【白蛇の章 7】


 その日、ムトノジュメトは婚礼前の清めの儀式のため、ムト神殿を訪れていた。
 アメンの妻たる女神ムトの神殿は、婚礼の儀の行われる、神々の長たるアメンの神殿の隣にある。清めの儀式とはいうものの、女神に祈りを捧げ、神官たちの祝福を受ける以外にすることは特に無く、ただただ、重たい衣装で一日中過ごす苦痛だけがあとに残った。

 この神殿には、もう、戻れない。

 儀式の中、他人行儀な神官たちと接しながら、ムトノジュメトはそれを痛感させられた。顔見知りの女性神官たちでさえ視線を合わせようとはせず、頭を下げ、そそくさと去って行く。たった二月前までここに住んでいたというのに、かつて自分の「家」だった場所は、今では他人の家のようだ。側に居てくれる人は、誰も居ない。親しく声をかけてくれる人も、笑いながら軽口を叩ける相手も。
 長々とした儀式を終えたあと、夜は神殿の奥で眠ることになっていた。寝台のすぐ側にはムト女神の神像を収めた厨子が置かれている。大祭の時、ここから運び出されて小神殿へと運ばれた、あの像だ。これは、女神とともに眠り、女神と一体なれ、という儀式なのだ。
 入り口には、外からかんぬきがかけられた。暗い部屋で、今夜は久しぶりに一人で眠ることができる。おそらく、婚礼までの間、これが最後の一人で過ごす夜。いや、婚礼のあとも、もしかしたらこの先ずっと長い間、これが最後の。
 寝台の上で膝を抱えて闇を見つめていると、するすると白蛇が足元に下りてきた。
 『何を考えているのです? ムトノジュメト』
 「…最後に一度だけ、あそこへ行きたいの」
 『あそこ?』
 「あの祠堂。前に行ったでしょ、アメン神殿の端っこにある空っぽの祠堂よ」
王に嫁ぐということは、「いつか兄と一緒に暮らす」という夢を永遠に失うことを意味していた。そして王妃になれば、勝手に出歩くことはきっと許されまい。自由を無くしてしまう前に、かつての自分に別れを告げるために、どうしてももう一度、そこが見たかった。
 『…分かりました』
ひとつため息をついて、蛇は、するすると戸口に向かって這い出してゆく。ちょいと首をもたげたかと思うと、見る間に平たくなって、一本の細い紐のようにするりと、戸の隙間から外へ出てゆく。
 ほどなくして、かちゃり、と小さな音とともに、扉が薄く開いた。
 『こちらへ』
あわててサンダルを履きながら外に飛び出すと、廊下の左右を見回した。誰もいない。あたりは、静寂に包まれている。
 「何をしたの、イアーレト?」
 『いやですね、私はこう見えて神ですよ。よそ様の聖域で勝手なことをするのは気が咎めますが、ほかならぬ貴方の願いですから』
 「さすがね。今日ほど、あなたがいてくれて良かったと思うことはなかった」
重たい閂を外からはめ込みなおしると、ムトノジュメトは蛇を腕に絡ませて大急ぎで廊下を駆け抜けた。薄い月明かりが回廊を照らしている。勝手知ったるムト神殿の中だ。たとえ暗がりでも、迷うことなど在り得ない。

