【白蛇の章 2】


 翌日が待ち遠しかった。
 朝の勤めを終えて、ワティと合流するとき、胸が高鳴っていたのを隠し通せたかどうかは定かでは無い。だが、目を合わせるなり、ワティの
 「見つけたわよ」
という一言が耳に届いたとき、彼女は確かに、自分は微笑んでいたと思った。
 「あの人はねえ、”杖の貴人”って呼ばれてるみたい。その界隈じゃ有名人みたいよ」
 「杖の…?」
 「そ、いつも鉤みたいに持ち手の曲がった杖を持っているから。足が悪いわけじゃないみたい、武器の代わりなのね。その杖で刃物を持った相手でも簡単に倒しちゃうんですって! すごく強いみたい。で、あそこらへんに昔からいる住人は、敢えて手は出さなくなったんだって。」
 「あの人は、よく行くの? あの辺に」
 「さあ。誰も詳しいことは知らないの。でも、犯罪に手を染めてるわけじゃなさそうよ。娼婦とも、博打打ちとも関りあいになったことはないって。ただ通り過ぎるだけ、それもわざわざ貧民街をね。変わった人よ。」
ムトノジュメトがほっとした顔になるのに気づいて、ワティは意地悪い笑みを浮かべた。
 「やっぱり気になるんじゃない、その人のこと」
 「違うの。途中で逃げちゃったから、あのあと怪我をしてたら困るなって思ってただけよ。それに、お礼が言いたくて。…その人って、どこに住んでるのかしら」
 「あー、そこまでは調べてもらってないわねえ。だけど多分、貴族街ね。目立つ人だから、そのへんで聞けば分かりそうだけど」
 「貴族街…」
そこが、王宮と、大神殿の表門側の通りの間に広がる場所だ、ということは知っている。
 「あんた、自分で探しに行こうなんて思わないことね。また迷子になるわよ」
 「行かないわよ、もう…」
 「心配しないで。ちゃあんと調べてきてあげるから。ね? 親友の恋のお相手ですもの、それはしっかりと身元調査を…」
 「だから、違うんだってば! そういうんじゃ」
ワティをはたく真似をしながら、ムトノジュメトは、ふと、あの時見た広い背中を思い出していた。――あの背中だ。知っているような気がしたのは…。
 それは、二歳か、三歳か――幼い頃のおぼろげな記憶の一つだった。繰り返し思い出すたびに少しずつ色あせてゆく、今となっては遠い記憶。
 多分、今と同じ春の季節だったと思う。暖かな光の挿す緑の中庭、彼女は年上の男の子と遊んでいる。近くには年老いた女の人がいて、二人が仲良く遊んでいるのを見守ってくれている。男の子は彼女をおんぶして、いつもより少しだけ高いところを見せてくれた。あの時の広い背中。いつまでもおぶさっていたいと思った、暖かさ…。
 あれが本当の家族かも知れないと、いつしかそんな風に思うようになっていた。けれど現実のムトノジュメトは間違いなく、赤ん坊の頃からずっと神殿の中で育った、身寄りの無い子供なのだった。
 実の兄でなくてもせめて、あのとき遊んでくれた男の子が誰だったのか思い出せればいいのに。
 それとも、あれは家族を欲しがった幼い頃の自分が見た、ただの夢なのだろうか。


 大祭の日が近づき、大神殿はどこも大忙しだった。
 近隣の町はもちろんのこと、遠方からも、異国からも大勢の人が訪れる。大神殿より担ぎ出される大神とその家族の神像を見られるのは、一年のうち、この祭りの時だけだからだ。もっとも、像は輿に載せられて、御簾で覆われているのだが。
 神官の衣装となる白い布を抱えて渡り廊下に差し掛かったムトノジュメトは、若い女性神官たちが廊下の一角に輪になって、ヒソヒソ話しているのに気がついた。
 「ほんとに? どうするの? 代理なんていないんでしょう」
 「他のじゃだめなのかしら」
興味から、彼女は噂の輪に近づいていった。
 「何の話をしてるの?」
 「あら、知らないの? 太陽神様への捧げものの牛が、盗まれたのよ!」
 「捧げものの牛? 聖牛<アピス>が?」
