■第二章/鰐の棲む沼地-1


 暖かい日差しが照りつけ、川は穏やかに流れる。
 静かな水面の上を、一艘の葦舟が岸辺を上流へと進んでいた。舟のへさきで櫂を流れに差し込んでいるのはシェヘブカイだ。
 「気分はどう? 少しは何か思い出せそう?」
 「……。」
アメンティは、船尾から身を乗り出して、じっと水を眺めている。
 「流れを上から見ると、こんなふうに見えるのか…」
 「舟なんざ乗るのは初めてでやすね」
同じく船尾の船べりには、かえるのジェドがちょこんと腰を下ろして、同じように水面を眺めている。シェヘブカイは、苦笑するしかない。
 「そんなとこ、珍しがると思わなかったよ」
小舟が向かっているのは、村の上流にある沼地だった。川の支流が細い水路となって流れ込み、夏には広大な湿地帯となる。畑を作るには適さないが、葦がよく茂り、そこを隠れ家にする小魚や水鳥が沢山棲んでいる。
 あれから王の命で近隣の集落をくまなく調べまわって、突き止められたのが、そこだった。
 沼地の奥にある小さな祠の跡。かつては数十戸が軒を連ねた村があったというが、今は跡形も無く、誰も暮らしてはいない。そしていつしか祠のあることさえ忘れ去られ、そのまま時が過ぎていった。
 葬祭殿の建設が始まった頃、古い神殿や朽ちて持ち主のいない記念碑の石材を再利用するためにかき集めたことがあったという。祠の跡はその時に解体され、中の像ごと持ち去られたのだろう。…そして砕かれた石は、神像の欠片もろとも葬祭殿の土台に使われた。
 シェヘブカイは岸辺に葦舟をつけ、地面に飛び移りながら振り返った。
 「こっちだって、アメンティの元いた場所」
 「…確かに、覚えがある」
立ち上がりながら、青年は広大な沼地の匂いを嗅いだ。「この水辺は、昔泳いだことがある」
ジェドが、ぴょんとアメンティの肩に飛び乗った。
 「へへ、それじゃ行きますかい。旦那」
川の水位が下がっているこの季節、湿地の奥へ流れ込む細い水路は干上がっている。茶色い葦草はほとんど枯れて、足元の泥も半分固まっていた。お陰で簡単に歩くことが出来たが、水位が上がれば、この辺りは徒歩で歩くのが難しくなるだろう。
 行く手に土手のように盛り上がった土が見えてきた。
 「あそこかな」
駆け上がったシェヘブカイは、急場ごしらえで作られた日干し煉瓦の祠と、その中に集められた石像の破片を見つけた。元の形は修復できなかった。失われている破片が多すぎたのだ。予想していたより適当な処置に、少年は愕然とする。元の姿は分からなくても、せめて、修復しようとする努力くらいはしてくれていると思っていた。
 「これじゃ、あんまりだ」
 「そうか?」
 「いや、だってさ。これじゃまるで、厄介払いみたいじゃ…」
言いかけて、シェヘブカイは気づいた。土手の上から周囲の景色を見回すアメンティは、少しも嬉しそうには見えない。相変わらず、寂しそうな、世界に置き去りにされた眸をしている。どうしてだろう。元いた場所へ戻ってきたはずなのに。
 「あ、そうだ。これ返さないと」
シェヘブカイは、腰に下げた袋から右眼の丸い石を取り出した。
 「そこに置いておくといい」
 「え、でも…」
 「それ自体には何の価値もない」
そう言って、アメンティは見える右目だけを祠のほうにちらりと向けた。湿地を渡る風が通り抜け、白く細い髪を散らす。左眼は、相変わらず虚ろなままだ。
 「今日は、これで行くけど…また来るよ」
 「ああ」
かえるのジェドが、ぴょんとシェヘブカイの頭のほうに飛び移る。
 「それじゃ」
枯れた葦を踏み分けると、ぱきぱきと乾いた音がする。大股に舟へと向かいながら、シェヘブカイは思った。
 これで終わりではない。まだ、不十分だ。
 でも、――いったいどうすれば、彼を助けられるのだろう?


