■第一章/彷徨える水辺-4


 翌朝、寝苦しさと熱を感じて、シェヘブカイはしぶしぶと目を覚ました。
 暑い。しかも苦しい。その原因は、腹の上に猫が丸まって寝ているからだ。
 「…まったく、お前は」
しぶとく爪をたててしがみついてくる猫をようやく引き剥がし、麻布を敷いた寝台から這うようにして起き上がる。まだ早い時間のような気がしていたのに、窓を開けると、びっくりするほど眩しい光が押し寄せてくる。
 日は、高く昇っていた。
 いつもなら、とっくに葬祭殿のふもとで仕事を始めている時間だ。大慌てで身支度を整えて階段を下りてみれば、イティはのんびりと台所でパン種をこねている。父や兄の姿は、もちろん、とうの昔にない。
 「あらおはよう、意外と早かったわね。」
 「なんで起こしてくれなかったんだよ、母さん」
 「だって、今日からお仕事に行かなくていいんでしょう?」
母は至ってのんびりとした口調だ。シェヘブカイは、額に手をやった。
 「家でゴロゴロしてたなんてばれたら、縛り首だよ…。」
 「だからって、焦って何かする用事もないじゃない。」
 「まあそうなんだけどさ」
そう、その通り。何をすればいいのかも分からない。それが一番の問題なのだ。
 「…とりあえず、そのへん歩いてくる。」
 「お昼には帰ってくるの?」
シェヘブカイは、微かに苛立って、ぶっきらぼうに言った。
 「わかんないよ、そんなの」
食卓の上に残されていたパンを何枚かつかみ、口に押し込みながら家を出た。朝日が嫌味なほど眩しい。こんな厄介な役目を押し付けてきたのが太陽神だというのなら、その神は今も天の高いところからこっちを見下ろしているのだ。答えを知っているくせに、教えてもくれない。だんだん、腹が立ってくる。
 川べりにたどり着いたシェヘブカイは、まずは冷たい水で思い切り顔を洗った。それから口の中をすすぎ、水を一口飲む。川から直接飲む水は、黒い泥が混じって、かすかに甘く、ジャリジャリした土の食感がした。足首まで浸かった水の流れは冷たく、頭に上った血も冷めていく。

