■第二章/鰐の棲む沼地-4


 祭りは、村の対岸、川の東側の町にある神殿から始まる。
 それは、黒い水で畑を潤した川の神の仕事に感謝し、眠っている大地の神を目覚めさせる儀式でもあった。神輿に乗せた穀物の神――実りの神の像――を中心にした行列は、町から村へと畑を練り歩く。行列を先導する神官たちは歌うように呪文を唱えながら白い上着をひらめかせ、参道からは時折花が投げかけられている。神輿の後ろからやってくる賑やかな楽器を打ち鳴らす一団。子供たちの歓声を浴びて行列は進んでゆく。
 シェヘブカイは、ティティスと連れだって神輿の後ろに続く人の波に加わっていたいた。神殿の前から始まって、神輿の進むのにつれて人々も移動していく。そして一日の終わる頃、行列が神殿に戻った後、神殿の中庭で宴が始まるのだ。この日ばかりは無礼講で、ビールだけでなく、寄進物の貴重なぶどう酒も振舞われる。その上、一人ひとりに甘い蜂蜜入りのパンが配られる。それらは、この祭りの日しか口にすることの出来無い特別な食べ物だ。
 食べ物を受け取って人でごったがえす神殿を出ると、涼しい風が吹きぬけていった。人々の熱気でいっぱいの建物の中と違って、外は、少し肌寒いくらいだ。水が引くとともに夏の暑さは頂点を過ぎ、少しずつ、空気の気配は秋へと向かいはじめている。
 「どうだった?」
 「面白かったけど、ちょっと疲れたわね」
シェヘブカイが尋ねると、ティティスは、そう言ってはにかむように笑った。「こんなに人がいるの、あんまり慣れてない」
 「そっか。普段は、レニセネブさんと二人だけだもんね」
 「うん、あそこは静かでいい。町にも滅多に行かないし」
そう言ってパンを齧ったティティスは、目を丸くする。
 「…なにこれ、甘い」
シェヘブカイは、ちょっぴり嬉しくなった。
 「美味しいでしょ? 僕もこれ、大好きなんだ。」
自分のぶんを思い切り齧りとり、甘みを楽しみながらゆっくりと租借する。
 雑踏を眺めていると、見知った顔が幾つも、めいめい手に食べ物を持って通り過ぎてゆく。そのほとんどが、かつて葬祭殿の建築現場で一緒に働いていた元同僚たちだ。けれど彼らは、目が合うと驚いた顔をしてすぐに視線を逸らしてしまうか、戸惑ったようなぎこちない顔で会釈し返してくる。
 「なんか皆、あんたに妙な反応するのね」
 「まあね」
"ワニ"に関する噂が広まっていることは、実家に帰った時に聞いていたから、驚くことではなかった。葬祭殿で起きた恐ろしい出来事は、記憶から消し去るにはまだ早すぎた。皆が恐れるのも無理はない。
 人々の視線をかわしながら、シェヘブカイは、家族の姿を探して人ごみのなかに視線を彷徨わせた。
 「いたいた。シェヘブ!」
その時、人ごみの中から、明るい声が飛んできた。母のイティだ。丸めた敷物を抱え、手には大きな籠を提げている。後ろには、相変わらずむっつりした顔のメンケペルが、手に壷を抱えて立っていた。
 「こんにちは、あなたがティティスちゃん? 話は息子から聞いてるわ。いらっしゃいね」
 「あ、えっと…」
 「ささ、手伝って。」
イティは、有無も言わさず敷物を広げ始めた。真ん中に籠を置き、シェヘブカイとティティスを座らせる。
 「豆の煮込みを作ってきたのよ。それと胡麻パンも。たっぷりあるからね」
 「父さんは?」
 「それがねえ、父さん今日も仕事なのよ。びっくりでしょ? 予定が遅れてるからって、今年はお祭りの日も現場が休みにならないんですって。一日や二日、休ませてくれたっていいのに。」
 「父さんは、もう歩けるようになったんだね」
 「ええ。杖をつきながら、だけど。」
イティが腰を下ろすと、メンケペルは、その横に壷を下ろした。重たげな壷の中では、たっぷりとした液体の揺れる気配がある。
 「それ、ビール?」 
 「いや」
壷の蓋を開くと、ぷんと良い香りが辺りに漂った。ぶどう酒だ。庶民には、そうそう味わうことの出来ない飲み物だった。祭りで振舞われるのは一人一杯だけのはずだが。
