【白蛇の章 3】


 少女は、長い髪を靡かせながら滑るように広大な神殿の中を歩いてゆく。光差す聖池のある中庭、ヤシが木陰を作る石畳の参道、厨房脇の小道。スイレンを象った丸い太い柱を手のひらでなぞり、くるりと回って周囲を見回し、薄暗い礼拝堂へ。そこは、新入りの少女神官たちの教育に使われることがあるくらいで普段は使われていない、古い建物だった。六角の無骨な柱が作る張り出し屋根の奥には、埃っぽい、ひんやりとした空間が広がっている。
 「あら、ここもいっぱいなのね」
ムトノジュメトは、驚いて足元を見回した。いつもはからっぽの礼拝堂の中には、ところ狭しと樽や箱が積み上げられている。大祭に訪れた祈願者からの奉納品の山だ。宝物庫に入りきらなくて、こうして空いている部屋まで臨時の倉庫として使われているのだろう。
 二の腕に巻きついていた白蛇が、するりと首をもたげた。
 『ここは何?』
 「見て」
少女は、壁面を指した。彩色は殆ど落ちているが、高い天井までいっぱいに描かれた浮き彫りの輪郭は、両脇の入り口から差し込む表の光にくっきりと浮かび上がって見える。
 「この壁には、神様が沢山描かれてるのよ。新米の頃に神様の名前を覚えさせられる授業でよく来てたわ。蛇の神様もいるの」
 『ふうん。”冥界の書”ね』
蛇は、ちろちろと舌を出した。浮き彫りの上のほうには、建物を作らせた大昔の王が、王妃とともに捧げものを持って立ち、その向かいに冥界の神々が並んで立っている。神の姿は、様々だ。人の姿をしたもの、鳥の頭を持つもの、犬の頭をもつもの、頭の二つあるもの、蛇の体をもつもの。
 「ここなら、あなたがいるかと思って。ほら、あれは蛇の女神様ね。えっと、名前は…ウア…ウア…ジェ…ト」
 『緑なる蛇ですね』
 「違う?」
 『そのようです』
 「それじゃあ、…こっちかな。メル…ト…メルトセゲル…」
 『静寂の蛇、彼女は西の地の女神』
 「そう。じゃあ、こっちはどう? ええと…、レネ…ヌテト」
 『違います』
 「ううん、そうなのね。他には…えっと」
 『ムトノジュメト、ムトノジュメト。』
蛇は、申し訳無さそうに首をもたげる。『私は名前とともに姿も失ったのです。この姿が正しいとは限らないんですよ。』
 「ああ、そうなのね。ごめんなさい、私、蛇の姿をした女神様を探せばいいんだと…」
 『いいえ。あなたのせいではない』
ため息をついて、少女は、目の前の大きな浮き彫りの一枚絵を見上げた。礼拝する王と向き合う、様々な神の姿と名前。しかしこれらの神々は有名なものばかりで、どの神も名をよく知られている。そもそもが、こんな分かりやすいところに描かれている神が、名や姿を失ってしまうわけがない。
 『落ち込まないで、ムトノジュメト。私は、この絵は好きですよ。仲間がいる気はするんです』
白蛇が、するすると肩の辺りに這い上がってくる。
 「本当? ねえ、知っている神様はいるの」
 『知っている、という意味なら皆知っていますよ。同じ世界に住まう存在ですからね。でも――』蛇は、赤い目をすっと細めた。『――これは過去でしかありません』
 「そうよ、これは昔の王様の絵だけれど、あなた――」
言いかけたムトノジュメトは、入り口で砂利を踏む音がしたのに気づいて口を閉ざした。手に燭台を持ち、姿を見せたのは、書記のしるしのたすきを肩からかけた若い男だ。灯りを持ち上げ、少女の姿に気づいた男は、驚いたような顔をした。
 「そこで何をしている」
 「あの、…えっと、この絵を見に」
 「絵? ああ」
燭台を壁に向けた男は、頷いた。「神々への拝礼図か。神官たちの訓練に使うんだったな、これは」それから、再びムトノジュメトのほうに視線を戻した。「君は、神官長殿の娘さんだったね」 
 「えっ?」
ムトノジュメトは、目を凝らして男をよく見た。確かにその顔は、おぼろげに記憶がある。
 「ああ…、今日の昼間、すれ違いましたよね」
 「今日が初めてというわけじゃないがね。」
苦笑しながら、男は腰に挟んでいた巻物を抜いて、側の卓に置いた。気が付けば、辺りはもう薄暗くなり始めている。燭台の明かりが無ければ、書き物をする手元が見えないのだ。
 「まだお仕事なんですか」
 「そう、目録が作り終わらなくてね。この季節はいつもそうだ。」
卓の前の敷物に腰を下ろし、男は文字を書くためのパレットを準備し始めた。日焼けしていない白い腕が、明かりの中でやけに浮き上がって見え、蛇の体を思い起こさせた。
 そう、蛇が目の前に現れたのは、確かこの男性とすれ違ったときだ。
 「あの…今日、運んでいた立派な櫃は、あれも奉納品なんですか」
 「ん? ああ、そうだな。あれは確か」巻き物をめくる。「――王家からの寄進物だな。まだ中身はあらためていないが、貴重な品が多いと聞く。」
 「王家からの…」
ムトノジュメトは、壁を見上げた。神々と向かい合う王の姿。その後ろに一回り小さな姿で従う王妃。何度も見ていたその壁画の中で、教師の神官たちが説明してくれたのは、王と向き合う神々の名前だけだった。
 「あのう、…サナクト、さんでしたっけ」
男は、ちらと顔を上げる。少女は壁を見つめている。
 「この壁画で、王妃様が身に着けている、あれはなんていうんです?」
 「あれ?」
サナクトは、燭台を持ち上げて、少女の指差すものを照らした。
 「ああ、頭に巻いてるあれか。あれは――」


