【白蛇の章 1】


 はっとして、ムトノジュメトは周囲を見回した。
 誰もいるはずのない暗がりの中に一人。まだ朝早いこの時間、彼女以外に人の気配はなく、辺りは静まり返っている。気のせいだ。ここのところ、ずっと誰かに話しかけられているような気がするのは、きっと疲れているせいなのだ。
 ランプに照らされた手元に視線を戻すと、彼女は、元の作業、すなわち祭壇の拭き掃除へと意識を引き戻した。
 "大神殿"。
 ただ一言、そのように言えば、それが都の守護神アメンの館だと誰にでも分かる。この国最大の神殿の一つ。入り口に立つ一対の太陽の柱からして桁外れなそこには、日々神殿を洗い清め、神事を執り行うために住み込んでいる大勢の神職者がいる。ムトノジュメトもその一人、"清められし者"の肩書きを持つ下級の神官。そしてもうすぐ、次の誕生日を越えれば、晴れて公の神事に参列することを許され、"神の唄い手"の称号を得られるはずだった。
 日課となった作業を終え、盥を手に暗がりの外へ出ると、ちょうど中庭を掃き清めていた同僚の女性神官と目が合った。幼馴染のワティ、三ヶ月ごとに一ヶ月だけ町から通ってきている、臨時雇いの当番神官だ。ここはアメン大神殿の一角にある、アメン神の妻ムト女神のための小神殿の奥。神の女神の座所に出入りできるのは、女性たちだけと決められている。
 「そっちは、もう終わり?」
 「うん。今日もいい天気ね」
ワティは空を見上げ、くすっと小さく笑った。
 「ずっといい天気よ、この季節はね。曇ったことなんて無いじゃない」
そろそろ、他の掃除当番たちも仕事を終えて朝餉をとりに向かう頃合だ。神殿での朝餉は小麦を潰した粥とヤギのミルクか果物と決まっている。ビールは飲まない。ビールが出されるのは、夜と祭りの日だけだ。
 水の入った盥の始末を終えて中庭に戻ってくると、ワティが待ってくれていた。
 「それで? 今度の大祭、ムトノジュメトも出るんでしょ」 
 「うん」
 「髪飾りは決めたの? 衣装は?」
並んで歩きながら、ワティはうっとりとした表情をどこか遠い空に向ける。「いいなあ、大祭の巫女の衣装…綺麗なんだよなー真っ白で、ふわふわしてて。着てみたいけど、下町の娘じゃ儀式に出してくれないしなー」
 「あたしだって、…みなしごだよ」
 「でも今は、神官長さまの養女じゃないの。」
 「それは…」
ムトノジュメトは口ごもる。そう、彼女は、――本当の両親の顔も知らない。
 生まれてまもなく神殿の前に捨てられていた孤児だと聞かされていた。子供のないまま妻に先立たれた神官長の養女に取り上げられたのは、七年前のことだ。他の孤児たち同様、神殿の片隅で寝起きし、掃除や雑用を言いつけられるだけの存在として生きていくはずだった彼女は、今では読み書きや計算の教育を受けさせられる、立派なご令嬢の身分になった。
 食堂の入り口が見えてくる。ムトノジュメトは、養父の命で長く伸ばしたまま、一度も剃刀をあてていない髪に指を絡ませた。
 「飾りは、なるべく質素なものにしようと思うの。目立ちたくないんだもの」
 「ええ、勿体無い! せっかくの晴れ舞台なのに。唄い手になったばかりの女の子は、最前列を貰えるのよ。町中の貴族だって集まるんだし、出来るだけ着飾っていかなくちゃ。もしかしたら、いい人に見つけてもらえるかもしれなくてよ」
 「そんなの無いってば」
少女は、顔を真っ赤にしてワティの背中を軽くはたくまねをする。ワティはというと、悪戯っぽく笑いながらその手をひらりとかわしていた。
 「あんた本当にウブね。ずっと神殿の中にいて、男の人とまともに話をしたこともないんだから」
 「そうよ。だから結婚なんてまだずっと先なの!」
 「お父様が決めてくれるわよ、きっとね。良い人を」
 「そう…」
少女の表情が曇った。「そうね… きっと…」
 それは良家の子女の宿命だ。婚期を迎えれば、すぐに縁組が決められる。逆らうことなど、出来はしない。
 「さあさ、朝ごはんにしましょ! おなかすいちゃったあ」
肩で短く切りそろえた黒髪を揺らしながら、元気いっぱい粥の列に突入してゆくワティは、そんなムトノジュメトの微かな不安には気づいてはくれなかった。


