【終章 それぞれの路の果て】


 すべてが終結したのは、それから半日以上経った夜になってからだった。

 アクトィの謀反の企てと死が広まるとともに、川向こうの砦に立てこもっていた三将軍たちは投降した。小競り合いがあった程度で、大きな戦闘は起きず、アクトィの屋敷と手勢は押さえられ、アメンエムハトとともに監視下に置かれている。矢傷を受けた大臣パセルは手当てを受け、命に別状はない。屋敷が襲撃されたときに傷を負ったサナクトも、傷自体は大したことはないという。
 時折駆け込んでくる大臣や将校たちからそうした報告を受けながら、ラーネフェルは、閣議の間のテラスから夜に沈み行く町を眺めていた。傍らには、フネフェルが背を丸めて柱にもたれかかっている。
 「…結局、わしはアクトィの手のひらで踊らされていただけだったのだな」
呟いたフネフェルは、やけに小さく見えた。
 「悪役になりきれなかった、ということでしょう。良いことじゃないんですか」
 「喜んでいいのやら」
小さく笑って、手を、白髪交じりの頭にやった。
 「――今さらの話なのだがな…お前を将軍につけると言い出したのは、亡き王なのだ。初めてだったかもしれん、自分の意見で、アクトィに逆らって何かを成したのは」
振り返って首を傾げたラーネフェルに、フネフェルは続けた。
 「わしとて働きかけは何度もした。ただ、アクトィは認めなかった。王になりかわって聖牛を殺した不敬の罪は重いと言い張ってな。今となっては、それもお前を遠ざけるための口実だったのだと分かっているのだが。――アクトィを押し切ってお前の帰還を決めたとき、王は言っていた。お前にまた会いたいのだと。…不思議と身近な感じがする、と。王はお前をサナクトの弟、自分の従兄弟だと信じていたからな、そのせいなのだろうと笑っていたよ」
 「……。」
最後に見た、青白い口元に笑みを浮かべた青年の顔が脳裏を過ぎる。細い腕、冷たい体。本当は従兄弟などよりもっと近しい、同じ父のもとに生まれた異母兄弟が側にいたことを、孤独に生きてきた青年は、最期まで知ることはなかった。
 「わしは、もっと早く本当のことを言うべきだったのだろうな」
 「そうかもしれません。今からでも遅くはありませんよ、いつか、"あちら"で会ったときに伝えてください」
死者の集う冥府の楽園、オシリス神の総べる来世。だがそこにたどり着くためには、生前の正しい行いが必要だ。罪を犯した者は、それを償ってから旅立たねばならない。
 困ったように微笑み、フネフェルは、自分の額を撫でた。
 「無茶を言ってくれる。わしにそれほどの時間が残っているかどうか。」
柱から体を起こし、ゆっくりと扉に近づいてゆく男の背に向かって、ラーネフェルは声をかける。
 「そうそう、宰相がいなくなって人手が足りないんですが。復職するつもりはありませんか?」
 「はは。考えておこう」
ひらひらと背中ごしに手を振り、フネフェルの丸っこい背は闇の中へ消えた。
 ラーネフェルは、視線をテラスの外へ戻した。
 あれから、沢山の出来事があった。
 聖牛の黒い瞳と見えたあの日から。

 結局、宰相を殺した仮面の男、――ハルは、捕まらなかった。

 『奴のことが心配か?』
足元に腰を下ろしていた犬が、ラーネフェルを見上げた。
 「少しはな。でも、きっと無事だろうな。あいつは、俺以外の誰にも捕まえられない」
 『ああ。そうだな』
にやりと笑って、セドは、ふさふさとした尾をラーネフェルの足の上に置いた。言葉にはしなくても、互いの考えていることは分かっていた。