 季節は過ぎ去ろうとしている。
 澱みにいたおたまじゃくしたちは、後ろ足も生えそろい、陸に上がり始めていた。庭に出てきた飼い猫が、畑の縁で短い尻尾を生やしたままの不恰好なイボガエルを追い回して遊んでいるのを見つけて、シェヘブカイは慌てて駆け寄った。
 「こらニウ、だめだよ」
お楽しみの途中で抱え上げられて、猫は、嫌がるように足をばたつかせる。後ろで、くすくす笑い声がした。
 「そうよ、そのかえるはシェヘブカイが大事に育ててたやつなんだからね」
 「違うってば… って、母さん」
振り返ったシェヘブカイは、イティが手に花束を持っていることに気づいた。良い香りのする白い花、通り過ぎるとき風にのってふわりと優しい匂いが漂う。
 「それ、どうしたの」
 「んー? 畑のほうに咲いてたの。あんたが作った"かえるの小屋"見に行ったらね」
笑いながら、母は台所の水を張った壷に花を活けている。前に小屋まで来たときは、花に気づいた様子はなかった。アメンティの姿だけでなく、アメンティの咲かせた花も見えていなかったのだろうか。木陰の主がいなくなったとたん、その場所は、濃い緑の気配を失って、ごく普通の茂みになってしまったように思えた。
 猫を抱いたまま家に入ると、台所の端に置いた折りたたみの仕事机で書き物をしていたセアンクが顔を上げた。
 「帰ったか」
 「ただいま。今日も仕事してるの? せっかく休みなのに」
 「そうも言ってられん」
父のセアンクは、添え木の上から包帯で巻いて固定された膝を撫でた。
 「歩けるようになったらすぐ戻らにゃならんのだ。まだ一番難しい内陣が残っているからな。あそこを完成させるには骨が折れる。重量の計算を少しでも間違うと崩れてしまう」
膝に大怪我をして以来、階段を上がれなくなったセアンクの寝床は台所の奥だった。急場ごしらえの寝台に、仕事机。起き上がれるようになってすぐ、父は葬祭殿の図面を広げて、現場にいる部下たちにあれこれと指示を出したり、書類を書いたりしはじめた。じっとしてはいられない性なのだ。そして、それ以上に、自分の手がけた葬祭殿のことが心配なのだろう。
 膝の怪我はあと一ヶ月もすれば塞がると、建設現場お抱えの医師は言っていた。だが、膝は元どおりにはならないだろうという話だった。走ることは出来ず、おそらく一生、足をひきずって歩くことになる、と。けれど父は、建築技師が走り回る必要はないと言って笑っていた。
 「沼地へ行って来たのか」
 「うん。」
 「あれは、収まりそうか?」
 「――わからない」
シェヘブカイは、引き寄せた背もたれのない椅子に腰を下ろす。
 災いの正体が分かっていらい、葬祭殿への攻撃は、ぴたりと止んだ。
 だがそれは、正体が分かって防ぐ方法が分かったからだ。決して、災いの根源そのものが消え失せたわけではない。そのことに、葬祭殿の神官たちも気づいていた。
 葬祭殿の岸辺には、河の神の呪文を刻んだ柱が建てられた。日の沈む夜には力の弱まる太陽神の呪文とは違い、水に棲むもの全てを支配する、最も強い結界だ。以来、建設現場が荒らされることはなくなったが、近隣の村や町では夜間に岸辺を徘徊する巨大な影を見たという目撃談が相次ぎ、人々は怯えきっていた。
 「気に病むことはない。お前は役目を果たしたんだ。災いの主を突きとめよ、そうだったな。神官たちは、お前の働きに満足している」
 「うん、でも…」
シェヘブカイは、部屋の隅に積まれたパンと鵞鳥の報酬に視線をやった。神官たちは、確かに満足した。その報酬を寄越した。だが同時に、忌むべきものと通じたシェブカイを"災い"の一部と看做したようだった。
 「僕はもう、あそこへ近づいちゃダメなんだろ」
セアンクは葦ペンを止め、拗ねたような息子の横顔を見た。
