【黒犬の章 5】


 「へい。牛が消えてるのに気がついたのは、夕方、牧草地から小屋に牛を追い立てる時で。」
翌朝、まだ川面に朝靄のかかる時間から、ラーネフェルは町はずれの牧草地を訪れていた。昇ったばかりの日の光は低い角度で町を照らし、長い影の中にはまだ夜の青がうっすらと残されている。
 「囲いは破れていなかったんだな」
 「そりゃもう、ちゃんと調べましたよ。番犬どもだって一声も唸っちゃいませんでした。他の牛は、いつもどおり囲いの中にいたんです。あの、神殿に送る牛だけが居なくなってたんで。」
人のよさそうな丸っこい農夫は、そう言って鼻の頭をかいた。ラーネフェルの身なりからして、取調べのお役人だと思ったのだろう。特に警戒心も持たず、事件のあった日のことを洗いざらい話してくれた。もっとも、それは持参した上等の酒のお陰かもしれなかったが。
 「それは不自然だな。役人には話したのか」
 「勿論でさ」
ラーネフェルは、視線を男の後ろに広がる牧草地に向けた。町外れの牧草地の周囲は川べりまで続くなだらかな斜面になっていて、部外者がうろうろしていれば遠くからでもすぐ見つかるような場所だ。川を行き交う舟の目もある。
 「ここにいる牛は、全部で何頭だ?」
 「二十頭ほどで。ここのは特に上等で、すぐにも神殿や王様の食卓に送れるようになってるばかりのやつでさ。残りは丘の向こうの繁殖地ですよ」 
 「あんた一人で管理してるのか」
 「いいえ、まさか。ここにゃ三人いますだよ。一週ごとに交代なんで、全部で九人。わしは昨日からの当番で」
 「それじゃ一昨日、牛が盗まれた日の当番は、別の奴なんだな。どこにいる」
 「はあ、町はずれに住んでるんですが…」
話を聞いている間、黒犬は、犬らしく辺りを嗅ぎまわっていた。人間の目には見えないとはいえ、獣には気配が分かるのか、牛も番犬たちもさっきからやけに黒犬のほうを気にしている。
 農夫に礼を言って柵を離れると、足元に黒犬が戻ってきた。
 「どうだ、匂いは残ってたか」
 『ああ、間違いなく聖牛<アピス>だな。ここから連れられて、谷のほうへ向かってる』
 「思ったとおりだ」
舟に乗せるのも、川沿いを引いて歩くのも目立つ。ならば牛を隠せる場所はひとつしかない。町外れの、枯谷に向かう道の側には民家はない。枯れ谷の奥は行き止まりになっていて、そんなところにわざわざ入り込む者はいない。何かを隠すには好都合だ。
 匂いを辿り、崖に刻まれた深い谷へ入っていくと、とたんに世界は一変する。
 町のあたりの人間の気配、生活感がすべて拭い去られ、辺りはまるで静寂の支配する死の世界だ。岩と砂しかなく、草の一本も生えず、生き物の姿もない。ひんやりとした空気が谷の奥から流れ出してくる。墓所に覆われた西岸の谷のほうが、まだ生活の跡を感じさせる。
 微かに、獣の匂いがした。
 はっとして、ラーネフェルは耳を澄ませた。
 「牛の声だ」
 『上だな』
黒犬が首をもたげた。下からでは分かりにくいが、張り出した岩だなの上に自然に出来た洞窟があるらしい。滑りやすい崖には良く見ると、人が何かをひきずって登ったような跡があり、点々と、糞のような黒いものが散らばっている。
 洞窟の中を覗き込むと、闇の奥で何か大きなものがもぞもぞと蠢いた。
 いた。
 杭につながれた、大きな立派な雄牛だ。窮屈そうにこちらに尻を向け、大きく張り出した角は、天井にぶつかりそうになっている。頭のほうには水を入れた桶と飼い葉が積まれていた。
 黒犬が、にやりとする。
 『ふむ、殺されるのが嫌だとは思ったが、生きながら冥界の洞窟に閉じ込められるとは思っていなかった、か?』
 「言ってることが分かるのか」
 『まあな。だいたい考えていることは分かる――これからどうする? ラーネフェル』
 「もちろん連れて帰る。だがその前に、犯人を見つけたほうが良さそうだな」
 『その必要は無さそうだぞ』
黒犬が、あごをしゃくった。岩棚ごしに見下ろすと、ちょうど、谷に向かってくる男たの姿が見えた。桶と飼い葉を積んだロバを引いている。武器などは持っていない。
