■第一章/彷徨える水辺-5


 翌朝、誰かの激しく戸を叩く音で目を覚ましたのは、まだ夜も明けきらない頃だった。
 家族の中で一番早く目覚める母でさえ、まだ床を離れていない頃だ。
 「はあい、どなた…?」
戸を開けた母が来客とやりとりする声で、シェヘブカイも目を覚ました。部屋の中が、やけにほこりっぽい。どんなに窓を閉ざしていても、砂嵐はほんの僅かな隙間から砂漠の砂を運んでくる。
 裸足のまま窓を開くと、すぐ下の玄関には既に父がいて、慌てた様子の来客を迎えているところだった。建設現場で労働者として働く、近くの村の住人だ。よほど急いで走ってきたらしく、大粒の汗を浮かべている。
 「それで…昨夜の怪我人は」
セアンクの堅い声。
 「夜警が三人。それと泊りがけの労働者が十人ほど…宿舎が襲われたので…。幸い命に別状はないですが…仕上げの最中だった大列柱がやられました」
 「なんだと」
声が険しくなるのが分かった。シェヘブカイも眉を寄せた。また、葬祭殿が荒らされたのだ。ここ最近は少し落ち着いてきていたのに…。
 「柱の損害は、酷いのか」
 「真っ二つで…。来てください、とにかく早く。支えていた梁の石も落ちて…」
声が小さくなり、会話は聞き取れなくなった。セアンクはイティと何かやり取りしたあと、報せを運んで来た村人と一緒になって葬祭殿のほうへ駆け出してゆく。シェヘブカイも、慌ててサンダルを引っ掛けて廊下に飛び出す。
 「どこへ行くんだ?」
階段を駆け下りようとしたところで、兄のメンケペルに呼び止められた。今、起きてきたばかりのようだが、仕事に行く時の格好をしている。
 「まさか、被害を見に行こうなんて思っていないだろうな。」
 「もちろん、そうだよ」
 「お前は来るな」
ぐい、とシェヘブカイの肩を摑み、メンケペルは乱暴に階段の前から押しやった。「子供のうろちょろするところじゃない」
 「だけど…」
 「任を果たすまでは戻るなと言われたんじゃなかったのか?」
じろりと睨まれて、シェヘブカイは口を閉ざした。その間に、メンケペルはさっさと父の後を追って行ってしまう。出鼻をくじかれ、しょんぼりしながら台所に下りていくと、イティが困ったように微笑んだ。
 「仕方ないわよ。あなたが行っても何も出来ないでしょ」
 「うん…。」
食卓の椅子に腰を下ろすと、猫がおそるおそる近づいてきて、ふんふんと足元を嗅ぎまわる。
 「なんだよ。今日は、お前の分もちゃんと獲ってきてやるから」
 「昨日のぶんは誰にあげちゃったのかしらねえ?」
イティは意味ありげに笑いながら、絞りたてのヤギの乳と固焼きパンを食卓に置いた。
 「今日も魚獲りにいくのね」
 「…だって、ほかにすることないし」
 「ふーん」
母の感は鋭い。今、何か聞かれたら、きっとボロを出すに違いない。明後日の方向に視線を向けてどう誤魔化そうかと思案に暮れていたシェヘブカイは、ふと、台所の外に見える奇妙なものに気が付いた。
 「母さん、あれ何」
 「あれって?」
表玄関とは反対側のほう――開け放された勝手口の外、家と川べりの間の畦道に、黒く長い、土の捲れたような跡がある。昨日は、こんな跡は無かった。
 「あらやだ、何かしらね。誰か丸太でも引きずった?」
イティは頬に手を当てながら、途切れ途切れに続く跡を眺めた。それは葦の生い茂る川のほうから続いて、畑の向こうに消えている。
 嫌な予感がした。