 さわさわと、ヤシの木の揺れる音が聞こえる。少し風が出てきたようだ。砂漠から吹く風は川を渡り、神殿の中にも、その奥にある神官たちの宿舎にも、静かに夜の気配を運んでくる。
 ムトノジュメトは、シーツだけを広げた寝台の端に腰掛けて、目の前の椅子の上でとぐろを巻いている蛇の姿をぼんやりと眺めていた。それはもう、白蛇ではなかった。赤い双眸はそのままに、きらめく金色のうろこを持つ、大きなコブラの姿に変貌していた。
 「立ち上がるもの<イアーレト>…それが、元のあなたなのね」
 『そのようです』
蛇は得意げに舌をちらつかせ、胸を張った。『ああ、ようやく思い出せました。私は炎なるもの、高貴な女性の額を守るもの、太陽の目なる蛇です。かつては偉大なる王妃の身を守っていました』
 「王妃?」
 『ええ、でもその人はオシリスの国へ行ってしまいました。月と太陽が五千回は巡るほど前に』
指折り数え、ムトノジュメトはため息をついた。
 「ほとんど私の歳と一緒ね、ずいぶん昔だわ」
サナクトが教えてくれた蛇の名は、王家の女性たちが身に着ける「守り神」の蛇、イアーレトだった。その名を聞いたとたん、白蛇は突然身もだえしはじめ、ムトノジュメトは慌てて蛇をスカートのひだに隠して建物の外へ飛び出したのだった。そうして、誰にも見つからないよう大慌てで部屋へかけ戻ってきて、スカートを広げてみると、白蛇は立派な金の聖蛇になっていたのだ。
 「王妃様の冠だったのね。それで、今はもう王家に女の子はいないから、神殿に寄贈されたんだわ」
 『かもしれません。人間の都合は私には分かりませんから』
言いながら、蛇は体をくねらせ、自分の姿を確かめる。『…ううん、この姿も落ち着かないですね。ムトノジュメト』
 「はい? …え、あ、ちょっと」
 『じっとしていてください。』
するすると膝から背中、肩から額へと這い登ってきた蛇は、そのままくるりと少女の額を巻いて、鉢巻のようにからみついてしまった。額のあたりから、舌をつきだすシャッ、という音とともに声が聞こえる。
 『おお、これならしっくりきます』
 「あたしは違和感あるわ、蛇の額飾りだなんて。それがあなたの元の姿だとしても、あなたが居るべきは王妃様か王女様の額でしょう。降りて頂戴」
 『うーむ。ここが居心地いいのですけれどねえ』
ぼやきながら、蛇は渋々と言った様子で体を解き、少女の膝まで降りてくる。
 「でも、どうしてあなたは目覚めたのかしら」
 『さあ、どうしてでしょう』
蛇自身も首を傾げている。
 「王様はお年頃だって聞くし、そろそろ王妃様を迎えられるのかもしれないわね」
 『かもしれません。』
シャラシャラと音を立てる尾を振りながら、蛇はまた元の丸椅子の上にとぐろを巻いた。
 『ムトノジュメト、あなたは孤児だといっていましたが、両親はいないのですか?』
 「ええ。生まれた時から”大神殿”にいて、神官の見習いをしていたわ。今は神官長様の養女なの。」
 『本当の家族は?』
 「…何もしらない。でも、もしかしたら一人だけ、家族がいるんじゃないかって、…そんな気がしてるの。おかしいでしょう。あたしは赤ん坊の時からずっとこの神殿にして、親もいない捨て子だったのに」
蛇は首をかしげ、考え込むような素振りをする。ムトノジュメトは、一つ小さくため息をついた。
 「さて、今日はもう休みましょう。少し疲れちゃった」
上着を脱ぎ、灯りを消して寝台の上に横たわる。闇の中、しゃらしゃらと音がして、蛇が枕の側にやってくるのが分かった。肩の辺りが暖かい。蛇自体が、かすかに熱を発しているのだ。
 掛け布を肩まで引き上げて瞳を閉じると、すぐに闇の奥から眠りの手が伸びてきて、彼女の意識を連れてゆこうとする。


