【天羊の章 1】


 ゆっくりと瞼を押し上げると、見慣れた部屋の風景が目に入った。寝台の上に体を起こすと、かすかに肩が痛んだ。昨夜は無我夢中で気づかなかったが、どこかにぶつけていたらしい。体が重いのは明け方まで町中を走り回っていたせいだ。
 あの後、火の手が残っていないか町中を周り、賊の残党を見たものがいないか、まだ起きていた町人に尋ね回ったのだ。貧民街までも出向いた。しかし得られた情報は僅かで、ムトノジュメトが本当に賊に連れ去られたのかさえはっきりしなかった。捕らえられた賊は十五名、残る十余名が死亡。捕らえられたうちの比較的軽傷な者は牢に閉じ込められている。今頃は、首謀者の名と根城を吐かせるための取調べの最中だろうか。ラーネフェルも、そこには同席するつもりだった。
 身支度を整えていると、寝台の下から灰色の犬が這い出してきた。
 「よう、お前もまだ眠いか」
犬は答えず、体をゆすって大きく伸びをし、扉の側に腰を下ろした。腹がすいているようだ。小さく微笑んで、ラーネフェルは首に犬を象った石のお守りをかけ、寝台に立てかけてあった杖を手に取った。
 もう昼近いはずだったが、広間へ降りてゆくと、今日は珍しく父フネフェルがまだ家にいた。父も昨日は遅かったのだろう。給仕しているのは母で、召使たちの姿はない。ラーネフェルは二人に挨拶をして、仏頂面でパンをかじっている父の前の椅子に腰を下ろした。
 「兄上は?」
 「港の被害を調べに行っている。昨夜の放火で舟と積荷が燃えたとかで、被害の目録をな」
フネフェルは、じろりと息子を見た。 
 「舟を沈めたな」
 「町を守るためです」
たかつきから果物を取りながら、ラーネフェルは答える。
 「あれには王が特別に取り寄せた高価な品が乗せられていたのだぞ。それが舟一隻ぶん。被害の額はひどいものになるだろう」
 「町を守るために必要な犠牲でした。舟を沈めずにいれば、積荷は少しは救えたかもしれませんが、どこかに類焼する危険が増したでしょう。町が燃えれば人の命が失われます。高価な香木や香油は買い戻せても、人の命は決して買い戻せません」
 「……。」
それきり、父は言葉を切った。広間には、黙々と食事する音だけが響いている。
 再び口を開いたのは、しばらく経ってからだ。
 「――昨夜、アメン神殿に行ったか」
食べ物をビールで流し込んで、ラーネフェルはパンをちぎる。
 「ええ、行きました。」
 「何をしに?」
わずかな沈黙。ラーネフェルは、顔を上げた。父は真っ直ぐに、不安げな眼差しをこちらに向けている。廊下にかすかな衣擦れの音が遠ざかっていく。母が、席を外したのだ。
 パンを置いて、彼も真っ直ぐに父に顔を向ける。
 「父祖の守り神だったという、セドの祠堂を確かめてみたかったんですよ」
フネフェルは妻の去った廊下にちらりと目を向け、一つ、ため息をついた。
 「まったく、お前という奴は――何時の間に…」
 「俺もいつまでも、子供ではありませんからね。」
このために人払いをされたのであろう屋敷の中には、他に人の気配はない。しん、と静まり返った広間の、中庭に向けて開かれた柱の間には、穏やかな昼の日差しが床の彩色に反射している。風はなく、日よけのための薄絹は、ぴくりとも動かない。
 「恨んでいるのか」
 「何をですか?」
 「お前の、その――出自を偽ってきたことをだ」
 「恨む理由があるんですか。実の両親はもうこの世にはいない。俺は、家族を与えてくれたことに感謝しています。ただ一つ恨むとすれば、妹のことを隠していたことです」
フネフェルは、眉を寄せた。
 「妹?」
 「ご存知なかったのですか」
 「うむ。…だが、言われてみれば心当たりはある」
老獪な大臣は、滅多に見せない表情で口元を歪めた。