 別れの日は、間もなくやってくる。


 * * * * * *


 「本当にもう、大丈夫なんですか?」
ムトノジュメトは、何度目になるか分からない問いを口にした。医務室の真ん中には大臣パセルのむっちりとした体が横たわり、その周辺で、怪我をした兵たちが手当てを受けている。薬草を手に忙しなく動き回る医師たちを横目に見ながら、サナクトは額に包帯を巻いて座っていた。
 「大したことはない、ただの打ち身だ。出血は激しかったがね」
傷は、押し入ってきたアクトィの私兵たちを阻もうとして突き倒された時のものだった。額がぱっくり開くほどの傷を負ったせいで、メリエトが卒倒しかけたらしいと本人は笑いながら話した。
 「どうして、あんな無茶を」
 「さあね。どうしてだろう」
額に手をやりながら、サナクトは肩をすくめた。「ラーネフェルの真似がしてみたかったのかもな」
 「もうやめてくださいね。絶対に、約束ですよ」
 「…ああ」
顔を上げたサナクトの視線が、ムトノジュメトの真剣な瞳と合う。
 ふっ、と表情を緩め、少女は微笑んだ。
 「でも、嬉しかった。あの時、私を庇ってくれたあなたの背中は、――少しだけ、お兄さんに似てました」
ちょっと驚いた顔になったサナクトだったが、やがてその表情が釣られるように緩み、彼も、笑った。
 「少しは、あいつに追いつけたのかな?」

 医務室を出ると、腕に絡み付いていた蛇がちょっと首をかしげ、悪戯っぽく少女の顔を覗き込んだ。
 『顔が赤いですよ、ムトノジュメト。あの若者が気に入りましたか?』
 「何よ。茶化さないで、まだ喪が明けてないのよ」
 『あれは意外と骨の在る若者ですからね。私は、案外悪くないと――』
 「もう! まるでワティみたいなこと言う」
口を尖らせながら、ムトノジュメトは急ぎ足に家路を辿り始めた。今やそこは、彼女の家だった。兄ラーネフェルの育った居心地のよい家に、ずっと住んでいたいとさえ思っていた。待っていてくれる人がいるということ。血の繋がりはなくとも両親がいて、暖かな火が待ち受けているということ。それは、子供の頃からずっと心の底で求めていた暮らしそのものだった。
 だがそれは、彼女自身が、別のものになることも意味していた。

 涼しい夜気が髪を撫でてゆく。

 どこかに嫁げば、王の娘とは呼ばれなくなる。

 腕にある蛇と供に生きる資格を無くす日がいつか来ることを、その日はそう遠くは無いことを――ムトノジュメトは、既に予感していた。


 * * * * * *


 空はよく晴れて、祠堂の周りの草は綺麗に刈り取られ、かつてのように心地よい緑に囲まれている。明るい日差しに照らされた白い参道は、眩しい輝きを反射しながら真っ直ぐに祠堂へと続いている。ラーネフェルは従者を待たせ、その道を一人、辿っていた。
 目の前には、真新しい姿に生まれ変わったセドの祠堂があった。色の落ちた浮き彫りは塗りなおされ、傷つけられた神の姿も元通り修復されている。今は閉ざされた扉の向こうには、新たに作り直された犬の座像が、足元に聖蛇を連れて鎮座しているはずだ。新たに任命された専任の神官によって供えられた供物の花の匂いが、辺りにかすかに漂っていた。
 つ、と鼻をあげた灰色の犬は、満足げに辺りの空気を嗅いだ。
 『立派なものだな』
 「ああ。気に入ったか?」
ラーネフェルが言うと、犬は尾を振り、静かに傍らを離れて祠堂のほうへ歩を踏み出す。
 「行くのか」
振り返って、犬は少し頭を下げた。
 『ここから先は、私の拓く道ではない。王の守護神は太陽と鷹。そしてこの町の守護者たる天羊が、お前を導いてくれるだろう。――だが、私はいつでもお前とともにある。再び戦場が呼ぶことがあれば、またお前のもとに現れよう』
 「楽しみにしているよ。その日を」
太陽は頭上に高く輝いている。向き合う犬の足元に影はなく、一瞬、かつて初めて会った時の姿が重なった。黒い眼差しに写るのは、ラーネフェル自身。あの時の漆黒のような毛並みは今は銀。
 犬のそばに膝をついて、ラーネフェルは、その首筋を撫でた。ふさふさとした毛並みの感触と、太陽の光を受けて宿した熱。
 「なあ、セド。」
 『何だ?』
 「お前の毛皮は、やっぱり、太陽の匂いがするよ」
赤い口を開けて笑った灰色の犬の体が、きらきらと光の粒にかわって光の中に溶けてゆく。何もなくなった腕の中をしばらく眺めていたラーネフェルは、やがて、ゆっくりと立ち上がると、閉ざされた祠堂の扉に近づいて、心の中で呟いた。