 何度も夜警をやり過ごし、通れない場所は蛇の力も借りてアメン神殿に忍び込んだ頃には、もう夜も遅くなっていた。冷たい夜の気配が足元からしんしんと這い上がってくる。昼間、まっすぐに歩けば近いはずの距離も、闇の中で人目を避けてたどり着くのは、ひどく遠く感じられた。
 この先だ。
 暗がりの中、見覚えのある荒れ果てた道に突き当たった。歩調を緩め、呼吸を整えながら、彼女は月明かりに照らされた壁の向こうへ歩いてゆく。
 だが、最後の一歩を踏み出そうとしたとき、少女ははっとして足を止めた。誰かいる。先客が――
 慌てて身を引いたものの、はずみで、足元の砂が音を立てた。
 「誰だ」
力強い、男性の声だ。見つかった。心臓の鼓動が喉元まで這い上がってくる。手を胸に当て、なんとか呼吸を落ち着けようと試みながら、ムトノジュメトは相手が近づいてくるのを身構えて待った。
 ――けれど、近づいて来ない。
 こちらから出て行くのを、待っているのだ。恐る恐る、彼女は壁の向こうを透かし見た。月明かりの下、人影は先ほどと変わらず、祠堂の前に立っている。次第に相手の姿がはっきり見えてくるにつれ、体から力が抜けていくのを感じた。あの人のことは…知っている。
 (ラーネフェル…)
名を呟こうとして、ムトノジュメトは、そのままその場に膝をついた。一瞬、目の前が暗くなる。
 「大丈夫か」
気が付くと、肩に手が回されていた。小さく頷くとともに、ムトノジュメトはじっと相手を見つめた。ラーネフェルのほうも、誰なのか思い当たったようだ。
 「君は、…前に道に迷っていた」
 「覚えていてくれたんですね」
 「まあな。…立てるか?」
頷いて立ち上がりながら、ムトノジュメトは赤くなりながら膝を払った。緊張の糸が切れたせいもあったが、人に会ったくらいで倒れかけた自分が情けなかった。
 「ごめんなさい。まさか誰かいるとは思わなくて――それに、あの、…今日は…色々あったから」
 「こっちこそ、驚かせて済まなかったな。だが、…君はムト女神に仕えているんだろう。どうして、こんなところに?」
 「あの、それは… きゃっ」
小さく声を上げて、少女は飛び上がった。足元に生暖かい気配を感じたからだが、それは、匂いを嗅ごうと犬が鼻面を押し当てたせいだった。
 「びっくりした、…これはあなたの飼い犬?」 
 「…犬?」
ラーネフェルは、目を大きく見開いた。
 「こいつが見えるのか」
 「えっ?」
驚いたのは、ムトノジュメトも同じだ。 
 「どういう意味ですか」 
 「いや…、まさかな。こいつはセド、かつてこの祠堂に祀られていた神の名残だ。この祠堂は父が遺したものらしく、犬も、俺にしか見えない――」
 「あの。もしかして、ここで昔、女の子と遊んだ記憶は?」 
 「……どうして、それを」
いや、問う前から答えはわかっていた。あの時、あの場所には三人いた。祖母が亡くなって久しい今、知っている可能性があるのは、二人だけ…すなわち、自分ともう一人の当事者だけだ。
 ラーネフェルの足元に戻った犬は小さく鼻を鳴らし、横目に少女の腕を見上げた。 
 『ふん、会いたくも無い奴と再会してしまったな。危うく気の強い雌蛇に噛み付かれるところだったわ。』
少女の腕に巻きついていた、白い紐のようなものが蛇に変わり、するすると肩先に移動しながら、赤い舌を挑発的にちらちらと動かす。
 『おやまあ、どこの誰かと思ったら、下品な山犬じゃないですか。相変わらずそこらを嗅ぎまわっているようですね』
 「知り合いなの、イアーレト」 
 『認めたくありませんが、そのようですね。』
 「じゃあ、やっぱりそうなんだ」
ムトノジュメトは、ラーネフェルの腕を摑んだ。「やっぱり、貴方が私のお兄さんだったんだ…!」
 おぼろげな夢が、突然、現実へと羽化する。夢の中の懐かしい面影と重なる存在が、今、目の前にある。


 だが、その時間は長くは続かなかった。
 突然の耳障りな大音響が、現実に引き戻す。
 「…何だ?」
 「あれ! 見て」
ムトノジュメトは空を指した。川のほう、夜の一角が赤く不気味な色に燃え上がっている。火事だろうか。それにしては、やけに火の勢いが強い。 
 寝静まっていた神殿のほうが騒がしくなり、神官たちの走り回る音が聞こえた。はっとして、ムトノジュメトは自分の格好を見下ろした。薄い夜絹のまま、おまけにここは、アメン神殿の敷地の中だ。
 「戻らないと。抜け出したことがバレちゃう」
 「俺も行かなくては」
そのときになって、ムトノジュメトは、相手が重たい剣を提げていることに気がついた。軍人なのだ。
 「お気をつけて」
 「ああ」
走り出す青年の後ろに、影の無い灰色の犬が音も無く付き従う。その背中が見えなくなるまで、ムトノジュメトはその場から動けなかった。
 『…ムトノジュメト』
 「うん」
滲み掛けた涙を拭い、少女は衣の裾をつかんだ。「戻りましょう。見つかると大変だわ」
 月明かりが白く、大神殿を照らし出している。
 大急ぎで参道を駆け抜けようとしたとき、ふと、彼女は視界の端でうごめく黒い影に気がついた。柱の影に蹲って何かしているようだ。赤いものがちらちらと見え、焦げ臭い匂いが辺りに漂う。誰かが、火を起こそうとしているのか。
 思わず足をとめ、目を凝らしたとき、――蹲っていた影が、気配に気づいて振り返った。
 「誰だ!」
 「ちっ、見つかった」
荒々しい足取りで、こちらへ向かってくる。月明かりの下、相手が神殿にいるはずもないような貧しい身なりの男だと見て取れた。何故こんなところに? 疑問が浮かんだ瞬間、ムトノジュメトは、数人の男たちに取り囲まれていた。
 「えっ、なに」
 「大人しくするんだ。声を上げたら殺す」
目の前に光るものが突きつけられている。あまりに突然のことに、そして彼女にとって現実味のない出来事ゆえに、悲鳴を上げることも思いつかなかった。呆然としたまま、彼女は、遠くから近づいて来る戦いの音を感じていた。


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