【斑牛の章 3】


 母が息を引き取ったのは、それから数日後のことだった。
 心残りを伝え終えた母の顔は安らかで、不思議と、涙も出てこなかった。小さくなって軽い母の体を背おって、ハルは、町の西岸にある墓地へと向かった。かつて父をそうしたように、死後の装いを整え、墓に収めるためだ。貴族の墓の並ぶ谷の入り口にある葬儀屋の辺りには、腐敗した嫌なにおいが充満している。脇の小屋では、防腐処理のために使う白い塩山を砕いては桶にすくっている死体処理の職人たちがおり、葬儀に使う棺や布が、無造作に作業台の上に置かれたままになっている。
 「葬儀をお願いしたいんだが」
ハルが声をかけると、作業台で顔料用の石を砕いていた男が胡散臭そうに顔を上げた。
 「その背中の、かい? あんた、葬儀代は出せるんだろうね」
ハルは無言に、腰の袋から黒い木箱を取り出した。母がずっと隠していた、あの箱だ。ラーネフェルが別れ際に押し付けていった。
 中身をあらためた男は、ふむ、と少し色よい顔になった。
 「これなら塩に漬けて包帯を巻いてやることは出来るな」
 「それだけ?」
驚いて、ハルは声を上げた。中身は、上等の産着とサンダルに腕輪も入っていたはずだ。箱まで入れれば、それなりの価値にはなる。
 「それだけあれば、棺に入れられるんじゃないのか。香油は塗ってもらえないのか? 昔、父が死んだときは――」
 「残念だが、こっちも商売でね。このところ物価が上がっているんだ。東の国境が危なくなっていて、高価な葬儀用の香油が手に入りづらい。おまけに大祭のあとで、布もあまり手に入らなくてなあ。余裕のあるものといえば――。」
男は、ちらと背後の小屋のほうを見やる。塩。白と茶の入り混じる、ずっと下流の枯れ谷が掘り起こされて運ばれてくる、塩の山だけだ。
 「せめて、護符の一つもつけられないのか」
 「護符か。出来合いのものでよければ…。ちょっと待ってろ、探してこよう。死体はそこに寝かせておきな」
男はくたびれたサンダルを引きずりながら作業小屋の一つへ引っ込んでいく。傍らの茣蓙の上に母を寝かせ、ハルは、腰の袋に手をやった。そこにはまだ、一つだけ品が残っている。ラーネフェルが母に握らせていった胸飾りだ。金の台座に貴石をはめ込んである。それを手放せば、おそらく、きちんとした棺に入れて、立派な葬儀が出来るだろう。だが、それだけは使いたくなかった。いつかラーネフェルが町に戻ってきたときに返すつもりだった。
 表には、じりじりと日が照り付けている。
 男は戻ってこない。人が少ないのだ。小屋の集まっているあたりからそう遠くない場所から、人の大勢集まっている気配と、掛け声が聞こえてくる。 
 何をしているのだろう。
 小屋を出て、声のするほうへ行ってみた。