 ――これから、どうしよう。

寝ぼけた頭がすっきりしていくにつれて、むらむらと不安だけが大きくなっていく。これから、どうすればいい? 何もしないでいるのは不安だ。何かすることがあればいい。何をすればいい?
 「そうだ、あの目みたいなの…」
ふと思い出して、シェヘブカイは、畑のほうを振り返った。村の畑は村人たちが協力して耕すもので、どこからどこまでがどの家のものと厳格な境界はないが、そこは多分、むかしシェヘブカイの一家が耕していた畑の端に当たる。茂みのあった木陰は、畑仕事の合間によく昼寝した場所だった。最後に畑を作ったのは数年前だろうか、その時には、あんな石はまだ埋まっていなかったはずだ。
 (最近、このへんで船でも難破しただろうか? それか、盗賊団が落としていったとか…)
思いあぐねながら茂みのほうへ歩いていたシェヘブカイは、思考に気を取られていたせいで、木陰に近づくまで何かが横たわっているのに気づいていなかった。それが見えたのは、直ぐ側まで近づいてからのことだった。
 「ぅわっ」
白い腕が草の間に落ちているのが見えたとたん、彼は、思わず情けないほど声を上げて一歩、飛び退っていた。
 とうてい血の通っているとも思えないほど真っ白な細い腕と足が見えたのだ。無造作に投げ出された四肢は、しかし、死体にしてはずいぶん痛みなく、草の上に柔らかく載せられている。おそるおそる覗き込むと、それは髪まで真っ白な人間だった。兄くらいの年に見える。ゆるく閉じられた瞼はかすかに動いていて、胸も上下していた。
 「…生きてる、のか?」
呼びかけると、その真っ白な人間はシェヘブカイのほうに首を向け、うっすらと眸を開いた。生きているようだ。ほっとして、シェヘブカイは胸を撫で下ろす。昨日見た気がしたものは、幽霊などではなかったのか。
 「どっから来たの? ここらの人じゃないよね。どっか具合でも悪いの?」
 「……。」
 「いや、弱ってる…のか? …えっと、水汲んでこようか」
 「…それは足りている」
顔色のわりにはっきりした口調で言って、白い青年は目をしばたかせて空を仰いだ。「眠い…」
 「え?」
 「気持ちいいから、ここは…。」
言いながら、早くも眸を閉じかける。慌ててシェヘブカイは青年を摑んで無理やり引き起こし、木にもたせかけた。
 「こんなとこで寝てたら風邪ひくって。具合悪いんだったら、すぐそこウチだから来ればいい。あんた…えっと、名前は?」
 「……。」
白い絹糸のような髪がさらりと揺れて、隠れていた顔の半分をあらわにする。シェヘブカイは、はっとして思わず手を離しそうになった。
 片目がない。
 若い男の端正な顔立ちには右側の眼しかなく、左は虚ろな暗闇だ。そして、今あるほうの眼は、不思議な金色をしている。その眼が、ふいにシェヘブカイの黒い瞳を覗き込んだ。
 「お前は誰だ?」
 「え? 僕? えっと…」
その眼に間近に見つめられると呑まれてしまいそうな気がして、シェヘブカイは、思わず視線を逸らした。
 「シェヘブカイっていうんだけど。ここ、うちの畑」
 「そうか、それは悪いことをした。かえるの子は避けたつもりだったんだが」
 「かえる…?」
よく見ると、青年の長い足は先のほうが水に浸かって、そのあたりに黒いおたまじゃくしたちがウロウロと泳ぎまわっている。
 「ここにいると、邪魔になるな…。何処へ行けばいいんだろう…。」
シェヘブカイは、慌てて言った。
 「いや、いいよ、居ても。今年は畑も作ってないし」
 「…そうか?」
 「うん、でも、せめて屋根のある場所がいいよ。だからさ、村のほうに」
 「ここがいい。」
 「……。」
白い腕の上に、ぴょんと一匹の大きなかえるが飛び乗って、何か言いたげにシェヘブカイを見上げて喉を膨らませている。浅い水溜りの中を泳ぎまわっている、おたまじゃくしの親だろうか。まるで、無理に連れて行くなといわんばかりだ。
 「…分かったよ。じゃあさ、ちょっと待ってて。すぐ戻る」
 「ああ」
畑を横切るように駆け出しながら、シェヘブカイは、途中で振り返ってみた。木にもたれかかるようにして眼を閉じている白い青年は、緑の茂みと花に囲まれるようにして、確かにまだそこにいる。
 間違いない。あそこは昨日、あの片目だけの石像のかけらが埋もれていた場所だ。さっきはただの行き倒れだと思ってしまったが、偶然とは思えない。
 石像に宿っていた霊か何かか。見た目どおりでないとしたら、あれは一体、どういう存在なのだろう。


