【天羊の章 2】


 手にした重たい石の棍棒は、どこかの古い墓から持ち出してきたものだろうか。今はもう、儀式にしか使われないような大昔の武器の形をしている。
 ハルは、屈託ない笑みを浮かべながら片手でそれをくるくると振り回している。
 「聞いたよ。将軍になったんだって? すごい出世じゃないか。さすがだね。」
 「…昨日、町にいたか」
 「ああ、大神殿の前で見たよ。すごかったね。君が戦うところを見たのは初めてだ。剣でね。前は、いつも杖を持っていたけど――そうそう、君がいなくなったあと、下町で君の噂も聞いたんだ。全然知らなかったよ、君のこと。"杖の貴人"だって? どうやって君が、無事にうちのボロ家までたどり着けているのか知ったときは、爽快だった」
ハルは一歩ずつ、近づいてくる。ラーネフェルは武器に手をかけたまま、それを抜くことが出来なかった。昨夜見かけた後姿が、気のせいだったらどんなに良かったか。
 「答えてくれ。なぜこんなことを。」
 「分からないのかい? 君はもう、知ってるんだろう。」
近づいて来たとき、ラーフフェルは、ハルの目が笑っていないことに気がついた。以前と変わらない黒い瞳に浮かんでいるのは、かつては無かった深い絶望と、怒りと、そして哀しみ。
 腕が振り上げられた。はっとして、ラーネフェルは横とびに避けた。冷たい夜気に、熱い殺気が入り混じる。
 「分かったんだよ、この世は、持てるもののためだけにあるんだってことをね。正直に生きたって、おれらは死ぬまで惨めな身分さ。生きていたって、死んでからだって、どこにも安息の地なんかない。お腹を空かせながら生きて、死ねば墓に詰め込まれて、そのあとは砂漠の塵だ!」
足元で灰色の犬がほえる。
 『何をしている。敵に手加減するな、殺されるぞ』
 「…ハル、一体何が」
 「何が、だって? 同じ境遇の仲間を集めたのさ。楽しかったよ。浮かれ騒いでる貴族と王に復讐してやろうと言ったら、みんな大喜びだったぜ。婚礼なんてクソくらえだ。贅沢三昧の連中に一泡ふかせてやった。神なんていやしない! 神殿にだって簡単に忍び込めたぜ」
セドが、気に入らないというように鼻を鳴らす音が聞こえた。これだから人間は、などと、ぶつぶつ文句を言っている。だが、ラーネフェルにはハルの気持ちが痛いほど伝わってきた。
 「すまなかった。…お前がそこまで生活に苦労していた時に、俺は何も」
 「よしてくれ。同情なんて要らない」
笑いながら、ハルは武器を振り回す。当てる気もないようだった。
 「君には感謝してる、君にだけはね。お陰で母さんの葬式は出せたし、この世がどれだけ腐ってるか知ることも出来た。誤算だったのはさ、まさか君が、こんなに早く、しかも出世して戻ってきてしまうことだったんだ。どうしてあんな王に仕えようなんて思ったんだい? 戻ってこなければ、こんなことにならずに済んだのにさ」
 「もうやめろ、…ハル」
 「ジャマしないでくれよ。君さえいなければ、残りの連中は大したことないんだからさ。今度こそ王宮を燃やして、神殿にも火をかけてやるんだ。あんな神もいない神殿なんて、要らないだろう?」
 「どうしてそんなことを言うんだ? 神殿に火をかけるだって?」言いかけたラーネフェルは、はっとした。「…神殿」
ムトノジュメトが姿を消す前、最後にいたのは、アメン神殿のはずれだった。
 「…ムトノジュメトを攫ったのは、その時か。」
 「ムト…? あのお姫様のことか」
 「そうだ。どこにいる」
ラーネフェルの声の調子が変わったのに気づいて、ハルは怪訝そうな顔をした。
 「知り合いか?」
 「…彼女は妹だ。俺の、本当の」
明らかに、ハルの表情に動揺が走った。
 「本当の? あれから、血の繋がっている家族を見つけたのか」
 「ああ…。」
武器を握った腕が降りた。ハルは、一つため息をつく。