 「どうしたの、それ」
 「――買ったんだ」
何故か不機嫌そうな顔で言うと、メンケペルは杯を取り出して酒を注ぎ分け、シェヘブカイに差し出した。
 「お給料が上がったの。昇進したのよ、それで」
イティが横から補足する。「自分のためにとっておきなさい、って言ったんだけどね。」
 「使う予定もない。どうせなら飲み食いしたほうがましだ」
 「へえ、兄さんのおごりってわけか。それじゃ…」
シェヘブカイは、杯を受け取って赤い液体に舌をつけた。しびれるような、何ともいえない芳香が口の中に広がる。食事の時に飲んでいるビールのざらついた麦の感触とは、全然違う。
 「これがぶどう酒っていうんだ、初めて」
ティティスも、おそるおそる口をつけている。
 「あらあら、全部はだめよ、父さんのぶんも残してあげないと」
 「父さんは、建設現場で王様のご相伴に預かって飲んでるさ」
メンケペルはそういいながら、自分の杯には半分ほどしか注がない。
 「兄さんは飲まないの?」
 「明日も仕事だからな。お前は遠慮するな。」
日が傾いてゆく中、畑の周りの木陰には沢山の灯りが灯され、それぞれの灯りの下、家族やご近所同士、一塊になって食事を楽しんでいる。シェヘブカイたちも大いに食べ、飲み、大いに楽しんだ。次第に暗くなってゆく空に、星が輝き始める。話しているのは主にイティとシェヘブカイで、ときおりティティスが加わるほか、メンケペルは、ほとんど口を開かなかった。食べ物をとりわけたり、黙って人通りを眺めたり。誰かの杯が空になると酒を注ぎ足しているだけだ。何か考え事をしているようでもあった。いつからだろう、兄がこんなふうに、塞ぎこむようになったのは。シェヘブカイが幼い頃には、親しく話しもしたし、よく遊んでもくれた。いつからだっただろう、兄とほとんど話をしなくなったのは…。
 「ねえ、シェヘブカイ。ここのところ全然戻ってこないじゃない? 向こうは、楽しいの?」
いつにも増して陽気な声で、イティが顔を近づけてくる。酒のせいか、少し頬が赤くなっている。
 「うん、色々やることもあるし」
 「今度は"ワニのお社"ですって? "かえるの家"から、ずいぶん進歩したものね」
 「あ、…えっと。うん…」
 「うふふ。いつまでも子供じゃないってことね、父さんも気に掛けてた」
戸惑っている下の息子の顔を見ながら、母は、まるで少女のように無邪気に黒髪を揺らして笑う。既に上の息子を成人させているような年齢には、到底見えない。
 「でも、僕はまだ半人前だから…。」
 「いいじゃない。多少うまくいかないところがあったって、ねえ。初めてはそんなものよ。」
母に同意を求められたメンケペルは、生返事を返して杯を傾けた。
 「いつも、戻ってきてもすぐに出ていっちゃうんだから。ほかには、どうなの? 聞かせてよ、向こうでの暮らし。」
 「うんと…自分の家も建てたんだよ。それから畑、――そう、畑も作ろうとしてるんだ。水路を引いてさ。」
 「あらま、そんなものまで?」
弾むような母の声に混じる僅かに寂しげな気配に、シェヘブカイも気づいていた。母と話をするのは久し振りだった。ここのところ、忙しくて家に帰っていない。
 「そうそう。ニウがね、あんたが帰ってくるのをずっと待ってるの。あとで家に戻ったときに様子を見てやって頂戴。最近は、かえるをいじめてないのよ。あの子」
 「そうなんだ」
そういえば、かえるのジェドともしばらく会っていない。春に生まれたおたまじゃくしたちは、もう、みな足が生えて陸に上がっているはずだ。子育ての終わった親がえるたちは、今頃どうしているのだろう。
 大地は目覚め、種子が撒かれる。
 緑成す実りの一年が、また始まる。
 香辛料の効いた豆をパンのはしですくって口に運びながら、シェヘブカイは、川向こうの葬祭殿のことを思った。
 かつて憧れた美しく壮麗な"永遠の家"。そこで働くことに誇りを感じていた。戻れないと分かったときは落ち込みもした。
 だが、今はもう、そこに未練はない。