 うとうととまどろみかかっていた青年は、近づいて来る足音に気づいて苦労して重たい瞼を押し開けた。草の香りがして、何かが体の上に落ちかかってくる。
 「ちょっと体起こして。下にこれ敷いて、…あと、これを」
顔を上げて、彼は首をかしげた。
 「何をしている?」
 「だから、せめて屋根のあるとこで寝ろってこと。ここじゃ家は無理だろうけど、小屋くらいなら何とか」
そう言いながらシェヘブカイは、泥の上に杭を立て、てきぱきと急場ごしらえの小屋を作っていく。
 「器用なものだ」
 「まあね。建築現場の仮小屋づくりは何度もやった。漆喰乾かしてるときに急に雨降って来た時も、こうやって…」
 「建築?」
 「建築技師の見習いなんだ。って言っても僕はまだ駆け出しみたいなもので、図面も引かせてもらえないし、家ひとつ建てさせて貰えないんだけどさ」
家から持ってきた荒縄で柱をしばって屋根を作り、茣蓙をかけると、ときおり流れ者や旅人が作るような、取りあえず雨風だけは防げるような粗末な小屋が、あっという間に完成する。
 「…花が隠れてしまうな」
青年は、残念そうに呟いた。
 「せっかく咲いたのに」
 「だからって花の中で眠ってたら、死んでるかと思うだろ…。」
シェヘブカイが、建てたばかりの小屋の入り口に腰を下ろすと、足の上にかえるが飛び乗ってきた。
 「ああ、彼は見事な腕前だって言ってる」
 「彼?」
 「それ」
 「…かえる?」
 「そう」
 「かえるの言葉が分かるの?」
 「お前は分からないのか」
 「普通わかんないよ。」
 「ふうん」
不思議そうに首をかしげ、白い青年はちょっと何か考え込むような仕草をした。とたんに、膝の上から、ガラガラにしわがれた、中年男のような声が答えた。
 「ああン。人間ってえのは、こう、人間以外のもんとは喋れないっつぅ――」
 「うわああ!」
驚いたはずみで、シェヘブカイは後ろにひっくり返りそうになった。泥と一緒に手が宙をかく。膝の上から、大きくぴょんとかえるが飛びのいた。
 「なんでえ、なんでえ急に。危ねえな」
 「か、かえるが、喋っ…」
 「そりゃかえるだって喋るさ。喋るが… んん?」
震えているシェヘブカイの鼻先に、かえるのひんやりとした手が触れる。「お前さん、わしの言ってることが分かるんかね」
 「う、うん…」
 「ははん。旦那が何かしたんだな」
声は、シェヘブカイの頭の上に移動していく。「ま、それならそれでええ。今後はうかつに畦道でかえるを踏み潰さんこった」
 「踏み潰したことなんかないよ! …むかし、…捕まえて遊んだことはあるけどさ」
 「ほほう」
 「っていうか、そんなことどうでもいいだろ。なんで、かえるが喋ってるわけ? 旦那が何かした、ってどういうことさ。」
頭の上に手をやって、生意気なかえるを摑もうとしたが、そのときにはもう、かえるはすばしこくシェヘブカイを離れて地面の上をぴょんぴょん跳ねていた。シェヘブカイが視線を向けると、白い肌の青年は、胡乱な口調で言った。
 「…余計だったか?」
 「いや…、いいんだけど… どうやって…。」
 「そうか」
呟いて、眼を閉じる。シェヘブカイが見ていると、青年はそのまま、木にもたれかかったままで寝息を立て始めた。
 「…寝ちゃった」
 「ああ、旦那はずっとここで寝てる」
かえるは、抜け目なくシェヘブカイの手の届かない距離を保ちながら喉を膨らませる。
 「ずっと、って、いつからさ」
 「んー、春の初めにはここに居たなあ…。どっから来たかなんて知らんよ。どこの誰とも聞いとらんし、自分も知らんと言っとる。何するでもなく、花咲かせて満足そうに寝てるもんで、わしらも気にしとらんかった」
 「いやそこ、気にしようよ。」
真っ白な青年は、まるで彫像のように、ほとんど身動きせず深い眠りに落ちている。紡ぎ立ての糸のように細い白い髪は流れるように顎から肩に垂れ、虚ろな穴の空いた顔の半分を覆い隠している。その姿は、透けて見えるようだった。シェヘブカイは、なぜだか悲しい気分になった。
 「…元いた場所に返してあげたいな。何処から来たのか分かればなあ」
だが、これは人ではない。
 シェヘブカイは、そう感じた。こんな人間がいるはずはない。そうといっても、幽霊とも思えない。一体これはどういう存在なのだろう――人でない存在の元いた場所は、誰が知っているだろう。
 「ねえ、春から居るって言ったよね」
と、シェヘブは、朽ちかけたナツメヤシの枝の上でおたまじゃくしを見守っているかえるに話しかけた。
 「ああン?」
 「この人…って、何食べるの?」
 「さあてな。メシ食ってるとこはあんまり見たことがないが、虫か魚じゃないかね? 水辺に住むもんは、大抵そうだ。わしは虫が好きだが」
 「かえるじゃあるまいしさ。虫ってのはちょっと無理だけど、…」
ちらりと葦の生い茂る先の水面に視線をやって、シェヘブカイは立ち上がった。まだ日は高い。久しぶりに、魚とりの網を持ち出してみるのも気晴らしのうちだ。


