【黒犬の章 2】


 大臣フネフェルの館は、幅広の王宮前通りに面した貴族街の一角にあった。漆喰を塗った家々の真っ白な続く街並みは、さっきまで歩いてきた貧民外の薄暗さとは大違いだ。館から出てきた召使いたちは、ラーネフェルの姿を見かけて無言に礼をして通り過ぎてゆく。彼は一つため息をついて、裏口の階段を見上げた。
 家族の入り口は大通りとは反対側、庭園のすぐ脇につけられている。だがそこから部屋へ向かおうとすると、庭園に面した居間と、吹き抜けの中庭を通り抜けなくてはならない。そこには大抵、母が待ち構えている。ただ、この時間なら父や兄も仕事から戻ってきているはずだ。そちらに気を取られていてくれればいいのだが。見つからないよう祈りながら、ラーネフェルは、下働き用の裏口からすばやく館の中に滑り込んだ。
 『何を、そんなに緊張している?』
 「母上は何かと口うるさい人だからな」
ひんやりとした風の渡る廊下には、人の気配はない。ほっとして、彼は少し肩の力を抜いた。部屋は廊下の突き当たりの階段を上がった先だ。中庭を横切らず、遠回りしていけば見つからずに済む。
 塵一つなく掃き清められたタイル張りの廊下に、サンダルのヒタヒタいう音だけが小さく響く。居間のほうから聞こえてくる大きな声は、父のものだ。小柄な体とは裏腹に、良く通る威厳に満ちた声をしている。小さな声で相槌を打っているのは兄だろうか。仕事を終えたあと、いつものように宮勤めの愚痴を話し合っているのだろう。その声を聞き流しながら階段を駆け上がり、もう大丈夫だと胸を撫で下ろした、次の瞬間。
 「ラーネフェル!」
鋭い呼び声に、思わず杖を取り落としそうになった。階段の後ろから、スカートの裾をたくし上げて追ってくる者がいる。母のメリエトだ。
 「…母上」
 「やっぱり、あなた! コソコソして、一体どこに行ってたの。」
小走りに駆け寄るとき、耳につけた翡翠の飾りが揺れてシャラシャラ音を立てる。近づくと、きつい香油の香りが辺りにむっと立ち込めた。細い金の輪をいくつもはめた腕がからみつき、ラーネフェルは、無意識のうちに顔を逸らしていた。
 「怪我をしてるじゃない――それに、この泥の汚れ。あなた、また下町へ――」
 「母上には関係ないでしょう」
彼は、微かに胸の痛みを覚えながらも、やや乱暴にメリエトの腕を払い退けた。「俺はもう子供じゃない。いちいち行き先を言う必要があるんですか」
 「普通のお出かけならいいわ。でも下町はだめよ。あそこは強盗やならず者の巣窟じゃない、危険だと何度も言ったでしょう。あなたときたら、そんなところへ行って喧嘩ばかり――」
 「騒がないでください、声が大きい。」
 「ラーネフェル――」
 「着替えてきます。ご心配なく、母上に迷惑はかけませんよ」
逃げるように部屋に滑り込んで戸を閉めると、自然に大きなため息が漏れた。背中越しに、まだ廊下でうろうろしている女の気配を感じる。心配してくれているのは分かっている。けれど、その愛情は半ば脅迫じみていて、彼にとっては絡みつく網のようなものだった。
 どこからともなく、クックッという小さな笑い声が聞こえた。
 『随分と苦労しているようだな、母親には』
その時になって彼は、忘れていた黒犬の存在を思い出したのだった。見回すと、犬はいつのまにか寝台の脇まで移動していた。ひくひくと鼻を動かしながら、部屋の空気を嗅いでいる。
 「そういえば、母上はお前については何も言わなかったな」
 『ああ。見えないのだ、普通の人間には。』
とん、と床を蹴り、ベッドの端に飛び上がる。
 「俺が普通じゃないとでも? 神官でもないのに?」
 『さて。波長が合うのかもしれん。あるいは何か、私の役目に関わる特別な意味があるのかも。』
 「俺のことは生まれたときから知っていると言っていたじゃないか。俺の名前もだ。」
