【天羊の章 6】


 目の前に迫った黒光りする武器を前にした時、避けきれない、と思った。それはあまりにも突然で、予想もしていなかった方向からの攻撃だった。
 だが、切っ先が胸に付き立てられようとしたその瞬間、何かが、彼を突き飛ばすようにして割って入った。肌に触れた短い毛の感触、唸り声と、懐かしい後姿。
 「――お前」
 『間に合ったようだな』
耳と尾をぴんと立てた灰色の犬が、振り返って口を開く。『戦場とあらば私が必要だろう?』
頷いて、ラーネフェルは間髪いれず兵士を組み敷いて兜を剥ぐと後ろ手にひねりあげながら頭を摑んだ。
 「こいつは今、俺を襲ってきた! 誰か、こいつを見知っている者はいないか」
周囲の兵士たちが顔を見合わせ、一人が、あっと声を上げる。
 「そいつ、宰相様んとこの使用人じゃねえか?」
 「ああそうだ、どっかで見たと…アクトィ様んとこの」
 「あーいつも後ろにくっついてた護衛」
 「…ほう」
ラーネフェルは、諦めたようにふてぶてしくそっぽを向いている男を見下ろした。
 「やはり、黒幕は宰相殿か。あの三人を炊き付けたのも」
 「……。」
 『狙いはお前の妹だ』
足元に寄り添う犬が言う。『あの娘の養父の神官が、私の祠堂を汚したのだ。奴らは共謀者だ。ここでお前を亡き者にして、犯人はあの砦の上の惨めな連中だったことにすれば』
 「成る程。」
ラーネフェルが自ら兵を率いてここへやって来ることは承知の上で、罠をかけた。彼は、ちらりと崖の上に目をやった。哀れな三将軍たちは、濡れ衣を着せられて捨て駒にされるところだったのだ。
 「撤退するぞ」
 「えっ」
兵たちがざわめく。
 「しかし――」
 「あれは捨て置いて構わない。これより都へ帰還し、首謀者の宰相を捕縛する。急げ!」
言いながら、ラーネフェルは先陣を切って川べりの舟に向かって走り出していた。日は既に高く昇り、川面はきらきらと光を反射している。畑仕事のために出てきた近隣の村人たちは、畦道を走る大勢の兵たちに驚いて、木陰や道端で目を大きく見開いたまま彫像のように固まっている。先頭を走るラーネフェルの帯は、旗印のように金色に光を反射する。同じように武装しているというのに、誰一人、追いつけない。
 「まるで、戦の神だ…」
誰かがぽつりと呟いた。先頭をゆくその背は道を切り拓くもの、残る者たちはただ追うのみ。