 「これじゃ、何にも徳することないじゃないか…」
 「ああいうお偉方は、縁起というものを気にするんだ。今だけだ、あの葬祭殿が完成するまでの間だよ。」
 「僕の事だけじゃないよ。彼のこともだ」
 「…彼? あの悪霊のことか?」
セアンクはため息をつき、頭をかく。「あれは…危険なものだ。お前だって分かっているだろう? 夜間で弱まっていたとはいえ、太陽神の祝福を破って王の建設現場に入り込んでくるようなものだ。お前がどんなふうにあれを見つけたのかは知らんが、不要に入れ上げると、命をとられるかもしれんぞ」
 「そんなことしないよ」
腹をたてて勢いよく立ち上がってから、シェヘブカイは、セアンクの膝に気づいて声を落とした。
 「…父さんに怪我させて、村の人を殺したものだってとは…わかってるけど…。」
それきり、次の言葉が出てこず、少年はくるりと背を向けて鼻をすすった。「夕飯まで散歩してくる」
 家を出ようとしたとき、ちょうど戻ってきたばかりのメンケペルとすれ違う。兄は無言で弟を避け、シェヘブカイも、何も言わずに兄を避けて足早に通り過ぎた。日は傾き始め、建設現場に出かけていた村人たちが三々五々、家路を辿っている。今はまだ人通りのある川べりの道は、夕日が傾く頃になると途端に閑散とし、誰も水辺には近づかなくなる。闇を恐れないのは、シェヘブカイだけだ。葬祭殿を襲った"災い"、黒い影が彼だけは襲わないことを、村人たちはもう知っている。

 "悪霊と契約したのだ"

そんな恐ろしい噂まで聞こえてくる。今日もすれ違う村人たちがひそひそ言う言葉に聞こえないふりをしながら、シェヘブカイは、かつてアメンティが座っていた木陰に来ていた。そこにはまだ、濃い緑の中に良い香りのする花が咲いている。割れた石像の欠片のあったあたりに腰を下ろし、そっと木に背をもたせ掛けると、穏やかな水の流れが見渡せた。軽く目を閉じると、緑の息吹に包まれているように感じられる心地よい木陰。

 信じたい。

初めて会った時は、おたまじゃくしを邪魔したことを気に掛けていた。ここにいてもいいのかと聞いた、寂しそうな顔。それに、悪いものなら、こんなに綺麗な花を咲かせたりしない。
 (アメンティは、悪霊なんかじゃない…)
形だけは左目を取り戻しても、彼はまだ、片目のままだった。彷徨っている影を取り戻すには、まだ何かかが足りないのだ。花の香りに包まれながら、シェヘブカイは自分のなすべきことを心に決めた。
 どうせ、葬祭殿の建設現場での仕事にはもう出られない。時間はたっぷりある。


 翌朝、日が昇ると同時に彼は起き出した。
 「あら、どうしたの。今日は早いのね」
 「うん、ちょっとね」
イティが驚いている横からパンきれをさらって咥え、さらにいくつかのパンをまとめて包みに放り込む。
 「今日、帰らないから」
 「えっ? どこに泊まるの」
 「ひみつ。」
包みを小脇に抱え、納屋から幾つかの道具を引っ張り出して葦舟に積み込む。早く起き出したのは、父や兄に見つかって余計なことを聞かれたくなかったからだ。流れに竿を差し込むと、川を渡る冷たい夜明けの風が体を包み込んだ。白み始めた東の空が、やがて赤く染まって世界から闇を取り払ってゆく。この世界の中で、彷徨える左眼はどこかにきっと居る。だが、探し出すには川べりは広すぎるし、見つけたところで何も出来ない。
 向かう先は、昨日アメンティを送っていった沼地の土手だった。昨日と同じように途中の岸辺に葦舟をつなぎ、荷物を抱えて枯れた葦の間を歩いていく。土手の上に築かれた日干し煉瓦の祠は、朝日を浴びて、まるで物置小屋のようにみすぼらしく見えた。
 アメンティは、その祠に寄りかかるようにして眠っていた。畑の端の木陰でそうしていたように、両足を投げ出して、ぱっと見は行き倒れだ。
