■第一章/彷徨える水辺-3


 同僚の唖然とした顔をよそに、ろくに説明もせず、彼は一心に家路を辿った。他に選択肢はなかったのだから仕方がない。誰かに話そうにも、愚痴ろうにも、相手は母しか思いつかなかった。
 家は川べりに建っている。道を挟んだ向かいは、一家の畑だ。
 「ただいま!」
入り口で声をかけると、気配を察した飼い猫が台所から駆け出してきて足元に擦り寄った。シェヘブカイが水辺で拾って、そのまま飼っている猫だ。家族の中では、少年に一番なついている。
 ニャーニャー鳴いてせがむ灰色の毛の猫を抱き上げていると、奥から母のイティが顔を出した。
 「あらお帰り、今日は早いのね。どうしたの?」
 「それがさ、もう来なくていいって言われたんだ。」
 「ええ? 何か粗相でもしでかしたの」
 「違うよ。僕は何もしてないのに、妙な役目を言いつけられて。任を果たすまで戻るな、とか。もう意味わかんないよ」
イティは苦笑している。
 「分かるように話して頂戴な。ああ、履物の泥はちゃんと落としてから入って来て」
 「わかってるよ。」
シェヘブカイは、喉を鳴らしている猫の顎をちょいちょいと撫でて足元に戻すと、肩にかけていた鞄と、仕事用の書記の帯を台所の脇の椅子の上に放り出して履物を脱いで裏の泥を叩き落しにかかった。
 昼間の村は、静かだ。
 ここは葬祭殿の建設現場に近く、働き手の男たちはほとんどが現場に雇われて出払っている。若い女たちも炊き出しや労働者の身の回りの世話で出かけているから、村に残っているのは最低限の主婦か年寄り、年端も行かない子供ばかり。王の命による建設が始まってから、この辺りの小さな村は大抵そんな状態だった。畑は作らず、ナツメヤシの収穫もしない。食べ物や着るものは、建設現場で貰える日当と、季節ごとの特別給与でまかなう。
 単純な労働者より建築技師や監督官のほうが給料はよく、父と兄がその任に就いているシェヘブカイの家は村のほかの家族より裕福なほうだった。だが、召使がいるわけでも、牛や羊をたくさん飼っているわけでもない。貴族のようには暮らせない。ただ、建築技師の父が手をかけて建てた漆喰壁の二階建ての家だけは、村のどの家よりも、町の貴族の家よりもずっと立派で、シェヘブカイには、それがひそかな自慢だった。
 「で? 何があったの。」
シェヘブカイが奥の居間に入っていくと、イティは、少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべて待ち構えていた。
 「神官たちが言ったんだ。神殿の建設をジャマしてるものを探してこいだって。もう半年も、神官や役人たちが調べまわって何も見つからないのにだよ? 神託で指名されたからって…。在り得ない、まったく」
 「神託って、どこの神様?」
 「たぶん、太陽神。王様にくっついて神殿を祝福して回ってる神官たちだったから。」
 「あら。なら名誉なことなんじゃない。太陽神さまなら間違いないでしょ? なんたって、天に輝く一番偉い神さまなんだから。」
 「そうかもしれないけどさ…。」
膝の上に飛び乗ってくる猫を押しのけもせず、したいようにさせたまま、シェヘブカイは明後日の方向に視線を向けた。
 「神殿の太い柱だって壊すような、なんだかよく分からないモノ相手に、どうしろっていうんだろ。戦って倒せとか? 探すって、どうすれば?」
 「考えたってしょうがないでしょ、なるようになるわよ」
 「母さんは気楽だなあ」
 「だって、神さまがあんたを指名したんでしょ。何とかならなかったら、何とかしてくれるってことよ。そうじゃないと、神託が外れちゃうから、神さまにとっても困ることじゃないの」
 「…まあ、…そう、いう考え方もあるかも…。でも…」
シェヘブカイは、言いよどみながら俯いた。イティはにこにこしながら息子の短く刈り込んだ堅い髪に手をやった。
 「悩むより動け、よ。でも、せっかく早く帰れたんだし、今日はのんびりしてらっしゃいな。…あ!」
 「えっ、何」
 「そういえば、あんた今日から仕事に行かなくていいってことは…ええっと、あんたのぶんのお給料は、どうなるのかしら? 」
 「心配するとこ、そこなの…。」
苦笑しつつ、シェヘブカイは椅子から立ち上がった。
 「たぶん、出るんじゃないかな。いちおう公務だし、必要なものはくれるって言ってた」
 「ほんと?」
 (任務を果たせずに、僕が縛り首になるんじゃなければね。)
期限を区切られはしなかったが、神官たちのご指名となれば、失敗することは許されないだろう。そう思うと気が重くなったが、シェヘブカイは、暗い表情を隠して立ち上がった。本当に、これが何かの冗談なら良かったのだが。