 家に戻ると、イティはまだ台所にいて、今度は豆のさやを剥いていた。
 「あら、お帰り。ずいぶん汚したわね」
手元から視線を上げ、泥だらけになったシェヘブカイの腰布を見て微笑む。
 「あーうん、あとで川で泳いで落としとくから。魚とり網ってどこにやったっけ」
 「裏の納屋の棚よ。なあに? さっきは縄やら棒切れやら担いでいったと思ったら、今度は網なの」
 「いいだろ。ちょっとした…ちょっとあれだよ」
 「また、子猫なんて拾ってないでしょうね」
母はくすくす笑っている。「あんたは困ってる生き物を見たら、すぐ手を出しちゃうんだから。」
 「そういうんじゃないよ、そういうんじゃ。」
表情を気取られないよう、わざと不機嫌な顔を作りながら、シェヘブカイは早足に台所を突き抜けて納屋に向かった。そこには、あまり使わないものが雑多に積み上げられている。網は丸めて棚の上に載せてあった。シェヘブカイが学校に通っていた頃はたまに使っていたが、葬祭殿の建設に出るようになってからは、もう何年も、休日ですら川に網を張ることはなくなっていた。
 納屋の入り口を覗き込んだ猫が、にゃあ、と一声鳴いた。
 「なんだ。魚はまだだぞ」
にやりと笑って振り返ったシェヘブカイが一歩踏み出そうとすると、猫は、なぜか一歩あとすさった。いつもなら、連れていけとしつこくまとわりついてくるはずなのに。
 「…どうした?」
何故か怯えた顔をして、大きく眼を見開いたかと思うと猫は素早く姿を消した。灰色の尾が台所のほうへ一目散に消えてゆく。
 「なんだ、あいつ。嫌な匂いでも、ついてたのかな?」
自分の腕の匂いを嗅ぎ、シェヘブカイは、ちょっと首を傾げた。「ま、連れてけってせがまれるよりはマシか。」
 丸めた網を担いで向かった先は、昔よく魚をかけていた浅瀬の濁流だ。畑に水を引き込む堰のすぐ近くにあり、上流から流れてきた川の水が中洲に当たって二手に分かれる。その流れのうちの細いほうに網をかけ、上流から魚を追い込むのだ。シェヘブカイは、慣れた手つきで枯れ葦を束ねて刈り取った。葦の束で水をかいて、魚たちを網の中へ追いたてるのだ。
 水面に光が反射して、飛沫は光の粒となる。飛び跳ねた魚のウロコが銀に輝き、音をたてる狭い流れに飲み込まれてゆく。
 水量の多くない季節とはいえ、川の流れは腰まである。葦の束で水をかき回して魚たちを誘導するのは重労働だ。流れは足元に絡みつき、素足は川底に積もった柔らかな泥に足首まで埋もれた。昼間のこの時間は、村人たちはほとんどみな葬祭殿の建設現場に出かけているから、漁場は独り占めだ。少年が網を張るのを見ているのは、泥の中から何かをついばんでいるすらりとした水鳥たちか、水辺に棲む小さな生き物たちだけ。
 ひとしきり魚を追ったあと、シェヘブカイは仕掛けてある網に戻って、慎重に両端を持ち上げた。
 「おっ、かかってるかかってる」
泥の中から持ち上げた荒い網の中には、ぴちぴちとはねる元気な魚が何匹もいた。大漁だ。さっそく手づかみにして魚篭に放り込む。幼かった頃の感覚が蘇ってくるようだ。
 彼はその足で、朝方に自分が建てた掘っ立て小屋に取って返した。白い青年は、朝見かけたままの格好で、ぼんやりしている。起きているのか、眠っているのか、遠目には分からない。
 「ねえ、腹減ってない?」
声をかけると、かすかに顔が動いた。どうやら起きてはいるようだ。
 「好きなもんわからないから、魚とってきたんだけど…」
 「魚?」
 「うん」
シェヘブカイは、傍らに腰を下ろして魚篭を開け、戦利品を見せた。白い髪が揺れ、腕が動いた、と思ったとたん、
 ごくり。
 「ああ、いい魚だな。」
 「ちょっ、生?!」
目にもとまらぬ速さで、いちばん上に載っていた魚が一匹、喉の奥へと消えた。
 「うん、うまい」
 「いや、生って。しかも今、丸呑みした?!」
 「いけなかったか」
 「いいんだけど… 煮たり焼いたりしないんだ…。」
呆れたような、よくよく考えればそれが当たり前のような。シェヘブカイは、涼しい顔で胸の辺りを撫でている青年を用心深く見守った。
 「そんなにおなかすいてるならさ、いいよ。好きなだけ食べて」
魚篭を差し出すと、青年はちょっと首を傾げた。
 「なぜ、くれるんだ?」
 「また獲ればいいし。けっこうすぐ獲れるんだ、この辺。」
言いながら、彼はちょっと川のほうに目をやった。人の姿をしたものが生魚を丸呑みしているところを見るのは、違和感がある。特にその相手が、水辺に咲く白睡蓮のように儚げな存在だと。
 それとも、この姿自体、まやかしなのだろうか。
 「なあ、あんたさ、名前無いの?」
 「…無い、たぶん…」
ごくんと何かを飲み込む音と一緒に、小さなげっぷが聞こえた。
 「それじゃアメンティ・イルティ<右目>って呼んでもいいかな。名前ないと声かけづらくて」
 「ふむ」
青年は、片手を挙げて自分の片目の穴に触れた。「そういえば、左目がないな」
 「…気づいてなかったの?」
 「あまり気にしていなかったからな。」
飄々とした口調で言い、小さく頷く。「呼びたいように呼べばいい」
 「それじゃさ、アメンティ、あんたが何処から来たのか教えてよ。覚えてることだけでいいからさ」
草の上に胡坐を組みながら、シェヘブカイは身を乗り出した。「元居たとこ戻りたいだろ?」
 「…元、居たところ?」
口ごもるとともに、表情がわずかに曇った。「…戻らないと駄目か?」
 「えっ、そりゃあ…。だって、ずっとここに居ても仕方ないだろ。昔は家とかあったんじゃないの? 故郷っていうかさ。家族とか仲間とかさ。」
 「……。」
沈黙が落ちた。日の光が風に揺れるナツメヤシの木立を揺らし、葉の間から降り注ぐ光が草の葉の上に踊る。押し黙ったまま何か考え込んでいる様子のアメンティを見て、シェヘブカイは、ちょっと後悔した。
 「また、明日来るよ。今夜は、ゆっくり休んで。」
魚篭を拾い上げ、木陰を離れる。そろそろ、午後も遅い時間だ。網を回収して、家に帰ろう。

