■第二章/鰐の棲む沼地-2


 それからというもの、シェヘブカイは沼地のほとりに泊まりこんで、朝から晩までひたすら家づくりに励んだ。
 泥をこね、刻んだ葦を混ぜては型に押しこみ、ならべて乾かす。その傍ら、祠をつくると決めた場所を測量し、水平を保ちながら、出来あがった日干し煉瓦を思い描く設計図どおりに積み上げていく。実家には、三日に一度、食料を受け取りに帰るくらい。それもティティスの差し入れや、近くで採れるナツメヤシでまかなえる時には、一週間近くも帰らなかった。母のイティは散々心配したが、父は、シェヘブカイが一人で家を建てていると聞いただけで、何故か納得してしまった。或いは、葬祭殿の建設に関われなくなった息子が別の道を見つけたことを、喜んでいたのかもしれない。


 日は次第に長くなり、川の水位が上がり始める真夏が近づく頃、沼地の祠は完成に近づいていて、シェヘブカイは仕上げに白い漆喰を塗りつけているところだった。
 「なんだかんだで、けっこう出来てきちゃったのね」
踏み台の上に背伸びして、屋根に近い壁を塗っていたシェヘブカイは、聞きなれた声のほうに頭を巡らせた。祠を囲むように煉瓦を三重に積み上げた壁の向こうから、少女が籠をぶらさげて覗き込んでいた。
 「やあティティス、久しぶり」
 「久しぶりっていうか、二日ぶりだけど」
少女は、壁をよじ登って乗り越えると、シェヘブカイの真下までやってきた。「差し入れよ。あんたがブッ倒れてないか、うちの父さんが心配してたから」
 「ありがと。ちょうど休憩しようと思ってたとこなんだ」
踏み台から一足で地面に飛び降りたシェヘブカイは、漆喰に汚れた手を布の切れ端で拭った。いまや立派に壁と屋根をそなえた日干し煉瓦の小屋は、ほんの二部屋しかないとはいえ、手の込んだ意匠によって、小さいながらも神像をまつる祠のように見えた。
 「お、ひよこ豆いりのパンだ! いただきまーす」
大喜びで籠の中身を頬張るシェヘブカイの側で、ティティスは祠と、祠の向こうから壁を越えて木陰を作る木々を眺めている。
 「あんたってさ、建築技師の卵なんだっけ」
 「うん、そう。一応ね」
 「…立派なもんじゃない。一人でこんなもの建てちゃったんだから」
 「このくらいならそんなに難しくないよ。ほんとに難しいのは石を使った神殿で、重量とか、角度の計算が難しくて、ちょっと間違えただけでもう駄目なんだ。寸法も後から変えられないしさ」
ティティスは、後ろに手を組みながら、がらんとした祠の中を覗き込む。
 「ここに、あのバラバラの石像を移すの?」
 「そのつもり… 彫刻は出来ないから、あれは直せない」
 「ふうん」
少女は振り返って、シェヘブカイの側まで戻ってきた。
 「あれってやっぱり、神様なのかな」
シェヘブカイは、ごくんと大きなパンの塊を飲み込んだ。
 「…違うと思う。少なくとも、今は。でも、悪いものじゃないよ。みんなは悪霊って言うけどさ」
 「神様でも、悪霊でもないもの? へんなの」
 「ティティスには見えないんだな」
 「そうね。あんたにだけ見えるっていうのは、ちょっと不思議。ねえ、あんたなんで、そんなよく分からないもののためにここまでしようって気になったの?」
 「うーん…」
考え込んで、少年はふいに、真面目な顔になった。
 「誰だって、居場所がないのって、寂しいから…さ。」
さわさわと風が吹いて、枯れた葦の茂みを揺らしてゆく。パンくずを払って、彼は腹を撫で撫で立ち上がった。
 「美味しかった、いつもありがとうね」
 「え? やだ、あたしじゃないわよ。父さんが持ってけって」
 「でもパン焼いたのティティスでしょ。僕、ティティスの焼くパン好きだよ。」
 「な、…」
少女は素早く籠を摑むと、真っ赤になりながら背を向けた。
 「そういうこと言っても駄目よ、毎回あるとは限らないんですからね! それじゃ、あたし仕事あるから!」
 「うん、またね。」
土手を駆け上がってゆく少女の背に、出会ったときより少し伸びた髪が弾むように揺れる。シェヘブカイも、初めてここに来た時より少し背が伸びて、声も少しだけ低くなった。葬祭殿でペンを握って労働者たちへの日当配給をしていた頃より、ずっと逞しくもなった気がする。
 「さて、…と」
ひとつ伸びをして、シェヘブカイは、木陰に敷いた茣蓙の上にごろりと横になった。そこは、涼しい風が吹きぬけていくお気に入りの場所だった。午後は長い。日が天頂に近くなる時間は、休憩するに限る。
 (アメンティの気持ちも分かるな。水浴びするなら夜のほうが涼しい…)
夜明けから働きづめの体を、眠りが優しく包み込む。目を閉じると、どこかから春先に嗅いだ懐かしい花の香りが漂ってくる気がした。