 朝食もそこそこに、網と魚篭を担いだまま、シェヘブカイは川べりの木陰にやって来た。昨日作った急ごしらえの小屋はそのまま、覗き込むと、白い体が横たわっているのが見えた。ほっとして、彼は肩にかけていた網を草の上に下ろした。その気配に気づいて、アメンティはゆっくりと目を開ける。
 「やあ」
 「おはよ、昨夜はなんとも無かった? なんか、大きなものがこの辺りを這ってたみたいな跡があったから」
 「……。」
金色の右眼は、どこか遠いところを見ている。何か考えているようだった。
 と、その時、ぴょん、と水の中からかえるが陸に飛び上がった。
 「あーあー、来たな人間! お前、一体何したんでえ」
 「何、って?」
 「旦那がでっかくなっちまった!」
 「…でっかく?」
シェヘブカイは、相変わらずぼんやりした様子で木にもたれかかったままの白い青年を見やった。
 「どこも変わってないように見えるけど」
 「ああん? お前の目は節穴かっ。どう見たって――」
 「たぶん」と、割り込むようにアメンティが口を開いた。「見えてるものが違う」
 「そうそう、見えてるものが――ええっ?」
かえるは大きく何度か喉を膨らませ、シェヘブカイとアメンティとを見比べた。「そういうもんなんで?」
 「彼は人間だからな。人間は見え方が違う。シェヘブカイ、ここにいる私はどう見えている?」
 「あ、えーっと…」
初めて名を呼ばれたな、と思いながら、少年は、目の前にあるものを告げた。
 「真っ白で、すごく綺麗な……僕の兄さんくらいの年の人間の男の人に見えてるよ。」
 「なんと。人間? ああ、うむむ。そう言われると、…そうも見えて…くる…が」
アメンティは、小さく頷く。
 「だろうと。」
 「むしろ、かえるにはどう見えるんだよ」
 「そりゃあお前、何でもない何かさ。かえるじゃないのは確かだ。だが水に棲むどの生き物とも違う。ああ、――でも、確かに人間にも見えなくも無い――なんてこった!」
 「今からは、そう見える。彼が姿をくれた。名前もね」
シェヘブカイは、頬をかきながら困り顔を双方に向けた。
 「あの、僕、何か悪いことした?」
 「そういうわけではない。」
 「そういえば、今日はよく喋るね。眠くならないみたいだし」
 「久しぶりに食事をしたからな…」
木の幹に頭をもたせかけながら、アメンティは言った。昨夜の砂嵐は嘘のように、空は澄み、風は穏やかに草を揺らしている。そういえば、とシェヘブカイは気がついた。小屋の周囲の草は前より生き生きとして、咲いている花も増えている気がする。まるで、この周囲だけ、特別に春の気配が濃くなったようだ。
 「腹減ってるなら、早く言ってくれればいいのにさ。やっぱ魚がいいの? 今日も獲ってくるけど」
 「そんなには必要ない」
目を閉じながら、くぐもった声で言う。
 「もう十分だ。あとは自分のものにするといい」
 「…そっか」
さわさわと、草が揺れる。村人たちがほとんど出払ってしまうこの時間、村はやけに静かだ。建設現場にいけない年頃の幼い子供たちがはしゃぐ声が、どこかから聞こえてくる。それと、牛の泣き声。畑に生えた草を食わせるために放されているのだろう。シェヘブカイは、足元の水溜りに目をやった。川の流れから切り離された澱みの中には、ようやく後ろ足が生えかけたばかりの大きなおたまじゃくしが群れをなし、水面に口をぱくぱくさせている。 
 「あと十日もすりゃあ、早いのは陸に上がり始めまさぁ」
ぴょん、とかえるがシェヘブカイの膝に乗ってきた。
 「旦那がここにいるおかげで、今年は、はあ、大勢無事に陸に上がれそうだなぁ。」
 「そうなの?」
 「いやあ、どういうわけだか嫌なもんが寄り付かんのでね。普段の年は、猫やら鳥やらに根こそぎもってかれちまうんだが」
 「……。」
シェヘブカイは、飼い猫の妙におびえた様子を思い出していた。そういえば今朝はベッドにもぐりこんで来なかったし、朝食の時も姿を見せなかった。あれは、アメンティの気配のせいだったのか。
 木漏れ日が白い肌に落ちて、光と影を浮き立たせる。アメンティは、既に浅い眠りの中にあるらしい。昨日からほとんど動いていない。というより、立って歩いたり、泳いだりしているところも見ていない。
 「なあ、かえる。…って呼ぶのもヘンだな、喋るし、ジェドでいいか。」
 「はあ?」
 「名前だよ。<しゃべるもの>って意味。それとも、<しゃべるかえる>のほうがいい?」
 「名前、ねえ」
イボのついたかえるは、ピンとこない様子で喉を膨らませる。「そいつは、人間にとっちゃ大事なもんなんですかい? ま、好きにしてくれ」
 「じゃあ、かえるのジェド。聞くけど、アメンティってずっとここから動かないの?」
 「ああ、最初に見たときからずっとだな。丸太みたいなもんだ。…ああ、一回だけ動いとるのは見たことがあるが。」
 「いつ?」
