■第二章/鰐の棲む沼地-3


 夏の暑さが頂点に達する頃、大河の増水は本格的に始まった。上流から押し流されてきた黒い土が川べりの耕地を満たし、たっぷり三ヶ月近くをかけてゆっくりと土地を肥やす。新たな一年の始まりだ。水が引けば小麦の植え付け、それまで農夫たちは、水に浸されない上手の畑を耕し、家畜たちの世話をして過ごす。シェヘブカイが訪れたとき、レニセネブは、家の前で籠を編んでいた。
 「こんにちは。」
 「おっ、どうしたい。娘なら、牛を川につれていってるぞ」
 「いえ。今日は、少しビールを分けてもらいにきたんです」
言いながら、シェヘブカイは獲れたての大きな魚を数匹差し出した。レニセネブは、心得た顔で台所のほうに顎をしゃくる。
 「適当に持ってきな。」
 「ありがとうございます」
シェヘブカイのほうも、慣れたものだ。
 初めて沼地のほとりを訪れてから、もう何ヶ月にもなる。今では、家に帰るのは一週間に一度もないくらいだった。自分用の小屋も建て終わり、ほとんど移住したようなものだった。時々、食べ物や衣類を受け取りに実家に戻るほか、必要なものは、自分で獲った魚や水鳥をレニセネブ一家に持ち込んで交換してもらっていた。
 「いつも、立派な魚を持ってくるな。例の"ワニ様"のお恵みかい?」
 「ええ、魚がいるところはいつも教えてくれます。」
 「お前さんも変わり者だな」
ちょっと笑うと、レニセネブは手を休めて少年を見た。「あれは、本当にいいものかね?」
 「そう思ってます」
ビールを入れた壷を小脇に抱え、シェヘブカイは軽く家主に会釈した。
 「それじゃ、また」
 「おう、またな。」
足取りも軽く去ってゆく少年の後姿を、レニセネブは興味深そうに見送っていた。ここへやって来た時より背は伸び、肌は黒く日に焼けた。日ごとに子供から大人へと近づいてゆく、成長著しい人生で最も良い時代の姿がそこにあった。


 自分の小屋に戻ってきたシェヘブカイは、塀ごしに、ちょいと祠を覗き込んだ。小屋は、祠のすぐ裏手に建てた。塀を隔てた向こう側には、祠の脇の小さな庭がある。いつものように、そこには白い影がのんびりと寝そべっているのが見えた。彼は思わず表情をほころばせる。
 「アメンティ」
声をかけると、茂みが揺れ、こちらを向く気配があった。
 「ビール貰ってきたんだけど、飲む?」
緑の中から、青年がむくりと起き上がった。
 「…一杯だけ」
 「じゃあ、持って行くよ。」
ビールは、最近になってアメンティが味を覚えたものの一つだった。魚ばかりではつまらないだろうと、ためしに色々勧めてみたところ、一つだけ気に入ってくれたものが酒だった。パンや果物は受け付けないのに、ビールだけは好きだというのだから、変わった味覚だ。
 器に入れたビールを持って祠の正面入り口から回り込むと、足に瑞々しい草が触れた。祠の周囲は今や、ちょっとした花畑だった。特に、アメンティがいつも昼寝をしている木陰のあたりは、良い香りのする珍しい草花で彩られている。
 「ずいぶん育ったよね」
 「ああ。お陰で気持ちよく眠れる」
 「寝床なのか、これ」
苦笑しながら、シェヘブカイは膝まづいて器を差し出した。アメンティはいつも、ビールをちびちび飲む。そして、飲んでいるときだけは、いつもより少し饒舌になる。
 「水が満ちてきたな」
 「うん。今ちょうど、一番水かさの増してるときだね。水路を作ってるんだ、今なら掘りやすいし」
祠の前庭にあたる窪地も、今は水が流れ込んで自然の池になっている。シェヘブカイは、そこまで続く水路を掘って、一年中、川と繋がっている状態にしようと考えていた。そうすれば畑が水不足になることもないし、シェヘブカイも直接、川まで葦舟で出られるようになる。
 「この季節は、魚が集まる。水が引くとき一緒に行ってしまう」
 「そうだね。ずっと水がここまで来てれば、いつでも魚が取れるようになる」
 「…魚が戻ってくるときは、あいつらも戻ってくる」
 「あいつら?」