 ハルは、何年も前、父をここまで運んできた日のことを思い出していた。
 あの時は、母がかつて勤めていた貴族の家――ラーネフェルの父からの見舞金で葬式を出せた。塩で防腐処理をした遺体に香油を塗り、包帯を巻き、護符をつけて棺に入れてもらった。棺は共同墓地に収められ、それ以来、墓参りには来ていなかった。
 物音がしていたのは、その、記憶にある共同墓地だった。
 葬儀屋たちは、墓守も兼ねている。だが今日は墓の番をする者はおらず、代わりに、総出で崖に穴を掘っていた。旧来の墓所の入り口は大きく削り取られ、中から遺体が次々と運び出されている。
 ハルは驚いて近くにいた男に駆け寄った。
 「何をしてるんだ? なんで、墓を壊してる」
 「うん? 見てわからんかね。一杯になってもう入らないから、中を広げてるんさ」
鋤を手にした男が、さも当たり前のように言う。「古い死体は、片付けにゃなあ」
 「片付けるって…」
 「ほれ、そっちに移すんだよ」
見れば、地面に竪穴が掘られ、その中に遺体の包みが無造作に積み上げられていた。中には包帯がとけ、中から黒ずんだ腕や足がはみ出しているものもある。
 「これじゃ…墓を暴いているのと変わらないじゃないか…」
呆然として呟き、ハルは、目の前の男を睨んだ。「家族が墓参りに来たら、なんていうんだ」
 「はあ? んなもん、どれが自分とこのだって分かるんかよ。墓ン中ぁいつだって死体で一杯だぜ。どれもおんなじような包みじゃあないか。こうした片していくから、新しいのを入れるところが出来るんだ。この谷だってなあ、無限じゃないのよ」
 「……。」
男の声は、意識の表面を滑ってゆく。言っていることは本質的に正しいのだ。だがそれでも、心では受け入れることは到底できなかった。ハルの視線は、たった今、高価そうな棺から引きずり出されて穴に放り込まれようとしている遺体に釘付けになっていた。
 父を収めてから、何年になる?
 あれは――もしかしたら、父かもしれない。或いは、もう既に、どこかの穴に放り込まれてしまったのか――。
 体中の力が抜けていくのが分かった。死とは、こんなものなのだ。葬儀など、所詮はその時の気休めにすぎない。「永遠の家」? 一体誰が、墓のことをそんな風に名づけた? "永遠"など在りはしない。どこにも、在りはしない。人は死ねば終わりなのだ。
 「お、いたいた。おーい、あんた」
さっき、護符を探しに行くと言って小屋にひっこんだ男が、ハルのほうにやってくる。
 「ちょうどいいのを見つけたぜ。ほれ、葬儀の護符はこれでどうだい」
茶色く萎びた皺だらけの手をひらくと、手のひらの上に、小さな緑色のスカラベの護符が載っていた。ハルはそれを指先でつまんで、ひっくり返してみた。甲虫の形をした護符の裏側には、細いのみで死後の世界での守護を唱える呪文が刻まれていたが、それは最近作られたものではなく、磨り減って、おそらくずっと前に知らない誰かのために作られたものだった。
 自然と、口元に笑みが込み上げてくるのを覚えた。
 葬儀? 護符だと? そんなもの。
 「これでいい」
どうせ何年かすれば取り出されて、また別の誰かに売りつけられるのだ。母の遺体もそうだ。高価な処理など無意味だ。

 ――見よ。今、死が見える

 とぼとぼと町への道を辿りながら、ハルは、ぼんやりと足元に落ちる黒い影を見つめていた。母は、もう居ない。ラーネフェルも、はるか南へと去った。急に、町がよそよそしく感じられた。今日から一体、どうすればいい? 何をして暮らせばいい?


