【天羊の章 4】


 その日の午後遅く、ムトノジュメトは、サナクトに案内されてフネフェルの屋敷を訪れていた。荷物という荷物は無く、普段着などこまごましたものを入れた小さな櫃をいくつか、小間使いに持たせただけの移動だった。輿入れのためにと、養父が買い揃えていた品は、ほとんど置いてきている。
 「さ、足元に注意して」
サナクトが少女の手を取り、玄関の段差を越えさせる。
 「ここ、前にも来たことがあるわ」
 「そうですね。あの時は、客間でラーネフェルを待っていた」
その客間で今日は、メリエトが笑顔で出迎えてくれた。しばらくここで暮らすつもりだった。婚姻は結ばれておらず、身分が宙に浮いた状態の彼女は、王宮に居てもすることがないのだ。
 客人を迎えて、屋敷は一気に華やいだような雰囲気があった。町中が喪に包まれている中、食卓には立派な料理が並んでいる。
 「さあどうぞ、召し上がれ」
 「わあ」
初めて目の当たりにする家庭料理――神殿の質素な食事でも、王宮のむやみと豪華な料理のどちらでもないもの――に、ムトノジュメトは興味津々だ。早速、豆のスープに手を伸ばす。
 「いかがかしら」
 「とってもおいしいです、それに…あの」
頬を染めて、ムトノジュメトはちょっと俯いた。
 「こういうの、久しぶりだから…。みんなで食卓を囲むのって。」
サナクトと、両親が笑う。こうして誰かと話をしながら、顔をつきあわせて食卓を囲むのは、神殿に暮らしていたときいらいだ。あの頃は仲間の神官たちやワティと、他愛無い話をしながら食事をした。輿入れの話が出てからの王宮での食事はほとんどが一人で、たまに会食があっても難しい顔をした大臣たちに取り囲まれて、楽しいと思わなかった。
 「喪が明けたら、一緒に買い物に行きましょう。お料理も教えてあげるわ」
 「本当ですか? 楽しみ!」
フネフェルとサナクトは、ちらと目を見合わせ、肩をすくめて黙々と指を動かしていた。

 食事のあと、ムトノジュメトが自分のために整えられた部屋に引き下がったあと、家族三人はその場に残っていた。フネフェルは食後の酒をちびちびと舐めている。
 「良い子ね、それに、ラーネフェルによく似てる」
最初に口を開いたのは、メリエトだった。
 「私たちは、あの子から、たった一人の家族をずっと取り上げていたことになるのね…」
 「今さら言っても仕方あるまい。」
フネフェルが言い、メリエトは小さく頷く。サナクトは、困ったような顔で杯を置いた。
 「二人とも暗いですよ。誰も責めていないんです、もっと明るい顔をしてください」
 「ラーネフェルは、どうしてる?」
 「王宮ですよ。葬儀の準備と即位式のこともありますから。どこかの大臣がさっさと引退してしまったお陰で、人手が足りないんですよ。僕もこのあと、戻ります。」
王位の委譲ともなれば、毎年行われる"大祭"以上に複雑で、気配りの必要な大規模な祭儀となる。その準備期間は、死せる王の葬儀を含めても六十日しかないのだ。
 「無理はしないでね、あなたも。」
母の抱擁を受け、食事を終えたサナクトは、玄関に立った。
 「彼女をよろしく頼みます。」
日はもう落ちている。微かな青みを帯びた空に一番星の輝く下、明かりを手にした小間使いに先導させて王宮のほうへ歩き出すサナクトの姿を、ムトノジュメトは、開いた窓際に頬をついて、眺めていた。

 通りに面した窓からの景色は、どんなに見ていても見飽きることがなかった。
 西へ暮れてゆく太陽の残した赤い帯、静かに冷えてゆく夜空の色。家路を急ぐ人々の流れが途絶えると、やがて、辺りには"夜"が始まる。
