【天羊の章 3】


 その夜は風が強く、川向こうの荒野から吹く風が幾度ともなく、砂とともに町に押し寄せた。締め切った窓の隙間からも風が忍び込んで、床を黄色く染めてゆく。小さな叫び声とともに、階下で誰かが走る音がした。
 「ああ、もう。やだわ」
母の声だ。ラーネフェルが降りてゆくと、母が、風でどこからともなく紛れ込んだ落ち葉を片付けるよう指示しているところだった。
 「どうかしましたか」
 「あら、ごめんなさい。何でもないの。ただもう、さっきからずっとこの調子で――」
バタン、と大きな音がして、どこかの戸の隙間から風が押し入ってくる。それとともに、せっかくかき集めた落ち葉や砂が舞い散り、小間使いたちがあわてて走り回る。メリエトはため息をついて首を振った。
 「掃除は、明日の朝にしたほうがいいかしらね。掃除するたびにこれじゃあ。…もう寝ましょう。じきに風も止むわ」
小間使いたちを下がらせ、メリエト自身も部屋に戻ってゆく。夕餉のあと、父は先に休んでいるはずだ。引退するつもりらしいとサナクトが言っていたが、確かにこのところ、あまり長時間王宮には詰めていない。母と同じく階段を上がりかけたラーネフェルだったが、ふと、廊下の隅に吹き寄せられている落ち葉の小山に目を留めた。落ち葉の中に、汚れた布の切れ端が混じっている。かがみ込んで拾い上げると、その布きれからは、強い脂のにおいがした。
 セドが近づいてきて、ひくひくと鼻を動かす。
 『火の匂いだ』
 「…火?」
 『外だな』
表には、風の唸る音が響いている。ラーネフェルは、風の吹いてくる裏口のほうに向かった。戸と床の隙間から吹き込んでくる強い風が砂を運び、それと同時に、焦げ臭い匂いをかすかに運ぶ。 
 まさか。
 閂を押しやり、外に飛び出すと、匂いはいっそう強くなった。目を凝らすと、闇の中、裏通りに面した狭い路地のあたりに赤いものが踊るのがちらりと見えた。月は黒雲に覆われ、人通りもない。強い風にあおられて、火は見る間に大きくなる。 
 「火事だ!」
駆け戻って、ラーネフェルは裏口から屋敷の中に向かって怒鳴った。「起きろ、火がついてるぞ!」
 寝床に入ろうとしていた家人たちが慌てて飛び出してくる。
 「裏口のほうだ。早く――」
と、そのときだ。暗がりの中で誰かが動いた。
 『ラーネフェル!』
セドが吼え、地を蹴った。はっとして、彼はとっさに、後ろに一歩、後退った。その胸元を鈍い輝きを持つ刃が掠める。襲撃者と、ラーネフェルの間には、飛び込んできた山犬の体があった。
 どさりと犬が地面に落ちる。だが実際は、音などしない。目に見えない存在なのだ。
 攻撃が外れたことを知って、襲撃者は顔を覆うマントを手で摑みながら、素早く闇の中へ姿を消す。
 「待て…」
追おうとしたとき、ちょうど、家の中から次々と召使たちが飛び出してきた。
 「うわっ、火が」
 「早く水を!」
騒ぎに気づいた近隣の家々の入り口にも明かりが灯り、人々が、何事かと顔を出す。
 「どうしたの、一体」
母も、寝乱れた髪を手で撫でつけながら出てきた。
 「吹き寄せられた落ち葉に、火種が落ちたようです」
 「まあ。」
 「この風であおられて、火が大きくなったようです。ご心配には及びません」
心配させまいと口ではそう言ったが、ラーネフェルには分かっていた。これは放火だ。それも、自分たち一家の誰かを狙った――殺意ある犯罪だ。ふいをつかれたとはいえ、武器を持った賊に接近を許したのは、相手の動きが素早かったせいだ。それに、凶器は真っ直ぐに心臓を狙ってきた。
 (俺を狙ったのか? それとも父上を? …)
一つだけ確実なことがある。――あれは、ハルではない。
 「母上、ここはお任せしていいですか。」
 「え? いいけれど」
 「町のほかの場所も気になります。一回りしてきます」