 夜半も過ぎ、宴はほとんどお開きになって、村人たちはめいめい家路を辿り始めていた。中には酔っ払って道端で寝込んでいる者もいれば、神殿の中で正体をなくして神官たちに放り出されている者もいる。この季節なら、一晩くらい外で転がっていたところで死にはしない。毎年の、祭りの風物詩だった。
 かくいうシェヘブカイも、勧められるまま口にしたぶどう酒のせいか、軽いめまいを覚えていた。
 「ごめん、何だか酔っちゃったみたいなんだ…。少し休んで、あとから帰るよ」
 「あら、そう? それじゃ、先に行ってるわね」
イティとティティスは、残った食べ物をまとめ、敷物を片付けてメンケペルの操る葦舟で先に川を渡っていった。かつて葬祭殿を荒らしまわっていた"災いの主"は、最近ではあまり姿を見せなくなったという。それでも、日が暮れてから水辺に近づくことを恐れる人は多く、川向こうの村の人々は群れとなって家路を辿っていた。一斉に川を渡る小舟の灯す火があかあかと水面を照らして、それは川にかかる光の橋のようにも見えた。
 川べりの土手に腰を下ろし、シェヘブカイは、その様子をぼんやりと眺めていた。妙に眠たい。それに、足元がふわふわしている。これが「酔い」というやつなのだろうか。毎年、正気を無くして暴れたり泣いたり、朝まで道端で寝ている大人たちを指差しては笑っていたものだが、今年は自分も、そんな笑われる側になってしまうのかもしれない。
 うつらうつらしかけていたとき、小さな水音が聞こえた気がして、彼は顔を上げた。
 水の引いたあとの黒い岸辺を、何か大きなものが這っている気配がある。腰を上げ、彼は、覚束ない足取りで水辺に近づいた。
 「誰かいるの?」
返事はない。四つんばいになっているそれは、人間にしては大きすぎた。
 鰐だ、とシェヘブカイは思った。もしかしたら左眼<イアビィ>かもしれない。常に水に潜み、夜にしか現れない左眼<イアビィ>は、あの夜しか見たことがない。
 酔った勢いでもあった。それが普通の獣の鰐かもしれないとは疑ってもみなかった。なぜだかその生き物が、ずっと自分のほうを伺っていたのだと分かったのだ。
 シェヘブカイが近づくと、這っていたものは素早く反転した。水際に生える葦の茂みがざ、ざ、ざ、と揺れる。
 「あ、待って」
シェヘブカイは、慌てて自分の葦舟を探しに走った。舟はすぐに見つかった。村人たちがみな川を渡ってしまったあとで、一隻だけぽつんと泥の中に残されていたからだ。舟を水に押しやると、足が泥にとられて滑る。かまわず転がるようにして葦舟に飛び乗ると、暗い水面に残る跡を追って流れに棹を差し入れた。
 後で考えてみても、それは正気の沙汰ではなかった。酔っていなかったら、そんなことはしなかっただろう。鰐の泳ぎはとても素早い。水の中に逃げられてしまっては、追いつけるはずはなかった。それでも、シェヘブカイは必死だったのだ。祠を建ててからも、水位が上がって鰐たちが沼地に姿を見せるようになってからも、左眼だけは、一度も沼地に姿を見せたことがなかった。このままでいいはずがない。人を襲うことはもう無いにしろ、人々に恐れられるままにはしておけなかった。
 足が妙に冷たいことに気がついたのは、勢いよく川の中ほどまで滑り出してからのことだった。
 (…浸水? どうして、一体どこから)
気がついて手探りで船底の穴を探し始めたときにはもう、葦の束を束ねただけの舟は、半ば沈みかかっていた。
 (いけない、岸へ…)
流れに棹を差し込んで舟を岸に近づけようとするが、いったん沈み始めた葦の束は、急速に水を吸い込んで川の半ばで動きを止めてしまった。舟が大きく傾いて、体が水に投げ出される。舟は、もはや舳先だけを水の上に出している状態だ。シェヘブカイは必死でそれに捕まって、けんめいに水面から顔を出そうとした。急激に動いたせいか、酔いが回って頭がふらふらしてくる。足がもつれ、意識が遠くなってゆくのを感じていた。体に力が入らない。