 小屋で目を覚ましたとき、窓から斜めに射す日差しが寝床がわりのヤシの葉で編んだ茣蓙の直ぐ側に落ちていた。目をこすりながら起き上がり、大きく伸びをする。少し眠りすぎていたかもしれない。もう、夕方になっている。
 仕事は山積みだった。自分の寝床にしている小屋は、風の吹いてくるほうの壁だけ作って、いまだ屋根はなし。茣蓙を敷いた寝床と壁に沿って作った簡素な煮炊き用の窯しかない。一方で、アメンティのために作っていた祠の壁の漆喰は、もうほとんど塗り終わっている。あとは乾くのを待って薄いところを補強するくらいだ。
 (そうだ、レニセネブさんに牛を借りる相談をしないと)
今の仮の祠から石像のかけらを持ってくるのには、手で抱えるのは難しかった。牛の背に積ませて運ぼうとシェヘブカイは考えていた。それならば、何往復もせずに済むし、大きな欠片を引きずって歩かずに済む。
 レニセネブとティティスの親子が住む家の近くにある、もとの祠を見に行こうと土手を歩き出した彼は、ふと、水の匂いに気づいて辺りを見渡し、目を見張った。
 ――水が満ちてきている。
 いつの間にか、川の水位の上昇が始まっていたのだ。枯れた沼地は、広大な湖へと生まれ変わろうとしている。川べりを越えて押し寄せてくる黒い流れは枯れ葦の間を満たし、魚たちと、それを追う水鳥たちを引き連れてくる。それは、わずか数日前とは全く違う光景だった。きらきらと夕日を反射する水面を前にして、シェヘブカイは、しばし、言葉もなく立ち尽くしていた。そして、この土地が水<パヨム>と呼ばれた理由を、知ったのだった。