 朝餉を終えて町から来ていた当番神官たちが帰ってゆく頃、神殿は一般むけに開かれ、祈願者たちを受け入れるようになる。アメン神殿から続く大門が開かれ、町の住人や他所からの巡礼者たちが、お参りのためにどっと押し寄せてくるのだ。上級の女性神官たちは祈願者たちの相談を受け、奉納品を受け取り、時に依頼に応じて特別な祝詞をあげるなどの仕事に就く。下級の女性神官たちは、参拝者の案内をしたり、露店で花輪や護符を売ったりしている。ムトノジュメトのような年端も行かない少女たちには人目に触れる仕事は与えられず、大抵は、神殿の奥でひっそりと、表の露店で売るための花輪を作ったり編み物をしたりして夕方まで過ごす。
 ワティと別れたあと、ムトノジュメトは、次のお祭りで着るための衣装を縫う仕事に戻ろうとしていた。衣装はもうほとんど出来上がっていた。真っ白な薄い麻布を、体にぴったり合うように縫い目を入れてひだをつけた衣装。あとは、腰に巻くベルトの刺繍だけだ。それと髪飾り。養父が選んでくれた花のついた金の飾りはあまりに派手すぎて、彼女は好きになれなかった。どうにか理由をつけて、身に着けずにすます方法があればいい。もしそれがかなわなかった場合は、上から布を巻いて隠してしまおうと思案していた。
 そんなことを考えながら廊下を曲がったとき、顔見知りの年上の女性神官が彼女を呼び止めた。
 「ムトノジュメト! いいとこに来たわ。ちょっと手伝ってほしいの」
 「何ですか?」
 「この人、出口がわからなくなっちゃったみたいなの。連れて行ってあげてくれない?」
見れば、女性神官の側には困りきった様子の中年女性が、赤ん坊を抱えて立ち尽くしている。
 「上流の町から来たみたいなんだけど…、初めての大神殿が広すぎて、ご主人と待ち合わせしている出口が分からないんですって」
 「すいません、本当に。待ち合わせの場所…池の近くの大門、って聞いたんですけれど…。あの人はアメン神様の神殿へお参りに行っているはずなんです」
質素な身なりの女性は、まだ若い。抱いている赤ん坊は初めての子だろうか。
 「それならきっと、北東門ですね。ちょうど、このムト神殿の裏手ですよ。案内します」
 「お願いね、ムトノジュメト」
そう言って、年上の女性神官はもとの持ち場へ戻ってゆく。ムトノジュメトは、赤ん坊を抱いた女性を先導して歩き出した。
 「こちらへは、その赤ちゃんのご祈願に?」
 「ええ。この子が長寿でありますように、って。二度も流産して、ようやく無事に生まれた子なんです。だから――」
町の主神アメン神の息子、月の神コンス神は幼子の姿をした子供の守り神で、病を癒すとともに、新生児の余命を定めると信じられている。そのため、子供の長寿や無病息災を祈願しに来る参拝者が後をたたない。女の抱く子供の腕には、神殿で買い求めたばかりらしいお守りが、しっかりと紐でくくりつけられていた。
 日は高く照りつけ、神殿の外の参道は、どこも参拝者でごったがえしている。
 埃っぽい熱気に当てられた赤ん坊が目を覚まし、むずがりはじめた。
 「あらあら。ちょっと待って、ここじゃあ」
 「荷物を持っていますよ。そこの木陰にベンチがありますから」
ムトノジュメトは荷物を受け取り、女が、木陰で子供をあやすのをしばらく待っていた。しばらく風にあてて、乳をふくませたりしているうちに、子供は再び眠りに落ちたようだ。
 「大丈夫みたい。行きましょうか」
頷いて、ムトノジュメトは歩き出した。川から拭いてくる風が気持ちいい。こんな大勢の人が歩き回っている時間に、神殿の外に出るのは何時振りだろう。
 ヤシの木に囲まれた聖池を回ると、やがて行く手に、町に出る大門が見えてきた。
 「あそこですよ」
 「やっと着いたのね。」
ほっとした様子で視線をめぐらせていた女は、声を上げた。「いたわ。あれが主人よ!」
門の傍らの茣蓙の上で、サイコロ振りたちに混じっていた男が、こちらを見て片手を上げた。
 「遅かったじゃないか」
 「ごめんなさい、あんまり人が多くて、道に迷ってしまったものだから。神官さんに案内していただいたのよ」
 「ほう、そりゃお手間とらせたね」
 「いえ。」
ムトノジュメトは、にっこり笑って夫婦が連れ立って門を出てゆくのを見送った。念願の子宝に恵まれて、幸せそうな家族。コンス神が願いを聞いて、あの子に長寿を授けてくれればいいのに、と彼女は思った。子供のいない夫婦は悲しいものだ。墓を守ってくれる子がなければ、いずれ名は忘れ去られ、墓所は朽ち果てる。
 役目を終えて引き返そうとしたとき、彼女はふと、自分の腕にぶらさがっているものに気がついた。
 「あ! いけないっ」
道中で預かった、女の手提げ袋だ。別れる時、返すのを忘れていた。夫婦が門を後にしたのは、つい今しがたのこと。彼女は、慌てて門を飛び出した。
 だが、さっきの夫婦にはなかなか追いつけなかった。神殿への参拝客の流れに逆らっているため、人ごみに押し流されて、思うように動けないのもあった。おまけに、裾の長い神官のスカートを身に着けている。
 「すいません! そこの赤ちゃんを抱いた方、待ってください!」
叫びながら人ごみをかきわけて、なんとか息をきらせながら追いついたのは、大通りに入ったあたりでのこと。なんとか手提げを返し、ようやくほっと一息ついたとき、彼女は、唐突に気がついた。