 『そうだ。"知っている"。だが今は思い出せない』
 「――何だって?」
汚れた布を脱ぎ捨て、着替えを取り出そうと櫃を探っていたラーネフェルは、思わず手を止めた。
 『言っただろう。私は名と姿を失って久しいのだ。我々にとって、名とは存在理由のことだ。それは人間にとっての"記憶"と同じなのだ。お前に出会ったとき、お前の名だけは思い出した。それをずっと昔から"知っている"ということもな。今持っているのは、それだけなのだ』
 「つまり、あんたの記憶を取り戻さないと、俺は知りたいことは教えてもらえないと」
 『そういうことだ。公平な取引だろう?』
 「ああ、そうとも言えるがな」
指先に、真新しい布が触れた。彼はそれを引っ張り出し、汚れを確かめたあと、体に巻きつけた。白い布の上に金色の胸飾りが跳ね、引き締まった上半身が一瞬、露わになる。黒犬の金の瞳がそれを鋭く見止めたが、すぐに何事もなかったように逸らされた。
 「で? あんたいつから、あの辺をさまよっていたんだ」
裾を直しながら、ラーネフェルは寝台の向かいの椅子に腰を下ろした。
 『人の世でいう時間は分からぬが、太陽の舟の過ぎ去るのを、五千回以上は見ただろう』
 「五千回――十五年近くだな。今の王様の即位した頃からか。そんなに長いこと、宿無しでうろついて、よく砂漠の悪霊どもに混じってしまわなかったな」
 『私にはまだ終えていない契約があったのだ』
 「でもそれが何なのかは覚えていない、と」
 『そうだ』
表情のない黒犬の顔を見つめていると、部屋の片隅にある暗闇に向かって独り言を言っているような奇妙な感覚に囚われてくる。これは夢ではないのか。自分にしか見えないという犬の姿、はたから見れば壁に向かって話しかけている頭のおかしい男だ。こんな姿は誰かに見られるわけにはいかない。ラーネフェルは部屋の戸に近づいて、そっと隙間から廊下を伺った。母の気配は、もう消えている。誰かに聞かれる心配は無さそうだ。
 振り返って、彼は続けた。
 「契約ってのは何だ? 人間の祈り? 請願? そもそも、名と記憶が結びつくというのは、どういうことなんだ」
 『そうだな――たとえば、だ』黒犬は、ちょっと片方の耳を傾けた。『ある町の守護神がいたとする――名は何でもいい、その町の名が、その守護神の名でもある。町を守ることがその神の役目であり、存在意義だ。神は町で生まれたすべての人間たちのことを記憶している。だが、町が失われるとその神は名と役割を失い、消えてしまう。分かるだろう』
 「ああ」
 『だが、その町の住人はまだ生きていて、かつての町の守護神のことも覚えているとする。神の契約はまだ終わっていないのだ。その町で生まれた、記憶する最後の住人が死ぬときまで、役割を終えて消え去ることは出来ないのだ。』
 「成るほど、見えてきたぞ。お前は、町か村か、もう無くなってしまった集落の神で、俺はそこの出身なんだな。それで俺のところに出てきたんだろう」
 『そうかもしれないし、そうではないかもしれない。今の私には答えるすべはない』
 「簡単さ。そうと分かれば調べはつく。黒犬の神だろう? どうせ西岸に決まっている」
都の西、日の沈む方角へ川を渡った先の谷間には、死者を祀るための大きな墓所が幾つもある。その周辺の村や町の大半は、死者を弔うための儀式を請負い、道具をつくり、墓穴を美しく装飾するための職人たちの集落だ。彼らの第一の神は、死者の守護神、黒犬の姿をとるアヌビス。
 「明日にでも調べてやるさ。すぐに見つかるだろうよ」
 『……。』
犬は、何も言わずに前足の上に頭を乗せてうずくまった。日は落ちようとしている。部屋の中にも闇が押し寄せて、漆黒の犬の姿はその中に溶け込んでほとんど見えない。戸がノックされ、召使の、夕餉の支度が整ったと呼ぶ声がした。ラーネフェルはすぐに行くと返事をして、頬の傷を手で確かめた。また何か言われるだろうが、どうせ、いつものことだ。