 と、その時、頭の上で波がはじけ、何かによって体が流れの上に押し出された。シェヘブカイは、自分が何かに担がれて、岸辺に運ばれてゆくのをうっすらと感じていた。腕の下に、冷たく湿った堅いものがある。暗闇の底に、金色に輝く目が見えた気がした。
 ――覚えているのは、そこまでだ。
 それきり彼の意識は途切れ、夜の中に、夜風の中に散り散りになっていった。


 目覚めると、見覚えのある天井がそこにあった。窓の隙間から差し込む光、懐かしい匂い。妙に寝苦しいのは、腹の上に猫が丸まっているからだ。
 「ニウ、どいて。…重たい」
不満げに声を上げる猫を脇に退けながら、シェヘブカイは寝台の上に起き上がった。そして、
 「あたっ」
刺すような痛みに頭を押さえてうずくまる。ひどい気分だ。これが二日酔いというやつだろうか。
 よろめきながら扉を開けると、階段の下から母とティティスの話声が聞こえてきた。彼が降りてゆくと、二人はぱっと振り返り、口々に叫んだ。
 「もう大丈夫なの?」
 「目が覚めたのね! よかった」
 「ええと、…一体何が? 何で僕は家で寝てたんだろう」
 「覚えてないの?」
ティティスは、黒い眉をきつく寄せた。「昨日、いつまで経っても戻ってこないから心配になって皆で探しに行ったのよ。そしたら岸辺で、ずぶぬれになって転がってたんだもの」
 「岸辺…、岸辺って、どこの」
 「畑の端よ」と、イティ。「ほら、あんたが前にかえるを育てていたあたりよ。」
 「こっち側の…岸…?」
 「そうよ。舟はなかったわ。どうしたのよ一体。まさか、泳いで帰ってきたりしたの?」
では、やはりあれは夢ではなかったのだ。舟が浸水して川で溺れ掛け、誰かに助けられたのは。
 「…舟に穴が開いてて、途中で沈んだんだよ。」
 「まあ、そんな」
 「母さん、大きな声出さないで。飲みすぎて頭が痛いんだ。水ちょうだい…」
イティは口をつぐんで器の水を差し出した。ティティスは心配そうな顔をしている。
 「気分悪いの?」
 「うん、でもただの飲みすぎ。ちょっと休めば、治るよ」
 「そう」
少女は、困ったように外に目をやった。「あたしは、どうしようかしら。今日中に帰るって、父さんに言っちゃったの。舟がなくても帰れるかしら」
 「それなら心配いらないわ。村の誰かに送ってもらえるように頼んでみるから――」
母たちの会話が遠くなってゆく。シェヘブカイは、痛む頭を押さえながら昨夜溺れ掛けたときのことを思い出そうと試みていた。
 金色に光る眼を、確かに見た。
 あれは――間違いなく左眼<イアビィ>だった。右眼<アメンティ>と同じ色の、片方だけの輝く眸。溺れ掛けたとき、何か堅いものに背負われて運ばれたのを覚えている。助けてくれたのだ。どうしてだろう。
 いや――理由は何でもよかった。やはり、左眼<イアビィ>はまだ、ここにいる。出会えたということと、自分を認識してくれたことが嬉しかった。
 台所で食卓に突っ伏していると、イティが戻ってきて慌てた。
 「いやだ、大丈夫なの? まだ寝てたほうがいいんじゃないの」
 「ちょっと考えてただけ。ティティスは?」
 「心配いらないわ。送ってもらえるようお願いしてきた。お水、もう一杯いる?」
シェヘブカイは小さく頷いて、お代わりの冷たい水を受け取った。イティは、息子の向かいに腰を下ろした。
 「あの娘さん、いい子ね。」
 「うん? まあね」
 「あんたもいつの間にかそういう年頃になったのねえ。ついこの間まで、ちっちゃな子供だと思ってたのに」
 「……。」
シェヘブカイが黙っていると、母は、ふいに真面目な顔になった。
 「あんたのことは、あんまり心配してないの。なんだかんだで、巧くやってけそうだからね。心配なのはメンケペルのほうだわ。お見合い勧めても、ちっともその気にならないし。いい子は沢山いるんだけどねえ。」
 「兄さんは仕事の虫だろ。結婚とか興味ないんじゃないかな」
 「でももう、いい年よ。」
