■第一章/彷徨える水辺-6


 部屋に戻って寝台の上でごろごろしているうちに、いつしか眠ってしまっていたらしい。階下の物音で目を覚ましたとき、部屋の中は薄暗がりに包まれていた。階段を下りていくと、台所に明かりが見えた。
 「母さん」
かまどの前で火種を起こしていたイティが振り返って微笑む。
 「起きたの? おなか、すいてない?」
 「あんまり。」
 「そう」
ぐっすり眠っていたらしく、もう、夜になっていた。月が昇っている。満月に近い。そのせいで、外が妙に明るいのだ。 
 「…父さんと兄さんは?」
 「建築現場に残るって。壊れたところの測量がまだ終わらないみたいなのよ。換えの石の切り出しを早く手配しないといけないから…って」
 「危なくないのかな」
 「月が出てるからね。明るい晩は大丈夫だって。」
シェヘブカイは、そっと勝手口を開けて外を見回した。冷たい夜気が体を包み込む。銀に輝く月が空にあり、畑との間の畦道もはっきり見える。
 ふわりと、花の香りが届いた。それとともに、昼間抱いた疑念がよみがえってくる。
 「母さん」
 「ん?」
 「ちょっと、そこまで行ってくる」
 「ええ? 行って来るって、もう夜なのに――」
母の声が遠ざかってゆく。月明かりの道、影が足元にはっきりと落ちている。川べりの茂みから響いて来るのは虫の声。時折、魚のはねる水音も。暗い影が落ちる木陰に咲いている花が、ぼんやりと白く浮かび上がっている。
 いない。
 近づくまでもなく、小屋の中が空なのは見て取れる。アメンティは、どこに?
 ぱしゃん、と水音がした。振り返ると、川の流れの中ほどに、浮きつ沈みつしている白い頭が見えた。ゆらゆらと水草のように広がっている白い髪。眺めていると、それは振り返って、波間を滑るようにこちらへ近づいて来る。と思ったら、あっという間に岸辺にたどり着き、ほとんど水音もたてずに立ち上がった。
 「どうした」
 「え、いや…。」
一歩あとすさりながら、シェヘブカイは青年を見上げた。背が高い。たぶん父よりも、頭二つ分くらい。その高いところから、水滴が雨粒のように降って来る。
 「意外と大きかったんだね。ずっと寝てるから、気がつかなかった」
 「ふむ」
見えるほうの目にかかった髪を搔き揚げながら、アメンティは、元いた木陰のほうへ戻っていく。シェヘブカイも、後ろに続いた。
 「どうかしたのか」
 「いや夜って…どうしてるのかなって思ったから」
 「人間は、夜は寝るんだったな」
 「うん」
元の木陰に腰を下ろす。
 「なんで、夜、泳ぐの?」
 「…涼しいから」
 「そんな理由?」
呆れた顔をしつつ、だが、シェヘブカイは、どこかほっとしていた。良かった、昼間のままだ。一体、自分は何を恐れていたのだろう。
 「ごめん、ちょっと様子見に来ただけ。そろそろ戻らなきゃ。じゃ」
立ち上がって数歩歩いてから振り返ってみると、アメンティは、どこか遠くを見つめていた。静かで、何故かとても寂しげな横顔。
 ああ、そうか、とシェヘブカイは思った。
 最初に見たのも、この顔だった。どうしてか放っておけない気がしたのは、かつてこの川辺で拾った子猫と同じだったからだ。それは、行く場所を失い、一人ぼっちで世界に取り残された者の顔。心を闇に閉ざされてゆこうとしている諦めの表情。だから――。
 (何で疑ったりしたんだろう)
シェヘブカイは、心の中で詫びた。こんな顔をするものが、"災いの主"であるはずはないのに。
 どこかで、かえるの鳴き交わす声がする。仲間たちとの夜を楽しむ声だ。どこかに、ジェドもいるのだろうか。
 風は弱く、世界は明るい。
 家路を急ぐ足元に、花の香りがうっすらと絡みついていた。


 荒っぽい物音と、体を摺り寄せてくる猫の感触で目を覚ました。
 「ん…何…」
おぼろげな意識の片隅に、声と音が響いて来る。階下で、誰かが騒いでいるようだ。窓の隙間はうっすらと白い。明け方だろうか。
 「水を…」
 「あなた、しっかりして。あなた」
イティの取り乱した声。眠気が一気に吹き飛んだ。
 「父さん?!」
賭け布を蹴飛ばして廊下に飛び出し、階段を駆け下りる。開けはなされた扉の前に、たった今運び込まれたらしい父が、血まみれの足を抑えて青ざめた顔で横たわっている。膝の辺りに大きな裂傷が見え、シェヘブカイは思わず目を逸らした。
 「――添え木を。大丈夫、死にゃせん。傷口を縫合するんだ、早く」
 「ああ、どうしてこんな、こんな…」
 「落ち着いて、母さん。水を汲んでくるんだ」
兄のメンケペルが、イティの肩を抱いている。普段、父にも弟にも向けたことのない優しい声だ。見たところ、こちらは傷は負っていない。ほっとして声をかけようとしたとき、メンケペルのほうが先に気づいて、急に不機嫌な顔になって怒鳴った。
 「お前もだ。ぼっとしてないで、ありったけ布もってこい」
 「う、うん。」
慌てて、二階に駆け戻る。風に乗って、血とすすり泣きがそこらじゅうから聞こえてくる。背筋に冷たいものを感じて、シェヘブカイはおそるおそる、二階の部屋の窓を開いてみた。
 川の向こう、地平線はまだ白み始めたばかりで、朝日は姿を見せていない。
 家の前の道を、布で覆った担架を掲げて啜り泣きながら通り過ぎてゆく行列がある。
 (まさか…死者が…?)
