【黒犬の章 12】


 通りへ駆け出すと、そこは既に人でごった返していた。火の勢いは強く、川を越えてくる風のせいで、火の粉が町のほうまで届いている。出火元は風上にある川べりのどこかのようだ。ラーネフェルは、すれ違いざま、川のほうから走ってきた衛兵の一人を捕まえた。
 「被害状況は!」
 「はっ……これは、将軍殿!」
相手が誰なのか見て取ると、慌てて衛兵は礼を取り、きびきびと答える。
 「貧民どもが暴動を起こしたようであります。荷揚げ前の品を積んだ船に詰まれていた香油に、火を放ちました」
 「香油? なるほど、それでこの火勢か。――で、何人だ」
 「何人、とは…」
 「暴動を起こしたという貧民だ」
衛兵は、口ごもる。「それは…、…分かりません。兵が追ってはいますが、…なにぶん、消火に手間取っており」
 「どちらへ逃げた」
 「下流です、おそらくは。兵は二手に分かれて追っています」
ならば、今から追っても無駄になる。兵を解放すると、ラーネフェルはすぐさま火元を目指した。川べりは、なんとか積荷を救おうと必死な船主と、駆り出された人足たちで一杯だった。燃えている舟に水をかけようとしているが、火の手が強く甲板に上がれない上に、赤い舌は既に帆先まで包み込んでいる。
 振り返ると、容赦なく飛び散る火の粉が荷揚げされたばかりで積み上げられているほかの荷にも燃え移ろうとしているのが見えた。このままでは舟一隻ではすまなくなる。それどころか、町の建物に燃え移れば、消化は容易ではなくなる。
 「誰か、船底に穴を開けろ、早く!」
 「駄目だ!」
船主らしい男が目をむいて怒鳴った。「うちの舟には香油の香木、特別に高価な品を積んであるんだぞ。盗まれないよう、わざわざ舟に積んだままで保管していたくらいだ。それを…」
 「積荷はもう無理だ。それより火の粉が飛んで、他の荷までやられてしまう。ぼさっと見ているな!  ほかの無事な荷を守れ。そこの荷に火が移っているのが見えないのか? 水をかけて、火の粉を消すんだ!」
 「し、しかし…荷の中には、布も…」
 「火種になるのと、どっちがマシだ」
ラーネフェルの剣幕に押され、渋っていたほかの船主たちも、衛兵たちも動き出した。
 「見物人、見ているヒマがあったら町に飛んだ火の粉が燃え移らないか見て回れ! この乾燥した風だ、自分の家に燃え移らないとでも思っているのか?!」
怒鳴りつけられて、ぼんやり眺めていた町人たちも慌てて自分の家のほうへ走り出す。間もなく、あちこちで悲鳴が上がった。枯れ草にくすぶる小さな火や、庭先に落ちた燃えさしに気づいたからだろう。
 抵抗しているのは、火を放たれた舟の持ち主だけだった。だがそれも、川の浅瀬に飛び込んだ町の職人たちが、手持ちの楔を船底に打ち込み始めるまでのことだった。
 みるまに舟は傾いて、燃え盛る帆柱ごと水の中へ落ちてゆく。暗い水面に赤い火が映えて、まるで冥界にあるという火の川を見るようだ。対岸の住民たちも、何事かと川べりに並んで見守っている。
 ようやく火が鎮火しかかったとき、衛兵が駆けて来た。
 「失礼します! 将軍ラーネフェル殿、将軍セトナクト様より伝言です。賊の一部が王宮を襲撃し、その後、町から離脱を試みている模様です。場所は"羊頭通り"――至急、応援を!」
 「王宮?」
振り返ると、町の奥のほうにも立ち上る一筋の煙が見えた。火の手は上がっていない、ということは未遂に終わったのか。だが、単なる王の婚礼にかこつけた貧民の意趣返しではなく、王そのものを狙った犯行だとすると、それは反逆罪に等しい。否、王権の転覆を狙った行為だ。
 「――分かった、至急向かう。この場は任せるぞ。それと、非番の兵もすべて呼び出して町じゅうに見張りを当たらせろ。不審者は牢に入れて構わん。新たな火を放たせるな!」
 「はっ!」
消化の水に濡れたマントを振り払いながら、ラーネフェルは大神殿から続く参道の一つ、"羊頭通り"へと向かった。そこは、主神アメンの聖獣である羊の像が並ぶ通りだ。遠方から舟でついたばかりの参拝者は必ず通る道で、昼間は人でごったがえす。その参道で今、大捕り物が行われているのだった。
 「逃がすな、追え!」
 「挟みうちに…」
途切れ途切れな声が風に乗って響いて来る。月明かりに目を凝らすと、五人ほどの賊が、追いすがる衛兵たちを次々倒しながら王宮から川べりへ向けて逃走をはかっているようだった。川沿いには桟橋がある。そこに繋がれている舟を奪って逃げようという魂胆か。剣を抜きながら、ラーネフェルは通りの真ん中に陣取った。向かってくるのは、確かに貧民街に居そうな、粗末な腰布を巻いた痩せた男だ。ラーネフェルを見つけて、ざんばらな髪を振り乱し、奇声を上げながら棍棒を振り上げて飛び掛ってくる。だが勢いだけだ。
 「ぎゃっ」
仲間の悲鳴に気づいて、残る賊が振り返った。背後を絶たれたことに気づき、死に物狂いで襲い掛かろうとする。もっとも攻撃はばらばらで、虚勢を張っているだけだった。貧民街を通り抜けるとき、幾度となくこんな状況は体験してきた。声と見た目だけで相手を威圧するしかできない、痩せた野良犬が集まったところで、大したことはない。
 襲い掛かるそれらを、ラーネフェルは落ち着いて慣れた手つきでさばいてゆく。衛兵たちが追いついてくる頃には、すべてが終わっていた。
 周囲が静かになったのを確かめ、剣を収めかけた時だ。
 「あっ、まだ一人いる! あそこだ」
松明を掲げた兵の一人が叫んだ。闇に紛れるようにして物影に潜んでいた細い影が、川に向かって走り出すのが見えた。どこかで見たような後姿。あれは――
 「追え! 一人たりと逃がすな!」
兵が駆けて行くが、逃亡者の足は早い。まもなく松明の火は遠くなり、辺りには静寂が戻ってきた。
 「王宮は? 王は無事か」
 「は。セトナクト様が守っておいでです。火の手もすぐに収まりました」
 「そうか。…」
だが、どうやって王宮に入り込めたのか。それに、舟の積荷に火をかけたのが陽動だとしたら、相当に頭のきれる指揮官がいることになる。ただの暴動ではない。これは、組織だった計画的な犯行だ。
 (あの、後姿…)
ほんの一瞬、月明かりに浮かんで見えた姿を脳裏から振り払うようにして、ラーネフェルは、王宮へと続く道を歩き出した。あれは、ここにいるはずのない、居たとしてもこんなことに加担するはずのない人間だ。