 ラーネフェルはそっと崖を回むと、目の前を男が通り過ぎるのを待って、谷の入り口に近い側、男のやってきたほうへ飛び降りた。
 「ひっ」
背後に突然人が降って来たので、男は驚いてロバの手綱を放した。慌てて周囲を見回す。
 「安心しろ、俺一人だ。話を聞かせてもらいたい」
 「はな…はなし…」
ロバは、飼い主を置いて、かまわず谷の奥のほうへのんびりと歩いてゆく。男はさっき囲いのあたりで見た農夫とそう変わらない格好をしていた。汚れた腰布、すりきれたサンダル。それに、ロバを追うための細くしなる革のムチ。
 「どうして儀式の牛を盗んだりしたんだ。売り飛ばすつもりだったのか?」
 「ち、違います…あれは、か、返すつもりでした」
 「返す?」
 「祭りが済んだらもとの場所に。傷一つつけるつもりなんてねえです。ただ、あいつは――死にたくねえ、殺されたくねえって」
ラーネフェルは、足元の黒犬とちょっと視線を合わせた。
 「もしかして、夢枕にそいつが立った、とか?」
 「そうです、そうです。信じてくれないかもしれやせんが…神様の使いの牛が言うんでやす。綺麗な牛だし、わしら手塩にかけて育ててきた牛だしさあ、そりゃあ、殺されるのも惜しくて…だども、それだけじゃねえんで」
 「それだけじゃない?」
 「ええ、あの牛がね、今の王様に殺されるのんは嫌だって言うんです。あれは相応しい王様じゃねえからって。」
ぽかんとして、ラーネフェルは次の言葉を失った。何を言い出すのだろう、この農夫は?
 若者の表情に気づいて、農夫も慌てた。真っ青になりながら、地面に額をこすりつける。
 「いえ、その。違うんです、王様を疑うなんてそんなことは――神々の聖なる血を疑うなんてことは。決して王権に対する反逆など考えていません、お許しを。お許しを…」
 「…立て。俺は役人でも衛兵でもない」
本当に、聖牛がそう言ったのか? 偽の王に殺されたくないからと、人間の夢枕に立って逃亡を手伝わせたと? もしそれが本当なら、聖牛の預言は神託に等しい。だが、もし農夫の戯言なら、この男は一体どこからそんな大それたことを思いついたのだろう。
 「お前が牛を隠したせいで、無実の男が牢に繋がれている。」
ラーネフェルは、額を地面から離そうとしない男に、静かに告げた。「牛の命を救うために人の命を犠牲にさせることは許されない。分かるな」
 「へい…」
 「牛は、すぐに返してもらう。お前を罪に問うつもりはないが、二度とこんな真似はするな。それと、今の話は絶対に他の誰にもするな。お前の首が危うくなる、いいな」
男は平伏したまま恐る恐る顔を上げ、若者のほうを伺った。
 「どうすればいいんで」
 「牛は自分で戻ってきたことにすればいい。今日の当番に見つからないよう、柵に戻せ」
それからがちょっとした重労働だった。夜を待って崖の上から牛を傷つけないよう下ろし、二人がかりで人目を避けて王家の囲いまで引いていった。牛は大人しく、先導役の黒犬が周囲を見張ってくれていたお陰で誰にも見つからずに牧草地まで戻ってくることが出来た。番犬たちは目を覚ましたが、見慣れた農夫に安心して、すぐにまた目を閉じてしまう。
 「さ、行け」
肉づきのよい牛の尻を叩くと、まだらの雄牛は一声、小さく鳴いてラーネフェルをちらりと見、のそのそと柵の奥へと入って行った。農夫も、恐れ入った様子で何度も何度も振り返ってお辞儀をしながら、町はずれの自分の家のほうへと消えていった。

 月が道を照らし出していた。
 町へ向かう道すがら、ラーネフェルは、意味ありげにこちらを振り返ってきた雄牛の黒い瞳を思い出していた。
 「あいつ、もう逃げようと思わないだろうか。他の誰かにも夢で話しかけたりは――」
 『それはもう無い』
 「何故そう思う?」
 『洞窟に閉じ込められるのは、もうこりごりだとさ』
彼は少し先をゆく影の無い黒犬の、ぴんと立てた尾に視線をやった。最初は真っ黒だと思っていた尾は、今では半分以上、灰色に変わっている。白い月明かりに照らされたそれは、かすかに銀色に輝いて見える。
 『時に、聖牛の犠牲の祭りには、お前も出るのか?』
 「ああ、一応な。母上が行きたがる以上、一緒に行くことになるだろう」