 中庭に面した食卓には、父と兄が揃っていた。小柄で恰幅のよい父と、鬱々とした表情の痩せた兄。既にほろ酔いの父の手には、小さくちぎってビールに浸したパンが握られている。
 ラーネフェルが姿を見せると、父は急に難しい顔になって手を下ろした。
 「なんだ、その顔。また喧嘩か」
席につくか、つかないかのうちだ。
 「人助けですよ、今日は」
 「今日は、とは何だ。一体いつになったら大人になるつもりなのだ。せっかく紹介してやった宮仕えの口も蹴って、学校を卒業してからもぐうたら遊び暮らしておる。少しは兄さんを見習いなさい」
ラーネフェルは、ちらと兄のほうを見た。四つ年上の兄サナクトは、楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、いつも沈んだ表情だ。生まれつきそうなのか、あるいは父に叱られ続けているうちに、いつのまにかこの表情が普段のものになってしまったのか。巨大な石臼でひき潰されて続けてきた者の顔だ、とラーネフェルは思っていた。兄弟仲は悪くはないが、良くもない。サナクトは無口で、ほとんど会話をしたこともないのだ。
 「文書整理の仕官なんぞ死んでもごめんですよ。西の谷で墓の監督官にでもなったほうがマシだ。俺は文官には向かないと、何度も言ってるでしょう」
 「だからと言って兵士だと? このフネフェルの家の息子が? あり得ん。汗水たらして危険な砂漠で蛮族ども相手に命を危険に晒すというのか。いかんぞ、絶対に許さん。お前のその手は、剣を持つためにあるのではない。ペンを持て。」
ひとつため息をついて、ラーネフェルは卓の上の果物をひとつ取った。いつもこうだ。ここ何年も、この話が一歩たりとも前に進んだことはない。
 「聞いているのか? わしとて、何時までも生きていられるわけではないのだぞ。兄さんが結婚したら、お前は――」
 「その前に、出て行きますよ」
ぎょっとして、フネフェルの顔が一瞬、蒼白になった。
 「ご心配なく。ぐうたらな不良息子として死ぬまで厄介になるつもりはありません。家を出て、自分で働き口を探すつもりです」
 「ならん、ならん! そんなことを言っているのではないのだ。わしは――」
これも駄目なのだ。ますます沈み込んでいく兄の気配を感じながら、ラーネフェルは黙々と夕餉を口に運び続けた。両親は、何故か彼が家を出ることを酷く恐れている。それは実の子に対する愛情というより、監視すべき者が解き放たれることに対する恐怖のようにも感じられた。サナクトだって、この違和感に気が付かないわけはない。何も知らされていないだろう兄は、この違和感をどう受け止めているのだろう。
 脂に芯を浸した灯がかすかに揺れる。
 宵闇の中に漂うのは、母の好きな香炉の煙の残り香。
 もはや恒例となった父子の言い争いの一段落したあと、僅かな沈黙の間を経て、食卓は兄の静かな会話に占められるようになった。これも、いつものことだ。今日の職場でのことを淡々と話す兄の話に、怒鳴りすぎて疲れた父は相槌を打つだけ。ラーネフェルは黙って聞いている。何が面白いのかと聞きたくなるような、単調で平和な事務作業の繰り返し。書庫で紙と巻物に取り囲まれ、一日中数字と格闘するのが兄の、神殿の会計係の生活だった。父はそこに、ラーネフェルも入れたがっているのだ。ぞっとする。そんな生活をするくらいなら、死んだほうがましだ。
 「――で、今度のアメンの大祭には、新しく成人の年を迎えた唄い手たちが――」
召し使いがビールとパンの追加を盆に盛って入ってきた時、さわ、と入り口の布が揺れた。ふと、ラーネフェルは顔を上げた。その向こうに気配を感じた。そこにいるはずのない存在の金色の目が、こちらを見ている。彼は即座にその意味を理解して席を立った。
