【白蛇の章 4】


 深い眠りの中から浮かび上がるように目を覚ました時、明り取り窓から天井に反射する光はいつもより白く輝いていた。寝坊してしまったらしい。慌てて起き上がったムトノジュメトは頬が湿っていることに気がついた。涙の跡がある。
 身支度を整えて建物を出ようとすると、向かいから若い女性神官が向かってくるのとすれ違った。ちょうど、朝の勤めを終えて戻ってくるところのようだ。すれ違いざま、女性神官は苦笑した。
 「ひどい顔ね。先に顔を洗って来たほうがいいわ」
 「そうでしょうか」
ムトノジュメトは、腫れぼったい目をこすった。
 「あの、朝のお掃除は…」
 「もうとっくに終わったわ。あなたのぶんは、皆でやっておいた。」
 「すいません」
 「いいのよ、誰だってたまには体の調子が悪い日もあるもの。――そうそう。ワティから伝言があったわよ。二ヵ月後までには調べておく、って」
 「あ」
言われて初めて、ムトノジュメトは気がついた。今日は月の終わりの日だ。当番神官のワティが次に神殿にやって来るのは、二ヵ月後の夏になる。そうと知っていれば、寝坊などしなかったのに。
 涙の跡を気にしながら、彼女は手洗い場に向かった。水は素焼きの水瓶いっぱいに湛えられている。川から流れを引き込んだ、中庭の聖池から汲み上げられた水だ。柄杓ですくった冷たい水をしみ込ませた布で顔をぬぐうと、少しは気分がましになる気がした。頬を流れ落ちる水滴をぼんやり見つめたまま、ムトノジュメトは今朝の夢を思い出していた。鮮やかな彩色のされた祠堂も、緑の庭も、一緒に遊んでくれた年上の男の子も、今ならはっきりと瞼の裏に思い浮かべることが出来る。夢では無い。空想でもない。何故か、そう確信を持てた。乾いた風が吹き抜けて、頬と指先の水滴をさらってゆく。もしもあれが現実にあった出来事なら…。


 ドン、と低い音が響いてきて、ムトノジュメトはそちらに目をやった。
 続けざまに、ドン、シャン、ドン、と音が連なる。ああ、お祭りの音楽の練習だな、と思う。いよいよ大祭の日が近づいてきて、神殿の中は、最終的な準備に入っている。
 祭りの当日は、この"大神殿"から神の乗る神輿が担ぎ出され、舟とともに別荘というべき少し上流にある小神殿へ担ぎ込まれる。その夜、小神殿での後夜祭として、神に捧げる聖なる牛を屠る儀式が取り行われる。ただ、昨日聞いた噂では、その牛が行方不明、という話だったが。
 お腹が小さな音をたて、ムトノジュメトはあわてて周囲を見回した。どうにも、胃袋は正直でいけない。
 朝餉の残り物でも貰おう、と台所に向かいかけたとき、列柱回廊の向こうから会話しながら歩いてくる養父に気づいた。ぽっちゃりとした腕には金の腕輪、恰幅のよい体を覆うように、ゆったりとした真っ白な麻布をかけている。話しをしている相手も同様に威厳あるいでたちで、巻物を手に、しきりと頷きながら話を聞いている。ムトノジュメトは、身分高い相手とであったときはいつもそうするように、廊下の脇に退いて、軽く頭を下げた。
 「おお、そこにいるのはわが娘ではないか」
すぐに養父が気づいて足を止めた。アメン神殿の神官長、アメンエムハト。にこにこ顔で近づいてきたかと思うと、肉付きのよい手が彼女の肩をつかんで引き寄せた。
 「紹介しよう、フネフェル殿。養女のムトノジュメトだ。」
 「はじめまして」
ムトノジュメトは、透かし見るように目の前の男を見上げた。小柄で、腕はあまり日焼けしていない。白いものの混じる髪は父の剃髪とは違い短く切りそろえて手入れされ、口ひげも形良く整えられている。じっと見つめる瞳は、不思議に見覚えがあるもののように思えた。年頃は壮年に差し掛かったばかりに見える。書記だろうか。最近どこかで聞いた名だな、などと思っていると、男は口を開いた。
 「なるほど、美しい娘御だ。確かに殿下はお気に召すかもしれん」
 「ええ、そうでしょう。そうでしょう。」
何の話だろう。
 ムトノジュメトが困惑していると、アメンエムハトは手を離し、娘の肩を叩いた。
 「その話は、まとまったらお前にも話してあげよう。行きなさい」
軽く頭を下げて、ムトノジュメトは二人の男性から遠ざかった。父に触れられた部分が、何故だか疼いた。養父とはいえ、男性に触れられることは――いまだ、馴染めない。