 「前の、日が暮れたあと」
 「昨日の夜?」
 「よる、というのが何かはしらんが」
困ったように目をぎょろりと動かす。「暗くなったあとだ。」
 「何してたの」
 「何って、泳いどったぞ。メシでも食ってたんじゃないかね」
 「ふうん…」
シェヘブカイは、うたた寝をしているアメンティのほうにちらりと視線を向けた。
 「夜行性なのかなあ…。」
 「お前さん、ずいぶん旦那を気にするんだな」
 「ジェドは気にならない? アメンティが何で、どうしてこんなとこにいるのか」
 「なんでってそりゃ、流れてきたからだろうよ。上流から。ここいらの浅瀬にゃ、いろんなもんが流れ着くぞ」
 「そういう意味じゃなく…あ」
ふいに少年が立ち上がったので、膝に乗っていたかえるは柔らかな地面に転がり落ち、非難するように喉を鳴らした。だが、すぐさま近づいてくる足音に気づき、慌てて水の中に飛び込む。
 「あらあら、こんなとこにいたの」
やって来たのは、イティだった。黒髪をかきあげ、木陰に作られた急ごしらえの小屋と、澱みの中のおたまじゃくしの群れを交互に見やって、微笑む。
 「おたまじゃくし? …今度は、かえるの子を飼ってるのね」
 「あーっ、えっと」
シェヘブカイは視線を彷徨わせた。すぐ後ろにはアメンティの四肢が投げ出されているのだが…、イティは全く気づいた様子も無い。くすくす笑いながら、母は水溜りを覗き込んだ。
 「分かってるんだから。あんたがこそこそしてるときは、大抵隠れてなにか生き物飼ってるんだって。あら、かえるもいるのね。もう大人になったのかしら」
 「か、飼ってるわけじゃないよ。ただちょっと… 気になってただけ…! それより、何? 何か用事?」
 「ええ、これからちょっと父さんたちのところ、行って来るから。お留守番頼もうかと思って」
 「建設現場に?」
驚いて、シェヘブカイは聞き返した。イティが建設現場に出向くのは工事が始まってから初めてのはずだ。
 「手が足りないっていうのよ。怪我人が沢山出て――村に運ぶのに人手がいるんですって。」
 「……。」
シェヘブカイは、唇を噛んで足元に視線を落とした。少年の胸に過ぎったものに気づいたのだろう、母は優しく息子の黒い頭を撫でた。
 「あんたのせいじゃないわ。大丈夫よ、お役目はきっと巧くいく、ゆっくり考えなさいな」
去ってゆく母の後姿を見送りながら、膝の力が抜けてゆくのを感じた。葬祭殿を襲っているものの正体はずっと分からないままだ。王や神官たちが国の威信をかけて探して分からないものを、どうすれば自分のような何でもない子供が探し出せる? このまま何も出来なければ、本当に縛り首にされてしまうかもしれない。でも、だからといって、何ができる?
 「――今のは、お前の母親か?」
振り返ると、いつのまにかアメンティが目を開けていた。
 「うん。だけど、アメンティの姿、見えてなかったみたいだね」
 「そういうものだ。」
億劫そうに木から体を引き離すと、青年は、膝を引き寄せてその上に肘を乗せた。シェヘブカイは、なんとなく、その隣に同じようにして腰を下ろす。間近に見る青年の横顔は妙に透明で、手を伸ばせば触れられそうなのに、そこに在ってそこに無いような、不思議な感覚がした。
 「あのさ、あんたに言っても仕方ないと思うんだけどさ。僕、神官たちからお役目、申し付けられてるんだよ」
返事は無かったが、アメンティが聞いていることは、気配で分かった。
 「…この近くの丘の上で、王が葬祭殿の建設をしてる。その葬祭殿が毎晩、何かに襲われてて。その災いの主を探せ、って。手がかりもなにもないし、どうしていいのか分からなくて。…」
ぱしゃん、と水がはねる音がして、かえるのジェドが水の中から顔を出した。
 「探し物するなら、ここいらはうってつけだなあ。いろんなもんが流れつくからなあ」
 「流木じゃあるまいし。…"災いの主"は丘の上の葬祭殿に出るんだよ。」
言ってから、シェヘブカイは一つ、ため息をついた。
 「ほんとは、ここでのんびりしてる場合じゃないんだけどさ。どうしたらいいのかわかんないし。たまたま、あんた見つけちゃったし。ほっとけない気がしてさ…。」
 「……。」
ちらりと見ると、アメンティの金色の右目は、川向こうのどこか遠いところを見つめていた。金の中に、炎の燃えるようにちらちらと輝きのゆらめく瞳。ぼーっとそれを眺めていたシェヘブカイは、ふと、さっきイティに言われたことを思い出してはっとした。
 「あ、あのさ。ごめん、そういうわけで母さんに留守番頼まれたから、今日これで行くよ。またね、明日また来る」
 「…ああ」
視線を川向こうに向けたまま、アメンティは小さく呟いた。少年は、網と魚篭を拾い上げて家に向かって歩き出す。その途中に、朝見かけた何かの引きずられたような跡があった。
 ふと、足を止める。
 さっきの、ジェドの会話が蘇る。