 二階に上がって自分の部屋の窓を開くと、川を渡る涼しい風が吹き込んでくる。
 建築技師の父が建てただけあって、家の中はどこも風通しがよくて居心地がいい。特に寝室からは、川べりの風景がよく見えた。シェヘブカイは幼い頃から、この家と、部屋から眺める景色が好きだった。光を反射しながら、ゆるゆると流れ下る黒い水。風にそよぐ緑の岸辺と、鳥や虫、生き物たちの生きる様、だが、ここのところ毎日のように朝から夕方まで建築現場に通っていたせいで、昼間の景色を眺めるのは、ずいぶん久しぶりに思われた。
 葬祭殿の建設に、休みはない。
 正確には、十日に一度の公休があるが、それ以外にゆっくりできる日は祭りの期間くらいだ。それでも、ここ半年は工事の遅れのせいで返上になっていた。
 シェヘブカイは、窓辺に頬杖をつき、ぼんやりと景色を眺めた。静かな村、動くものはほとんどなく、川の流れに時折はねる魚だけ。季節は春。花が咲き、虫たちが目覚める季節。そして砂嵐。やがてそれも終わると、今よりも更に暑い夏がやって来る。
 本当なら丈の低い小麦の苗がそよぐほどの季節だが、川べりに広がる耕作地は、黒っぽい土面を晒すばかりだ。村人たちが葬祭殿の建築に駆り出されているからだが、ここ何年も植え付けが行われていない。川べりは、そのせいで、どこか寂しげだ。
 目を閉じて、彼は、記憶の中にある麦の穂の匂いを思い出そうとした。
 葬祭殿の建設が始まる以前――幼い頃の村は、昼間はあちこちで賑やかな声がして、母もよく友達とおしゃべりをしていた。麦の香りのする畑の側で遊ぶのが楽しかった。大変な粉挽きも、ビールづくりの重労働も無くなって、父や大人たちは楽になったと喜ぶけれど、なんだか寂しくなった。――今は、パンも、ビールも、建築現場で貰うだけだ。家で作っている村人はもう、ほとんどいない。


 ふいに、鼻孔を何かがくすぐった。
 目を開けて、彼は視線を巡らせた。どこからか、かすかに花の香りがした気がしたのだ。畑と畦道しかないこの辺りには、あまり花は咲かない。
 「…なんだろう、あれ」
視界の端に、今まで気づいていなかった茂みを見つけて、シェヘブカイは窓枠から身を乗り出した。畑と川の間、淀みになった木陰にこんもりと、一箇所だけ草が生い茂っている場所がある。
 ぱたぱたと階段を駆け下りる足音に気づいて、勝手口で縫い物をしていたイティが顔を上げた。
 「お出かけ?」
 「あーうん、ちょっと川まで。」
 「いってらっしゃい」
それだけ言って、また手元に視線を戻す。その頃には、シェヘブカイはもう、窓から見えた方角へと外に駆け出していた。
 ここ数年、耕されず畝も作られていない畑は、それでも柔らかく、上を走ると土が凹んだ。場所によっては雑草が生い茂り、あるいは野生化した麦粒が勝手に芽を出してまばらな茂みをつくる中、窓から見えたその場所に生える草花だけは、不思議と均整のとれた庭のような美しさほ保っていた。花の香りは、確かにそこから漂っていた。白い花と薄紅の花が交互に咲いて、まるで花冠のようにも見える。
 「…なんだ、これ」
シェヘブカイは、その茂みの真ん中に埋もれている青みがかった黒い石の塊に目を留めた。それは真新しい断面を上に向けていて、大きなかけらから割れて落ちたようにも見える。掘り起こしてみて、彼はぎょっとした。石の裏側にははっきりと眼窩が掘り込まれていたのだ。ただし瞳のあるべきところには丸い穴がぽっかりと開いている。象嵌ではめ込まれていた石が取れて、そうなってしまったのだろう。これは一体、何なのだろう。土に埋もれていたせいで微かに湿った手の平ほどの石を見下ろしながら、シェヘブカイは、しばらく考え込んでいた。
 (…どう考えてもこれ、なんかの像の破片だよな。)
石で彫った像など、神像か王や貴族たちの像しか思い当たらない。それがどうして、こんな畑の端に埋もれているのだろう。
 風が吹き、さわさわと草を揺らし、土の中の虚ろな眼がじっとこちらを見つめているような奇妙な感覚に囚われる。元通り埋めて見なかったことにするべきなのか、持って帰るべきなのか。
 しばらく考えた挙句、彼は、その石を元の場所に置いておくことにした。花冠――周囲を取り囲む草花がまるで、その石を取り囲むように均整をとっていて、そこから動かすのが惜しいと思ったのだ。
 畑をあとに家に引き返しながら振り返ると、木陰に一瞬、白っぽい、人影のような影が見えた気がした。
 ぞっとして、彼は慌てて家に掛けこむ。
 「お帰り、どうしたの幽霊でも見たような顔して」
 「…なんでもない。」
イティは首を傾げている。
 「じきに夕飯だから、ちょっとだけ待っててね。父さんたちもそろそろだと思うわ」
 「う、うん」
台所から漂う匂いに惹きつけられて、椅子の上で今か今かと待っている飼い猫のぴんと張り詰めたヒゲ。そう、幽霊なんているわけがない。そんなものがいたら、まず最初に猫が気がつくはずだ。猫というのは、そのテのものには人間より敏感なのだから。
 心を落ち着かせながら、シェヘブカイは食卓の前に腰を下ろした。