 「…ずるいよな、君は。何もないふりをして、何もかも手に入れるんだ。おれにはもう、誰もいないっていうのに――」
夜風が吹き抜けて、水辺の草がざわざわと揺れる。崖のほうは既に静まり、松明の明かりがゆっくりと動いているだけになっている。ちらとラーネフェルの肩越しにそれを確かめると、ハルは、武器を再び掲げた。
 「だったら尚更、返してやるわけにはいかないな」
 「ハル、…」
 「残念だったな、あそこには居ない。戦って勝てたら隠し場所を教えてやるよ!」
吼えながら突進してくる青年の腕を摑み、その衝撃を受け止めたとき、サンダルが泥にめり込んで滑るのを感じた。
 なんという力だろう。まるで本当に、雄牛が乗り移ったようだ。
 『ラーネフェル、――』
 「だめだセド。お前は手を出すな」
奥歯を食いしばりながら、ラーネフェルは、体の底から力を集めてハルを押し返そうとした。どうせ武器を抜いたところで、剣と棍棒ではこちらが不利だ。それに、ハルを傷つけたくない。たとえ罪を犯した今でも、彼にとっては、幼い頃から本当の兄弟のように思ってきた相手なのだから。

 * * * * * *

 最後に見張りがやってきてから、どのくらい経っただろう。
 外が妙に静かなのに気づいて、ムトノジュメトは、おそるおそる外の気配を伺った。
 閉じ込められているのは、明かりも無い薄暗い横穴の奥だった。墓にするつもりが、途中で岩盤が崩れて断念したらしい。入り口のあたりは漆喰が塗られていたが、奥のほうは崩れたまま、瓦礫の山になっている。彼女を攫った賊たちがねぐらにしている横穴からは離れているようで、定期的に様子を見に来る以外は静かなものだった。
 「イアーレト、大丈夫かしら」
 『ええ。人間の匂いはしませんね』
腕にまきついた白蛇が、舌を出し入れしながら空気を調べている。『どうやら助けが来たようですね』
 「お兄さんかしら?」 
 『おそらくは。犬の臭いニオイがしますから』
蛇の毒舌に、ムトノジュメトは思わず苦笑した。
 「仲良くしなさいよ。昔からの知り合いでしょう」
 『不可能です。何度、あいつに踏みつけられたと思っているのです』
暗い中を手探りにたどり着いた出口は、滑りやすい崖の上だ。手がかりも、はしごも無い。谷には、風に乗って、誰かが争っているような音が響いている。明かりを掲げた衛兵の姿がちらりと見えた。ラーネフェルは何処だろう。
 『むむ。嫌な気配ですねえ』
 「え?」
 『セドが手をこまねいています。ふむ…』
 「お兄さんが戦っているの? どこ? 場所を教えて」
蛇は、ちょっと困ったような顔をした。
 『貴方が行っても――』
 「いいから。早く会いたいのよ、どこなの」
 『…崖を降りて、村のほうへ。近くに川から引き込んだ水路がありますね。ここと村の中間です』
それを聞くなり、ムトノジュメトは、衣のすそをたくし上げて腰のすぐ下あたりで固く縛った。どうせ暗くて、誰にも見えはしない。岩に手をかけながら斜面を滑り降りると、確かに、遠くにうっすらと村らしき建物の影が見えていた。裾を上げたまま、ムトノジュメトはそちらへ走り出した。
 『ああ、将来の王妃が…なんという格好で』
蛇が嘆く声も今は耳に入らない。どこだろう。どこかから、雄牛の吼えるような声と犬の唸り声が聞こえてくる。音のほうへ近づいていくと、闇の中、もみ合う二つの影が浮かび上がってきた。ラーネフェルと、もう一人は―― 神殿で出くわした、薄い色の髪の男だ。ここへ自分を攫ってきた賊の頭領だと分かった。
 組み合う二人の手が離れ、賊が棍棒を振り上げる。
 「やめて!」
思わず、ムトノジュメトは叫んだ。手が止まり、二人の青年は同時にこちらを振り返る。
 「…ちっ」
舌打ちして、薄い色の髪の男は暗がりへ走り出していく。ほっとした顔になると同時に、ラーネフェルはその場に膝をついた。慌ててムトノジュメトが駆け寄る。