 「こんな夜に? 気をつけてね」
頷いて、ラーネフェルはいったん部屋に戻って身支度を整えた。だが剣に手を伸ばしたとき、彼は、ついてきた灰色の犬に、ずいぶん元気がないことに気がついた。
 「どうした」
 『…分からぬ。なぜか、体に力が入らないのだ』
寝台の側でぺたりと床に腹をつけて、はっはっと浅い息をつきながら舌をたれる。
 「さっき庇ってくれただろう。見えないとはいっても、お前だって傷を負うことがあるのかもしれない」 
 『そんなはずはないのだが…』
犬は黒い口もとを歪めながら苦しそうにしている。腰をかがめて、ラーネフェルは、灰色の毛並みを撫でた。
 「少し休んでいろ。心配するな、お前がいなくても、そう簡単に遅れをとったりはしない」
屋敷を出ようとしたとき、表玄関のほうから、召使が来客を対応する声が聞こえた。強い風が吹き込んでくる。足音で振り返った召使は、ラーネフェルの姿を見て、軽く一礼して脇に退いた。玄関に立っていたのは、王宮からの使いらしいこざっぱりとした姿の家令だ。明らかに、うろたえている。
 「お出になるところだったのですね、ラーネフェル殿。間に合ってよかった、お迎えに上がったのです」 
 「迎え?」
 「すぐにいらしてください。フネフェル大臣もご一緒に、王宮へ――」
夜がざわめき、色濃い闇が落ちてくる。町を通り抜ける砂嵐は、西の地平から死の呼び声を伝える。

 駆けつけたとき、寝台に横たわる青年の脈はほとんど無く、命の火は、消えようとしていた。
 部屋に集められた大臣、宰相、大神官など主要な人々は、なすすべなく暗がりへ沈もうとする若い太陽を眺めている。寝台の傍らでは、ムトノジュメトが両手で顔を覆って静かに涙を落としていた。
 ラーネフェルが寝台の足元に呆然と立っていると、王が目を開け、弱々しく微笑んだ。
 「来てくれたのだな」
 「……。」
近づいて、ラーネフェルはシーツの上に投げ出されたままになっていた、血の気の失せた手を取った。その手のあまりの冷たさに、言葉も出ない。なぜ、急に? 昼間は、あんなに元気だった。
 微笑みながら、痩せた青年王は、再び目を閉じた。
 「余は幸せだ。余のために泣いてくれる家族がいて、…そなたにも会えた。…外の世界の話は楽しかったぞ」
 「元気になれば、自由に外に出られます。お気を確かに」
 「…もうよいのだ」
青白い口元に笑みを浮かべたまま、王は静かに言った。
 「さいごの頼みを聞いてくれるか、ラーネフェル。余の葬列の先頭で、豹の皮を纏い、香を掲げよ」
部屋の中の空気が動いた。はっとして王を見つめるもの、青ざめた顔で天井を仰ぐもの。葬列の先頭に立つということは、喪主になるということ。それはすなわち、亡き王の後継者として葬儀を執り行うということ――。
 「待って」
ラーネフェルが答えずに居ると、ムトノジュメトが小さく叫んで身を乗り出し、青年の頬を叩いた。「まだ眠っては――」握り締めた手に残っていた最後のぬくもりが遠ざかり、力が失われてゆく。 
 「嫌…どうして…!」
少女は、寝台の端につっぷして、嗚咽をもらした。固唾を呑んで見守っていた、王づきの召使や女官たちのすすり泣く声が部屋の隅々から響いてくる。
 「話が違う」
ぽつりともらしたのは、アメン神殿の大神官、ムトノジュメトの養父か。青ざめた顔でぶるぶると震えながら、傍らの宰相アクトィを見上げる。
 「こんなはずでは――」
 「人の運命は神々が決めたもう、アメンエムハト殿」
乾いた口調で言い、アクトィは、ふいとマントを翻して部屋を出てゆく。大神官や神官たちも、大臣たちもだ。彼らには悲しむ暇など無い。やるべきことは山積みなのだ。
 王が死んだ。