アメンティは、視線を上げて水のほうを指差した。振り返ると、沼地の向こうの枯れた葦の茂みの中に動き回っている黒っぽい影が見えた。
 「…鰐か。」
 「あれらは自然のままに生きている。馴れ合いはしないだろう」
それだけ言うと、静かに器を置いて目を閉じた。いつものことだ。飲むだけ飲んだら、眠ってしまう。
 小さく笑って、シェヘブカイは、空になった器をそっと拾い上げた。生きてきた年月だけならアメンティのほうが遥かに長く、百歳以上も年上なのに、何故か兄弟ほどの年の差に思えることがよくある。あの夜、シェヘブカイが"ここが居場所なんだ"と言ったときの表情は、きっと忘れないだろう。父や兄はきっと理解してくれないだろうが、彼は、いつしか、この人ならざる存在――獣ではなく神ともいえないもののことを、家族のように思い始めていた、


 沼地の向こうから風が抜きぬけていく。実家のつくりを真似て作った小屋の入り口あたりは、その風のお陰で真夏でも涼しい。
 日差しが照りつける午後、シェヘブカイは、漆喰を塗りつけた板を前に考え込んでいた。板の上に描かれているのは、このあたりの地形の略図だ。測量は、父に習ったうろ覚えのまま、試行錯誤しながら自分でやった。川と、沼地のあたりの高低差。それと、湿地帯を縦横に走る、水が削った天然の水路の位置。
 (全体に水を引くなら、上流のほうの土手を崩さなきゃ駄目か…)
葦ペンを手に、彼は思案する。今は干上がったかつての水路の跡を使えば、ここまで水をひくことは容易い。だが、川と繋がる部分は脆く、簡単に埋まってしまう。毎年のように溜まった土を掘り出さねはならず、埋まりにくいよう土手を築こうとすれば人手がかかる。
 (どうすれば、簡単に水路を維持できるのかな…)
ペンの先にインクをつけて、板の上に線を引く。(土手のこっち側だけでも、水を引ければ…)
 「…ブカイ」
 「え?」
 「シェヘブカイってば。もう、何度も呼んでるのに」
夢中になっていて、目の前にティティスが来ているのに気がついていなかった。彼は、あわてて板を置いた。
 「ごめん、えっと…」
 「なんでもないわよ、ちょっと様子を見に来ただけ」
呆れ顔の少女は、シェヘブカイがつい今しがたまで睨めっこをしていた板を見下ろした。
 「それ、何かのお勉強?」
 「ああ…、川から水を引こうと思って。今の季節だけじゃなく、ずっと水が届くようにしたいんだ。」
 「昔みたいに?」
この辺りに、集落らしきものがあった時代のことは、ティティスも父から聞いて知っているようだった。
 「あんたって、ほんと変わってるわよね。そんなことして何かあんたの得になるの?」
 「得に…ってわけじゃないだろうけど、好きなんだ、こういうの。」彼は、指先で板を叩いた。「こういうのも、建築技師の仕事だからさ。ほんとは、父さんみたいに大きな神殿建築の指揮とかやってみたかったけど…、それはもう出来ないし。自分で図を描いて、自分でつくる。それだけでも十分だ」
 「ま、楽しいならいいんだけどね」
立ち上がって、ティティスは服の裾をはたいた。出会った頃の粗末な格好ではない。何かの時に、乳と交換で渡した新しい布地が今のティティスの服だ。
 「あんたの畑、順調なの?」
言いながら、少女は窓の外に目をやる。
 「おかげさまで。」
 「ちょっと分けてもらってもいい?」
 「もちろん」
畑は、祠と家の隙間――正確には、祠の壁のすぐ外側に引いた水路の両脇にあった。家から食料を貰ってきたとき、うっかり濡らしてしまった豆が発芽して、仕方なく植えつけたものだ。それが今では、立派な茂みになり、つやつやした鞘をいくつもぶら下げている。
 ティティスは、はちきれんばかりに実のつまった鞘を一つもぎ取って、関心したように呟いた。
 「不思議よね。ほとんど手入れなんてしてないんでしょ?」
 「そんなことないと思うけど…水はちゃんとやってるし」
 「それだけ? うちの畑より出来がいいなんて、詐欺だわ。」