 「お兄さん!」
 「なに、ちょっと力が抜けただけだ」
膝に手をかけながら、すぐに立ち上がる。
 「大丈夫か。どこか怪我は」
 「何も…、閉じ込められていただけよ。何もされてないの。お兄さんは? お兄さんこそ、怪我してないの」
 「こっちも、かすり傷さ」
ちょうど谷のほうから、捕らえた賊を縄につないだ衛兵たちが引き上げてくるところだった。指揮官のラーネフェルが、人質になっていた王の婚約者と供にいるのを見て、歓声を上げる。彼が助け出したと思ったのだ。残るは、逃げた首謀者カムテフの捕縛だけだった。

 だがその後の追撃にも関わらず、首謀者のカムテフの行方は杳として知れず、広範囲な目撃情報の聞き込みにも、手がかりが聞かれることはなかった。
 そして――いつしか、日は、過ぎていった。


 日差しの角度が変わり、肌を焼く太陽の熱が緩み始める。川べりの畑を覆っていた水が少しずつ、引いてゆき、黒々とした畑の土が姿を現し始めていた。
 王が病のため婚礼を延期するという布告が成されてから、半月ほど。町はどこかしらけた雰囲気で、祭りの一ヶ月を終えたあとの神殿も、人はまばらだ。老将軍セトナクトは東の国境を守る任務へと戻っていった。代わりにラーネフェルは、王の警護という名目のもと、取り立てて任務もなく都に留め置かれている。毎日自宅で目覚め、町へ出る。それはある意味で、以前と変わらない生活でもあった。違っているのは、通う先は王宮だということだ。
 中庭を越え、豪華な彩色のされた王の私室へと続き狭い廊下を過ぎると、薄い御簾のかけられた部屋が見えてくる。
 「あ、いらっしゃい」
ラーネフェルが入ってゆくと、天蓋つきの寝台の傍らに腰を下ろしていた少女が立ち上がった。ムトノジュメトだ。あの夜の放火で焼かれた離宮の修復が済んでいないので、今は王宮に暮らしている。彼女が来てから病人の部屋はすっかり様変わりし、香の変わりに川べりで積まれた花が飾られ、開け放された窓からは、明るい日差しが差し込んでいた。
 「お加減はいかがですか」
言いながら、ラーネフェルは寝台の王に横たわる若者を覗き込んだ。
 「ムトノジュメトが居てくれるお陰で、ずいぶんましになったぞ」
そう言って笑う。
 「お前も来てくれるからな」
ここのところ、王の体の具合は、ずいぶん良くなっているように見えた。蝋のように白かった肌には少し赤みがさし、日に何時間かは床から起き上がれるようにもなった。食欲も戻ってきているという。ムトノジュメトは、傍らの盆から杯を取り上げて、ラーネフェルに渡した。
 「今日も町の話を聞かせてくれるか? 余の民はどのような様子なのだ」
寝台脇の椅子に腰掛け、ラーネフェルは口を開く。
 それは、もう、日々の日課と化している仕事だった。ラーネフェルは、語り部として二人に外の世界の話を聞かせる。神殿の外を知らずに育ったムトノジュメトも、王宮の外を知らずに育った王も、ともに彼の話を目を輝かせて聞いた。二人は知らない。町のはずれに暮らす貧しい人々の苦しい生活も、灼熱の太陽の照りつける国境の砦のことも。
 相槌を打っていた王の声が途切れ、やがて、静かな寝息に変わる。
 ムトノジュメトが立ち上がり、顔を覗き込んだ。
 「眠ったみたい」
うなづいて、ラーネフェルは立ち上がった。今日の仕事は、ここまでだ。
 王の寝室を辞すとき、ムトノジュメトがついてきた。二人は並んで、狭い廊下を抜けた先の中庭までやって来る。
 「――持ち直すだろうか」
 「わかりません」
少女は、中庭の木立を見上げて呟く。「すべては神の思し召しでしょう、と御殿医は」
 「…そうか。」