メンケペルはシェヘブカイより七つ年上で、成人してから何年も経つ。兄と同年代の若者たちは大半が家庭を持ち、子供もいる。兄がいつまでも独り身なのは、てっきり、両親が縁組を積極的に勧めないせいだと思っていたのだが。
 「父さんは、何て?」
 「本人の好きにさせろ、って。仕事の虫はあの人のほうよ。メンケペルは、――なんていうか、何かに気兼ねしてるみたいなところがあってね。先にあんたが身を固めてしまえば、吹っ切れるんじゃないかとも思ったんだけれど。」
 「…何、それ。」
シェヘブカイは、呆れ顔で小さく一つため息をついた。「母さん、…僕の年知ってたよね。」
 「あらもちろん、母親ですもの。そうね、まだあと数年は無理かしらね。でもあんた、もう自分の家と畑を持ってるんでしょう? それならいつでもお嫁さんは貰えるわよ。」
 「考えておくよ。」
器を空にして、彼はそろそろと椅子から立ち上がった。勢いよく動いてしまうと、頭の芯に響くからだ。
 「出かけるの?」
 「ちょっと風に当たってくる。上で寝てるより、そのほうが早く治りそうだから」
外に出ると、眩しい日差しが容赦なく刺し貫いてくる。目の奥に微かに痛みを覚えながら、足は自然と畑の向こうの木陰に向いていた。水の引いたあとの黒々とした土の上には草が育ち始め、畑の半ばは緑に覆われている。木陰には、花の咲き終わったあとの茂みが静かに揺れていた。
 木陰に入ると、涼しさにほっとする。かつてアメンティがそうしていたように、木にもたれかかると、頭痛が和らいでいく気がした。
 さわさわと微かな音をたてて揺れるナツメヤシの葉ずれの音を聞きながら、彼は目を閉じた。魚のはねる水音、渡りをする鳥の甲高い声。
 ぱしゃん、と小さな水音がした。
 なにかの気配を感じて目を開けると、足元の水辺に、大きなかえるが一匹、のそりと這い上がってくるところだ。
 「やあ」
声をかけると、かえるは目をしばたかせながらシェヘブカイを見上げ、やがて、おそるおそる呟いた。
 「あんた、旦那を連れていった人間かい?」
 「ああ。お前の言葉のわかる人間さ」
いぼを背中に乗せたかえる、ジェドは、それを聞いて安心した様子でシェヘブカイの膝の辺りまで跳ねてきた。
 「良かった、違ってたらどうしようかと思ったんだ。人間の見た目は区別がつかねえからな」
 「僕も、かえるの見た目は区別がつかないから」
笑いながら、彼はかえるを手で膝の上に載せてやった。
 「元気だったかい」
 「おかげさんでね。あの、大きい旦那は元気ですかい」
 「相変わらずだよ、でも前よりは元気だと思う。そうだジェド、この辺りで夜うろついている、左目だけの大きな鰐を見たことは無い? それを探しているんだ」
 「さあて。鰐なら時々見かけやすがね。左目だけってのは――」
言葉を発するたび、喉のあたりが膨らんだり、へこんだり。膝の上にある、ひんやりと湿ったかえるの体の感触は、シェヘブカイには妙に懐かしく感じられた。
 「あんた、しばらくここにいるのかい」
 「ううん。明日には帰るつもり、アメンティを一人にしておけないし」
 「そうかい」
ぴょん、と一足飛びに地面に飛び降りると、ジェドは、喉を膨らませながら振り返った。
 「いやね、ふと思い出したんだ。さっきの鰐の話と関係あるかどうかは知らねえんでやすが――妙な噂を聞いたんで。」
 「噂?」
 「なんでも、日が沈む頃になると現れる不思議な生き物がいるってんでさ。人間とも、水の生き物ともつかない格好で、水辺をうろついてやがるって話さ。ちょっかい出した連中は、カバだろうとワニだろうと酷い目に遭わされたとかで。わしら弱小もんは最初から気にしちゃいないが、強い連中は妙に怯えてる。ここらのヌシみたいになってまさあ」
 「……。」
 「ま、陸の上に暮らしてる人間にゃあんまり関係ない話でやしたね。んじゃ、お気をつけて。」
小さな水音をたてて川の中へ飛び込むと、かえるは、滑るように流れの中へ消えていった。


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