【黒犬の章 4】


 昼餉は要らない、と言って出てきた以上、いったん家に戻るつもりは無かった。
 東岸の町に戻ったラーネフェルが向かったのは貴族街の大通りから一歩外側へ出た「金打ち師小路」と呼ばれる界隈だった。ここいらは、都で最も活気に溢れる一画だ。元からここに住んでいる町人たちのほかに、遠方から物を売りにきた商人や、役人、旅人なども行き交い、異国人の姿もちらほら見える。中でもここ「金打ち師小路」は、王家と貴族たちのお抱え職人の暮らす細工師の工房の多い職人街で、きらびやかな装身具や珍しい金属器目当てに、大勢の人が訪れる。ラーネフェルの気に入りは武器工房だったが、今はその前を素通りする。目的地は、職人街の中ほどにある食堂だった。
 入っていくと、でっぷりとした店主が、カウンターの向こうで顔を上げた。
 「へい、いらっしゃい! …っと、若旦那じゃないですかい、久しぶりで」
 「やあ。久しぶりに、ここのスープが食いたくなってね」
店の中に生まれた小さなざわめきが、波が引くように収まっていく。身分違いの闖入者かと思われた人物が、店主の馴染みと知ってほっとしているのだ。薄暗い、お世辞にも清潔とは言えない店内でスープをすすっている多くは、職人街で安い賃金で働かされているふいご吹きや篭かつぎの労働者たちだ。彼らがこの食堂へやって来るのは他に選択肢がないからだが、ここのスープは安くて美味い。おまけに、キツい仕事をこなす労働者たちのために栄養もたっぷりだ。ラーネフェルは、自宅で出されるどんな料理より、ひびの入った皿で出されるスープが好きだった。
 いつも使っている奥の目立たない席に陣取ると、何も言わないうちから店主はスープとパン、それにビールを運んできた。ニンニクのたっぷり入った豆のスープは、すきっ腹にしみ込んでこの上なく美味い。
 「ご主人、景気はどうだい」
 「相変わらずでさあ。可も無く、不可もなく。王陛下がそろそろお年頃だってんで、もうじき婚約発表でもあるんじゃあないかって、細工師連中は期待してるみたいですがね」
 「ほう、その話は知らなかったな…。」
ラーネフェルは、毎年行われる大祭で何度か見かけたことのある、腰に乗った若き王の痩せた体を思い出していた。年は自分と同じくらいだろうか、生まれてまもなく、幼くして即位したという話で、実権は宰相や大臣たちが握っているという話だった。とても子孫を残すまで生き延びられそうも無い、か弱く、真っ白な肌をした若者だった。それでも、弱々しい細い腕に支配者の鞭と、王笏"ヘカ杖"を握り締めて正面を見据えていた。
 「子をなすには、結婚は遅すぎたようにも思うが」
 「ええまあ、王家の方はご結婚が早いものだし、あまりお丈夫なほうじゃないって話ですからねえ。しかしまあ、それをわしらが言っても仕方ありませんから。神々のご加護で、ご子息を授かるまで長生きしてもらわにゃあ」
スープをすすりながら、ふと、ラーネフェルは、足元に蹲っている黒犬のほうにちらと目をやった。
 「干し肉とパンを包んでくれないか」
 「へ? まだ、お食べになるんですか」
 「食べ盛りだからね」
ラーネフェルがにやりと笑うと、店主もにやりと笑って返した。「若旦那は健康そのもので、ようござんすね。若旦那もそろそろ嫁とりはなさらないんで?」
 「どうかな、うちは兄貴が先だろうね。」
他愛のない噂話を負え、くちくなった腹と包みを抱えて店を出ると、ラーネフェルは、裏通りの人気のない辺りまで来て、包みを広げた。足元から、するすると影のように黒犬が姿を表し、ひくひくと匂いをかぐ。
 「食べていいぞ。お前用に貰ってきた供物だからな」
そう言う前から、犬は既に食物を味わっているようだった。ラーネフェルの足元にちょこんと座って、なにやら口元をもぞもぞと動かしている。
 「さて、西岸では手がかりなしだったが、こちらでは何かあるかな。死者を祀る祠――新しく建てられたような話は聞いたことが無いが…」
 『言っておくが』