*****

 去ってゆく少年の後姿を見送りながら、"それ"は――白い影は、ぼんやりと考えている。
 なぜだろう、腹が空いている感覚などなかったのに、目の前に差し出されたものを見たとたん、自分はそれが欲しかったのだと瞬時に理解した。飲み込んだとたん、少し身体に力が戻るのを覚えた。今なら漂うだけではなく、泳ぐことも出来そうな気がする。食べ物。名前。そして気遣ってくれる気配。
 何かが頭の片隅で疼きだす。
 "懐かしい"。
 水の流れの中で洗い流されてしまったはずの断片的な風景が蘇ってくる。今と同じように、どこか畑の片隅から人々の暮らしを見ていた遠い記憶。そこが何処だったのかは分からない。ただ、はっきりと覚えている。あの場所は――今はもう、無くなってしまった。戻れない場所、戻れない風景、戻れない時。
 胸にちくりとする寂しさとともに、どこかで怒りをも感じてもいる。捨てられた哀しみと、奪われた恨みと。


 その夜は、珍しく空が荒れた。
 砂嵐の季節にはまだ早いはずなのに、強い風が戸を叩き、表を吹き荒れる風はまるで何かが吼えているかのようだった。うす雲が空を覆い、月の輝きを隠した道しるべのない夜。
 闇に紛れて蠢くものがあることに、人々はまだ、気づいていない。


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