 台所では、粉を前に食事係が大わらわだった。小麦粉を石臼ですり潰しふるいにかける作業のせいで台所前の小さな広場は真っ白になり、窯の前では、祭りのための大きなパン菓子が準備されている。ムトノジュメトが入っていくと、顔見知りの給仕係が振り返った。
 「あら、寝込んでいるって聞いたけれど。もう起きて大丈夫なの?」
 「ええ。気分がよくなったので、何か食べるものをいただければと」
 「ちょっと待ってね…あら」
鍋に向かった給仕係が顔をしかめた。「やだわ、また減ってる」
 「どうしたんですか」
 「おかしいのよね、昨夜から妙に食べ物の減りが早くて。あらっ、こっちのビールも。どうしたのかしら」
ムトノジュメトの視界の端に、白いものがするすると動くのが見えた。給仕係は気づいていない。
 「ごめんなさいね。ネズミやなんかが居ないといいけれど…はい。これを」
葦の籠に、パンと干した果物を載せてくれている。
 「ありがとうございます。」
何事も無かったかのように台所を後にしたムトノジュメトだったが、内心は穏やかではない。足早にその場を離れて人気のない場所までやってくると、ため息をついて衣を捲った。足首に、白いものが絡み付いている。
 「あそこで、何をしていたの?」
 『私だってお腹は減るんですよ。』
白蛇は、悪びれない調子で言って一つげっぷをすると、ムトノジュメトの差し出した腕に絡まってするすると肩まで登った。
 「だからって、つまみ食いを? それに、またその姿」
 『こちらのほうが動きやすいんですよ。いいじゃないですか、神殿の中にあるものは神に捧げられたものですよ』
そんなことを言いながら、蛇は涼しい顔だ。
 「神は神でも別の神様よ。ムト女神様の食卓なのに。」
 『高貴なる白鷲は、けちけちしないものです。汝、飢えたる神に捧げよってね』
どうやら、神の価値観は人間とは違うらしい。ムトノジュメトは、木陰のベンチに腰を下ろし、籠からパンをひとつ取り上げた。さわさわと涼しい風が吹きぬけて、その風に混じって、まだ低い楽器の音が響いてくる。。
 『大祭の季節なんですね。』
 「ええ、だから大忙しなの。あたしも食事が済んだら朗誦の練習にいかなくちゃ。今年は"唄い手"の役で出るんだから」
 『なんだか懐かしいですねぇ』
ムトノジュメトは、手を止めた。
 「出たことがあるの?」
 『見ていたことはありますよ。かつて私は、王妃の額や腕にいたのですから』 
 「きっと前の王様の王妃様ね。でも、確か…亡くなってしまったと」
 『ええ、四人の王妃がいましたが、みなオシリスの御許へ行ってしまいました。人間の寿命は短いですからね』
 「……。」
低い音に混じって、シャン、シャンと軽い高い音が響いて来る。金属の薄い板を連ねたシストラムを打ち鳴らす音だ。
 『そういえばムトノジュメト、昨日は不思議な夢を見ていましたね。あの子が、あなたの会いたい人ですか?』
 「え?!」
齧っていたパンを、思わず取り落としそうになる。
 「どうして…それ」
 『あまりにもうなされているので、なんとなく覗いてみたのですよ。夢魔に惑わされているといけませんからね。』
余計なことを、と言いそうになったが、ムトノジュメトはその言葉を飲み込んだ。白蛇が覗いてくれたお陰で、いつになくハッキリとした夢を見られたのかもしれないからだ。
 「あたしには家族はいないの。でももし、あの夢が本当にあったことだとしたら、…少なくとも、どこか離れた場所にお兄さんがいるってことでしょう?」
 『ふむ』
白蛇は、肩の上で首をくねらせた。『…どこかで見たような気がするのですがねえ』
 「本当に? あの男の子?」
 『ええ…。私が眠りに着く前に… でも出会った人間のことをすべて覚えているわけではありませんからね。守護する人間以外のことはあまり興味がありません』
 「たぶん、あれは、この神殿の中のどこかなのよ」
パンくずを膝から払い落とし、ムトノジュメトは立ち上がった。「探しにいくわ、付き合って頂戴」