 おやすみ、我が守護者なる"道を拓くもの"。
 幾つもの昼と夜を越え、いつか再び供に駆ける、その日まで。


 ――間もなく、六十日の喪が明ける。


 * * * * * *


 鳥の羽ばたく音で、彼は、うっすらと目を開けた。穏やかな流れにゆらりゆらりと揺れるのは、川べりに繋留された葦舟の中だからだ。日避けがわりにかけた茣蓙を捲って体を起こすと、空一杯を白く埋めながら通り過ぎてゆく鳥たちの群れが見えた。
 「ありゃあ、渡りをする鳥だぁね」
側の泥堤の上で釣り糸を垂れていた年寄りが、同じように空を見上げながら呟いた。
 「季節が変わるんだな」
 「ああそうさ。もう一年にもなるんだなあ――ほれ、あれだ。去年の今頃だったろう、新しい王様が即位なすった」
 「覚えてるよ。」
若い男は大きく伸びをして揺れる舟の真ん中に座りなおし、船底に転がっていた椀を川の中に突っ込んで、ぬるい水をすくいあげた。この季節、川の水は少なく、川幅は狭い。干上がりかけた葦の原に漕ぎ出しているのは、同じような小さな葦舟だけ。とはいえ旅をする者は少なく、多くの農民たちは、間もなく始まる収穫の季節を前に心を浮き立たせる季節だ。涼しい木陰で、もう一人の年老いた農夫が鋤の手入れをしている。
 「"大祭"があるんだねぇ。都じゃあ」 
 「ああそうさ、賑やかな祭りだってえ話さ。このへんじゃ、そんな催しはないけんど」
釣り糸を垂れた年寄りと二人、笑いあう。
 「お若いの、あんたは祭りを見たことがあるかね」
 「いいや。旅はしてるがね」
 「そうかい、いつか行ってみるといいよ。すばらしい祭りだそうだからねえ。わしら、刈り入れで忙しくて祭りなんぞ行っとる暇もない―」
 「祭り、か。」
小さく笑って、彼は、手元の椀の中で澄んで行く水に視線を落とした。「…いつかまた、見に行ってみるかな」

 あれから、様々な噂を聞いた。
 新王が都の貧民街の改革に着手したこと。宰相の屋敷と財産は全て没収され、新しい街づくりのために使われるらしいこと。王宮に火をかけた暴徒たちを南の国境にある砦送りにしたこと。謀反を起こした三将軍を殺さず国外追放としたこと。それは以前なら考えられなかったようなことで、人々は驚きをもってその決定を口にし、おおむね好意的に受け入れていた。
 すぐ頭上を遅れた一羽が慌てたように群れを追いかけて羽ばたいてゆく。翼の先についた水滴が陽光を受けてきらりと光る。
 水を一口飲むと、ハルは、舟底に寝かせてあった櫂代わりの棒切れを取り上げた。
 「行くのかね?」
 「ああ」
 「達者でな。どこまで行くのかは知らんが」
棒で水底をつくと、葦舟は岸を離れて川の中ほどへ滑り出す。

 時は流れてゆく。
 ゆっくりと、だが確実に、この川の黒い流れのように、どこまでも。水は海へと注ぎ、見果てぬ世界へと繋がっている。
 小さなさざなみを纏いながら、旅人を乗せた舟はやがて、釣り人の視界の端へと消えていった。




<了.>


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