【斑牛の章 1】


 緑の牧草地と、青い空。遠くには仲間の牛たちがいて、頭上には重たい立派な一対の角がある。
 ああ、まただ、と寝返りを打ちながらハルは思った。これは夢だ。ここのところ三日に一度は見ている、自分が牛になっている夢だ。その牛は祭りに捧げられる特別な牛で、大切に世話され飼われている。よく引き締まった体に、色艶のよい毛並み。体は他の牛たちよりふたまわりも大きく、角も切られていない。
 何不自由ない暮らしだった。だが牛は、不満に思っている。囲いの中の生活に、ではない。いずれ自分が捧げられる祭りについて、だ。
 ――あの王に殺されるのは、いやだな。
 草を食む牛の思考が、その記憶とともに夢の中で流れ込んでくる。牛が思い出しているのは、一度囲いに様子を見にやって来た、輿に乗った若き王の姿だった。上等の真っ白な衣を身につけて、立派な腕輪をはめている。日傘を差しかけられながら柵に近づいてくると、じろりと一目、牛を見て言う。
 「こんな大きいものを倒すのか、余が? あの角は危ない。なくせないのか。」
 「いいえ、王。あれを切ってしまっては、台無しです。ご心配なく、当日は、ビールで酔わせて歩けなく致します。…」
側近の話を聞いて頷きながら、王はそれきり、振り返りもせずに去ってゆく。牛は内心でがっかりする。聖牛は王に血と心臓を捧げることで神々の食卓に上がり、やがて神の国へ入れられるというが、あんなひ弱な王では、儀式がうまくいくと思えない。一刀のもとに命を絶たれるならともかく、苦しんで死んでいくのは嫌だ。きっとあれは、本物の王ではないに違いない。本来なら従えているはずの神々の守りが、どこにも見当たらないではないか。
 げっぷとともにため息をひとつ吐き出して、牛は、のそりと草を求めて歩き出す。そう、もっと自分を殺すのに相応しい王が、きっとどこかにいるはずだ。あの王には殺されたくない。殺されたくない。まだ死にたくない…


 「…しにたくない」
小声で呟いて、ハルは、ゆっくりと瞼を開けた。傍らで寝息が途切れ、寝返りをうつ気配がある。肩越しに、すぐ隣に横たわる母の肉付きのよい体が見えた。
 日干し煉瓦を積み上げただけの粗末な小屋には、部屋は二つしかない。眠れる場所は、寝室がわりのこの部屋だけ。狭い土間にひいた葦のござが唯一の寝具で、その下は固い地面。寝返りを打てば土の上に落ちる。父が亡くなっていらい、もう何年も、これが当たり前の生活だった。母が乳母の務めに暇を出されたのも、ちょうど、その頃だった。
 痛む背中をさすりながら起き上がり、ハルは、母を起こさないよう足音をしのばせて台所へ向かった。東に向いた台所は、既にうっすらと朝の光を受け初めている。扉や窓などというものはない。入り口は隙間だらけの茣蓙を吊るしたもので、窓は煮炊きの煙を追い出すための穴のことだ。隅に置いてある甕から冷たい水をすくって口に運ぶ。すきっ腹に染み渡る冷たさで寝ぼけた目を覚ます。これが、彼にとっての朝餉だった。
 壁に吊るした魚篭と網をとり、入り口の茣蓙を捲ろうとしたとき、背後で母が起き上がる気配がした。
 「ハル? もう出るの」
 「うん、魚取ってくるよ」
 「そう。気をつけてね」
小屋をあとに、向かう先は道をずっと下った先にある川だ。この季節は上流から降りてくる水のお陰で川幅が広い。網をかける場所はいくらもある。ただ、そのぶん早く出なければ他の猟師たちに良い場所はとられてしまう。
 魚とりは、畑を持たない貧しい者たちの生活手段のひとつだ。ここは首都の外輪に位置する貧民街の、さらに外側にある荒野との狭間。華やかな大都会の輝きに引き寄せられた、家も職も、日々の糧を得るすべもない流れ者たちは、時には犯罪にも手を染めながら、何とか食いつなごうと必死に足掻いている。そんな町でどうにかまっとうに暮らせているのは、母の苦心のお陰でもあった。
 かつて貴族の家に仕えていた母は、その家で学んだ刺繍の技を持っていた。そのお陰で、いくばくかの収入を得ることが出来ている。かつての美貌が跡形もなく失われた今でも、母のまるっこい指は以前と変わりなく、たくみに布切れに美しい模様を描き出すことが出来た。
 だが、その稼ぎでも、到底足りない。
 家を借りるのはもとより、畑を得るなど夢のまた夢だ。もっと田舎にゆけばそれも可能かもしれないが、母は、頑としてこの地を動こうとはしなかった。落ちぶれても生まれ故郷の町を離れたくないのか、あるいは、いまだ養い子のことが気にかかるのか。
 暇を出されてもう何年にもなるが、かつて母が養っていたハルの乳兄弟は、いまだに母と自分を気にかけて通ってくる。逆にハルは、乳兄弟のもとを訪ねたことは一度もなかった。かつての雇い主は、王に仕える中でも有力な大臣の一人。その屋敷は貴族街の奥にあり、平民が気軽に立ち寄れる場所ではない。本当なら、もうとっくに縁が切れていてもおかしくないはずだった。だのに、何不自由なく育てられた貴族の家の息子は今も、たった一人で町外れのあばら屋に通い続けている。成長してからもよき友人同士ではあったが、いつしかハルは、自分から一歩、身を引くようになっていた。互いの住む世界は、あまりに違いすぎる。それに太陽は――眩しすぎて、近くに寄りすぎると身を焼かれてしまうような気がするものだ。

