【黒犬の章 3】


 夜明けの地平線が白く輝き、世界に朝が訪れる。生まれでた若い太陽の乗る舟が東より世界をあまねく照らし出し、町の家々の隙間から、谷の入り口から闇を追い払う頃、人々は今日を始めるべく床を離れる。ラーネフェルも例外ではなかった。
 太陽の熱を受けてまもない、ひんやりとした朝の空気が廊下を漂っている。家族はまだ誰も起き出して来ていないようだ。朝餉の支度の火を起こそうとしていた老召使は、台所脇の裏口からラーネフェルが出て行こうとするのに気づいて、顔を上げた。
 「どちらへ、若様?」
 「墓参りだ。昼は要らない」
言いながら、戸口に引っ掛けてあった乾燥させた果実の連なりを一房、ちぎって手にした包みの端に押し込む。
 「いってらっしゃいませ」
裏路地には、人の姿はほとんどない。貴族街はまだ眠りの中にある。この界隈の住人たちが、起き出してゆっくりと朝餉を食べ、仕事に出かけるのは日も高くなってからのことだ。だが、日の出とともに仕事を始める農民たちは、もうすでに畑へ赴いている頃だ。ラーネフェルは振り返らなかった。姿は見えなくとも、あの黒犬がぴったりと着いて来ていることは気配で分かる。
 向かった先は、川べりの桟橋だった。そこには、これから魚とりに向かう猟師たちの舟が並んでいる。朝もやに包まれた大いなる川の水面は今朝も穏やかで、小さな波だけを立てながら滔滔と都の前を流れ過ぎていく。
 川べりにラーネフェルが姿を現すと、猟師たちは怪訝そうな顔をした。貴族たちが舟遊びに使う舟の桟橋は、もっとずっと下流の町に近いほうだ。
 「旦那、これから出るなら、ちょいと向こう岸に渡してくれないか」
 「あんたをかい?」
 「そうだ。」ラーネフェルは、にやりとして包みの中からパンを一つ取り出した。「理由は聞いてくれるな」
猟師は、訳知り顔でパンを受け取りながら、にやりと返した。
 「そうかい。それじゃ乗りな」
貴族といっても、上はお大臣から下は下級役人まで、幅は広い。自家用の舟を持たない者もいれば、持っていても何らかの事情で使いたくないような者もいる。お忍びの用だの、いかがわしい目的の時だの。"お偉方"の抱える、そうした様々な事情には首を突っ込まないのが平民の心得というものだ。ラーネフェルは、杖と包みを抱えて葦作りの猟師の舟に乗り込んだ。他の誰にも見えていないが、黒犬もひょいと縁を飛び越えて傍らに腰を落ち着ける。
 「それじゃ出ますぜ」
船尾に立つ猟師は、櫂がわりの長い竿で岸を突いて舟を流れに押しやった。小さな葦舟はゆるやかな川の流れに運ばれ、あっというまに川の中ほどへ滑り出す。周囲には、同じように岸を離れてきた猟師たちの舟が、そこかしこで網を打って、魚を獲っていた。いつもの朝の風景だ。
 川の東側には、さっき発ってきた壮麗な都の大門が、そしてこれから向かう西側には、歴代の王たちが築いた葬祭殿の壁や、墓のぎっしり詰まった谷の入り口が見える。東と西を分ける大河の両岸を彩るものは、青々とした葦とヤシの木の茂みだ。
 とん、と軽い衝撃とともに舟が岸ついて、驚いた水鳥がすぐ側から飛び立った。
 「助かったよ」
 「どういたしまして。それじゃ旦那、お気をつけて」
葦の間に立つと、冷たい水とともに泥がサンダルの隙間にしみこんでくる。ラーネフェルは、服の裾をたくし上げながら川べりの堤防の上を目指した。
 西岸は、喧騒に包まれた東岸と違って住人も少なく、穏やかな農村といった雰囲気だった。浅い川の水が刈り入れの終わった畑を覆い、側のナツメヤシの木に繋がれた牛が、のんびりと畦道の草を食んでいる。杖を握る手もゆるみ、自然と心が落ち着いてくる。どこにスリがいるか分からず、緊張を解くことも出来ない都の通りとは大違いだ。
 しばらく川べりを歩いていたラーネフェルは、行く手に、目指す住人の姿を見つけた。ちぎった葦の枝を振り回しながら、どこかへ向かおうとしているいがぐり頭の少年。サンダルも履かず、身に着けているのは腰布だけだ。