 気がつくと、神殿の前にいた。
 祭りの終わった町にはまだ、浮かれた気配が漂っていた。一ヶ月後に小神殿から大神殿へと神像が戻る小規模な祭りがある。それまでは連続した"休日"であり、町人たちも大いに羽目を外すことが許されている。父が亡くなっていらい、もう何年も、この祭りは見ていなかった。祭りの時期の町にすら立ち入っていない。子供の頃、母がまだ乳母の勤めをしていたころには、何ヶ月も前から指折り楽しみにし、当日はラーネフェルとともに手を引かれて見に行った。それが、今はどうだろう。
 普段は参拝客でごったがえしている大神殿だったが、今は祭りの期間で神像が小神殿へ移されているとあって、人の姿は稀だ。だが、この祭りは神々が小神殿で休暇をとるためのものでもある。小神殿は参拝客を受け付けておらず、請願者たちは一ヵ月後に戻ってきた神々が聞いてくれると信じて、神殿の奥の「耳の間」と呼ばれる部屋に祈り届けたいことを託してゆく。何人かの参拝客が参道を歩いていくのを見て、ハルも、その後ろに続いた。
 記憶にある大きな門を潜ると、清めの中庭に出る。砂利を踏んでサンダルの泥を落とし、神官たちが注ぐ水で手を洗って進んでゆくと、高い天井をもつ薄暗い部屋の中に出る。ハルが差し出した手に水を注ぎながら、白い衣の神官は胡散臭そうな顔をして、サンダルも履かず、薄汚れた腰布だけを身につけた貧民街の住人を見ている。
 ひんやりとした空間に灯りはほんの少しだけ。どこからともなく漂う香の香りに誘われながら進んでいくごとに天井は高くなり、闇は深くなる。
 ああ、懐かしいな、とハルは思った。
 母はとりたてて信心深いほうではなかったが、祭日や何か特別なことがあった時は、かならず、神殿へお参りに来ていた。養い子が風邪を引いて寝込んだとき、息子がはしかにかかったとき。神殿で祈ったところで、本当に願いを聞き届けてくれるなどと信じたことはなかったが、この大神殿の荘厳な雰囲気と心地よい闇に包まれていると、そんな風に思っていたのがひどい過ちだったような気がしてくる。神々は本当にいるのだと、今なら信じられるような気がした。


 ほかの祈願者たちに混じり、ひざまづいて神の社に向かって祈りをささげ、薄暗い回廊を通って外に出てきた、そのときだった。
 入り口を一歩出るなり、いきなり複数の腕がハルを摑んで参道脇に引きずり倒した。目の前に、渋い顔の神官。左右から押さえつけているのは神殿づきの衛兵たちで、組み敷いたハルの腰の袋をまさぐっている。
 わけも分からず、ハルは腕を振り回して抵抗した。
 「やめろ、何をする!」
 「あったぞ」
衛兵の一人が、何かをつかみあげた。それは、袋に入れていた金の胸飾りだ。
 「やはり、スリか」
 「違う、それは貰ったものだ。盗んでなんかいない」
 「貰った? ほう、これはまた斬新な言い訳だな」
衛兵たちが笑い、ハルの頭をこづいて地面にこすり付ける。「お前のような貧乏人がこんなものを持っているはずがないだろう」
 「本当なんだ。それは―― 友達から――」
 「神の家で、暗がりに乗じて参拝客の持ち物を盗むとは、これだから貧民街の連中は」
ため息まじりに神官が首を振る。ハルは、ただ呆然と目を見開いているしか出来ない。
 「窃盗の現行犯だ。牢に放り込んでおけ。」
何も悪いことなどしていない。ただ、祈りに来ただけだ。ここは神の家だって? そんなことは分かっている。神の家なら、神々は自分が何もしていないことをご存知なのではないか?
 乱暴に引き立てられながら、ハルは、遠ざかってゆく神殿を見ている。
 舌が絡まり、喉はからからだ。
 祈ることさえ許されないのか。何もしていないのに、またあの薄暗い地価牢に放り込まれ、ムチ打たれるというのか。
 こんどは、助け出してくれるラーネフェルはいない。彼は遠くへ行ってしまった。
 ――死にたくない。
 「うわああっ」
 「つっ、こら! 貴様」
無我夢中だった。
 腕を摑んでいた若い衛兵に体当たりし、全速力で駆け出す。
 「待てこら! おい! そいつを捕まえろっ」
後ろで、声が響いている。裸足の足に尖った石が突き刺さり、血が滲む。かまうものか。殺されるよりはずっとましだ。参道を斜めに横切り、通りに飛び込み、驚いて振り返る人々を押しのけて狭い路地へ駆け込む。
 「こっちだ、こっち」
声がしたかと思うと、目の前に腕が伸びて、ハルを崩れかけた家の中に引っ張り込んだ。すぐさま入り口の布が下ろされる。ややあって、外を、衛兵たちの騒々しい足音が通り過ぎてゆくのが聞こえた。
 「どこだ?! そっちは! いないのか」
 「見失った。すばしっこいやつめ…」
声が遠ざかる。
 息を弾ませながらあたりを見回すと、数人の若い男たちが、意味深な顔つきで彼を取り囲んでいた。身なりこそ、ごく普通の町人のようだが、目つきが悪く、どこか斜に構えたような雰囲気がある。
 一人が口を開いた。
 「あんた見ない顔だな。新参かい?」
 「新…参…?」
 「やり方が真っ直ぐすぎたな。入り口を入るところから目をつけられてた。そんなボロ着てちゃだめだぜ」
言いながら、自分の服をつまんでみせる。「まずは見た目からってやつだ」
 それでハルは理解した。この男たちは、――本物の犯罪者、本物のスリなのだ。
 「あんたら…、神殿でものを盗んでるのか」
 「おお、そうだな、時にはそれもやる。警戒されないよう狩り場は変えるがね」
にやにやしながら、別の一人が言う。
 「こういう商売は、仲間がいたほうがうまくやれるんだ。あんたは力が強そうだし、走るのも早い。どうだい? いっちょ乗らねえか、分け前は等分だぜ」
 「仲間…って…」
スリをやれ、ということなのか。
 どんなに貧しくても、人様のものに手を出してはいけない、と母はいつも口をすっぱくして言っていた。だが、その母はもういない。
 神殿は貧しいものを拒み、貶め、無実の自分を見放した。神などいない。
 ラーネフェル、唯一の友人でさえ王によって都から放逐され、生きて戻れるかも分からないのだ。ああ、そうだ。彼に貰ったあの品も、奴らに奪われた。正直に生きたところで誰も褒めてはくれない。苦しい思いをして生きても、ボロ布に巻かれて、穴に埋められるだけ。そんな人生は嫌だ。絶対に嫌だ。