 ――その夜、ムトノジュメトは夢を見た。

 遠い昔の、今はもうほとんど思い出せなくなっていた、懐かしい記憶。緑の草に覆われた地面の上を転げ笑って笑いあう子供たち、白い壁に囲まれた庭の真ん中には鮮やかな色に塗られた祠堂がそびえている。
 「おばあちゃん!」
少年が叫び、祠堂の作る日陰に腰掛けている老女に向かっててを振って走り出す。
 (待って)
少年の走るのは早くて追いつけない。けんめいに追いつこうとするのに、長いスカートの裾が足にからまって、巧く走れない。しまいにぺたんと転んでしまって、膝を石にぶつけた。
 (痛いよ)
振り返った少年が、驚いた顔をして、慌てて駆け戻ってくる。泣きじゃくりながら差し伸べた泥のついた手を、日焼けした丸っこい手がつかみ、勢い良く引っ張って立たせてくれる。それから、しゃがんでくるりと背を向ける。
 「ほら、おぶされ」
 (うん)
日に焼けた背中は、太陽の光と汗の匂いがした。
 「しっかりつかまってろよ」
肩越しに見る庭の風景は、いつもより少しだけ違って見えた。その真新しさに、膝の痛みも忘れ、泥だらけの手で少年の白い麻布の肩のあたりをしっかりと摑んだまま、辺りをぐるのと見回した。いつも見ている白い壁、高い空、でも庭は、いつもよりほんの少し小さく感じられる。
 いつまでもそうしていたかったのに、誰かがやってきて、少年は老女とともに去っていこうとする。別れたくなくていやいやをしていると、老女は困ったような顔をしてやってきて、頭を撫でながら言うのだ。
 「ごめんね、大人になるまで辛抱しててちょうだい。いつかきっと、お兄ちゃんと一緒に暮らせるようになるから」
 (ほんとに?)
 「ほんとよ、いい子にしてればね。大人になったら――」
萎びた骨のような指が涙を拭い、優しい目をした老女は、にっこり微笑んで抱きしめてくれる。疑うことを知らない幼心で、その時、思ったのだ。大人になるまで我慢すれば、家族と一緒に暮らせる。だから絶対に忘れまい、と。

 そうだ、思い出した。

 あの日、あの出来事は本当にあったことだった。そしてずっと覚えていたのは、あの時、決して忘れまいと心に誓ったからだったのだ。


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