 乳兄弟、ラーネフェルは不思議な青年だった。
 年は同じだが、妙に落ち着いていて、有無をいわさず人を従える気配を持っていた。ひょろりと痩せて背の高いハルに、背こそは負けていたものの、体格はがっちりして、両親とも兄弟とも似ていなかった。代々文官の家だというが、本人は軍人になりたがっていた。両親からそれを許されず、監視までつけられていることに本人は不満で、町外れまでやってくるのも、家からの監視を逃れたいためだとも言っていた。
 川べりに網を投げながら、ハルは、つい先日もやってきた、その青年のことを思い出していた。いつもと変わらず、たった一人で、身を守るすべは一本の杖だけ。豊かな者を見れば襲い掛かろうというごろつきに事欠かないような貧民街を通り抜けるのに、粗末な服で身分を偽るでもなく、従者をつけるでもない。ふらりとやって来て雑談し、土産を置いて帰ってゆく。そんな青年を、母はむやみに心配していた。
 「身分が違うのだからね」
彼女は何度もそう言った。だから、いつか縁は切れてしまうのだと――そう言いながら、けれど、そのことを誰より恐れているのは、母なのだった。それはかつての養い子が己の手を離れていってしまう以上の感情のように、ハルには思われた。母は何かを恐れている。それが何なのかはハルにも分からない。
 ぱしゃり、と銀のうろこが水をはねた。
 「―ーお」
網を引き上げると、大きな魚が一匹、中で跳ねている。今日の最初の獲物だ。しかし、これだけでは腹は一杯にはならない。ほかの猟師たちは、もっと大きな網を使って、仲間同士で舟と舟の間をつないで川の深いところを浚っている。川の中ほどあたりには葦舟が幾つも浮かび、次々と銀色のうろこを水の中から引き上げていた。いつしか太陽は高く昇り、朝日はきらきらと川面に反射して、川向こうの谷も明るく染めはじめていた。
 水際の緑と、黒い水の流れ。
 それからも何度か網の中身を魚篭にあけ、昼近くなってからようやく陸に上がった。舟で漕ぎ出していた漁師たちは、とっくに居なくなっている。そろそろ、魚とりには遅い時間だ。自分も今日はもう終いにしよう。
 泥を落としながら岸辺の道を歩き出したとき、ハルの耳に牛の声が聞こえてきた。見れば、農夫が牛を引いて通り過ぎてゆく。
 (そういえば――王家の囲いが、移動してきてるんだったな)
数日前、農夫たちが少し先の川べりの斜面に、柵をたてているのを見た覚えがある。川幅の広くなるこの季節、牧草地も水の下に浸かってしまうから、たいていの牛は小屋に閉じ込めて干草だけを食べさせる。だが王家の食卓に捧げられる選りすぐりの牛たちは、干草だけでなく川べりの僅かな草も食ませるため、広い柵を作ってその中で放し飼いにされる。季節が巡るたびに作られるその柵を、人々は、"王家の囲い"と呼んでいた。
 町では、間もなく"大祭"の行われる季節だ。町の守護神でもある大神殿の主、アメン神とその一家が別神殿に移り、休暇を楽しむという祭り。その祭りの中で犠牲として捧げられる聖牛も、囲いの中にいるはずだ。
 それで、あんな夢を見たのか。
 岸辺を歩きながら、ハルは、ずっと前に一度だけ見たその牛のことを思い出していた。立派な角をもつまだら模様の雄牛で、何人もの農夫たちが貴族にかしづくようにしてそばに控えていた。
 ただの牛に神が宿るなどという話は、信じていない。
 王に殺されることによって神々の食卓に昇るというが、実際は王と神官たちが切り分けた肉を食べるのだ。牛殺しなど、貴族たちの好む残酷な余興に過ぎない。彼の感覚からすれば、あんな立派な牛を殺してしまうことのほうが惜しい。そう、夢の中で、牛も"まだ死にたくない"と言ったではないか。
 (きれいな牛だったな)
ハルは足を止め、牛を連れた農夫の去ってゆく方角に視線をやった。囲いのある方角だ。まだ時間も早い、どうせそう遠くはないのだ。あんな夢を見たついでだから、久しぶりに牛を見ていくのもいいだろう。
 彼は向きを変え、網を肩にかけたまま囲いのほうへ、農夫の後を追うようにして歩き出した。