 「そうか、アメンの神官長がやけに肩入れしていた、あの娘か? 先代王の第一王妃は、病を得る前、確かに身ごもっていた。先に病の床についた王から離され、神殿にかくまわれていたのだが。――死産だったとばかり。……こら、なぜ笑う」
 「いえ。これで、父上を恨む最後の理由もなくなってしまいましたね」
フネフェルは目を大きく見張り、やがて、その表情が崩れてゆく。
 「――かなわないな、お前には」
その顔は、兄サナクトとよく似ていた。王宮で見せたあの笑顔、ずっと一緒に暮らしていながら、父や兄が笑うところを見たことは、ほんの数えるほどしかない。
 フネフェルは、ビールの杯を取った。
 「話しておかねばならぬと思っていたのだ。いつかは――わしの罪を」
そうして、父は話してくれた。それは、十五年近くに渡って、家族にも父の同僚たちにも"秘密"にされてきた物語だった。


 ――突如として猛威を振るった熱病で、壮健だった王までもが急死することは、誰にも予測不可能だった。

 王が身罷ったとき、王には二人の息子がいた。第一王妃の子と、フネフェルの妹である第二王妃の子と。ほかの王妃たちには子供はなく、一人は既に熱病で世を去っていた。王は後継者を指名しておらず、順当にゆけば、わずかに早く生まれた第一王妃の子が世継ぎとなるはずだった。フネフェルにとって、それは痛い誤算だった。何とか王に取り入り、妹の子を皇太子として指名させるつもりだったからだ。二人がともに成長すれば、その機会は十分にあると思っていた。だがそれも、王の急死によって叶わなくなってしまった。
 思案していたとき、フネフェル自身にも不幸が降りかかってきた。自身の二人目の息子が同じ病に捕らえられたのだ。
 幼い息子を熱病で失って嘆き悲しむ妻メリエトを見ていたとき、彼はふと、子供をすりかえることを思いついた。――それはあまりにも大胆で、不可能に思われた企てだった。けれど、その頃、熱病で多くの重臣たちが倒れ、王宮と王の一族は、ほとんど省みられなくなっていた。身重の第一王妃も、病の伝染を避けるため、大神殿にかくまわれていた。
 世間の注意が自らの家族の生死に向けられていた僅かな隙をついて、フネフェルは、死んだメリエトの息子を第一王妃の息子と偽って葬儀を行い、代わりに妹の第二王妃の生んだ子を新王として即位させた。ほどなくして第一王妃も、第二王妃も同じ病で亡くなり、すり替えに気づく者は居なくなった。あまりに巧くいったことにフネフェル自身が恐れを抱いたほどだ。
 妻は、すりかえた第一王妃の子を実の子のように慈しんだ。時が経つにつれ、フネフェル自身も、本当の息子のように思い始めていた。
 だが恐れは消えず、ラーネフェルが成長してゆくにつれて、ますます大きくなっていった。彼は実の親に生き写しだったからだ。誰かが先代王との血のつながりに気づくのではないか、あるいは彼自身が探り当てるのではないかと恐れ、なんとかして平穏な人生を送らせようと画策していた…その矢先に、あの事件が起きた。


 「血は水よりも濃し、だ。…お前自身が知っているとおりにな」
ちょっと肩をすくめ、フネフェルは頬のひげの剃り跡を撫でた。「雛鳥は、その親に似るものだ。どんなにわしが押さえつけても無駄だった。誰にも教えられていないのに、お前はひとりでに実の親と同じ道を選んでいた。」
 「…このことは、おばあさんも全て知っていたんですね」
 「それと、我が妹もな。あれらにも、罪を負わせてしまった。オシリスの法廷で裁かれ、今頃は火の海を素足で渡っているか――あるいは、とっくに怪物に心臓を食われてしまったかもしれん。いずれわしも同じところへ行く。もはや<永遠の園>へはゆかれぬ身と覚悟はしている」