 「やっぱり…」
シェヘブカイはため息をつき、荷物を下ろして両手で青年の体をゆさぶった。
 「起きて」
 「…ん」
白い瞼が、薄く開く。
 「…なんだ、また来たのか」
 「なんだ、じゃなくてさ。だからこんなとこで寝たら駄目だって。せめて屋根のあるところで寝ようよ」
アメンティは、小さく笑った。
 「人間は、おかしなことにこだわるものだ。」
 「そう、こだわるの。…ていうか、まだ前の木陰のほうがマシだったよ。このへん、木とかないの?」
シェヘブカイは、周囲を見回し、一群のナツメヤシの木が生えている一角を見つけた。「あ、あそこにあるじゃん」
 「…あそこは、畑になっている」
と、アメンティ。
 「そうなの?」
よく見れば確かに、そのヤシは実をとるために植えられたもののようだった。奥のほうには、水を引き込む水路と小さな畑があり、作物が育っている。
 「畑の隣なら空いてるんじゃないかな。頼んできてみるよ」
そう言うと、彼は、アメンティの返事も聞かずに駆け出した。
 ヤシの木の向こうにある農家は、一軒だけぽつんと建っていた。ほとんど手付かずに見えるこの辺りで唯一、畑のあたりだけは人の手によって開墾されたような跡がある。家の前にはちょうど、牛の乳を搾っている少女がいた。先に気づいたのは少女のほうだった。駆けてくるシェヘブカイを見て、警戒もあらわにさっと立ち上がる。
 「あの、すいません。ここの家の人?」
 「そうだけど、何。」
少女は、きつい口調で突き放すように答えた。肩先で切りそろえた髪に、すりきれた布を何度も修繕した粗末な服。年のころはシェヘブカイと同じくらいに見える。
 「あのさ、この家の畑って、あの木のところまで? その隣って、使ってもいい?」
 「使うって何よ」
 「家を建てたいんだ。あ、えっと。僕のじゃなくて…、さいきん土手の上に祠、出来たでしょ? あれを移動させたいんだ」
 「は?」
 「あそこじゃだめなんだ。日陰がないからさ」
 「…あんた、何言ってるの?」
 「だから…」
 「ちょっと待って。そういう話なら父さんに直接話してよ。あたし分かんない。父さん、――父さん?」
少女は家の中へ駆け込んでいく。シェヘブカイは、ちらりと残された牛のほうを見た。重たい乳を垂らした雌牛は、放っておかれて不満げにモーゥと声を上げる。にやりと笑って、彼は牛の湿った鼻先をちょいちょいと撫でてやる。それで、雌牛は機嫌を直したようだった。
 しばらく牛を撫でながら待っていると、家の中から、前掛けをした厳つい男が出てきた。
 「あんたか、妙なことを言ってきたってのは」
 「あ、はい。すいません、木陰を使わせてもらえないかと思って」
 「木の向こうから構わんがよ。なんだってワニの祠をあそこに建てたいんだね」
 「ワニ?」
 「ああ、ありゃあ、大ワニ様っつってよ。うちのひい爺さんくらいの時代に祀ったものらしいんだが。」
男はそう言って、ごわごわした顎髭をしごいた。「つってもまあ、しばらく誰も見てなかったんだけども。こないだ、王様の使いだかなんだかが来た時ぁ、びっくりしたもんさ…。」
 その男、レニセネブは元々の祠と、石像が作られた経緯(いきさつ)を話してくれた。
 この沼地、単に水<パヨム>と呼ばれた沼地には、かつて年経た巨大な白い鰐が棲んでいた。おそらく百年はくだらない歳月を生きてきたと思われるその鰐は仲間の鰐たちでさえ恐れ、いつしか地元の人々は、その像を作って祠に置くまでになった。
 しかし五十年ほど前から、沼地に流れ込む水は次第に流れを変えていった。川の水位があまり上がらなくなり、かつて流れの届いていた場所に畑が作れなくなった。変わりに、かつては家を建てられていた場所の水が引かなくなり、一年中、じくじくとしたぬかるみに沈むようになってしまった。