 日は傾きつつあり、川べりの木立の影が長く伸びて、川沿いの道を横断している。
 疲れた足を引きずって、葬祭殿の建設現場から帰ってくる村人たちの姿がそこにあった。遠方から働きに出ている労働者たちは、建設現場の近くに建てられた労働者村に泊まるが、日帰りできる近くの村人たちは、毎日、このくらいの時間に各々家路を辿る。日が落ちると作業は出来ないから、みなその前に引き上げるのだ。そうでなくても、夜は"悪霊"が出る。
 間もなく父と兄も、連れ立って帰ってきた。
 「ただいま。」
 「お帰りなさい、今日もご苦労さま」
セアンクは日当のパンを妻に手渡しながら、ちらとシェヘブカイのほうに目をやった。シェヘブカイは、ちょっと肩をすくめる。
 「話は聞いている。大変なお役目を仰せつかったな。」
 「本当だよ。なんで僕なの? どうすればいいのか、全然分からないよ。」
 「まあそうだろう。やり方がわかってれば、誰かが何とかしている。」
シェヘブカイの向かいの椅子に腰を下ろしながら、父はそう言った。兄のメンケペルは、こちらに背を向けて台所の甕から水を飲んでいる。明り取りの窓から差し込んだ西日が、白い壁と台所を照らしている。
 「ねえ父さん、ほかにもっといい人いなかったの? 今から代われないよね」
 「どう選んだのかは知らんよ。神官たちなりのやり方があるんだろう。神託という話は本当らしいし、誰かに代われるものではあるまい。」
 「神官の考えてることは、いつだってよく分からないものさ」
口元を拭いながら、メンケペルはそっけなく言う。ちらとイティに目をやり、それから、父の隣に腰を下ろす。三人が席についたのを見計らって、イティが真ん中に薄焼きのパンを盛り付けた皿と、煮込んだ豆の椀を置いた。続いて、ビールの器も。まず父が手を伸ばし、パンで豆をすくって口へ運んだ。それが、食事の始まりの合図だ。
 「期限はいつ?」
とシェヘブカイ。
 「聞いてはいないが、…状況はお前も分かってるとおりだ。王はお急ぎのようだ」
セアンクは口を動かしながら、手元の椀にビールを注ぎ、流し込むようにしてパンを飲み込んだ。
 「この子がそちらのお勤めの間、日当は出るのかしら」
 「ああ、それは問題ない。むしろ普段より多く寄越すかもしれん。それだけ期待されている」
 「そいつは、失敗したらコトだな。」
シェヘブカイは、むっとして兄のほうを睨むが、メンケペルはそしらぬ顔でパンをちぎっている。何か言ってやろうかとも思ったが、パンをねだる猫が膝の上に飛び乗ってきたので、出鼻をくじかれてしまう。
 「でも太陽神さまのご指名なんでしょ? 心配することないじゃない。」
イティは、シェヘブカイの隣に腰を下ろした。メンケペルがちらりと視線をそちらにやる。
 「どうかな。神託なんてでっちあげで、適当に決めただけかもしれない。それこそくじ引きか、賽でも振って。誰でも良かったのかも」
 「メンケペル」
諌めるような父の口調に軽く肩をすくめると、兄は、口を閉ざした。
 「…とにかくだ。何か必要なことがあったら、何でも言うんだぞ、シェヘブカイ。巧くいくことを願ってはいるが、こればかりは、わしらもどうしていいのか分からん」
 「うん…」
パンですくった豆を口に運びながら、シェヘブカイは、曖昧に頷くしかなかった。"どうしていいのかわからない"。そこが一番の問題だった。誰も、この災いがどこから、どうしてやって来たのかを知らない。見当もつかないでいる。
 父と母がその日の出来事などを話す声を隣に聞きながら、シェヘブカイは、ぼんやりと、明日からのことを考えていた。


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