 「おい、ラーネフェル…」
 「先に休みます。お二人はどうぞごゆっくり」
すれ違いざま、召使の手から盆をひょいと浚う。「これは夜食代わりに貰っていくよ」驚いた顔の召使がうんともすんとも言わないうちに、ラーネフェルは、小さな明かりが揺れるの薄暗がりの廊下の闇に姿を消していた。


 部屋に戻ると、卓の上には油ランプが灯され、寝台の上には寝具が整えられて、汚れた上着の布は洗濯のため回収されていた。持ってきた盆を卓の上に置き、ラーネフェルは何処へともなく声をかけた。
 「出て来いよ。晩飯を貰ってきてやったぞ」
するすると卓の下の影が動いた。黒犬の鼻面が見え、耳が、前足が――やがて体の前半分が姿を現す。
 『良い匂いだ。何時振りの供物だろうか』
 「お前のような存在でも腹が減るのか」
 『減るとも。人間のように食わずとも、死なぬだけだ』
ぺたりと床に体をつけたまま、黒犬はひくひくと鼻を動かし、時折口元を小さく動かした。それで食べていることになるのかどうか。盆に盛られたパンもビールも少しも減っているようには見えないが、何か目に見えないものを食べているのかもしれない。食事中の黒犬は放っておいて、彼は中庭を見下ろす窓に近づいた。向かいの斜め下に、まだ父と兄の食事している明かりが見える。家族の部屋は中庭を取り囲むようにあり、大通りに面した表側は父と母、その隣が兄。家の一番奥、通りからは隔てられ、中庭側にしか窓の無い部屋がラーネフェルのものだ。
 「なあ、聞いてもいいか」
 『…何だ』
 「俺はどうして、この家で育てられた? どうして、ここに閉じ込められている?」
 『というと?』
 「あんたの知っている"俺の血を分けた両親"ってのは、この家の両親のことじゃないんだろう?」
返事は無い。背後には、沈黙だけが蟠っている。
 「答えられない、か? それとも覚えていないのか。まあいいさ、言わなくても分かる。血が繋がってるなら、あんたの姿は父上や母上にも見えていたはずだ。俺にしか見えないなら、そういうことなんだろう。」
 『…そう思っていながら、知りたいのか』
 「俺は、得たいの知れないものに自分の人生を決められるってのが嫌でね。」
窓枠に手をかけながら、ラーネフェルは、夜の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。緑と土、それに微かな砂の香り。砂漠から吹く風が運んでくる、人の手の及ばぬ異界の気配だ。
 「今の家族が嫌いってわけじゃないが、少々過保護すぎるのが気に入らない。じかに聞けば、あの人たちは取り乱すだろう。兄上の平凡な人生も壊したくはない。かといって、俺の人生を犠牲にする気もない」
 『ふむ』
赤い舌で口の周りを舐めながら、黒犬はゆっくりと立ち上がった。明らかに、さっきまでより一回り大きくなっている。振り返ったラーネフェルは、全身黒づくめだと思っていた犬の耳の裏と尾が微かに灰色なのに気づいた。
 『人間の一生とは難しいものだな。それは私にも分かる、何人もの人間が生まれては死ぬところを見てきた』
 「あんた、俺が生まれた時のことを知ってるなら、俺がこの家に預けられたいきさつも知ってるんだろう」
 『おそらくは――。』
 「なら、思い出してくれるそれに期待してみるか」
窓を閉ざすと、ラーネフェルは盆の上のパンをひとつ取って、ビールと一緒に流し込んだ。
 「残りは明日の弁当だ。早めに出発しよう。日が昇ってからだと母上にうるさく問い詰められそうだからな」
ごろりと寝台に横になったラーネフェルの足元に、黒犬もうずくまる。その姿はまるで、忠実な番犬が主人の就寝中を守っているかのようでもあった。


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