 「そうよ、犯人は捕まったけど、牛は食べられちゃったらしくて、戻ってきてないんだって。」
 「どうするのかしらね。」
 「やっぱり代理の牛を連れてくるしかないわよ。儀式をなしにするなんてできないでしょう」
 「でも…」
女性神官たちの噂話は、留まるところを知らない。本当だとすれば、大変なことだ。聖牛を捧げる儀式は、祭りの重要な部分を占める。この儀式のために、選りすぐった雄牛を大切に育てているのだ。と、そこへ、神殿への奉納品を抱えた人足を従えた若い書記が姿を表した。
 「こらこら、君たち。そんなところでサボってないで。」
 「きゃっ、サナクト様」
とたんに、今まで輪になっていた若い女性神官たちが媚びたような声を上げてさあっと散らばる。あまりにいつもと違う態度に、ムトノジュメトはきょとんとしてその場に立ち尽くしている。
 「君もだ。その布は奥の詰め所行きだろう。早く届けてやってくれ」
 「あ、はい」
ムトノジュメトは軽くお辞儀しながら、通り過ぎてゆく書記と人足たちを見送った。人足たちが担いでいる重たそうな櫃は、香木で出来た上質なもの。王族か、どこかの有力な貴族からの奉納品だろう。箱だけでなく中身も高価なものに違いない。櫃が通り過ぎていく。一つ、二つ… 三つ目の端から白い布のようなものが垂れて、ひらひらと揺れている。
 (あら?)
彼女は、目を凝らした。細い布、いや紐のようなもの――それは、すっと鎌首をもたげ、赤く光る目でこちらを見た。
 (…蛇?)
するっ、と紐が床に落ちた。視線はその動きを追っている。くねくねと、まるで生き物のように動いて、ゆっくりと、こちらへ這ってくる――
 肩が摑まれ、ゆさぶられた。
 「ちょっと、あなた。ムトノジュメト。」
 「え? あ」
 「失礼よ。見つめすぎ」
 「見つめるって」
 「サナクト様よぉ。いくら格好いいからって!」
 「そうよそうよ、私たちみんな狙ってるんだからねっ」
 「え? え?」
いつの間にか、さっきの若い女性神官たちに取り囲まれている。
 「あの人…サナクトっていうの?」
 「知らなかったの? 大臣の、フネフェル様のとこのご長男よ! 神殿づとめの書記の中じゃ一番家柄がいいし、おまけに若くて独身よー」
 「陛下の覚えもめでたいらしいわ。絶対出世するわよ、ね。顔も悪くないし」
 「はあー、お近づきになりたぁい」
一人は、うっとりとした様子で腰をくねらせ、もう一人は両手を組み合わせて頬を緩ませる。
 神殿づとめの若い男性は何人もいるが、ムトノジュメトにとっては、そのほぼ全員が興味の対象外で、名前を覚えているのは養父を含め数人程度、それ以外は顔すらうろ覚えという有様だ。そもそも、人の顔を真っ向から見つめたことが余り無いのだった。視線が合いそうになると、反射的に逸らしてしまう。それは、自分が身寄りの無い孤児だというところから来る引け目からでもあった。ワティもそうだが、同じ年頃の女の子たちは、普段こんな風に男の人のことを見ているのか。
 「…それじゃあたし、もう行くわね」
歩き出そうとして、ふと、ムトノジュメトはさっき見た白い紐――蛇のようなもののことを思い出して、足元を確かめた。だが、それらしいものは床のどこにも落ちていない。見間違いだったのだろうか。

 洗い立ての布を神官の詰め所に届け終えた後、ムトノジュメトは、大祭用の衣装の仕上げをしようと部屋に戻った。結局、髪飾りは髪の中に編みこむことにした。そうすれば半分は隠せるし、別の髪飾りを選ぶ言い訳もしなくて済む。養父の神官長は大祭の日のお披露目を楽しみにしている。がっかりさせるようなことは、したくなかった。
 部屋は上級神官たちの住まう一角にあり、同じ年頃の女性神官たちのものより広くて立派だ。神官長の養女として相応しい待遇を受けているのだが、今でもれに馴染めない。ここが、本来自分のいるべき場所ではないような気がして仕方が無い。ひとつため息をついて、衣装の前に置いた小さな丸い椅子に腰を下ろしたときだった。