黒犬が振り返った。意味ありげな金の目が、何かを期待するように彼を見た。
 『…ならば、あいつの顛末を見届けてやることだな。』
 「何?」
軽い足取りで、黒い背中は先へ先へと町への帰り路を急ぐ。ラーネフェルも、二本の足で出来る限り早く犬のあとを追った。もう、遅い時間だ。普段はこんなに遅くまで出歩くことはない。特に門限が決められているわけではなかったが、うるさく出かけた先を聞かれずに済むという理由から、父の帰宅前に家にいることが習慣になっていた。
 日が落ちると、町の様相は一変する。
 下町の狭い通りは早くも酔っ払いで溢れ、下品な呼び込みやいかがわしい声があちこちから聞こえてくる。酔ったふりをしてぶつかってきては、難癖をつけようとする輩もいる。ラーネフェルはいつもの近道をやめて、貧民街を通らずに表通りへと足を向けた。何も敢えて騒動に首を突っ込む必要はあるまい。
 それにしても、もう夜も遅いというのに何という活気だろう。
 もともと都の住人は宵っ張りだが、今は年に一度の大祭が近いとあって、各地から集まってきた人々も加わって通りはごったがえしている。月明かりの下に露店がいくつも店を出し、おぼろげな灯りの下で商売をしている。あちこちの店から漏れる光は、酒場の灯りだ。大通りを歩くラーネフェルの足元を、人知れず犬が付き従う。


 妙な気配を感じたのは、大通りに入ってしばらく経った頃だった。
 誰かが後をつかず離れずついてくる。物取りだろうか? それにしては、随分稚拙な尾行だ。足元の黒犬も気づいているようだが、そしらぬふりをしている。いつも携えている杖の鉤のように曲がった持ち手にそれとなく力を込めながら、彼は、おもむろに狭い路地へ滑り込んで物陰に身を隠した。ほどなくして、慌てた足取りが近づいてきた。現れたのは、どこかの下男らしい、清潔だが質素な身なりをした、髪を短く刈り込んだ男だった。きょろきょろと辺りを見回しながら、ラーネフェルのところまでやって来た。
 「誰を探している」
 「ひゃあっ」
男は気の毒なほど驚いて、腰を抜かした。ラーネフェルは、素早く目の前の男を検分した。武器のたぐいは持っていない。仲間もいないようだ。
 「そう驚くな。父に言われて探しに来たのか?」
そんなことは今までにも何度かあった。過保護ゆえか、定職につかずふらふらしている息子の行動を危惧してか、尾行をつけられるか、家の召使が遣されることは珍しくない。
 「いえ、あの…。うちのお嬢さんが、下町に出入りしている杖を持った貴族をお探しだったもので…」
 「何故?」
 「何でも以前、道に迷ったところを助けていただいたとか」
 「ああ、あの娘か」
ラーネフェルは、つい先ごろ助けた、長い髪の少女を思い出した。絡んでいたごろつきを大人しくさせている間に、姿が消えていたのだ。
 「無事だったなら安心した。礼など必要ない、次から気をつけるようにと伝えてくれ」
 「はい、あの、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか」
 「名乗るほどのこともないが…」言いかけて、その下男の表情を見て、彼はちょっと考えた。「…ラーネフェルだ。よろしく伝えてくれ」
その場を後に、家に帰り着いたのはそれから間もなくのこと。父や兄はもう食事を終えて自室に下がっていたが、母だけは待っていてくれた。いつもより遅い夕餉を終えて自室に引き下がると、彼はいつものように黒犬のために余計に貰ってきた食物を卓の上に置いた。
 明日になれば、牛が柵に戻っていることは知れる。牢に入れられているハルは、無罪放免になるはずだ。早く、ティアを安心させてやりたい。それから――
 「お前の問題のほうも、どうにかしないとな」
ラーネフェルは、床に腰を下ろして食事をしている黒犬の頭に手をやった。指先に感じる、生身の犬と同じような短い毛の感触。そこに存在しないはずなのに、黒犬の体からは、闇の中でもかすかな熱を感じた。


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