 夢の中で遊んでいた場所は、壁に囲まれた狭い中庭だった。あの壁は大神殿の雰囲気と似ていた。きっと、この広い敷地の中のどこか――滅多にいかないような場所にあるに違いない。そんな予感があった。手がかりになりそうなのは、中心にあるのは彩色された祠堂だ。ムト女神のものでも、その家族のものでもない。あれが在るとしたら、アメン神殿の聖域の外周壁に沿ったどこかのはずだ。
 掃き清められた参道は、昼の日差しを受けて白く照り輝く。その道に沿って、祭りのための準備が進められていた。明日はここで、神像の神輿を担ぎ出し、歌と踊りで見送る儀式が執り行われるのだ。それから参道に沿って川べりへと向かい、像は舟に乗せられる。
 普段暮らしているムト神殿から続く参道を過ぎ、その夫であるアメン神の神殿のひときわ大きな壁をくぐると、すぐに二神の息子コンス神の聖域にいきあたる。先日案内した、、子供を抱いた女性が参拝しただろう神殿だ。コンス神の神殿の側には聖スカラベの像や、他の様々な神々を祀る小さな祠が建てられている。死者の神オシリスのための礼拝堂や神々の女王であるイシス、妊婦の守り神ベスやタウェレトの姿もある。外周に沿ってそれらを辿っていたムトノジュメトは、ようやく目的の一角にたどり着いた。
 そこは祭りの賑やかな音も届かない、本神殿からかなり離れた厚い壁の内側だった。古くなって壊れた祭具や、割れてしまった神像などが無造作に積み上げられている。その奥に、何かを囲むようにして壁があった。入り口は狭く、枯れた草がくしゃくしゃになって散らばっている。明らかに最近は誰も訪れていない雰囲気だ。
 「…あった」
つぶやいて、ムトノジュメトはその場にしゃがみこみたい気分になった。確かにそれだ。けれど、記憶の中にあるものとは、あまりにも違う。
 そこにあるのは、既に壁面の彩色も色あせた、土ぼこりをかぶった祠堂だった。扉は失われており、がらんとした空虚な暗闇が口をあけている。階段を登り、暗がりの中に一歩踏み込むと、かすかなカビの匂いがした。ずいぶん昔に打ち捨てられてしまったようだ。
 『もう使われていないのですね』
肩先で、蛇の声がした。足が微かに震える。まるで、思い出が消えていくような気がした。夢の中の、あの場所は確かにあった。それだけで喜んでいいはずなのに――それなのに。
 『ムトノジュメト? 泣いているのですか』
 「…いいえ。」
否定したものの、それは紛れもなく涙だった。兄との記憶が本当だった喜びとともに、あまりにも時が経ち過ぎてしまったことへの不安が同時に押し寄せてくる。
 「…お兄さんは、あたしのことを、まだ覚えててくれるかしら」
 『そうですね。それが定められた未来であるならば』
慰めの言葉など期待していなかったが、それで十分だった。目じりを拭って、荒れ果てた祠堂に背を向ける。夢ではなかった、そう確信を持てただけで十分だ。今は来るべき祭りのことだけ考えよう。
 ムト神殿に向かって歩き出す彼女の額の上で太陽は輝き、遠くからは、神を讃える音楽の切れ端が風に乗って参道の上に満ちていた。


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