そう言って、父は遠い目をした。――自らの死ぬ日を語ったとき、いつもより、二周りも小さく思えた。
 ラーネフェルは、指を拭いて席を立った。
 「行くのか?」
 「ええ。」
 「気をつけてな」
戸口を出ようとしたとき、いつの間にか母が玄関に立っていた。無言に差し出されたマントと剣を受け取り、彼はそれを身につけながら家を出た。母は、目を合わせようとはしなかった。急いで顔を背けたのは、きっと泣いていたからだろう。


 町はまだ、混乱の中にある。
 逃げた賊を警戒するため衛兵たちが通りをうろついているし、昨日燃えた舟は川に沈んだ姿を晒し、焦げて使いものにならなくなった積荷も桟橋の周辺に乱雑に積み上げられたままだ。噂は瞬く間に町を駆け抜ける。王宮まで侵入されて火を放たれたこと、王妃となるはずだった娘がさらわれたこと。
 「婚礼は中止かね」
 「そりゃ、相手がいないんだから。にしても、相手はただの農奴なんだろう? どうして、こんな…」
 「呼び戻されてたっていう将軍様たちは、何をやっていたのかねえ」
さざめくような声がいやでも耳に入る。そんな声と痛いほどの視線を感じながら、ラーネフェルは、衛兵たちの詰め所へ向かっていた。そこは前にも一度訪れたことがある。大祭の犠牲の牛が居なくなった事件の時、ハルが閉じ込められていた場所だ。
 今回は、父の名を告げるまでもなかった。
 入り口の衛兵たちはラーネフェルを見るなり背筋を伸ばし、最敬礼で奥へ通した。中ではちょうど捕らえられた捕虜の尋問が行われているという。それは腰布一枚さえ手に入れられず、葦で編んだ茣蓙を荒縄で巻いて唯一の衣服としている、痩せた、ぎらぎらした目をもつ小男だった。既に長いこと拷問されていたのだろう。石をくくりつけられ、皮のムチで打たれた跡は、体中赤い痣となって無数に散らばっている。
 「強情な奴で。吐こうとしないんですよ」
ムチを手にした将校は、言い訳のようにそう言って足で男の腹を蹴った。
 「やめておけ。どんなに痛めつけても、口を割らない者はいる」
ラーネフェルは、目の前の囚人を見下ろした。
 「昨夜は王の荷に火を放ったな。王宮にもだ」
痩せた男は、ゼイゼイと浅い息を継ぎながらにやりと笑う。
 「そうだ。…おれたちがやった」
 「町ではなく、川べりの舟荷に火を放ったのはなぜだ。」
 「油を積んでいて、燃えやすかったからだ。それに警備も手薄だったからな」
 「そうか? 貧民街のほうが燃えやすかっただろう。あの汚らしい町を燃やしてくれたほうが、掃除の手間がはぶけたのだがな」
 「な…、」
明らかな怒りの色が男の顔を過ぎるのが分かった。「ふざけるな。貴様ら貴族は皆そうだ、おれたちのことなんざゴミくず以下にしか思っちゃいねえ――王もだ、あの野郎はおれたちが飢えてるときでも贅沢三昧、あんな油なんぞに金をかけて――」
 「おい」
ラーネフェルは、側に立っている将校に声をかけた。「水を持って来い」
 「は」
まもなく、下級の兵の一人が桶いっぱいに水を汲んできた。ラーネフェルはそれを、目の前の男に勢いよくぶちまけた。
 「少しは頭が冷めたか? そんな言い訳で、お前は無関係な町の人間を危険にさらしたんだぞ」
 「ゲホッ、ゲホッ…」
 「昨夜は川の方から風が吹いていた。おまけにこの季節は乾燥している。火の粉が飛べば、町のどこに類焼するか分からない。貧民街はもとより、悪くすれば、この町に住む多くの住民が命を失う可能性があった。お前たちがやったのは、そういうことだ」
 「何を…言って…、」
 「憎むなら、なぜ王宮だけに火をかけなかった」
ぽたり、ぽたりと雫が顎を伝って流れ落ち、縛られた男の足元を塗らしていく。怒りに燃えていた男の目に、困惑の色が浮かんだ。
 「あんた、頭…おかしいのかよ…」