 『ここいらの浅瀬にゃ、いろんなもんが流れ着くぞ』
 『流木じゃあるまいし…』

えぐれたような地面の跡は、川べりから続いている。

 『何って、泳いどったぞ』

 まさか。
 そんなはずは、…ない。


 家に戻ってみると、母の姿はもう無かった。がらんとした台所の食卓の上には、綺麗に畳まれたまままだ仕舞われていない洗濯物が置きっぱなしにされ、かまどの中には灰をかけて埋めた種火がまだうっすらと赤く燃えている。たった今まで人のいた気配、なのに誰もいない違和感。奇妙な心細さを感じた。真昼間に誰もいない家は、物心ついてから今までの記憶に無い。
 かたん、と小さな物音がした。
 びくっとした振り返ると、台所と奥の廊下の間に飼い猫がいて、伺うようにシェヘブカイを見上げているのが見えた。不安げにヒゲを動かしながら、そろそろと近づいて来る。シェヘブカイは、ほっとしてため息をつくと、網を側に置いて地面に片膝をついた。
 「おいで、ニウ」
両手を広げると、猫はようやく側までやって来て、差し出された手の匂いをふんふんと嗅いだ。抱き上げると、むずがるように体をくねらせて食卓の上に逃げてしまった。だが、シェヘブカイを拒否したというよりは、そこに置かれた魚篭に惹かれたからのようだった。
 「ごめんな、今日獲ってきてないんだ」
シェヘブカイが言うと、猫は残念そうな顔をして少年を見上げて一声、鳴いた。
 「明日な。それとも、腹減ってるのか? 母さん、何か置いていってないかな…」
言いかけて、そういえば自分も朝から何も食べていなかったことを思い出した。とたんに、空腹が蘇ってくる。
 探してみると、壷の中に大事にしまいこまれているパンの塊があった。堅く焼き締められた独特の形をした堅いパンは、建設現場の日当として支払われるものだ。自分の分だな、とシェヘブカイは思った。父や兄のぶんなら、現場で半分以上食べた残りが家に持ち帰られる。ここにあるものは、手付かずの塊まるごとだ。
 取り出して端を裂き、作り起きの酸っぱくなりかけたビールを注ぎ分けていると、家の中の静けさが今更のように気になってきた。
 「なあ? お前には見えるのかな、アメンティのこと」
不安をごまかすように、声を出して話しかけた。猫は気にするそぶりもなく、食卓の上で前足を舐め続けている。
 「かえると話をした、なんて、誰も信じてくれないよな… よりにもよって、かえるだし。お前とも話しが出来れば面白いんだけど」
シェヘブカイが食卓につくと、猫はちらりと少年の手元を見たが、自分の欲しいものがないと分かるとすぐに興味をなくしたようだ。次は腹を舐め始める。
 「あれは、何なんだろうな」
構わず、シェヘブカイは猫に話し掛けつづけた。静寂が不安なのだ。気のせいでは無い。家の中だけでなく、村全体が、まるで死んだように静まり返っている。朝方は聞こえていた子供たちの遊ぶ声も、今は聞こえない。
 「幽霊じゃないとしたら、精霊とか、…もしかして神様とかなのかな。いや、でもそんな偉いものって感じじゃないし。やっぱり、あの石像の欠片が関係してるんだよな。右眼だけの…。もとはどんな形だったんだろう」
喋りながら、シェヘブカイのおぼろげな思考はぐるぐると渦を巻いていた。人に見えるが、人ではないもの。澱みに花を咲かせ、緑を生い茂らせたもの。鳥や猫を寄せ付けないもの。

 "春の初めにはここに居たなあ…"

かえるの言葉が今更のように蘇ってくる。葬祭殿に災いが訪れ始めたのは、去年の秋の終わりごろ。かえるは、その頃には冬眠してしまう。
 いや。
 去年は確かに、あそこには何も無かった。冬になる前に、一度、村のみんなで堤防を確かめた。あの時は、まだ…。
 考えは堂々巡りだ。自分でも、自分が何を考えているのか分からない。シェヘブカイは頭を抱えて、食卓に突っ伏した。驚いて、猫が地面に飛び降りる。
 (わかんないよ…どうすればいいのか…)
体をこすりつけてくる猫の暖かい毛を足に感じながら、シェヘブカイは、ぼんやりと窓の外に目を向けていた。


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