黒犬は、口元を動かしながらラーネフェルのほうを見上げた。『私は、死者のためにここにいるのではないぞ。』
 「ん? どういうことだ」
 『私がここにいるのは、生きている者への契約の義務からだ。今は昼の時間であろう?』
ラーネフェルは、あごに手を当てた。
 「――つまりお前は、死者の神、アヌビスの眷属ではない、と?」
 『それに答えることは、今の私には出来ない。だがお前は、何か勘違いをしている、…と思う』
 「……ふむ」
ひょいと包みを取り上げると、黒犬は抗議するように赤い口を開いた。まだ食事の途中だったらしい。彼はにやりと笑って、黒犬の頭に手をやる。
 「そんな顔してると、普通の犬みたいだぞ。」
手のひらを通じて伝わってくる、毛並みの感触と太陽の光を受けて宿した熱。ラーネフェルは驚いていったん手を離し、それから、改めて両手で犬の顔をつかんだ。
 『な、何をする』
 「いや。他の人間には見えないくせに、お前の感触はホンモノみたいなんだな、って。結構気持ちいいな、これ」
 『おい…』
黒犬は、困ったように前足を屈めたまま、尾をぱたつかせる。
 「不思議だな。闇の色をしてるのに、お前は太陽の匂いがする」
 『……。』
両手を離すと、ラーネフェルは杖と包みを持ち直して立ち上がった。
 「さて、ついでだ。ティアのところに寄っていくとするか」
 『ティア?』
 「昨日、お前に会う前に寄ってたところだ。俺の乳母なんだ。今日はハルもいるといいんだが…」
包みは、土産のつもりもあった。それに、ティアなら何か知っているかもしれない。何しろ黒犬が最初に現れたのは、ティアのところからの帰り道だったのだから。


 辿り慣れた小道を近づいていくにつれ、ラーネフェルは、何か違和感があるのに気がついた。ティアとハル親子の小さな小屋は昨日と同じようにそこにあったが、昨日は無かった大きなひびが壁に入っている。おまけに、戸口に蹲って頭を抱えている女の姿が見えた。
 「ティア!」
叫んで、ラーネフェルは坂道を駆け出した。嫌な予感がした。周囲の地面には何かを引きずったような跡と、大勢の人間が踏み荒らした気配が残っている。小屋に近づいたとき、ラーネフェルは確信した。そこで何かがあったのだ。家の周りには、砕け散った甕の破片が散らばり、入り口の茣蓙が引きちぎられて無残に砂にまみれている。
 「ティア! 何があったんだ。ハルは?」
 「ああ、…ぼ、坊ちゃん」
ティアは両手で覆っていた顔を僅かに上げた。目の周りには泣きはらしたような跡があり、一睡もしていないのか、ひどい隈が出来ていた。皺だらけの額には白い髪が垂れ、たった一晩でさらに二十も老けてしまったかのようだ。
 「ハルはどうした。夜盗にでも襲われたのか?」
 「違うんです、あの子が。ハルが盗みをしたと言って昨日、とつぜんお役人たちが押しかけてきたんです」
 「盗み?――」
 「はい、王家の囲いから一番よい斑牛を盗んだと言って。でもここには牛は見つからず、どこかへ隠したか売ってしまったんだろうと…ハルが否定すると、護衛兵たちがハルを連れていってしまったんです。――ああ、どうしてこんなことに。ハルは…そんなことする子じゃない…。」
 「勿論だ。きっと何かの間違いだ。すぐに取り戻すよ、心配要らない。」
取り乱した女の背をさすり、膝に食べ物の包みを抱えさせながら、ラーネフェルは素早く考えていた。
 牛泥棒と間違えられたのなら、その牛が見つかれば誤解は解けるはずだ。だがその前に、まずはハルに会わなくては。

 その足で取って返し、向かう先は町の中心部にある神殿の裏手に作られた衛兵詰め所だ。犯罪者を収容する牢も併設されている。入り口の左右には見張りが立っていたものの、一目で平民ではないと分かるラーネフェルを敢えて呼び止めようとはせず、怪訝そうな顔で見送る。詰め所の中に入ると、彼は室内を見回し、最も身なりのよい兵士長らしい男に真っ直ぐに近づいていった。
 「面会を申し込みたい。昨日、王家の囲いから牛を盗んだとして捕らえられた、ティアの息子ハルがここにいるだろう」