 「俺は正気だ。お前たちが何を恨んで、何に怒ってるのかは、分かっているつもりだ。」
縄を解け、と側にいた兵に命じた。戸惑っている将校には、器を持ってくるように言う。縄が解かれ、器が届くと、ラーネフェルは、桶に残っていた水を器に汲んで、男に差し出した。
 「飲め」
 「……。」
訳が分からず、男はただそれを見つめている。だが、再三勧めると、ようやく震える手で器を受け取った。桶をひっくりかえして椅子代わりに、ラーネフェルはそこに腰を下ろして、貪るように喉を潤す痩せた男の顔を眺めている。
 「今日、王宮に脅迫文が届いた。お前たちは"斑牛の兄弟"と名乗っているそうだな。なぜ、そんな名を? 目的は、王に復讐することなのか」
空になった器を手に、口元を拭いながら、囚人はじろりと目の前の身なりのいい軍人を睨んだ。若いが、将校にも命令しているところからして位の低い武官ではないと分かる。だが、その人物は彼の知る"お高く留まった貴族将校様"では無いように思われた。
 その時、男の視線が止まった。――杖だ。持ち手が鉤の様に曲がった杖が、若い男の手元にある。
 「あんた…もしかして、よく貧民街に来ていた貴族か…?」
 「ああ、以前はな」
 「……。」
男の体中にたぎっていた敵意が、静かに引いていく。
 「…斑牛は、王によって屠られる犠牲の牛だと、カムテフは教えてくれた。それは相応しくない王に怒りの角を突き立てる牛だとも言った」
 「貴様! 陛下を侮辱するのか」
ムチを振り上げようとする兵を手で制止、ラーフェルは、男に続けさせた。
 「おれたちの命など、最初から無いも同然だ。殺されたところで悲しむやつがいるでもなし、ただ虫けらのように死んでいきたくなかっただけだ。偉そうに踏ん反り返ったお偉いさんたちに辛酸舐めさせてやりたかったのさ。泥を投げつけてよ。婚礼なんざぶち壊して――」
 「その、カムテフは今どこにいる。お前たちの根城は」
 「……。」
 「教えてくれ。お前たちの気持ちは良く分かるが、やり方が間違っている。こんなことをしても何も変わらないぞ。無闇に命を無駄にするな。今ならまだ止められる」
 「……村の名前は」
かすれた声で、男は、川の下流にある小さな村の名を告げた。そこにはまだ、王や貴族たちに怒りをくすぶらせている者たちが集まっているという。多くのものは単なる意趣返しで、王権転覆などという大それたことは考えていない。ただ、首謀者のカムテフだけは、何かにとりつかれたように王や貴族たちへの復讐心を滾らせ、大きな計画を抱えているようだという。力が強く、頭も切れる。その男はまだ若く、自らを、神に選ばれた者と称したという。
 『それで、母の雄牛<カムテフ>、か。敵を打ち倒す神だ――ふむ、実に大それた名だな』
詰め所を出て王宮へと向かう道すがら、傍らを歩く犬が言った。
 「ということは、偽名か」
 『おそらくな』
素性までは白状しなかったが、自分を見たことがあるというなら、あの男は、この町の貧民街の出身だ。それが何故か引っかかった。昨夜、月明かりに一瞬だけ見えた後姿。あれは、ハルではなかっただろうか? ハルは、ティアが亡くなったあと、姿を消した。まさかとは思いたくないが、町に詳しい出身者が集められているとしたら、その中にハルが居ないとは言い切れない。
 ――いや。
 浮かんできた考えを、ラーネフェルは無理に振り払った。そんなはずはない。あの穏やかなハルに、暴力的な事件に関わる理由など無いはずだ。
 先回りして、一歩前から犬が、顔を見上げてくる。
 『どうした。何を考えている?』
 「いや。ちょっと、…な」
今の自分は、どんな顔をしているだろう。王に仕える身でありながら、王の婚礼をぶち壊しにした賊に同情し、行方不明の友人の心配をすることで頭が一杯になっている。