 ――ここは、何処なのだろう。

 生まれてこの方、神殿を出たことなど数えるほどしかなかった。それも、せいぜい神殿から続く参道沿いの大通りくらいで、こんなに何度も曲がり角を曲がって遠くまで来たことなど一度もない。焦って背伸びしても、見慣れた神殿の屋根は、どこにも見えない。
 (落ち着いて。神殿は、町の真ん中にあるんだから。えっと、最後に曲がったのは…。)
ロバに引かせた馬車がイグサの束を積んで通り過ぎてゆく。重たい水がめを担いだ水売りが声を張り上げ、路地裏には毛並みの悪い野良犬が昼の熱を避けて寝そべっている。無秩序な雑踏は、くらくらするばかりだ。
 (とにかく、来た方向へ――)
けれど歩けども歩けども、行く手に神殿の壁は見えてこなかった。白い服に汗がじっとりと滲み、喉がからからになる。いつしか彼女は、追い立てるような町の喧騒を避けてより静かなほうへ、――それと気づかずに町外れの貧民外のほうへと足を向けていた。それに気がついたのは、足元の石畳がなくなって、排泄物のような嫌なにおいが漂ってくるのを嗅いだ時だ。
 周囲には、もはや綺麗に漆喰で塗られた壁はひとつもなく、崩れかけた日干し煉瓦の壁ばかりが不揃いにひしめきあっている。道は狭く、二階の窓から張り出された縄の先に、ボロ布のような洗濯物が揺れている。足元にはゴミが散らばり、狭い路地にはいやな匂いが充満していた。きょろきょろと辺りを見回しながら、どうやって戻ろうかと一歩踏み出したとき、
 「よう、姉ちゃん」
 「きゃっ」
ぬめっとした不愉快な手が、足首をつかんでいた。見れば、昼間から酒の匂いをぷんぷんさせた赤ら顔の男が、茣蓙の上に転がっている。
 「危ねぇじゃねーか。オレを踏んづけるつもりかい」
 「いえ、ごめんなさい。そんなつもりじゃあ…」
 「探し物かい? なんなら手伝ってやろうかね? ん?」
ねめつけるような視線が、彼女を下から上まで順繰りに見上げてゆく。背筋にぞくりとする感覚が走り、生まれてはじめて、他人に嫌悪感を覚えた。
 「いや…」
掠れた喉から搾り出すようにして、ムトノジュメトは悲鳴を挙げた。それは大通りまで届かせるにはあまりにか細かったが、今の彼女に出せる精一杯の声だった。
 「離して。離してください…」
その時だった。
 「おい」
どこからともなく、若い男の声が聞こえてきた。と、彼女のすぐ後ろから、杖の先が素早く伸びて、男の腕を強く突いた。はずみで手が離れ、少女は、数歩よろめいて向かい側の壁に背をぶつけた。広い背中が、彼女と男との間に割って入る。白い布、それに―― きちんと洗濯したぱかりの布の香り。ムトノジュメトは、おそるおそる、その背中の主を見上げた。後ろからでははっきりとは分からないが、若い男性のようだ。身なりからして、かなり身分のいい町人、それとも貴族だろうか。
 「何するんでえ!」
苛立った様子で起き上がった男は、「お」と小さな声を挙げて、たるみきった顔ににんまりと下品な笑みを浮かべた。相手の若い男が、これ見よがしに金の装身具を身に着けていることに気づいたからだ。
 「よう兄ちゃん、分かってるんだろうな、この町はな、あんたみたいな、お上品な旦那の来るところじゃねぇんだよ」
 「ああ、ようく知ってるさ。」
持ち手の曲がった杖を軽く振り回しながら、若い男はうんざりした様子で答えた。
 「ちょっと通り抜けたいだけだ。あんたのほうこそ、ここいらじゃ見かけない顔だな。新参か?」
 「それがどうしたってんでえ。おい!」
赤ら顔のならず者は、口に指を突っ込むと、鋭く二度、三度、吹き鳴らした。茣蓙の敷かれた通りの脇道でばたばたと足音が聞こえたかと思うと、あっという間に、数人のならず者たちが前後から、身なりのいい青年を取り囲む。
 「まったく、飛んで火に入るなんとやら―ーだぜ。おら、身包み剥いじまいな!」
それが合図だった。
 若者の動きは素早かった。ムトノジュメトが悲鳴を上げる間もあらばこそ、杖が魔法のようにくるりと回転したかと思うと、次の瞬間、一番近くにいた左右二人の男が、後ろ向けに吹っ飛んでいた。
 「んなっ?!」
仲間を呼び寄せて余裕の表情だった男の顔が、一変して青くなった。吹っ飛ばされたうちの一人は泡を吹いて気を失っており、もう一人は、鳩尾を抑えてのた打ち回っている。青年は、涼しい顔だ。
 「…まだやるのか?」
 「ぐぬぬ、この…!」
ならずものは、足元に転がっていた石を拾い上げるなり飛び掛ってゆく。青年は、ひらりひらりと避けながら、路地を出て広い場所へ、ムトノジュメトの張り付いている壁からは死角になっているあたりへと消えてゆく。足が震え、声も出ない。だが、このまま此処に居続けるわけにはいかない。彼女は、もつれる衣の裾をたくしあげながら無我夢中でもと来た方向へと走った。助けてくれた恩人へのお礼も言えず、ただ恐怖に涙を浮かべたままで。