 「は? …」
男は、困惑したような顔で、側の書き物机に向かっていた書記官に向かって言った。
 「おい、そのような者はいるのか」
 「少々お待ちを」
書記はすぐ側の棚から巻物を取り上げる。「――ええ、いますね。昨日、収監されています。」
 「では面会を」
 「それは…規則で禁じられています。奴はいま取調べ中で、公判もまだです。」
 「なら立ち会ってくれ。彼とは友人だ。あいつは、牛泥棒は否認しているんだろう?」
書記は巻物をめくり、そうだ、と小さく頷いて見せる。
 「俺が聞けば本当のことを話すはずだ。あんたたちだって、仕事は速く終わったほうがいいんだろう」
男はそれを、ラーネフェルが自白させてくれるのだと解釈したらしい。
 「おい、書記。聞き取りの準備をして、ついてこい。…ところで、貴殿はどこのどちらさまかな」
 「フネフェルの息子、ラーネフェルだ」
 「は、大臣殿の」
とたんに男の顔がこわばり、ぴんと背筋を伸ばした。「それは、それは…ご足労いただき、まことに」
 ラーネフェルは苦笑した。こんなところでも、父の名は有効なのだ。今の国王のもとには何人かの大臣がいるが、フネフェルはその中でも、重要な国事を任される有力な文官だった。代々王家に仕えてきた名家と看做されている。だが彼は、父の名の威を借りることは好きではなかった。
 書記を伴い、連れて行かれた先は、建物の地下にある薄暗い穴倉のような牢屋だった。明り取り用の窓は地表に近い場所にしかなく、淀んだ空気が蟠り、足元の溝を流れる汚水のすえた匂いは鼻をつまみたくなるほどだ。
 牢の奥で人影が動いた。ぼんやりと壁にもたれかかっていた青年が力なく顔を上げる。癖のある短い髪に、そばかすだけらけの顔。体にはムチで打たれたらしいミミズ腫れが何箇所か、痛々しく赤く盛り上がっている。
 「ハル」
と、ラーネフェルが声をかけると、青年の頬が震えた。
 「…やあ、君か。どうしたんだい、こんなところに」
 「お前の話を聞きに来た。ティアが心配してたぞ。牛泥棒だって? なんでまた、そんな疑いをかけられる羽目になったんだ」
ハルは、小さく首を振って抱えた膝の上に額をつけた。
 「言ってくれ、ハル。このままじゃお前は一生ここから出られないぞ。何があった。昨日は漁に行っていたんじゃなかったのか?」
漁をする川辺と、王家の囲いのある牧草地は、かなり離れている。
 ラーネフェルは、手で合図して書記と兵士長を、こちらの声は聞こえるが、姿は見えない場所まで下がらせた。そのほうがハルも話しやすいと思ったのだ。
 「――夢を見たんだ」
見えるのがラーネフェルだけになると、ハルは、ぽつり、ぽつりと話し出した。
 「信じてもらえないかもしれないけど…、とても美しい牛が出てくる夢だった。死にたくないと…。王家の囲いにいる牛だと分かってた。それで、あの日、漁のあと、魚篭を持ったままちょっと寄ってみたんだ…」
ラーネフェルは驚いた。
 「寄ってみた? 王家の囲いに?」
きっとその姿は、誰かに見られていたに違いない。それでハルが疑われたのだ。
 「それからどうしたんだ」
 「柵の近くで… 牛の群れを眺めていた。そうしたら、あの牛が近づいてきたんだよ、ラーネフェル。信じられないだろ、綺麗な雄牛だった。斑模様がはっきりしてて、大きくて立派なツノがあって…。おれは目が離せなかったよ。ああ、とても綺麗な牛だった。真っ黒な目をしててね。その目を見てるうちに、吸い込まれそうな気がしてきて、それで」
 「それで?」
 「それだけさ。しばらく牛を眺めて、それからうちに帰った。牛がいなくなったと家に衛兵が押しかけてきたのは、その夜のことだよ」
 「つまりお前は、何もしていないんだな。」
 「そう。でもねラーネフェル、あの牛はきっと、あそこから逃げ出したかったんだと思う。おれはあの時、確かに牛になっていたんよ。牛の瞳に写った自分を見た時思ったんだ。ああ、こいつはおれだ。おれはこの牛なんだ、って。それで牛の気持ちが…」