 こんなふうに、間近で人々の暮らしを見ることなど、今までなかった。神殿の夜は早く、夕餉がすんだら夜晩を残してみな寝静まってしまう。その代わりに朝が早いのだ。毎朝、日の出とともに置きだして、神殿内を清めて回る。毎日、同じ生活の繰り返し。変化などほとんどなく、生活も塀のうちで完結していた。王宮での暮らしも似たようなもので、掃除などの仕事が無かったぶん、よけいに閉塞感を感じていた。
 彼女にとっては、外の世界で夜を過ごすのは、これが生まれて初めてなのだった。
 酔っ払って大声で歌いながら通り過ぎる男も、食べ物を探して通りをかぎまわる野良猫も、暗がりに沈む道をとぼとぼと足をひきずりながら家路につく貧しい女も、その存在そえ知らなかったものたちだ。
 「ねえイアーレト。世界って広いのね」
 『そりゃあそうですよ』
少女の腕を離れた蛇が、するすると窓枠を伝ってゆく。『町の外にもまだ町があります。国境を越えれば、この国いがいの国もある』
 「私なにも知らなかったわ」
頬杖をついたまま、少女は、名残惜しそうに西の空にわだかまる、昼の最後の輝きを見つめている。
 「…だけどこれで、またしばらく、お兄さんに会えなくなっちゃうのね」
ラーネフェルは、しばらく王宮から戻ってこられないのだという。あるいはこのまま、王宮に留まり続けることになるかもしれない。即位式が終われば、家族であっても気軽に会いに行くことは出来なくなってしまう。
 「あーあ、結局、お兄さんとは一緒に暮らせないのね。残念だわ…」
窓枠にあごを乗せてぼやいていると、頭上から、蛇の声が降ってくる。
 『お姫様、お姫様。はしたないですよ』
 「いいじゃない、ずっと王宮にいて疲れちゃったのよ。あそこは嫌い。なんだか居心地が悪いの」
 『私もそうでしたよ』
見上げると、ちょうど真上にぶら下がるようにして蛇の頭があった。
 『あそこは嫌な気配が山ほど漂っていましたね。あんなところで暮らしていたら病気にもなりますよ。』
 「…お兄さんは、大丈夫かしら」
呟いてから、ふと、思い出す。
 「そうだ。お兄さんの連れてた灰色の犬の神様…。具合が悪いって。どこにいるのかしら」
 『気配は感じますね』
 「案内して」
窓を閉めようと伸ばした腕に、蛇がするすると絡み付いてくる。部屋の中はもう薄暗くなっている。廊下に出ると、ちょうど、明かりを手にした小間使いが廊下に明かりを灯し終えて去ってゆくところだった。
 『その先を曲がったところですね』
蛇に言われ、ムトノジュメトは、小間使いに見つからないよう足音を忍ばせて廊下を渡った。そっと部屋の扉を押し開くと、真っ暗な中に寝台と小さな櫃だけが見えた。滑り込み、後ろ手に扉を閉める。
 「ここが、お兄さんの部屋…?」
質素で、目を引くようなものは何もない。最初に見えた家具以外は、戸棚と椅子、小さな卓くらい。寝台の上には、綺麗に畳まれた敷き布が、部屋の持ち主がいつ戻ってきてもいいようにと置かれたままになっている。――犬は、一体どこだろう。
 見回すと、寝台の脇の影になっている隅に、丸まっている灰色の塊が見えた。近づいてみると、確かに犬のようだったが、体は半分透き通って消えかけている。
 「まあ大変」
触れると、かすかなぬくもりを感じた。まだ生きている。だが、深い眠りについているらしく、揺すってみても目覚める気配がない。ムトノジュメトは、肩先の蛇を見た。
 『…ふむ。信じたくはないのですが、…どうやら本当に、呪詛を食らっているようですね。』
 「それって、前に言っていた神官しか出来ないっていう?」
 『ええ、ですが、どうやって――ふうむむ』
体をくねらせ、考え込んでいるようだ。
 「何とかして。この犬は、お兄さんの守り神なんだから」
 『無茶を言わないでください。私はこういうものは苦手で…。ああそうだ、あれがありましたね』