手にした籠に鞘を摘み取りながら、少女は少し悔しそうだ。「ワニ様のインチキね。あの祠に咲いてる花だって、きっとそうだわ」
 「インチキだなんて、人聞きの悪い。」
 「”ご加護”だっていうの?」
 「…ううん、なんていうか、あれは――。アメンティはさ、花とか…育てるのが好きなんだ。」
言いながら、シェヘブカイはちらと塀の向こうを見やった。たぶんアメンティは、深く考えてそうしているわけではない。ただ涼しい木陰、寝心地のいい緑が欲しくて、周囲の植物を成長させているだけだ。だが、それは有り触れた生き物としての力ではない。普通にはない力――もしそれが人にとって良いものであるならそれは、”守護者のご加護”と言えるのかもしれない。
 「ね。あんたのワニ様、何が好きなの? あたしも今度、お供えもって来てみようかな。」
 「ティティスが?」
 「何よ、独り占め?」
 「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」シェヘブカイは、頬をかいた。「…好きなものは、魚か、ビールだよ。」
 「ほんと? それ持っていけば、うちの畑も出来がよくなるかしら。」
 「わかんないけど… 頼んでみたら?」
少しずつ、ほんの少しずつ、季節が進むごとに変わってゆく関係。
 それ以来、シェヘブカイしか訪れなかった祠には、ときどきティティスがやって来て作りたてのビールを置いていくようになった。


 思いがけない来客は、増水の季節も終わろうという頃に訪れた。
 「シェヘブカイ」
名を呼ばれたとき、彼はちょうど水路にすると決めた場所に鋤を入れているところだった。汗を拭いながら土手の上を見上げて、目をしばたかせる。
 「…兄さん?」
 「何だ、しばらく合わないうちに顔を忘れたのか」
突き放すような、憮然とした口調。だが、妙に嬉しかった。ここまで来てくれたのだ。シェヘブカイは、慌てて土手を駆け上がった。
 「忘れてたわけじゃないよ、びっくりしたんだ。ここに来るなんて思わなくて…仕事は? 葬祭殿のほう」
 「休みだ。今がいつだか、暦まで忘れてしまったのか」
言われてシェヘブカイはようやく思い当たった。増水の季節の終わり、毎年この頃には、農耕の季節の始まりを告げる祭りがある。豊かな川の恵みに感謝し、秋の豊穣を祈願する、この地方で最も重要な祭り。その前後の時期だけは、葬祭殿の建設も休みになる。
 「どうせお前は忘れているだろうという、母さんの予想は当たったわけだな」
 「えっと、ごめんなさい…。祭りの日には戻るよ。心配ないって伝えて」
 「ならいいが」
メンケペルは不機嫌そうな口調で言いながら、辺りを見回し、漆喰で丁寧に白く塗られた祠を見つけた。
 「あれが、お前の建てたというお社(やしろ)か」
 「お社…?」
 「お前が、大鰐に取り憑かれてお社を作ったと、噂になってる。」
言うなり、弟の弁解も聞かずさっさと祠に向かって歩き出した。シェヘブカイは慌てて後を追う。だが、長身のメンケペルの歩調は速く、精一杯の小走りで、ようやく引き離されずに済むほどだ。久しぶりに見る兄の背は相変わらず絶壁のようで、ここ最近でずいぶん身長が伸びたような気がしていたのに、ちっとも追いつけた気がしない。
 真っ直ぐに祠までやって来たメンケペルは、四角く取り囲む塀の切れ目で足を止め、入り口からざっと全体を見回した。振り返ったちょうどその時、シェヘブカイが息を切らせながら追いついてくる。
 「地ならしを怠ったな」
 「はあ、はあ……え?」
 「斜めに数度、傾いている」
厳しい口調で言って、メンケペルは組み合わせた左右の指を目元まで差し上げた。「そこの池――湿気が上がってきている。床近くの壁際の煉瓦が緩んでいるだろう」
 「あ…。うん」
シェヘブカイは、決まりの悪そうな顔をして口ごもった。池は、元々沼地だったところを深く掘り込んで、祠の前庭に周囲を固めて作ったものだ。だが思ったより水位が高くなりすぎて、祠の床下近くまで水がきている。池に近い壁の漆喰がひび割れてきているのには、彼も気づいていた。