あの青年は、体が丈夫ではない。もとより過酷な王の仕事をこなせる体力はなく、こんな王宮の奥に篭っているせいで、尚更健康を害してしまったのだ。白い肌に、細い腕。その姿は、どこか兄サナクトに似ているとも思った。王は、サナクトとはいとこ同士なのだ。そして自分やムトノジュメトとは、異母兄弟にあたる。だが王には、後者のことはまだ知らせていない。
 「目を覚ましてるときは、いつもお兄さんのことを話すのよ。今どうしてるんだろう、今日はもう来ないのか、って」
そう言って、少女は困ったように微笑んだ。
 「私が隣にいるのにね。もしかして、気がついているのかしら? お兄さんのこと」
 「…さあな」
異母弟だとしても、王とラーネフェルは似ていない。王は母に、ラーネフェルは父に似たせいだろうか。ただ、初めて間近に見えたときから、不思議な親近感があったことは確かだ。木々の間を飛び交う鳥たちの声が、中庭に響いている。ここは、静かだ。
 「そういえば、あの人… 私を攫った、あの賊の頭領は、まだ見つからないんですか」
 「ああ」
ラーネフェルは僅かに表情を曇らせた。「しばらくすれば、この町に戻ってくると思ったんだが」
 殺さず捕らえよという命令も空しく、ハルの行方は、あれきりふつりと途絶えてしまった。再び、仲間を集めてよからぬことをしないとも限らない。そうなる前に、自分の手で捕らえたかった。
 ムトノジュメトが奥に戻っていくのを見届けてから、ラーネフェルは、ちらと足元の犬に目をやった。
 「お前は、一族の守護神だったんだろう? 父を同じくする王は、守護しないのか」
灰色の毛並みの犬は、フンと小さく鼻を鳴らした。
 『走れぬ王は王ではない』
 「…好き嫌いか。」
苦笑して、ラーネフェルは歩き出した。王宮は静かで、警備のための衛兵が定期的に立っているほうには、すれ違う召使もまばらだ。王宮の敷地は広く、建物の中はひどく入り組んでいる。まるで迷宮だな、と彼は思った。人を閉じ込め、そこから容易に逃がさぬようにする。迷い込んだ者たちは、みな、不思議な呪力に囚われてゆく――王やムトノジュメトをここから連れ出すことさえ容易では無い。つい先日から王宮内に寝泊りするようになったサナクトでさえも、だ。
 廊下を渡ってゆくと、また雰囲気が変わった。乾いた草のような香りと、墨をすり潰した独特の匂い。書記たちが集まる部屋は、いつもこんな風に紙と墨の匂いに満ちている。
 「財務長殿」
声をかけると、会計簿を手に書記たちに指示を出していたサナクトが顔を上げた。戸口に弟の姿をみとめると、急いで残りの指示を出し終えてこちらへ駆けてくる。
 「お忙しいところ、邪魔して申し訳ありません」
 「なに、将軍殿の用事に比べれば大したことではありませんよ」
一瞬だけいたずらっぽい表情を浮かべ、サナクトは、弟の肩に手を回した。「こっちへ」廊下の左右には、同じような巻物だらけの部屋が幾つも連なり、巻物を抱えた書記たちがその間を忙しそうに歩き回っている。
 ここは、国家の運営に関わる書類を管理する書庫だ。書簡、会計簿、地図、「記録する」という行為に関わるすべての書類が集められている。上等な紙は貴重だが、王室の書庫ともなれば、その紙が大量に消費され、日々書き留められた様々な記録の巻物は、壁の棚にびっしりと並べられている。
 サナクトは、書庫を通り過ぎた先にあるテラスへと進んだ。休憩時間にはまだ早いせいか、ほかに人の姿は無い。
 「例の件の記録、見つかったぞ」
手短にそれだけ言って、小さなため息をつく。「お前の言ったとおり、祭儀が途切れたのは十五年くらい前… ちょうど、お前がうちに来た頃だ」
 「やはりそうですか」
頼んでおいたのは、セドの祠堂が放棄された時期だった。大神殿の奥に作られた祠は、中身が空っぽにされてから、もうずいぶん誰にも省みられていないように見えた。
 「中にあった神像の行方は?」