窓枠をつかんだ手が震えた。明るく月の輝く夜は、大丈夫だと聞いていたのに。今まで、怪我人が出ることはあっても死者など出なかったのに。
 布を抱えて階下に戻ると、すり潰した薬草の匂いがつんと鼻をついた。呼ばれてきた医師が、てきぱきと傷口を縫合している。父は、顔を歪めながら歯を食いしばっている。見ているだけで、こっちまで辛くなってくる、
 肩に手が置かれて、シェヘブカイは我に返った。顔を上げると、父の同僚が力なく微笑んでいた。
 「そこに置いて、母ちゃんの手伝いに行きな。子供が見てるには、辛いだろ」
 「……。」
言われたとおり、抱えた布の束を近くの椅子の上に置きながら、彼は訊ねた。
 「なんで、こんなことに…?」
 「わからん、一瞬だよ。月が沈んだ、夜明け前のほんの一瞬。もうほとんど明るくなってたってのに、あいつは…。」
 「シェヘブカイ」
痛みに耐え、押し殺した声でセアンクが言った。「奴は川から来た。間違いない、押し倒されて――物凄い力だった…」
 「セアンク、無理するな。」
 「お前なら見つけられると、神官様たちは言ってる。頼むぞ――」
シェヘブカイは、くるりと背を向けて、奥の勝手口に向かって走り出した。ちょうど、壷を抱えて川から戻ってきたイティたちとすれ違う。
 「きゃ、ちょっと。どうしたの」
ぶつかりそうになったのを謝る余裕もなく、川のほうに向かって走ってゆく少年の後姿を、メンケペルはふんと鼻を鳴らして見送った。
 「大方、血を見て動転したんじゃないのか。役に立たないやつだな」
 「……。」
少年の駆け去ったあとから、両脇を抱えられた村人がまた一人、よろめきながら帰ってくる。頭に傷を負ったらしく、額に血の滲む包帯をきつく巻いてあった。 
 「何人、怪我をしたの」
 「…三十人、数えられただけで。死者が二人。それだけじゃ済まないかもしれない。人が水の中に引きずりこまれるのを見たって話もある」
 「そんなに…?」
 「油断してた。月の明るい晩だったし、大事な柱をやられて焦ってたのもね。本当は夜に作業なんてしてはいけなかった」
イティは、ため息をついて首を振った。 
 「でも良かったわ、そんな中で、あなただけでも無事で。」
メンケペルは肩をすくめる。
 「たまたま、書類整理してたお陰でね。」
床に置いた壷の中で冷たい水がゆれ、飛沫が一滴、足元に落ちる。土に染みこんでじわりと広がる水の暗い染みは、村の上を覆う不安を映し出しているかのようだった。


 何をしているのだろう。
 走りながら、シェヘブカイは混乱していた。分からない。どうして、こっちへ向かっているのだろう。花の匂い。川辺の水の匂い。川から立ち上る朝もやがうっすらと世界を覆い、薄曇の向こうに、赤い太陽の輪郭が見えている。
 白い青年は、昨日最後に見た時と同じ格好で、相変わらず眠っているのか起きているのかわからない様子で、木陰に座っていた。
 「アメンティ…」
無言に顔を上げる。シェヘブカイは、崩れるようにその傍らに膝を落とした。
 「どうしたらいいんだ。僕には無理だよ…わかんないよ…」
 「無理? 何が」
 「父さんが怪我したんだ、昨夜。」
涙が溢れ出して、次から次へと膝に落ちる。
 「川から来たものに襲われたって。葬祭殿を襲ってるやつを探さなきゃならないんだ、でもどうすればいいのかもわかんない。出来っこないよ…」
涙を拭ったとき、ふと、シェヘブカイは、アメンティの白い肌についている擦り傷のようなものに気がついた。 
 「それ…どうしたの…?」
足と、腕のあたりに微かな傷が、昨夜ここで見た時はそんなものは無かったはずだ。
 「昨日、あれからどこか行ったの?」
 「……。」
青年は、何も答えずにふいと顔を逸らした。白い髪が揺れ、空の眼窩が一瞬だけあらわになる。