 "王家の囲い"は、川べりまで続くなだらかな斜面に作られていた。
 柵の中には二十頭ほどの牛が放たれているが、どの牛も立派なものだ。ここに入れられているのは、特に上等で、すぐにも神殿や王様の食卓に送ることが出来るようなものばかりのはずだった。柵の中には人間の姿はあまりなく、代わりに、鋭い目つきをした番犬たちがうろついている。
 長く、哀愁牛の声が響く。見ると、さっき農夫が引いていた赤牛が柵の中に追い立てられるところだった。農夫は胡散臭そうな目でじろりとハルを睨み、それから、番小屋のほうへ去ってゆく。視線を戻すと、赤牛の傍らを抜けて、ゆっくりこちらへ歩いてくる別の牛の姿が見えた。
 斑模様に、立派な角。
 あの牛だ。夢の中で見た牛。
 こちらへ真っ直ぐに向かってくる。ハルは驚いて、その黒い瞳を見つめた。偶然ではない。見慣れぬ人間への興味だろうか。頭のコブがはっきりと見え、やがて柵の端までやってくると、牛はそこで歩をとめた。
 じっ、と見つめている。
 うろたえながら、ハルも牛の黒い瞳を見返した。その瞳の中に写る自分が見える。ふいに、頭の芯がしびれたようになって、足元がふらついた。きっと熱に当てられたせいだ、と思った。日差しが傾き始めている。日照りの下、すきっ腹で漁をしていたせいだ。
 慌てて視線を逸らすと、彼は小屋への道を急ぎ足に歩き始めた。早く帰って、釣った魚を母に料理してもらおう。そう思いながら。