 「あれ?」
 『祠堂です。大神殿の奥に、あなたが執着していた古い祠堂が在ったでしょう』
ムトノジュメトは、小さく頷いた。幼い頃にラーネフェルと遊んだ、思い出の祠堂のことだ。
 『あそこに行ってみれば、何かあるかもしれませんよ』
 「わかったわ。明日にでも行ってみる。お参りだって言えば、きっと――」

 その時だ。ムトノジュメトの耳に、かすかに人の叫び声のようなものが届いた。蛇が体をくねらせる。
 『…なにやら、外が騒がしいですね』
自分の部屋に戻り、窓を開くと、さっき見ていた通りに慌しく駆け出してくる人々が見えた。城の衛兵たちが、上等の服を纏った、貴族らしき人々を追い立てている。家族だろうか、女性も、幼い子供もいる。
 「わ、我々は何も知らされていなかった!」
 「まさか、こんなことに――」 
 「…などと――」
夜風に乗って、言葉は途切れ途切れだが、切羽つまった様子が伺い取れる。赤ん坊が火のついたように泣き叫んでいる。掲げた松明に、衛兵たちの持つ槍が鈍く煌く。
 「反乱だって?」
 「しっ。声が大きいよ」
ムトノジュメトが覗いていることに気づかず、窓のすぐ下で、町人たちがひそひそと話している。
 「将軍様たちが、兵を率いて川向こうの谷に立てこもったって」
 「ええ? 何でまたそんなところに――」 
 「砦があるじゃないかね、大昔の。だからだろう」
 「何でそんなことを…」
反乱。それはつまり、ラーネフェルに対して起こした、ということだ。ムトノジュメトは、胸の辺りを押さえた。心臓がはやがねのように鼓動を打っている。どういうことなのだろう。一体どうして。
 階段を駆け下りて広間へ向かうと、ちょうど玄関で、フネフェルが上着を羽織ながら衛兵を応対しているところだった。側には、心配そうな顔のメリエトが立っている。 
 「様子を聞いてくるだけだ、すぐ戻る。わしはもう引退した身だからな」
 「でも――」
 「王宮へ行かれるんですか?」
ムトノジュメトが声をかけると、フネフェルは振り返って彼女を見た。 
 「ここにいなさい。家の周りには警護がつく。何も起こらないだろうがな。」
 「あなた…」
 「行ってくるよ」
扉が閉まり、足音が去ってゆく。玄関前には左右に槍をたずさえた衛兵が直立不動で立っている。裏口にも、おそらく見えない屋敷の裏手にも、見張りがいるのだろう。メリエトは、少女に近づいて両手でその体を抱きしめた。
 「こんなことになってしまうなんて…」
体を通して、不安に震えているのが分かる。ムトノジュメトは、年かさの婦人をそっと抱きしめ返した。
 「心配いりませんよ、お母様。お兄さんたちが、きっと何とか治めてくれます。」
言いながらも、ムトノジュメト自身も不安は消えなかった。守り神のセドは、力を失い、消えかかっている。都への襲撃、王の死、そして反乱――一体何が起こっているのだろう。


 そのころラーネフェルは、閣議の間で反乱の知らせを受けとっていた。駆け込んできた伝令がそれを告げると、居並ぶ大臣たちがざわめき、ラーネェルと同時期に新たに任命された三人の将軍たちの仕業だと知るなり、口々に呪詛を吐きながら頭を抱える。 
 「将軍だと、あの馬鹿どもめが…」
 「これだから、気位だけ高い若造どもに兵を与えるのは嫌だったのだ」
 「どおりで今日は姿を見せなかったわけだ。どこをほっつき歩いているのかと思ったが、怠け者どもが…」
一人、サナクトだけは落ち着いている。
 「まだ、次期王の報せは回っていないのだろう?」
伝令が頷くと、彼は顎に手をやった。
 「では、先回りということか。――早いな、ずいぶん手際がよい」
 「町にいる家族を抑えろ」