 どうして、何も言わないのだろう。 
 どうして、そんな寂しそうな顔をするのだろう。
 「…信じられるか?」
アメンティは、唐突に言った。
 「えっ?」
 「私を信じてくれるか」
金色の瞳が、少年を見つめてくる。不思議な色、見ていると呑まれそうになる輝き。人のものとは違う。だが、――怖くはない。不安げで、むしろ見つめているだけでこちらが悲しくなってくるようだ。
 「うん」
考えるより早く、彼は自然と頷いていた。「信じるよ」
 言った次の瞬間、ひやりとする感触が、彼の手に触れた。
 白い腕が伸びてシェヘブカイの手を摑み、中に何かを押し込んだのだ。手を開いてみると、そこに青黒い丸い石がひとつ、載っていた。
 「……これ」
顔を上げると、悲しげに微笑むアメンティの姿があった。
 何も言わなくても、分かる。
 最初にこの場所で見つけた、砕かれた石像の欠片にあるべき象嵌の瞳は、抜け落ちて無くなっていた。そして、欠片の目は、右眼だった。
 手を握り締め、シェヘブカイは小さく頷いて立ち上がった。
 「分かった。行ってくるよ」
 「……。」
何か言ったような気がしたが、その言葉は聞き取れなかった。白い青年はひとつ大きく息をついて木に体をもたせ掛けた。ひどく疲れているようにも見えた。薄雲の切れ間から、太陽の光が岸辺に届く。朝日が、哀しみに包まれた村の上を照らしてゆく。
 だが、それでも王は、建設を中止にするとは言わなかった。
 遅れている計画を進めるため、働ける者は出勤するようにとのお触れが出され、その日も、葬祭殿の建設は決して止まることはなかったのだった。


 そして、夜がやって来た。


 日が暮れかかる頃、シェヘブカイは人気の無くなった建設現場に来ていた。
 ここへ来るのは何日かぶりだ。労働者たちは災いを恐れて早々に引き上げたらしく、辺りには運びかけの石や、片付け忘れた道具が散乱したままになっている。宿舎の入り口には早くも火が焚かれ、物々しい警備がそこかしこに立っていた。
 丘の上を見上げれば、一番外側の柱が大きく傾いているのが見えた。川から上がってきた"何か"は、あんなところまで坂道を駆け上がって、柱を壊したのだ。シェヘブカイが最後にこの建設現場に出勤したときよりも、工事は明らかに後退している。それだけ被害を受けて、やり直しの箇所が増えたのだろう。
 「おい、お前」
坂道のほうへ歩いていくシェヘブカイを、巡回の兵が呼び止める。「日が暮れる前に家に帰れといわれただろう」
 「"災いの主"に会いに来たんです」
 「何?」
 「神官様たちに、"災いの主"を探せという任を受けていて。」
 「ああ…建築監督の息子か。何か分かったのか」
 「たぶん」
シェヘブカイは、曖昧に答えて歩き続けた。目指すのは、丘の上だ。きっと今夜も、"それ"はやって来る。
 折れた大列柱の側に腰を下ろして、シェヘブカイは腰に下げた袋に手をやった。石はそこにある。不安はあった。だが、「信じる」と言った以上、信じるしかない。
 夜が迫ってくる。闇が丘を包み込み、月明かりが柱と一緒に梁石の落ちた隙間から斜めに差し込んで、刻まれている途中の壁の浮き彫りを、柱の飾りを浮かび上がらせる。シェへブカイは目を見開いて、それらの美しさに見惚れた。不安も恐怖も溶けて無くなって行く。彼はしばし、ここへ来た目的を忘れた。
 柱頭を飾る瑞々しい葦の束、柱を囲む均整の取れた祝福の呪文。彩色された天井には翼を広げた鳥と空がある。ここに描かれつつあるのは、世界そのものだ。これを設計し、実際に作らせているのは、父や、ほかの建築監督たちなのだ。自分も、いつかこんな風に――、いつか…。