 やがて、かつては川の増水とともに沼地にやってきていた魚たちもこのあたりからはいなくなり、沼地のへりに畑を作っていた住人たちは、この地を去ってもっと奥地の、川からの支流が流れ込んで湖をつくるあたりに新たな村を作って住むようになった。元の場所に残ったのは、沼地と川が繋がる支流に近い場所に住んでいた、レニセネブの一家くらいだった。
 「だからまあ、あれの由来を知ってるのは、ここらじゃうちだけなんだ。それで王様の使いだかが、あそこに祠建ててったんだけどよ、元はもっと沼の奥にあったはずだし、ここに建てられても困るんだがね」
 「そうなんですか」
シェヘブカイは困ったように頭をかいた。
 「元々このへんにあったと思ってたから、近くがいいかなって思ったんだけど…。ほかにこの辺りで、木が生えてるところはあるかなあ」
 「さあね。そういうのは、うちの娘のほうが良く知ってるだろう。娘のティティス、さっきここで乳搾ってたやつだ。仕事が終わったら、適当に声かけてみな。」
レニセネブの家を後に、シェヘブカイは一度、祠まで戻った。アメンティは相変わらず祠の側に寝そべっている。その姿は、何をするでもなく岸辺でくつろいでいたごく普通の鰐たちの姿と、確かに重なるところがある。
 「大鰐かあ。言われると、そうも見えるなあ」
 「知らなかったのか」
本人は、意外そうだ。
 「だって、最初から人間の姿にしか見えなかったんだから。」
アメンティは、ちょっと首を傾げた。
 「そういえば、シェヘブカイはどうして私をこの姿にしたんだ」
 「どうしてって?」
 「人間に見えたにしても、子供や年寄りではなかったのだろう。」
 「うーん…」
彼は考え込んだ。「白いものが見えて、最初は幽霊かとも思ったんだ。でも…なんでかな、若いっていうか…兄さんくらいの年齢だって思ったんだよ。でも、本当はすごい年寄りだったんだね。」
 「そう、年寄りだ。ずいぶん長く生きたな」
アメンティが言い、シェヘブカイはにやりと笑った。
 「それじゃ、あんまり動かないのも仕方ないね。」
 「そうだな」
眼を閉じて、元通り横になる。だが正体を聞いてもシェヘブカイには今までどおり人間の姿にしか見えないから、やっぱり、行き倒れか、昼間からだらだらしている職なしの無宿者のように見えてしまう。
 「お腹すいてない? また魚獲ってこようか」
 「…この辺りはもう、あまり魚はいない」右眼をうっすらと開いて、アメンティが言った。「今の季節は、水が干上がっている。昔はいつでも、この辺りまでは水があったんだが」
 「らしいね、さっきそこの家の人にも言われたよ。流れが変わったって」
シェヘブカイは、網を手に土手の下に降りてみた。水位の下がるこの季節、沼地の大半が干上がっている。居そうな魚といえば泥に住むナマズかハイギョくらいのものだ。しかし水が来ないわけでは無い。水位が最も上がる季節には、ここも水が満たされるはずだ。その証拠に、土手の半ばまでは、川の運ぶ黒土の色が染み付いていた。
 (勿体無いな)
黒い水に満たされた土地は、水が引いたあと、生命を育む力を得る。水位の下がる季節もここまで水を引き込めるようにすれば、このあたりは昔どおり耕地に、あるいは漁場になるかもしれない。川の水が届かなくなったのは、川の本流が移動して遠くなったからか、流れ込む支流の口が長年の間に土で埋まってしまったかしたに違いない。それなら水路を作ればいいだけのはずだ。
 "水は土を運び、土地を作る"。
水の流れを管理することが、土地を管理することに繋がる。葬祭殿に石を運び込む水路を作るとき、父や先輩技師たちから教わったことだ。
 そんなことを考えながら、浅い水の中を歩き回っていたとき、頭上から呆れたような声が降って来た。