 「ただいま」
入り口の茣蓙を押し上げると、母の姿が無かった。つい今しがたまで、誰かがいたような気配がある。
 「あら、お帰り。遅かったわね」
母のティアが、奥の部屋から出てきた。「坊ちゃんが来てたのよ。すれ違わなかった?」
 「いや。…そうか、ラーネフェル来てたのか。だったら寄り道しなきゃよかったな…」
魚篭を外し、母に渡す。ずしりと重たい籠の中身を見て、ティアは顔をほころばせた。
 「こんなに無理しなくてもいいのに。今日食べきれないぶんは、干し物にしておかなくちゃね。おなかすいてる?」
 「うん」
 「それじゃ、今日はちょっと豪勢にしようかしらね。すぐ支度するわ、待ってて」
魚とりの網を壁にひっかけながら、ハルは、入り口近くの、炉辺の出っ張りに目をやった。ラーネフェルが来たときはいつも、そこに腰を下ろす。ほかの、この家には腰を下ろせる椅子のようなものはないからだ。いつも持っている杖は傍らに立てかけて、ついさっきまでそこにいた人物の気配が、輪郭とともに、まだ残っているような気がした。
 「…坊ちゃん、あんたを従者にくれって、また言ってたのよ」
息子の視線に気づいて、ティアは困ったように笑う。「いつまでも、私たちのことなんか気にかけてくれて、しょうがないったら。」
 「でも、そのほうが母さん、暮らしが楽になるんだろ?」
 「そりゃあね。でもね――旦那様が嫌がるでしょうよ。私の息子だもの、お前は…。」
母は、乳母を解任された理由を詳しくは話してはくれなかった。雇い主の不興を買ったのだというようなことを言っていたが、単なる仲違いや失態によるものではないことを、ハルは薄々と感じ取っていた。母はそれ以上なにも話さなかった。それが、母がこの地を離れたくない理由なのかもしれない、とは思っていたものの。


 その夜のことだった。

 眠りに就こうとしていた時、ハルは、表で大勢の人間の足音がするのに気がついた。盗るものなど何もないような貧乏あばら家だ。夜盗など恐れるものではない。
 だが、やって来たのは犯罪者ではなく、都を守る衛兵たちだった。
 「一体、何事です…きゃっ」
槍を持った兵の群れを前に、ティアは悲鳴を上げてその場に座り込んだ。「何、何でしょうか? あの、私たちが一体なにをしたと…」
 「お前ではない。そこの若い男、貴様だ。」
驚いて声も出ないハルの両腕を左右からひっつかみ、衛兵たちは彼を、小屋の外へ引きずり出した。冷たい地面に投げ出され、堅い砂利が体に食い組む。夜空が回る。後ろ手にひねり挙げられ、気が付けば、縄を打たれて引き立てられている。
 「牛泥棒の嫌疑だ。貴様が今日、王家の囲いの側で不審な行動をとっていたことは、わかっている」
牛だって?
 「待って! 何かの間違いです、うちの息子は泥棒などするような子では…」
 「邪魔だ、どけ」
これは夢の続きなのか。今度は、犯罪者になる夢でも見ているのか。
 「恐れ多くも王家の囲いから、聖牛を盗んだ」
牛? あの、綺麗な牛のことか?
 「言え。牛をどうした。売り飛ばしたか? それとも――」
途切れ途切れに聞こえる声、母の泣き声。
 (ああ、母さん。そんなに叫ばないでくれ。腕よりも胸が痛い)
 「ハル! ハル――」
声が遠ざかってゆく。それは夢を見ているような、――悪夢のような時間だった。詰め所の地価牢に放り込まれ、ハルは、ムチを受けた。牛をどこに隠したのかときつく問い詰められ、だが、知らないものは答えようもない。牛を見に行ったことは事実だ。確かに今日、柵の側にいた。でも、牛に触れたりはしていない。
 昼間の頭のしびれが、まだ消えない。
 死にたくない。
 ムチの痛みに耐えながら、彼は思った。死にたくない、こんな穴倉で死ぬなんて、真っ平ごめんだ。

 どのくらい、拷問が続いただろう。
 やがて意識の朦朧としたハルを見下ろして、将校は冷たく言い放った。
 「ぶちこんでおけ。二、三日も臭いところにいれば、吐く気にもなるだろう」
麻袋のように引きずられ、暗い牢に投げ込まれるのを感じた。
 辛うじて覚えているのは、そこまでだ。それきり意識は途切れ、やがて、何もかもが暗がりの中に飲み込まれた。


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