 『なかなか素敵な衣装じゃないですか。でも、もうちょっと派手でもいいかもしれませんね』
 「…?」
彼女は、腰を浮かせて辺りを見回した。部屋には誰もいなかったはずだ。今も、誰も居ない。
 『ここですよ、ここ』
声は、すぐ側から聞こえてくる。はっとして、足元に視線をやる。まさか。
 「あっ…?!」
するすると、足首に巻かれていた白い紐が解けて床の上に落ち、蛇の姿に変わる。いつの間に。
 「あなた、さっきの」
 『こんにちは、お姫様。会えてよかったわ、ずっと探していたんですよ』
 「お姫様って。それに、私を探していたってどういうこと?」
 『さあ』
真っ白な蛇は、体をくねらせ、器用にとぐろを巻いた。太陽の光が規則正しく並んだうろこに反射して、それを金色に輝かせている。
 『私は名と存在を失って久しいんです。それを取り戻してくれる人をずっと探していました』
 「名と、存在…?」
 『私が何者で、何なのかということですよ、お姫様。それを取り戻すには、あなたの協力が必要なんです』
ムトノジュメトは、困ったように形のよい眉を寄せた。
 「私はムトノジュメトよ、姫じゃないわ。ここの神官長様の養女で、…みなしごなの。」
 『そうなんですか? お上品だし、私のことが見えるものですから、てっきりお姫様だと思ったのに』
 「ごめんなさいね。期待されたほどいい身分じゃなくて。この国にはお姫様はいないわ。王様には、まだ子供がいないの」
蛇は、床に巻いたとぐろの上からじっと少女を見上げた。赤い双眸はまるでルビーのようで鮮やかな色に輝いている。ムトノジュメトは、思わず俯いた。
 「…あの、そういうわけだから、あまり力になれると思わないんだけれど」
 『いえ、あなたにお願いしたいんですよムトノジュメト。あなたでなければ駄目なんです。神殿に潜り込んではみたけれど、私の姿が見える人間はあなただけのようですから』
蛇は鎌首をもたげ、白い舌をちろちろと出す。
 『どうやら、あなたは私の存在に共鳴するところがあるらしい。手伝ってくれませんか』
 「えっと――でも」
ムトノジュメトは、スカートの裾を握り締めた。「あなたは――きっと、神様のお使いでしょう? どうして、私なんかが」
 『それにお答えすることは出来ません。私が何者で、何だったのか、今は私自身にも分からないのですから』
少女は、落ち着かなく視線を部屋の中に彷徨わせた。ここはムト女神の神域だ。そこへ出入りできるのだから、この蛇は悪霊の類ではあるまい。だが、他に上級神官たちも大勢いるだろう神殿の中で、自分にだけ見えているとは、一体どういうことなのだろう。それに、名と姿を失って久しいとは一体。「名」は、霊の本質でもある。人も神も、忘れ去られれば消えてしまう。名を失うとは信仰を失うこと、すなわち、存在しないものになっていなければならない。
 そんなムトノジュメトの逡巡に気づいたのか、蛇は、少しとぐろをほぐし、凝視していた視線を逸らした。
 『私はずっと眠っていたのです。』
 「眠っていた?」
 『ええ、ずっと必要とされていなかった。私が目覚めたということは、私の果たすべき役割が出来たということ。けれど、長く眠り過ぎたせいで、それが何だったのかさえ思い出せない――』
 「それは――、辛いわね」
ムトノジュメトは、胸元で手を握り締めた。自分が何ものだか分からないというのは、不安なものだ。今の自分と同じことだ。
 「…分かったわ。協力してあげる。でも、どうすればいいのかしら」
 『名前か姿があれば、それか自分のものか私には分かります』
小さく頷いて、少女は床にかがみこみ、蛇の体をすくいあげた。
 「腕に絡まって。探しにいきましょう、あなたの名前を」


前へTOP次へ