ラーネフェルは立ち上がって衛兵たちに指示を出し、テラスの外の町を睨んだ。首謀者の三人の将軍たちと顔をあわせたのは、これまでに一度か、二度か。自ら剣を持ったこともなさそうな、温室育ちの貴族たちに見えた。ろくに軍事知識もなく、国境の認識さえも怪しいような連中で、セトナクトが呆れていたものだ。任命された理由は、もっぱら家柄が理由だろうと、ラーネフェルでさえ思っていた。
 「どうなさいますか」
大臣の一人が問う。
 「反乱は鎮めねばならない。こちらも兵を支度しよう」
 「御自ら征伐に向かわれますか」 
 「他に誰がいる? セトナクト将軍を呼び戻す時間はない。」
大臣たちが不安げに顔を見合わせる。
 「兵の使い方も知らない名ばかりの将軍が集まったところで、何も出来はしない。――財務官殿、出兵の準備に付き合ってもらえないか。武器の在庫を知りたい」
声をかけられたサナクトが、頷いて席を立つ
 「すぐに戻る」
言い残して、ラーネフェルは部屋を出た。二重扉の向こうでは、今頃、残された大臣たちが喧々諤々、身にもならない怒りの言葉を吐き散らしていることだろう。だが言葉で文句を言うだけなら、誰にだって出来る。それでは現状は変えられないのだ。
 「どう思う」
書庫に向かって足早に回廊を歩きながら、ラーネフェルは問うた。
 「反乱を起こす理由か。フネフェル大臣の息のかかった王候補が嫌だってことだろうな。知ってたかい? 三人の将軍のうち一人は、さっきあの場にいた大臣の娘婿さ。おかげで一人だけ青い顔をして黙ってたよ」
 「本当か。」 
 「今頃は、中で絞め殺されているかもしれないね」
意地悪く小さく笑ってから、サナクトは真面目な顔に戻った。 
 「それより僕は、三将軍が誰を担ぐつもりなのかが気になってるよ」
 「というと?」
 「貴族というものは自分たちの得にならなきゃ動かないものさ。お前が王になったら、実戦経験のない将軍なんかクビにしてしまうつもりだったろう」
ラーネフェルが頷くと、サナクトは続けた。
 「つまりクビにされるのが嫌でこんなことをしてるってことさ。その点では、今回の反乱は茶番だろうな。脅しをかけて、自分たちの地位を保証させたいのさ。そんな彼らを将軍職に、つまり権力の地位に置いたままにしてくれそうな相手は誰だろうね?」
 「――将軍への任命は、王が行った」
 「そうだ。そしてそのとき、実質の采配をとっていたのは、誰だ?」
ラーネフェルにも次第に、サナクトの言いたいことが分かってきた。王に代わり、実際に国政を動かしてきた者――この場にいないただ一人の重臣――、宰相、アクトィ。
 「宰相殿は今、どこに」
 「分からない。王の遺体に付き添っていたのは覚えている。てっきり、祭儀の場に残っているものかと」
 「…嫌な予感がするな」
サナクトは、あごに指をやった。「お前の存在は、宰相にとっては誤算だったのかもしれない。御しやすい王でも王妃になりそこねた姫君でもなく、お前に上に立たれたら、今までどおりにはいかないからな」 
 「まるで、宰相がけしかけて三将軍にやらせているような言い方だ」
 「かもしれない、と言っている」
足を止め、ラーネフェルは兄を振り返った。書記たちが引き上げたあとの書庫は静まりかえり、巻物をおさめた棚のあたりは闇に沈んでいる。 
 「…長くても、丸一日だろう。その間のことを頼む」
 「ああ。」
視線が交わり、互いの心情が手に取るように伝わる。二人は無言に、その場で別れた。サナクトは、出兵の準備に必要な備蓄を確かめるために。ラーネフェルは、大臣たちとの会議を続けるために。


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