 その夜の騒動がまだ終わっていなかったことを知ったのは、王宮に到着したときだった。
 王宮内は上へ下への大騒ぎ、兵が走り回り、見覚えのあるアメン神殿の神官長が怒鳴り散らしている。その傍らには、青い顔をした父フネフェルの姿もあった。
 「何あったのですか、まだ問題が?」
 「おお、ラーネフェル! 将軍、助けてくれ。そなただけが頼りだ」
飛びついてきたのは、父ではなくアメンの神官長のほうだ。
 「娘が――王妃がいなくなったのだ!」
 「王妃?」
 「我が娘、ムトノジュメトだ! 婚礼の儀の準備のためにムト神殿にいたのだ。それが忽然と…、部屋には外から閂がかかっていたというのに、消えてしまったのだ!」
 「なっ、…」
衝撃どころではなかった。ついさっき、妹だと分かったばかりのあの少女が、神官長の養女で、王の婚約者だという。しかも、まだ戻っていないとは。
 …セドの祠堂の前で別れたのは、もうずいぶん前になる。まさか、神殿の中でどこかに隠れているのだろうか。
 「神殿から出るはずがない。騒動に怯えて隠れてしまったのでは? 隅々まで探したんですか」
 「ああ、それはもう、くまなくだ。ムト神殿だけではない、アメンの神殿も、周囲も――そもそも、清めの儀式のために外側から閂のかかる部屋にいたのだ。一人で抜け出せるわけがない」
では、一体どこへ行ったのか。ラーネフェルは、額に手を当てた。アメン神殿からムト神殿へ戻ろうとしたなら、途中で参道を抜けることになる。その参道は、"羊頭通り"と交わる、聖池を横切る大通り―― 賊の走ってきた方向――、まさか…。
 「探してきます」
言い残してすぐさま取って返した大神殿の中にはしかし、少女の痕跡はどこにもなく、ようとして行方は知れなかった。そして翌日、王宮の門にはどこからともなく、文を結びつけた槍が投げ込まれた。
 そこには煤けた文字で、前代未聞の恐れ知らずな挑戦の文句が書き殴られていた。

 "我々は「斑牛の兄弟」、偽王の玉座に報いるため、王の妃を預かった"

――と。


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