 「調べてみたが、そっちは分からなかった。記録にもはっきりとは残されていない…」
言いながら、たっぷりとした袖口の中から古い巻物を慎重に取り出す。端は欠け、全体的に黄ばんだ古い会計簿だ。手荒に扱うと、崩れてしまいそうにも見える。
 「ただ、祠堂が閉鎖された数年後の記録に、"祠堂からの再利用 廃棄物の処遇"というものは見つけた。大神殿の祠堂で、この十五年に閉鎖されたのは一つだけだ。転用元はおそらくそこだろう」
 「何に使われたんです?」
 「石の神像は砕いて別の神の彫像にされたようだ。金細工と捧げものの台は、宰相家の墓の副葬品――布の類もだ。王からの下賜という形で、だな」
足元で、犬が呻くのが聞こえた。
 「下賜とはいうが、王がそこまで細かい指示を出すとは思えない」
 「ああ。形式上の話だ、実行したのは宰相のアクトィ殿自身だろうな。ちょうどその頃、宰相殿の妻の一人が産褥で亡くなった。熱病で王族も貴族もばたばた亡くなった後だから物資が足りなかったんだろう」
巻物から視線を上げ、サナクトは、弟を見た。
 「…これで満足か? 将軍殿。いや、…元・皇太子殿下。」
ラーネフェルは、小さく首を振った。王宮に暮らしていただろう頃はあまりにも幼く、記憶は何一つ残ってはいない。
 「王には、まだ何も伝えていないのか」
 「ええ。言うつもりはありませんよ。このままでいい」
 「だが、既に噂になっている」
 「噂?」
 「お前が足しげく王のもとに通っていることも、ムトノジュメト姫とやけに仲がいいこともだ。ことにお前は、姫とそっくりだからな」
ラーネフェルは思わず笑みを浮かべた。
 「自分では全く気がつきませんが。そうなんですか?」
 「少なくとも、僕とお前よりはな」
少し笑って、サナクトは柱にもたれながら袖口に手を入れた。「父上は、王のご結婚とともに引退すると仰っている。それを機に、お前が実子でないことを公表したいと」
 「何故そんな――今更ですか? 証拠も無いというのに」
 「なに。人が信じようと、信じまいと、ひとたび真実が明らかにされれば、現実はそれに沿うだけだよ。それに父上は、根っからの政治家だ。公表することで、お前を王の後継者候補に仕立てたいのだろう。そうすれば、たとえ王が早くに身罷っても、継承者不在による空位だけは避けられる。王権の不在による混乱、それだけは絶対に阻止しなければ」
 「……。」
ラーネフェルは、無言に踵を返す。
 「行くのか」
 「ええ」
 「戻ったら母上によろしく伝えておいてくれ。やることが山積みで、どうやら今日も戻れそうに無い」
小さく頷いて、彼は兄と別れた。足元を、音も無く灰色の犬がついてくる。 
 『これで、私が実体を無くした理由は明らかになったな』
 「そうだな。神像が砕かれてしまったとなると、また新しいものを作らないといけないのか」
耳をぴんと立て、犬は、ちらりとラーネフェルを見上げる。
 『作ってくれるのか?』
 「そりゃな。お前には、これからもずっと側にいてもらいたいし」
返事は無かったが、やたらと弾んでいる尾を見るだけで、犬が喜んでいることだけは分かった。そう、失われた神像は元に戻されねばならない。だが、同じあの祠堂は使えるだろうか? それとも、今の屋敷のどこかに作ったほうがいいのだろうか。
 すれ違う人々が頭を去れ、衛兵たちが緊張した面持ちで居住まいを正す。考えながら大股に歩くラーネフェルは、自分の周囲で囁かれる噂にも、人々の視線にも、全く気づいてはいない。
 参道と交わる道まで来たとき、彼は、突然と足を止めた。
 「…?」
振り返り、大神殿の白い大門を見やる。
 『どうした』
 「…いや」
耳元で、誰かに話かけられたような気がしたのだ。気のせい、だろうか?


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