 「こういうところに建物を作るなら、地ならしをして水はけのよい砂利を下に詰めて基礎を作れと習わなかったのか。不十分な基礎の上にどんなに立派に見える建物を作ったところで、無意味だ」
 「その通りだよ。とにかく作ることで頭が一杯だったから…。」
 「そんなだから、お前はいつまで経っても半人前なんだ。」
シェヘブカイが黙って俯いていると、メンケペルは、中にも入らず吐き捨てるように言って踵を返した。「茶番だな。お前のお遊びにはぴったりだよ。」
 兄が去って行ったあと、シェヘブカイは、ゆっくりと祠の入り口に近づいて、ひびの入った壁の隅に視線をやった。それから、前庭の池にも。しばらくそうして眺めていると、ふいに、すぐ側の足元から声がした。
 「随分と剣呑な男だったな」
 「わ、いたの?」
茂みが動いて、のそりと、真っ白な頭が覗く。
 「いつだって、ここにいる」
 「あ…そういや、そうだったね。」
アメンティの姿は、メンケペルにも見えないのだ。兄は、不自然に咲き誇る花畑にも、祠の周囲を取り囲む濃い緑にも気を留めなかった。
 「あれは、知り合いか?」
 「ううん、家族だよ。僕の兄さん」
 「兄弟にしては、随分と…」
 「…厳しいのは、一流の建築家だからさ。父さんが僕に甘いって、だから自分は厳しくするんだって、いつも言ってる。言ってることは正しいんだ、ほんとだよ。失敗したのは僕だ」
言いながら、シェヘブカイは滲んだ涙をそれとなく拭った。「…駄目だな、けっこう巧くやれたつもりだったのに。日が経つと駄目なとこばっかり気になる」
 「私は、お前の建ててくれたこの家は好きだ。涼しいしな」
のんびりとした口調で、緑の中からアメンティが言う。「大したものだと思う」
 「でも、…父さんや兄さんには、全然かなわない。」
シェヘブカイは、アメンティと並ぶようにして緑のほとりの木陰に腰を下ろした。涼しい風に吹かれているうちに、流れ落ちていた汗がひき、火照っていた体が少しずつ冷めていくのを感じる。
 「兄さんはさ、父さんが違うんだ。母さんは再婚。僕は、今の父さんの子供」
 「ほう」
 「年も離れてるし、あんまり兄さんとは話したことないんだ。遊んでもらったこともあんまりなくて、でも、兄さんはずっと父さんと一緒に仕事してるし、父さんは僕より兄さんのほうを信用してると思う。」
アメンティは寝そべっていた地面から上体を起こして、立てた膝の上に肘を乗せた。 「お前は、あの男が嫌いか?」
 「えっ? なんで? 大好きだよ」
 「あの男、はお前のことが好きでは無さそうだったが。」
 「それは、…そう見えてるだけだよ。なんていうかさ、昔から、言いたいことを言うのが下手くそなんだ。いつも我慢して、言いたいことも言わないし…」
 「……。」
金色の右目が、ちょっと遠くを眺める。「人間の感情とは、相変わらずよく分からないものだな。」
 「口調は厳しいけど、指導してくれてるんだから。だから、兄さんを食べたりしちゃだめだよ?」
冗談めかして言うと、アメンティはちょっと首を振って元のように茂みの中に腕枕をして横になった。シェヘブカイも、尻を払いながら立ち上がる。
 「そうだ。今度、お祭りがあるから、二日くらい留守にするよ」
 「…お祭り?」
 「うん、もうすぐ増水が終わるからね。"大地を開く"っていうお祭りなんだ。川向こうの神殿から、畑の周りに行列がくるんだよ。」
祭りが終わると麦の種まき、農耕の季節の始まりだった。もっとも、ここ最近は近隣の村人たちはこぞって葬祭殿の建設に駆り出されているから、畑で作物を作ることは無く、祭りも形骸化していた。だが、シェヘブカイは毎年、その日を楽しみにしていた。祭りで配られる蜂蜜入りのパンは、甘くてとても美味しい。
 そうだ、ティティスも誘おう、と彼は思った。
 そうすればきっと、兄との再会の気まずさも和らぐに違いない。


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