 「あんた、何やってんの?」
振り返ると、土手の上で腰に手を当てて、さっきの少女――ティティスが、こちらを見下ろしていた。
 「魚、いないかなって」
 「いるわけないでしょ? 魚獲るなら川のほうか、奥の湖まで行かないと。ここは乾いた泥ばっかりよ。」
 「そうみたいだね」
シェヘブカイが土手を一気に駆け上がると、少女は一歩、後退った。何故か視線を逸らしている。
 「…父さんが、あんたがなんか聞きたいことあるって言うから」
 「うん、この辺を案内してほしいんだ。アメンティの家をどこに建てたらいいか、探そうと思って。」
 「アメンティ?」
 「そ。僕がつけた名前なんだけどね。」
肩に網を担いだまま、シェヘブカイは土手の上を歩き出す。夏にはまだ遠いとはいえ、昼の日差しは、すでに肌をちりちりと焼くほどに暑い。日陰のほとんどない葬祭殿の建設現場は、今頃ひどい暑さに違いない。
 「彼が元いた場所が分かればいいんだけどなあ」
 「それを探して、祠を建て直そうっていうの? なんで? あんたお役人か何かなの? 王様に命令されたから?」
シェヘブカイは、笑って首を振った。 「そういうんじゃないよ。たださ、成り行き、みたいなもんかな…」」
歩いてゆく沼地の縁には、かつての水の跡が黒く残っているほか、集落や畑の跡らしきものも、うっすらと残されていた。ひび割れた泥の上に日干し煉瓦の欠片が散らばり、枯れた葦が覆いかぶさっている。
 「昔はここらに村があったらしいけどね。今はご覧のとおり」
シェヘブカイの視線に気づいて、少女が言う。
 「水が流れ込むようにすれば、今でも畑が作れるよ」
 「はあ? 何言ってるの? そんなこと――」
言いかけて、ティティスは口をつぐんだ。生き生きとした少年の黒い瞳は、誰の意見も求めていない。ただ、すでに決めた何かのために必要なことだけを考えている。
 「…あんたってほんと、頭おかしいわ。絶対、なんか変」
 「かもね。――あ、あそこ」
 「ああ、ちょっと!」
突然駆け出した少年に置いてきぼりにされ、ティティスは慌てて後を追った。行く手に、葦の生い茂る窪地があり、数本のひょろりとしたヤシの木が木陰を作っているのが見えてきた。
 「ここだ」
シェヘブカイは、目を輝かせて窪地のほとりにしゃがみこんだ。手で地面の土をならし、白っぽい石の破片を拾い上げる。
 「…何なの?」
ティティスは眉をしかめて足元を眺めている。
 「ほら、これ、石像の破片だよ。それにこの辺りだけ地面が平らで、固められてる。元はここに建物があったんだ。それも、ちゃんとした造りのね」
 「…分からないわよ、そんなの。あんた、よく分かるのね」
 「建物建てるところは、何度も見てきた」
立ち上がって、彼は周囲を見回した。
 「へこんでるところは、池にすればちょうどいいな。沼地に出て行けるし。よし、ここにしよう。ねえ」
 「何よ」
 「ここいらは、もう誰も住んでないし、家を建てても問題ないよね?」
 「そりゃ、無いと思うけど、でもこんな――」
 「うーん、石はムリだし、日干し煉瓦積むしかないかー。ま、いいか。泥は沢山あるし」
 「ちょっと、あんた。聞いてる? ねえ、本気なの?」
ティティスは呆れた表情だ。「こんな何もないとこに建てるの? 一人で?」
 シェヘブカイは笑って答えた。
 「一度、ひとりで家を建ててみたかったんだ。いつも誰かの手伝いばっかりだったから」
少女は心底呆れた様子で、それ以上もう何も言わなかった。ただ一方のシェヘブカイだけは、これから始まるたった一人の挑戦の日々に、胸を躍らせていたのだった。


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