 「ハル、ハル。この話は聞かれてる」
慌てて柵に近づきながら、ラーネフェルは小声で囁いた。「本当のことを言ってくれ。でないと、お前が牛を盗んだってことにされてしまう」
 「ああ、ごめんよ。そうだね、君にも信じて貰えないよね。おれだって信じられないんだ。でも、牛の気持ちのことはともかく、おれが何もしていないのは本当だ。柵を離れるまで、牛は確かにそこにいた――」
ごほん、と咳払いの音が聞こえた。ラーネフェルは、柵から身を離して、もう一度、ハルを見た。ハルは、黒い目でじっとラーネフェルを見返している。その目はおぼろげで、どこか遠いところを見ているようだ。一瞬、その瞳に何かが過ぎったような気がしたが、それ以上、ハルは何も言わなかった。疲れ果てているようにも見えた。
 「…分かった。お前がそういうなら、俺はそれを信じるしかない」
杖を握り締め、牢に背を向けて、彼は大股に歩き出した。すえた匂いが遠ざかってゆく。地上に上がったとたん、胸のあたりに吐き気が上ってくるのを感じた。
 「いやはや、昨日からあの調子なんですよ、奴は」
後から牢を出てきた兵士長は、困った様子で肩をすくめた。「牛が夢で話しかけてきた、とか。あんな言い訳をする囚人は、初めてですよ。頭は大丈夫ですかね?」
 じろりとラーネフェルに睨みつけられて、男はあわてて付けくわえた。
 「と、とにかく、あんなことを言ってますが、結局は自分がやったと認めているようなものですからな。牛はもう、食ってしまったのかもしれません。」
 「その場合、あいつはどうなるんだ」
 「そりゃあ、王家の牛を盗んだとなれば、極刑、縛り首ですよ。良くて耳と鼻を削いで鉱山送りか――」
 「……。」
罪が確定すれば、その処罰は妥当だと思えた。いなくなった牛が見つかれば刑は軽減されるはずだが、それでも真犯人が見つからない限りはハルは前科者の罪人だ。元通り、ティアと平和に暮らしてゆくことは出来ないだろう。

 詰め所を後にしたラーネフェルの足取りは重かった。ハルが牛を食った? そんなわけがない。一頭丸まるの牛を解体するなんて、慣れていたってそう簡単に出来るものではない。だが、牛の気持ちが分かったなどという話は、もっと信じられない。ともかく、じっとしているわけにはいかない。その気持ちだけが彼を動かしていた。
 家に辿り着くと、広間のほうから父の声が聞こえてきた。一日中歩き回ってすでにくたくただったが、ラーネフェルは自室へ向かわずに真っ直ぐ声のするほうへ歩いていった。話し相手は、珍しく母だった。仕事を終えて戻ってきたばかりといった様子で、ビールを片手に椅子にくつろいでいる。兄は、まだ戻ってきていないようだ。仕事が忙しいのだろうか。
 彼が姿を見せると、母は口を閉ざし、そっとフネフェルの傍らのクッションから立ち上がって壁際に退いた。
 「おお、ラーネフェル。どうした」
 「聞きたいことがあるんです」
言いながら父の向かいの椅子に腰を下ろす。「昨日、王家の囲いの中から牛が一頭消えた話をご存知ですか」
 「ああ、報告は受けている。次の大祭で使う予定だった聖牛だとか。」
 「その牛はまだ見つかっていないんですか?」
フネフェルは、眉を寄せた。
 「なぜそんなことを聞く」
 「容疑者として、その日、囲いの近くにいた男が捕らえられました。ティアの息子のハルです」
はっ、と小さく息を呑む声が聞こえた。メリエトは、蒼白な顔で窓枠を摑んでいる。
 「…犯人が捕まったという話は聞いている。だが、ティアの息子というのは初耳だ。それほど生活に難儀していたとは…」
 「俺は、あいつがやったとは思っていませんよ」
むっとして、ラーネフェルは言い返した。「僅か一晩で、牛をどこへ隠すんです? 近くは探したんですか。殺して食べてしまったのだとしたら残骸が残るはずですが、それも調べたんでしょうね」
 「無論だとも。それでも、見つからなかったのだ。太陽神さまに捧げるために太らせた斑牛、滅多にいない上質の牛だ。耳に記しもついている。町で売れば必ず足がつくし、連れ歩くだけでも目立つ。それが、忽然と消えてしまったのだ」