 祠に行ってみると、いつも寝そべっていた日陰に、アメンティの姿は無かった。
 「あれ、…泳ぎに行ったのかな?」
さっきまで、そこにいたような気配はある。シェヘブカイは湖を見回し、どうせその辺りにいるだろうと決め込んだ。日が傾いて、涼しい風が吹いてきている。今日は暑かったのだし、こんなに水が溢れていれば、泳ぎたくなる気持ちもわかる。
 祠の中を覗き込むと、壊れたままの痛ましい像のかけらが無造作に積み上げられているのが見えた。シェヘブカイが置いた、かつて右眼だった象嵌の丸い石も台の上にある。
 「小さいのは、先に運べるかな…」
呟きながら石に触れた瞬間、指先から頭に向かって痺れるような感覚が走った。シェヘブカイは思わず自分自身の右眼を押さえた。
 目の前に浮かび上がってきたのは、どこかの岸辺の光景だ。
 緑の葦に縁取られた夕暮れの川辺の小道を、家路を急ぐ幼い少女がいる。もう間もなく西の地平線の向こうへ太陽が姿を消そうかという時刻、少女は完全に日没を迎える前になんとか家に着こうと焦っている。だが、急ぎすぎたせいで足がもつれ、前のめりに転んでしまう。泥にまみれた両手と、泣き出しそうな顔。すりむいた膝小僧を抱えて、心細げな顔で辺りを見回し、よろめきながら立ち上がる。視線は、低い位置からその背中をじっと見つめている。やがて用心深く、そろそろと茂みの中を近づいてゆき、少女のすぐ側まで――
 「駄目だ!」
思わず叫んだ時、はじけるようにして目の前の光景が途切れた。肩に触れる冷たいものに気づいて、彼は勢いよく振り返った。
 ぽたり、ぽたりと白い髪から水滴が垂れている。
 「アメンティ?!」
たった今、水から上がってきたばかりの様子だ。
 「今、あんたが女の子を襲、襲おうとしてるとこ…」
 「…それはもう半分のほうだ。」
そう言って、シェヘブカイの手からひょいと丸い石を取り上げて元の場所に置いていた。触れたとき、その手はひんやりと冷たい感触がした。水の匂い。
 「心配は要らない。もう、誰も傷つけることはない」
 「うん…、誰か襲われたって噂は聞いてないよ。でも、今でも夜になるたびに岸辺をうろついてて…。それに…」
シェヘブカイは、俯いて言葉を搾り出す。「それに、あれは、建築現場を襲って、父さんや村の人たちに怪我をさせた。命を落とした人も」
 「……。」
沈黙が落ちた。
 水滴を拭うそぶりもみせず、白い青年はくるりと踵を返し、水のほうへ歩いていこうとする。
 「待って! アメンティが悪いって言ってるんじゃない。教えてよ、どうすれば、元通りになる? あれは、あんたの一部なんだろ?」
 「一部であり、実体でもある」
足を止め、彼は、宵闇に沈んでゆこうとする沼を見回した。太陽の消えた西の空に、赤い残り火が静かに揺れている。
 「鰐というのは水に潜むものだ。そうだろう」
 「…うん」
 「魚を食べ、時に牛のような、もっと大きなものも水の中に引きずり込んで食べる」
 「人間も?」
 「そうする者もいる。――私は食べないが」アメンティは、側にやってきた少年を見て、何故か酷く悲しそうな表情をした。「人間の肉は苦い」
 「…それって、昔食べたことがあるって言ってるみたいな気がするけど。」
 「さあ、そうかもしれない。もうずっと昔のことだ。」
再び湖のほうに視線を向け、彼は、透き通るような遠い目をした。
 「どんな姿になろうと、どれだけ生きようと、本性は変えられない。私は…ここにいるものは、お前が生かしてくれている、かつての残骸に過ぎない。あれは本性だ。本来の習性に従って生きている――憎悪に囚われながらも。」
 「つまり、アメンティよりワニっぽい部分、ってこと? だから、止められないってこと?」
 「お前たちにとっては、邪魔なだけ、なのだろうな…。」
呟くようにそう言った口調が、あまりにも切なく、消え入りそうに思えて、シェヘブカイは必死で言葉を探した。言葉を誤れば、永遠に去っていってしまうような気がした。
 「邪魔ってわけじゃない。鰐は怖いよ、でも人を襲わなければ問題ないんだ。だから、ここに来て欲しいんだ! ここなら、あっちのあんたでも、自由に泳げるでしょ?」
シェヘブカイは、広々とした一面の水に向かって両手を広げた。
 「ここが、あんたの居場所なんだよ!」
揺らめくような色の右眼が、驚いたように瞬く。だが、それ以上、何故とは聞かなかった。ただ一言、
 「――そうか。」


 いつしか空には無数の星々が姿を現し、頭上を覆いつくして瞬いている。
 星たちの集まり描く天なる光の川が、地上の川を映して、同じように空の中で揺らめいていた。


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