 すぐにも国内に伝令を走らせ、葬儀の支度をし、次なる王を立てる準備に入らなくてはならない。王の喪は、慣例として六十日。その間に葬祭の儀式はすべて終えられ、王の喪が明ければ次の王が立つ。
 だが、今のラーネフェルには自分が後継者として指名されたことよりも、目の前の"家族"の死の衝撃のほうが、何よりも大きく、その場から動くことが出来なかった。


 哀悼の鐘が打ち鳴らされ、人々は喪章がわりに黒い布を額に巻く。
 婚礼の準備はそのまま葬儀の準備になり、町には重苦しい空気が漂っていた。王の死は伝令によって町から村、村から町へと布告され、やがて報せは南の砦や、東の国境にも届くだろう。
 死から数日後、王の遺体は清められ、葬送の舟に乗せられて川を渡る。葬列には泣き女たちが付き従い、振り乱した長い髪な砂を振りかけて鳶のような甲高い泣き声を響かせ、胸を叩いて涙を流した。川の両岸には町の人々が並び、葬列を見送っていた。
 遺体はこれから、西岸にある葬祭の施設に運ばれ、六十日の処置を経て"永遠の器"へと作り変えられる。乾燥させた体に香油をぬり、包帯を巻き、護符と呪文で整えて、棺に収められることになる。そして六十日のあと、次の王となる後継者が先頭に立って、棺を墓に納める儀式が行われるのだ。


 王の遺体が、処理のために特別に建てられた豪華な天幕に運び込まれるまでの間、ムトノジュメトは、放心したように控え室でベンチに腰を下ろしたまま、身じろぎもしていなかった。
 「大丈夫か」
ラーネフェルが肩に手をかけると、少女は、力なく微笑んだ。
 「――うん、心配いらないわ。なんだか、嘘みたいよ。まだ信じられなくて」
肩におかれた手に、自分の手を重ねる。葬列はまだ続いており、天幕には、王との最後の別れのために訪れる役人や貴族たちの列がひっきりなしに、出たり、入ったりを繰り返している。
 「――私、結婚前に未亡人になっちゃったわね。どうしよう、これから」
 「うちに来ないか」
 「お兄さんの家?」
驚いたような顔をして、少女は顔を上げた。
 「部屋は余ってるからな。母上は喜ぶだろう。嫌か?」
 「ううん。…神殿にはもう、戻りたくない。ねえ、子供のころの約束覚えてる? 大人になったら、お兄さんと一緒に暮らせるって」
 「ああ」
 「ようやく約束が叶うんだね」
そう言って笑ったとき、少女の瞳から、大粒の涙がひとつ、零れた。腕に絡みついていた白蛇が、身じろぎする。
 『私は嫌ですよ、あの臭い犬と一緒に暮らすだなんて…』
 「あら、私もう王妃にはなれないのよ。あなたは私と一緒にいる必要ないでしょ」
 『冷たいですよ、ムトノジュメト。あなたが王の娘なら、どのみちお姫様には違いありません。他に守護すべき姫君がいないのですから、私の居場所はここですよ。』
 「もう。そういうことなら、仕方ないわね」
二人のやり取りを笑いながら聞いていたラーネフェルは、ふと、思い出した。
 「そうだ、――その、セドの様子がおかしいんだった」
 「えっ?」
 『そういえば、今日は見かけていませんねえ。腹でも壊しましたか?』
 「そうかもしれない。あいつにそういうことが起き得るのかどうかは分からないが…。」
一度家に戻った時、灰色の山犬は既に、深い眠りについていた。ゆさぶっても起きる気配はなく、まるでうなされているように、時折顔をゆがめながら部屋の隅に丸まっている。
 鎌首をもたげた蛇の両目が、赤く怪しく輝く。
 『…あれの神像はもう、無いのですよね?』
 「そのはずだ。別の神像に使われてしまったと」
 「イアーレト、何か分かるの?」
 『いえ、思い過ごしでしょう。供物でも食べさせてやれば、そのうち元気を取り戻しますよ。』
ラーネフェルが去っていったあと、ムトノジュメトは、ちらと肩先にいる蛇に目をやった。
 「本当に、心当たりはないの?」