 気がつくと、いつしか月の光は消えかかっていた。振り返ると、川向こうにうっすらと闇の薄れつつあるのが見えた。
 日の出まで、あと数時間。月は沈む。そして完全な静寂と、ひとときの闇が訪れる。
 川岸で、何かがうごめいた。
 「出た! いたぞ!」
鋭い声が響き渡り、宿直の兵が走り出した。うとうとしかかっていた見張りも飛び起きて、あわてて警鐘を打ち鳴らす。丘に続く斜面の一番上に立つシェヘブカイからは、それが、丘を目指して一直線に走ってくることがはっきりと分かった。
 心臓が高鳴る。 
 「そっちだ! 網をかけ――」
 「罠を――」
 「駄目だ、止められない!」
阻止しようと立ちはだかる兵を次々となぎ倒し、荒々しく突進してくるそれを、シェヘブカイははからずも正面から迎え撃つ格好になった。闇をそのまま固まりにしたような、黒くて巨大な平たい何か。猛烈な勢いで坂道を駆け上がってくる。
 「う、うわ」
恐怖のあまり足がすくんで、動けなかった。それは、大きく口を開きながらシェヘブカイの上にのしかかってくる。だが、堅く目を閉じた次の瞬間、体の上にのしかかっていた重みが、すうっと引いた。
 地面の上にぺたりと尻をついたまま、彼はおそるおそる目を開き、黒い塊に目を凝らした。四足で、地面を這うもの。目がある。ただし一つだけ。それは、――全身から立ち上る激しい怒りを痛いほど感じるのに、燃え立つ炎のようなゆらめきに輝くその眸は――どこか寂しげで、どこか、…似ていた。
 「……あの」
シェヘブカイは、ようやく、声を絞り出した。
 「教えてほしいんだ。何に怒っているのか、…どうして、この葬祭殿を襲うのか」
それは、ふいと向きを変えると、シェヘブカイの側を通り過ぎて葬祭殿の壁に向かった。そこは昨夜、柱が引き倒されたばかりの場所で、壁も崩れかけている。闇の塊が長い尾を叩きつけると、どん、重たい音がして、壁を形作る石に亀裂が入った。続けざまに何度か同じ場所に尾を叩きつけるうち、石は崩れた。
 影は、振り返ると、シェヘブカイに向かって何か言いたげに口を開いた。 
 「そこに、…何か、あるの?」
ばたばたと足音が近づいて来る。
 「いたぞ、あそこだ!」
巡回の兵士たちが追いついてきたのだ。
 「おい、子供! 早くそこから離れろ。そいつは――」
 「待って!」
慌てて、シェヘブカイは立ち上がって両者の間に割って入った。
 「武器はしまって。大丈夫、もう何もしないから。そこを通してあげて、…帰るから」
 「何?」
 「ね」
シェヘブカイの言うとおりだった。黒い影は静かに歩き出し、少年の側を通り過ぎ、警戒している兵士たちの傍らも素通りして、坂道を降りると、やがてその姿は元来た川のほうへと消えて行った。
 振り返ると、さっき影が尾を叩きつけていた場所の壁が壊れて、いくつかの石が地面に転がり落ちているのが見えた。駆け寄って、シェヘブカイはそのうちの一つをひっくり返した。
 「誰か、灯りを!」
松明を掲げた一人の兵士が近づいて、足元を照らす。
 「何だ? 一体――」
それは、神殿の外壁に使われている艶やかな石とは違う、黒ずんだ、重たい石の欠片だった。別の何かに使われていたものを転用して壁の中の積め石に使ったのだ。乱暴に砕かれた端のほうは不恰好な角を作り、表面の元々磨かれていたと思えるあたりには、切れ長の目の形が一つ。
 周囲がざわめいた。
 「石像? どうしてこんなところに…」
 「目だと… まさか、呪いの原因は…」
 「左眼だ」
呟いて、シェヘブカイは白み始めた東の空の下に広がる暗い川面に視線をやった。
 だとしたら、あれはやはりアメンティの、失った半分なのだ。


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