 ――生きてやる。

 その日から、ハルの新しい日々が始まった。仲間たちに教わって、通りで、酒場でスリを働き、詐欺まがいの商売にも手を染めた。時には衛兵に見つかり、追われることもあったが、それさえ生きている実感に思えて、快感だった。かつては一度も人を殴ったことなどなかったのに、暴力をふるうことすら罪悪感がなくなっていった。ただ、同じ貧しい町人たちからは奪わなかった。
 いつしか彼の周りには仲間が増え、しだいに裏町で頭角を現していた。
 母からもらった名は捨てた。裏町では、かつて母に教えられた神の名――カムテフを名乗った。その名を使うとき、彼の脳裏には、あの斑の雄牛の黒い瞳があった。

 そのうち仲間が増え、大々的に活動するようになると、衛兵からの警戒も強くなった。
 裏町も安全ではなくなり、隠れ家に苦労するようになった彼は、根城を変えることにした。移った先は、都からそう遠くない小さな村の崖の上にあった大昔の貴族の墓だ。そこは、すぐ側にある小さな村の住民たちが何世代にも渡って盗掘を繰り返してきた谷で、貴族の墓はとうに空になっている。墓に描かれた死後の楽園の風景も今は空しい。村人たちには、分捕り品の分け前を口止め料として与えた。かわりに穀物や乳を分けてもらい、ハルと仲間たちは悠々と姿を隠すことが出来た。
 楽しかった。
 仲間がいて、家があり、腹いっぱいに食べられる。もう、すきっ腹をかかえて朝早くから魚を取りに行かなくていい。もう、堅い床の上で一枚だけの薄い茣蓙の上に眠らなくてすむ。
 ――だが、内心ではわかっていた。
 こんな生活は、いつまでも続くはずがない。いつか自分は、捕まって、処刑されるだろう。
 時に夢の中で、牛の夢を見た。牛の黒い瞳、死にたくないと語りかけてきたあの目を思い出しながら、繰り返し、彼は思う。

 どうしても誰かに殺されるのだとしたら、―― その相手は、自分で選んでやる。


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