 「あ」
ラーネフェルと目が合うと、少年はあわてて道の脇に退けて目を伏せた。身なりからして相手がただの町人ではないと判断したのだろう。近づいて、ラーネフェルは少年に声をかけた。
 「お前は、この辺りの住人だな」
 「は、はい。すぐそこの――ネネト村の」
緊張で強張った声が返してくる。
 「お前の村に古老はいるか? 年取った人だ、十五年くらい昔のことを覚えている人なら誰でもいい」
 「いるよ、おじい――年取ってる。もう目は見えないんだ」
 「話を聞きたくてね。案内してもらえるか?」
少年は、ちょっと目を上げ、ラーネフェルの表情を伺っているようだった。
 「案内してくれたら、いいものをやるよ」
 「いいもの?」
 「ほら」
包みの中から、家を出るときくすねてきた、干した果実を見せる。少年の目が輝いた。
 「こっちだよ」
葦のムチを振り回し、元気に走り出す少年の跡を追って、ラーネフェルも足早に歩き出した。


 案内されたのは、粗末な日干しレンガの家が十軒ばかり軒を連ねた小さな村だった。牛やヤギがそこかしこに繋がれ、柵の中ではカモが卵を温めている。獣の匂いと、糞の匂い。騒々しい家畜の声に混じって、どこかから赤ん坊の泣き声まで聞こえてくる。そこへ突然姿を現したラーネフェルに、住人たちは不思議そうな顔をしている。
 「おじいー! お客さんだよお」
先導役の少年は、早くも目的地に着いたようだ。村の奥にある一軒の家の入り口で声を上げて呼ばわっている。それから、振り返ってラーネフェルを手まねきした。
 「こっち、こっち」
ラーネフェルが少年に追いつくのと、戸口に老人が姿を見せるのは、ほぼ同時だった。日差しの中に現れたのは、しわくちゃでもう髪もほとんどない、背の曲がった枯れ木のような老人だった。
 「わしに用とは…どちらさまで…」
 「なに、川向こうの住人ですよ。少し、ここいらの昔話を聞かせてもらいたくてね。」
言いながら、ラーネフェルは期待に満ちた目でこちらを見上げている少年に、包みの中から掴みだした果実を二つ、三つと、パンをひとつ差し出した。
 「ほら、おまけだ。」
 「やったあ! ありがとう」
道案内の報酬を受け取った少年は、喜び勇んでぴょんぴょん飛び跳ねながら行ってしまった。老人は、見えない目でそちらに顔を向ける。
 「…あなた様は、村人ではござりませんな。かといって、お役人様でもなさそうですわい」
 「どうしてそう思うんです?」
 「長年生きた勘ですよ。おかけくだされ、その辺りにベンチがある。家の中は、とても身分の高い方をお入れできるような場所ではないので」
老人は、手で家の壁をなぞると、そこに沿うようにゆっくりと地面に腰をおろす。ラーネフェルも、ベンチと思われる、レンガの塊に板を渡したものに座った。
 「それで…聞きたいこととは…」
 「なに、この辺りで、十五年かそこら前に無くなった町か村が無いかと思ってね、村でなくてもいい、今はもう無い祠に、守り神を祀ってたところはないだろうか」
 「祠…守り神…?」
 「行方不明になった神様の家を探してるんですよ。黒い犬の姿をした神様のね」
老人は、しょぼしょぼと眉を動かし、記憶を探るように、濁った目を天のほうに向けた。
 「十五…十五年前…。川岸に、泣き女の列が…」
 「泣き女?」
 「大きな葬儀が…総出で舟を引きに行った…」
 「前の王が亡くなったからでしょう」
 「ああ、そうじゃったな。谷まで続く葬列が…。花がたくさん撒かれて」
 「その頃、この辺りで町や村が無くなったことは」
天に向けていた顔をゆっくりと俯け、老人は、何か思い出すように口元をもぞもぞと動かした。
 「――無い」
 「無い?」
 「村も町も、五十年も昔から変わっておらんよ。」