 「ムトノジュメトのことも聞けなかったな…、無事だろうか」
 『ああ、あれは大丈夫だ』
セドは、平然と答える。
 『あれには炎の蛇<イアーレト>がついている。主を守り、危害を加えようとするものを焼き尽くす恐ろしい蛇だ。あれがついているなら問題ない』
 「なら、いいんだが…。」
王宮の門が見えてきた。普段より警備は厳重で、どこか落ち着かない空気が漂っている。昨日、火を放たれた離宮の壁には黒く焼け焦げた跡が残され、被害を調べる書記や職人たちが集まっているのが見えた。
 階段を上がり、回廊を通り抜け、謁見の間へ向かう廊下を過ぎようとしたとき、頭上から太い声が降って来た。
 「ラーネフェル!」
見上げると、中二階より続く階段からセトナクトが降りてくるところだった。「こっちへ来るのが見えたのでな。陛下はおられない」
 「おられない?」
 「昨夜の知らせを聞いて。その――な」
なにやら口ごもり、渋い顔をする。「その話は、奥でしよう。こっちだ」言うなり、老将軍は先に立って足早に歩き出した。ついてゆくしかない。だが、明らかに様子がおかしい。廊下を折れ、中庭を越えると、辺りは妙に人の気配が薄く、静かになった。廊下は狭く、だが、彩色は豪華になってゆく。王宮にこんな一角があるとは知らなかった。明らかに、公のための空間ではない。王の私室、それも限られた者しか立ち入れない奥座敷だ。
 やがて行く手に、薄い御簾のかけられた部屋が見えてきた。昼間から薄暗く、香の匂いが漂ってくる。
 入り口でぴたりと足を止め、セトナクトは胸に拳を当てた。
 「おやすみのところ、失礼いたします」
みじろぎする気配があり、衣擦れとともに咳き込む音がした。
 「将軍か。入れ」
 「は。」
ラーネフェルは目を見張った。ここは、王の寝室なのだ。その王は、疲れ果てた顔をして寝台の上に横たわっている。天蓋つきの寝台は人が横になっても眠れるほど大きく、小柄な王の体はクッションに埋もれているようにも見えた。きつい香でさえ、病んだ気配は消し去れない。若き王の生命力は、――急速に衰えつつある。
 「お疲れのところ申し訳ありません。賊の根城が判明いたしました。これより討伐と、…妃殿下の救出に向かいます」
 「そうか」
青白い青年は、うつろな視線を、ラーネフェルとセトナクトの間に置いた。
 「頼むぞ。必ず…無事に」
 「勿論です」
 「……。」
大きくため息をついて、頭を落とす。セトナクトは、肘でラーネフェルを促した。謁見は終わりだということだ。軽く頭を下げ、二人は足音を殺してその場を辞した。
 「一体いつから、あの状態に」
 「もうだいぶ前から、体の調子はずいぶんお悪いのだ。それが、昨夜の火事と姫君の報で一気に…。元々、心臓が弱い方でな。これまでにも何度か発作を起こしている」
最後に見たティアの姿が脳裏を過ぎった。青白く痩せて、呼吸さえままならないまま横たわっていた、あの死の直前の姿。
 「このことは、まだ?」
 「うむ。宰相殿と、一部の大臣だけだ。将軍では、わしとお前だけ。侍女どもにも厳しく緘口令を敷いている。いずれ知れようが、今は何としても隠さねばならん。」
セトナクトは、口元をぴくつかせた。「姫君が戻れば、お元気になられるはずだ。今はそう信じるしかあるまい」
 「急ぎます。」
 「頼んだぞ。わしはここで、町と王の身をお守りする」
頷いて、ラーネフェルは首にかけた石にそっと手をやった。痛ましい姿で横たわる王は、他人ではない。同じ父の血を分けた異母兄弟なのだ。どちらが王になったかなど関係ない。ムトノジュメト同様に、あの青年も救わねばならない家族の一人だ。

