこにいない。世界に置き去りにされた者の眸だ。
 「ごめんね。兄さんが寂しかったの何も気づかなかった。でも一人じゃない。――僕は兄さんのことが、好きだよ」
 「何故だ、俺はお前なんて…」
振り払おうと抗う腕を摑んだまま、肩を抱きしめた。やがて抵抗する力が弱まっていき、低い嗚咽が漏れ出す。
 「何でだよ。お前は…何なんだよ…」
暗がりを照らすように、低い空に月が昇り始める。泣きじゃくるメンケペルをその場に残して、シェヘブカイは、元の場所に立ったままの左眼<イアビィ>に近づいていった。
 「さあ、帰ろう」
手を差し出すと、影を纏った青年は戸惑うように揺れた。 
 「大丈夫だよ。居場所ならちゃんとある。もう誰も、傷つけたりしない」
 「……。」
応じるように差し出された手がシェヘブカイの差し出した手に触れた瞬間、ひんやりとした感触とともに、その姿は溶けるようにして消えた。あとには、小さな黒い丸石だけが、手の平の上に残されていた。失われていた左の眼だ。彼はそれを、しっかりと握り締めた。
 「――いっしょに帰ろう」
彷徨える災いの主も、兄も、人知れず孤独を抱え、誰にも言えずに生きていた。かつて自分がアメンティに"兄と同じ年頃の青年"の姿を与えたのは、無意識に、同じものを感じていたから――なのだろうか。


******

 予感がした。
 祠の前庭にいた彼は、意識を外に向けると、それがやってくるのを待っていた。水音が近づいて来る。身体を引きずるようにして、水際まで来ると、そこで躊躇する。草を搔き分けたところで、立ち止まっている。仕方が無い。立ち上がって、彼は祠を出た。濃い水の匂いがする。闇が立ち上るように、それは、陸地の草むらと沼地の水との間におぼろげに立ち尽くしていた。
 「戻ってきたんだな」
声をかけると、ほんの僅か低い声が応える。
 「――戻りたくは、なかった。」
暗い輪郭が揺らめき、ひとつ、小さくため息をついた。
 「人の姿…か。」
相対する二つは、まるで水面に写したかのように対照的だった。陸にあるものには右眼があり、水にあるものは左眼がある。そして陸のほうは夜の中でも白く浮き立って見え、水にあるほうは半ば闇に溶け込むようだった。
 「記憶はここにある。欲しいか?」
右眼が頷く。
 「嫌なものだぞ――人に頼らずとも、生きられる。人に貢物など貰わなくとも」
 「…恐れによって生かされる者にあるのは、孤独だけだ。」
風が吹き、さわさわと草が揺れる。祠の中から、微かな花の香りが漂ってくる。
 「何もないのは嫌だ。帰る場所… 居て良い場所、心地よい場所―― それは、誰かと共に生きなければ得ることの出来ないものだ」
白くゆらめく影は、一歩、水に向かって踏み出すと、腕を伸ばし、影のようなもう一つの姿を引き寄せた。その瞬間、身体の中に、失われていたかつての感覚と、放棄されたまま過ごした茫漠とした日々が押し寄せてくる。気が遠くなりそうな長い日々、ただ繰り返される日夜を過ごした記憶が。
 「気をつけるんだな」
溶けるように消えながら、半身は耳元で囁いた。
 「人間は、簡単に裏切り、忘れてしまう。人と生きることは、決して永遠の――。」
ちゃぷん、と水の音がした。我に返った彼は、片手を左眼にやる。相変わらず視界は半分しかなかったが、そこには確かに眼球があった。
 戻ってきた。
 だが、それは形だけだ。
 胸の奥には、未だくすぶり続ける激しい怒りがある。それは長らく忘れていた感覚だった。人を傷つけてはならないという思いと、人に裏切られたことへの怒り。像が砕かれたとき、相反したまま抱き続けてきた二つの思いもまた、別々の存在として引き裂かれてしまったのだ。
 (今の私は、どちらでもない…)
水面に揺れる自らの白い影を見下ろしながら、彼は心の中で呟く。
 (そして、未だ何者でもない…。)
 星星の見下ろす夜の世界に、彼は今、ただ一人で立ち尽くしていた。


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