 「では、放棄された神殿や祠は? 今はもう祀り手のいないような場所は」
 「さあ…」
老人は、しわがれた震える手を額に当てた。
 「ああ…だが…前の王様は、よく離宮に来られとったな。あそこは…もう、無いかもしれん」
 「それはどこです」
 「谷の向こう…だが…、あそこに祠なんぞ無かった。神殿も…今、新しいのが建っておるよ。今の王様の…」
聞けたことは、そのくらいだった。午前中いっぱいかけて、ラーネフェルは近隣のいくつかの村を回って同じように話を聞いてみたが、結局、西岸では、それと思われる失われた集落の手がかりは見つけることが出来なかった。


 いつしか太陽は高く上がり、昼近くになっていた。
 灼熱の太陽が照りつける西の谷の入り口には、熱でかげろうが立っている。ひんやりとした岩陰に腰を下ろし、ラーネフェルはしばし思案にふけっていた。
 『手がかりは摑めなかったようだな』
いつのまにか足元に、影のような黒犬の姿があった。
 「もっと簡単にいくと思ってたんだがな」
苦笑して、ラーネフェルは空になった包みの中に残っていたパンのかけらを口に放り込んだ。
 「お前自身は、この辺りで何か感じたりはしないのか。懐かしいとか――」
 『特に何も。』
 「…そうか。」
川は光を受けてきらきらと輝き、川べりには、生まれたばかりの緑がそよいでいる。さっき巡ってきた小さな村の一つが、そんな風景の中に小さく茶色く包み込まれている。
 「考えてみれば、お前と最初に会ったのは東岸だったな。黒犬だからてっきりアヌビス神の眷属かと思ってたが、――先に東岸から探すべきだったか。」
服の裾を払いつつ、ラーネフェルは、杖を手にして立ち上がる。黒犬は、ちらとその杖に目をやった。
 『いつも持っているのだな、それは大事なものなのか』
 「ああ、いや。これ自体は別に何でもない。もとは護身用だ、下町を歩くときの。うちの親は、武器の類は一切持たせてくれなかったものでね」
 『"ヘカ杖"だな』
ヘカ、とは、鉤のように曲がった牧童の杖を象る文字で、"支配の力"を意味する。生命の結び目"アンク"や、健康と繁栄を意味する柱!"ジェド"などと同じく、呪力ある文字の一つとされていた。
 ラーネフェルは、笑って杖の先に包みをひっかけ、肩にかけた。
 「こうすれば、ただの旅人の杖だ。つきあってくれ、せっかく来たんだしついでに本当に墓参りをして帰ろう。」
黒犬は何も言わずに立ち上がると、尾を振りながら後に続いた。


 西岸の貴族家の墓所は、王たちの墓所のある谷の裏側、赤い荒野に繋がる辺りに作られている。谷の入り口には墓守の村があり、墓が砂に埋もれてしまわないよう入り口を清掃し、その入り口を墓泥棒から守っている。ラーネフェルの姿を見ると、入り口の番所でうとうとしていた男がはっとして顔を上げた。
 「旦那、どちらまで?」
 「フネフェルの家の墓だ。生憎と供え物は忘れてしまったんだが――」
男の眼差しで何を求めているのか察した彼は、はめていた指輪の中から一番小さいものを外し、それとなく男の手元に滑り込ませる。「あとで代わりに供えておいてくれ。よろしく頼む」
 そちらは見なくとも、男の顔が喜びに輝くのが分かった。
 「へえ、それはもう。たっぷりと供えさせていただきやす。亡くなったご家族のご供養のためにね。旦那に"静寂の女神"のご加護がありますように!」
その時にはもう、ラーネフェルは黒犬を伴って谷に向かって歩き出していた。墓参りの季節はとうに過ぎ、谷はしんと静まり返っていた。太陽が最も高く上る時間でも、深く切れ込んだ墓所の谷の奥にはひんやりとした日陰が蟠っている。
 『ラーネフェル、さっきのあれは一体?』
 「何、心づけってやつさ。墓の供え物っていうのはな、供えて数日もすれば、ここの墓守たちの胃袋に納まることになってる。ほっといても野犬か烏に食い荒らされるだけだ。知ってるか? 墓泥棒ってのは、大抵が墓守たち自身なんだよ」