 『ある、といえば在りますが… 考えにくいのですよ。我々、守護神の力を無効化する呪詛があるのです。ただしそれには、相手の守護神の本質を、よく理解していなければ出来ない。神の寄り代たる神像を傷つけるとか、縁の深い人間にその神を汚させるとか、方法は非常に限られます。それに、祭儀に通じていなければなりませんので…神官か、それに準ずる者だけが可能でしょうね』
 「神官…」
ムトノジュメトの視線は、青白い顔で天幕から出てくる養父、アメンエムハトに止まる。今日も、宰相のアクトィと何か二人だけで話をしている。アクトィのことは、あまり好きではなかった。王宮に住むようになってから毎日のように顔を合わせてはいたが、形式ばった会話以外はしたことがない。家族はいないと聞く。かつては何人もの妻がいたが、悉く、子を残さぬままこの世を去ったという。その一方、先代王の時代から宰相を勤める古参の重鎮で、亡くなった若き王は、ほぼすべての政治を任せきりにしていた。王の後見人は王母の兄でもある大臣フネフェルだったのだが、実際に宮廷の権力を握っていたのはアクトィだ。
 王の死後、フネフェルは引退を表明しており、今後はアクトィが宮廷の権力を一手に引き受けることになるだろう。
 話していた男たちの視線がこちらに向けられた。目が合った瞬間、ムトノジュメトは思わずぞっとして、思わず顔を伏せた。
 『どうしました?』
 「いえ。…何でもないわ」
冷たい目だ。あの目と毎日顔を合わせる気には、到底なれない。
 未亡人の証として頭にかけた布を確かめ、ムトノジュメトはベンチから立ち上がった。
 「行きましょうか。戻って、荷物をまとめましょう」
嫁ぐ先の無くなった王妃候補に、もう、価値は無いはずだった。出て行ったところで、誰も困るまい。


 人が出払って閑散とした王宮に、一足先に戻ってきたラーネフェルは、閣議の間――そう名前がつけられていることを知ったのは、つい最近だ――から続く階段を下りてくる父と、階段下ですれ違った。
 「父上」
 「今日で最後だ。ここに出向くのもな」
妙に晴れ晴れとした顔をして、フネフェルは、薄くなった顎鬚に手をやった。大臣職を退くつもりらしい。
 「王の遺体は、ぶじ処理に入ったのか?」
ラーネフェルが頷くと、フネフェルは、僅かに遠い目をした。
 「あれには、かわいそうなことをした。王の役職は、常人に耐えられるものではない。元々丈夫ではなかったうえに、命を縮めさせるようなことを」
 「たとえ体は丈夫でなくとも、王の血を引く者です。たとえ全うできなくとも、本望だったでしょう」
 「しかし最初からお前が就いていたならば、あれはもっと長生きできたかもしれない。――今日、議会にその了承を取り付けてきた。後を継いでくれるな?」
次の王になれ、という意味だ。
 視線を落とし、答えを探す青年の手をとり、何かを押し付けながら、フネフェルは重ねるようにして言った。
 「本来あるべきだった場所に戻れ、ラーネフェル。――お前のものだ。これでようやく、一つ償いが出来たな」
手を開いてみると、それは、金糸を編みこんだ細い額飾りだった。鷹の翼を象るように、細かな羽根模様をつなぎ合わせている。
 ゆっくりとした足取りで去ってゆく父の背中を見送りながら、ラーネフェルは、帯を握り締めた。家族との血の繋がりを疑いはじめた頃は、こんなことになるとは想像の片隅でさえ思いもしなかった。灰色の犬と出会ったあの日から、まだ、半年も経っていない。こうなることを、果たして、あの犬は予見していただろうか?
 振り返ると、ラーネフェルは、閣議の間に続く階段をゆっくりと上り始めた。その奥に控えているであろう、父を除く残りの大臣たちと、六十日後の葬儀の打ち合わせをするために。


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