 そのとき、廊下の向こうから、長い袖をひるがえし、背の高い男がやってくるのが見えた。額の金の環と、手にしたもったいぶった采配が、その人物の身分を物語っている。すれ違おうとするとき、白い口ひげの片側が小さく跳ね上がるのが見えた。
 宰相アクトィ、幼少時より王の後見人として、実質の政治を司ってきた人物。セトナクトはむっとした様子で、会釈さえしなかった。不仲なのは明らかだった。文官で、軍を軽んじてきたアクトィと、根っからの武官のセトナクトでは、古くから王に仕えてきた者同士でも、気が合わないのだろう。
 『気に入らんな、あの男』
足元で、小さく呟くのが聞こえた。軍の守護神たる山犬の感覚も同じということか。


 かすかな水音とともに、舟が岸辺に着いた。畑の端だ。畦道の先には、十軒ほどの泥の家が固まって建つ小さな村がある。寝静まった村の周囲には、寝ぼけた動物たちのかすかな泣き声と虫や小動物の声が響き、村の周りに散らばっていく兵たちの足音をかき消していく。どこかで赤ん坊のぐずる声がする。闇に紛れて、彼らが目指すのは村の奥の谷にある古い貴族の墓だった。何百年か前にそこら掘られ、今は使われていない。そこが今は、賊の根城になっているという。
 もとより、あまり大勢の兵を率いて来るつもりは無かった。相手はろくな武装も無く、兵でもない。人数もそう多くは無いはずだ。奇襲をかければ間違いなく取り押さえられる。心配なのはムトノジュメトのことだったが、まさか人質を傷つけはすまい。ラーネフェルは、谷と村との間にある、谷の入り口を見渡せる位置に陣取って、辺りを伺った。崖に空いた穴が、貴族の墓の跡だろうか。そのあたりには、確かに明かりが幾つか見て取れる。誰かが焚き火をしているのだ。間もなく追い出しが始まる。逃げる先は、この道しかない。崖を越えた村とは反対側の先は、水場どころか日陰もない赤い荒野、そこに逃げ込むことは死を意味している。
 ざわりと風が動いた。
 崖のほうで明かりが揺れるののとほぼ同時に、ラーネフェルは首筋に視線を感じて振り返った。
 「やあ、早かったね。やはり君が来たのか」
懐かしい、穏やかな声とともに、闇から浮かび上がった人の形が近づいてくる。しん、と冷えた夜気の中で、その声は、不思議な余韻を保っていた。
 それは、ハルだった。
 確かにハルの姿をしていた。
 「…なぜ、ここにいる」
 「なぜだろうな。聞くまでもなく分かっているんだろう。そうじゃなければ、」視線をちらりとラーネフェルの手元に向ける。「…武器に手をやったりはしない」
言われて、ラーネフェルは自分が無意識のうちに腰に手をやっていたことに気がついた。クシュの砦で過ごした哨戒の日々のうちに身につけた癖だった。夜道で出会う予想外の人の気配は、大抵が敵なのだ。敵意を感じたときは、距離をとり、いつでも武器を抜けるように身構える。そうしなければ、次の瞬間には矢で貫かれるか、短刀に喉を切り裂かれている。
 敵意?
 そう、敵意だ。これは紛れもない、殺す意志を持った感情だ。
 背後の谷のほうで、鋭い声が幾つか響いた。光が踊り、崖から転がり落ちてゆく黒い人影が見える。賊の悲鳴と、兵たちのかけあう追い込みの声。ハルは、そちらを気にした様子も無く、後ろ手に隠していた、ずしりとした石の棍棒を持ち上げた。一歩あとすさりながら、ラーネフェルは小さく首を振った。
 「お前は、…本当にハルなのか?」
 「いいや。それは、かつての名だ。今のおれは、怒れる雄牛、"カムテフ"さ」
振りかざした棍棒に巻いた皮紐がしなる。星明りの闇の中、ラーネフェルは、両手を振りかざして向かってくる若者の姿に、かつて"大祭"で見た、斑牛の姿を思い出していた。


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