父は苛立って、乱暴に杯を卓の上に置く。「まったく、祭りまであと一月もないというのに、一体どうしてくれようか。二番目に良い牛では、格段に劣る。誰が犯人かなどど、どうでもいい。牛を取り戻すのが先決だ」
 「それが出来れば、ハルを解放してもらえるんですか?」
 「さあな、恩赦くらいはあるかもしれんがな。」
表で、おかえりなさいと召使の声がした。兄が帰ってきたようだ。父の意識が反れた隙を突いて、ラーネフェルは、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
 『どうするつもりだ』
足早に階段を駆け上がるラーネフェルの後ろから、黒犬が追いかけてくる。部屋の戸を閉めようとすると、隙間からするりと中に入ってきた。
 「しばらく一人にしてくれよ」
 『ならば消えているとしよう』
言うなり、黒い犬の姿は平たく引き伸ばされた影のようになり、するりと床に溶け込んで消えてしまった。ひとつため息をつき、ラーネフェルは、まだ寝具の置かれていない寝台の上にどさりと体を投げた。自分の心臓の鼓動が胸を伝って全身に広がっていくのが分かる。暮れ行く日に照らされた天井を見上げていると、あの暗い地下牢の、すえたような異臭が蘇ってくるような気がした。
 あんなところに、いつまでもハルを閉じ込めさせておくわけにはいかない。
 だが、牛が取り戻せなければハルを開放することは出来ない。たとえ父の権力を使っても、だ。
 牛はどこへ消えた?
 牛の気持ちの話はともかく、ハルが何もしていないのなら、誰か別の人間が、牛を隠したことになる。
 「おい。」
寝台の上に仰向けになったまま、ラーネフェルは何処とも知れない部屋の中に呼びかけた。
 「お前、匂いは追えるか?」
 『……おそらくは』
 「牛泥棒の足跡をかぎ当てることは出来そうか」
 『私に、番犬の役目をしろ――と?』
ラーネフェルは、じろりと声のするほう、足元の寝台の下あたりをにらみつけた。
 「犬だろ、見た目からして」
 『私は名と姿を失った。この姿が正しいかどうかは、私にも分からない』
 「だが匂いが追えるなら、少なくとも嗅覚は犬なんだろ。」
 『…承諾しかねるが、…そういうことになるのか』
不満げに喉を鳴らす音が聞こえたが、ラーネフェルには満足だった。
 「夜が明けたら探しに行くぞ、何としても見付けるんだ。俺の考えだと、牛はまだそう遠くへは行ってない。舟で運ぶにしても引いていくにしても、人目につかずにやるなんて出来るわけがない」
 『あの人間を救うために?』
 「ああ、そうだ。あいつは俺のもう一人の兄弟みたいなものだ。そうでなかったとしても、無実の人間が処刑台に送られそうになっているのを見逃せるものか」
黒犬は、小さく喉を鳴らした。笑っているかのようだ。
 『太陽神に捧げるために太らせた斑牛。犠牲の雄牛だ。清めの儀式を経て、牛は半神となる。その牛を屠ることは、王にしか認められていない』
 「…何?」
 『あの人間が言ったことだ。夢の中に牛が出てきた、と。清めの儀式は、牛が犠牲にされる祭りの前から始まっている。儀式を経て神霊を宿すようになった聖牛が、近くの人間の夢枕に立ったのなら、”逃げ出したかった”というのは、案外、本当の気持ちだったのかもしれんぞ。』
 「……。」
外で、夕餉の支度が出来たと呼ぶ声がする。会話を切って、ラーネフェルは寝台から立ち上がった。
 「とにかく明日だ。明日、牛のいなくなった囲いの辺りを調べてみる。悪いが、お前にも付き合ってもらうぞ」
 『ご随意に。』
黒犬は静かに寝台の足元に丸くなる。そうしていると、まったく本物の犬のように見えるというのに、実際は彼にしかその姿は見えず、触れることも出来ないのだった。


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