足元の黒犬が怪訝そうな顔をするのを見て、ラーネフェルは小さく笑った。
 「死者の家族が生きていれば、墓に供え物をする。墓守はそれを目当てに墓の監視に勤しむ。墓が荒らされれば墓守は首になるからな。しばらく供え物のない墓なんてのは見張っても意味がない。告発する家族がいなきゃ荒らしたって誰も咎めない。さっき俺は"フネフェルの家の墓だ"と言っただろう。あの男が本当に供え物をもってくるなんて思っちゃいない。あの指輪で買った供物を食っちまっても構わない。ただフネフェルの家の墓にはまだ参る家族が居て、そこを荒らしたらお前の首が飛ぶんだと分からせられれば、それでいいのさ。」
行く手に、真白い小さな四画すいの入り口を持つ祠堂が見えてきた。祠堂のある高台へは脇から階段がつけられ、その下に墓の入り口となる漆喰で塗り固められた扉がある。漆喰の上には、最後にこの墓が閉ざされたときの当主、父フネフェルの名が泥封と一緒に刻まれていた。
 ラーネフェルは、黙ってその扉を見つめた。
 真っ白な、ひび一つない漆喰の壁。その向こうには入り組んだ通路があり、棺に入れられた先代までのミイラが静かに眠っている。
 「――なあ、ひとつ聞いてもいいか。もし、覚えてるのならば、だが」
 『何だ』
 「俺には――妹がいなかったか?」
黒犬は、首をかしげた。
 『いなかったか、とは、どういう意味だ』
 「分からない。覚えているのは俺だけなんだ。俺は昔、妹だと思っている誰かと、一緒に過ごしたことがある」
それはあまりにも朧ろげで、不確かな記憶だった。いつのことだったのかも分からない。
 物心ついてまもない頃、おそらく五歳くらいの頃の記憶で、今は亡き祖母――フネフェルの家での祖母に連れられて、自宅ではない何処かで、妹だと信じている幼い女の子と一緒に遊んだ。別れ際、いつか一緒に暮らせるようになるのだと、祖母は言った。
 だが祖母はまもなく亡くなり、それきりその子と会うことは無かった。
 十歳くらいになり、思い切って聞いてみたとき、乳母のティアは、そんな子の存在は知らない、ときっぱりと言った。きっと空想の中で作り出した友達か、どこか他所の家の子を自分の本当の妹だと混同したのだろう、と。
 思えばあの頃は、自分がフネフェルの家の実の息子ではない、と感じ始めた最初の時代だった。妹の幻は、不安な気持ちが生み出した、想像の中の家族かもしれなかった。
 「俺が生まれた時のことを知っているくらいだ、俺に妹がいるなら、知っているかと思ってな」
 『……。』
黒犬は、じっと宙の一点を見つめていた。
 『…思い出せぬ。まるで靄がかかっているようだ。もしかすると、その頃もう、私は名と姿を失っていたのかもしれない』
 「そうか」
ラーネフェルは、漆喰の扉のほうに目を向けた。真実は、知っているであろう祖母は、今は扉の向こう、地下のオシリスの園に暮らしている。そこは生者には決してたどり着くことの出来ない死者の国だ。
 扉の向こうに向かって一つ頭を下げると、彼は、踵を返した。
 「帰るとするか。」
これで、少なくとも、西岸へ来たことは無駄足ではなかった。
 谷の入り口に差し掛かると、さっきの墓守の男がニヤけた顔で慇懃に頭を下げた。ラーネフェルは、小さく片手を挙げてその場を後にする。墓守は既に軽く酔っ払っているようにも見えた。さっき渡した心づけは、早くも豪勢な食事に変わっているのかもしれない。だが、それでいい。人はみな、食わねば生きては行けないものなのだから。
 昼の熱を含んだ熱い風が吹きつけ、黄色い砂を舞い上がらせる。背後には死者の眠る谷、目の前には、川の向こうに広がる都の街並みがいっぱいに広がっていた。


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