 町は騒然としていた。
 何かが起きたことは、すぐに分かった。ラーネフェルのもとにもたらされた報告は予想していた通りのもので、兵を率いて川を渡ったすぐ後に、宰相の私兵団がフネフェルの屋敷を襲撃したという。家族は抵抗し、少女が一人逃げ出すのが目撃されていた。向かった先は分からないが、大神殿のあたりで揉め事があったらしいと噂が流れている。
 どこを探せばよいのか、ラーネフェルにはもう分かっていた。
 宰相の私邸を押さえ、町の出入り口を固めるよう衛兵たちに指示を出し、彼自身は最小限の兵だけを連れて先を急いだ。向かう先は王宮だ。――そこしか、考えられない。
 王宮の入り口を固めていた宰相の私兵たちは、すぐに片付いた。閣議の間に閉じ込められていたほかの大臣たちや、追い出されていた使用人たちを解放して話を聞くと、宰相は少し前、ムトノジュメトと護衛を引き連れて謁見の間のほうへ向かったという。奥座へ続く薄い幕を払うと、こんなときだというのに、高価な香の香りがした。
 アクトィは、玉座の前に立っていた。
 「ほう、生還したか」
ラーネフェルが入ってくるのを見ると、そう言ってうっすらと笑みを浮かべ、傍らの少女を引き寄せた。見たところ、ムトノジュメトは傷一つ負ってはいない。ただ、後ろ手に縛られて、白い首元に短剣を押し当てられている。
 「人質、とはまた趣のないことを」
 「何とでも言うがいい。あの三人は? 殺したかね?」
 「いいや」
 「――ほう、生かしたのか。その顔、不満そうだな?」
ばたばたと足音が響いて、乱暴に幕を押しやりながらさらに数人が謁見の間に押し入ってくる。一人はフネフェルだ。
 「無事だったのだな。アメン神の大神官を捕らえたぞ、神殿内を血で穢した罪で――」
言いかけて、ラーネフェルの視線の先、相対するように立つ宰相に気づいて言葉を切った。
 「アクトィ、貴様…」
長身の宰相は、小柄な元大臣を見下ろすようにして笑った。
 「フネフェルよ、よくよく貴様は運が良い。ただ、欲を出さず大人しくしていればよかったものを」
 「欲だと?」
 「おのが甥を王位につけるだけで満足しているべきだったのだ。もう一人の遺児を保険として飼っておこうなどと思わずに。」
わずかな沈黙、意味を理解し、脳に染みとおるにつれ、フネフェルの表情が変わってゆく。
 「――知っていたのか…ずっと?」
アクトィは、高らかに笑い声を上げた。
 「本気で誤魔化せるとでも思っていたのか? 貴様の息子と、第一王妃の息子を取り違えるほど愚かだと? 遺体のすり替えには、すぐに気づいたとも。ふん、誰のお陰で安穏と暮らせたと思っている?」
見る間にフネフェルの顔が真っ赤になる。
 「知っていたなら、何故告発しなかった?」
 「そのほうが都合が良かったからだ。はっ、精神薄弱な王、御しやすい傀儡を王位に就けてくれたことには、こちらから感謝したいところだ。貴様もうまい汁を吸えて満足だったろう? そう、わしと貴様は、あの時まで利害が一致していたのだ。貴様が、手駒をクシュから呼び戻そうとするまでは」
凍てつくような視線が、ラーネフェルに向けられる。
 「貴様がクシュの地で野たれ死んでいてくれれば、こんなことにはならなかったのだ。麗しの王はもっと長生きし、無事妻を娶り、子を残してから死ねた」
宰相の腕の中で、ムトノジュメトが身じろぎした。
 「どういう意味? まさか――」
 「黙っていたまえ、お姫様。女は黙って目と耳を閉ざし、勝利の褒章として誰かに与えられるのを待っていればよい」
ラーネフェルの目に、ムトノジュメトの額の上で聖蛇が大きく口を開いて威嚇しているのが見えた。だが何故か牙は宙を素通りし、アクトィには噛み付けないでいる。足元で、灰色の犬がフンと鼻を鳴らした。
 『気に食わんな。あれはこの町の主神――アメンの加護だ。奴がこの町にいるうちは手出しできん』
 「……。」
護符でも身につけているのか、アメンエムハトの仕業か。町の主神が相手では、他の守護神たちは太刀打ちできない。
 フネフェルは、一歩進みだして両の腕を大きく広げる。
 「どうするつもりだ、アクトィ? この通り、ラーネフェルは生きている。貴様のはかりごともこれまでだ。その娘を妻として自らが王になるつもりか? まさか、この期に及んでそんなことが出来るとでも?」
 「私を裁けると思っているのかね?」
逃げ道は完全に経たれているはずなのに、アクトィの表情にはいささかの焦りの色も見られない。
 「何のために、セトナクトを国境へ追いやったか分かるかね? 何のために、あんな役にもたたない木偶の坊どもを将軍にしたか? 厄介だったのは軍を束ねられる者の存在だった。それさえなければ、いかな兵とて烏合の衆よ。私の兵がこれだけだと思うのか。さあ、そこを退きたまえ。邪魔すれば、この娘の首は飛ぶぞ」
 「貴様…」
ムトノジュメトの首に短剣を突きつけたまま、アクトィは一歩、また一歩と出口へ向かって歩みだす。ほんの少しでも刺激すれば、切っ先は肉に食い込みそうに見えた。堂々たる長身の宰相に隙は見えず、ラーネフェルも道を開けるしかない。金の聖蛇は、ムトノジュメトの額で怒り狂っている。
 『ええい、腹立たしい! この男! 手を退けなさい!』
セドが足元で唸る。
 『ラーネフェル、町を出るまでの辛抱だ。出てしまえば、加護はなくなる。それからなら、いくらでも』
都の守り神の加護の前に、守護神たちも手出しできない。

 ――その時、
 ざっ、と黒い影が降りた。

 どこに隠れていたのか、それは天井の梁のあたりから降りてきたように思えた。誰も頭上になど気を遣っていなかった。体にまとわりつく黒い衣の裾を払いながら、その影は滑るように宰相の背後に近づくなり、一太刀のもとに、背から宰相の胸を貫いた。
 「うっ…?」
一声呻いて、男の体が前のめりになった。腕が緩み、隙を突いてムトノジュメトが駆け出す。
 「ムトノジュメト!」
飛び込んでくる少女の体を両腕で抱きとめながら、ラーネフェルは、床に屑折れてゆくアクトィの体と、その背後に立っている、血に濡れた剣を手にした男の姿を見ていた。男は黒っぽい仮面をつけている――牛だ。黒い牛の仮面。仮面の男は、ラーネフェルのほうを見て、にいっ、と白い歯を見せて笑った。
 (まさか…)
あっけにとられて声も上げない人々の前で、男はマントを翻し、廊下へと駆け出してゆく。一瞬遅れ、我に返った衛兵たちが口々に叫びながら、わっと後を追っていった。
 ラーネフェルの視線は、床の上に長々と伸びたアクトィの体の上にあった。ぴくりとも動かない。床に敷かれたじゅうたんの上には、赤い染みが広がりつつあった。


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