 翌日、月当番のために神殿を訪れたワティは、ムトノジュメトから前日の話を聞いて、呆れた顔をした。
 「ええ? 町で迷ったって? ほんとに?」
 「だって…。まさか、神殿の外の町が、あんな広いなんて思っていなくて…。」
 「まったく、筋金いりの箱入り娘ねえ、あんたって。」
ひさしきり大笑いしたあと、ふいにワティは真面目な顔になった。
 「でも危なかったわね。あんたが迷い込んだって場所、そこ多分、貧民街よ。」
 「貧民街?」
 「そ、貧しくて、仕事もないような人たちが住むところ。流れ者も多いわ。盗賊や人攫いだっているし、お金のために人殺しだってやっちゃうような怖い連中もうろうろしてる。浚われるとこだったかもよ、あんた」
 「そんな…」
ムトノジュメトは、昨日の赤ら顔の男のねめつけるような視線を思い出して、背筋が寒くなる感覚を思い出した。もし、あの時、見知らぬ人が助けてしれていなかったらどうなっていたことか。
 「でも、逃げられてよかったわね」
 「う、うん。助けてくれた人がいるの。若い人で――強い人だった…」
 「あらあら、貧民街にそんな殊勝な善人がいたの?」
 「貧民、じゃないと思う。身なりが良かったし、それに金の腕輪もしてた。持ち手の曲がった杖を持っていて…。お金持ちか――貴族だと思う」
 「貴族? あんなとこに?」
 「お礼も言えなかったの、あたし。逃げるのに精一杯で、どこを探したらいいのかも分からないし…。」
 「はははーん」
ワティは、訳知り顔でにやにやと笑った。「さてはあんた、その助けてくれた王子様が気になるのね?」
 「そ、そういうわけじゃ…」
 「まーかせなさいって。あたし、その人探してあげるわ! 貧民街に出入りする貴族なんて変わり者、すぐ見つかるわよ。うちの下男に、そういうの得意なのがいるから! 心配しないで」
 「あ、ううん、そこまでしてくれなくても…。」
どんなに言っても、既にやる気満々のワティは思いとどまってくれそうにはなかった。半分は面白がっているのかもしれない。だが本当はムトノジュメトも、知りたいと思っていたのだ。

 ――あの人は、知らない人ではない気がする。

 どこかで会ったことがあるような気がする。何処かで…、遠い昔に…。


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