【黒犬の章 11】


 身支度を整え、玄関を出ようとすると、母メリエトに見つかった。
 「何処へ行くの、ラーネフェル?」
 「出かけてきます。町の様子を見に」
そう答えながら、彼は、手には持ちなれた杖を携えている。
 「ゆっくりしていればいいのに…。戻ってきたばかりでしょう」
 「三日目ですよ、もう。いい加減、篭っていると体が腐ってしまいそうだ」
明るく笑いながら手を振って、ラーネフェルは日差しの照りつける玄関先へ出た。
 通りに出てから振り返ると、メリエトは胸の辺りに手を当てながら、不安げに視線を彷徨わせる。戻ってきてからこの調子だ。目じりの辺りに皺が増え、どことなく疲れたような見えるのは気のせいではあるまい。サナクトは今は何事もなく元気だと言っていたが、それは表面上だけの話に思えた。
 母は、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。あるいは、母自身、ラーネフェルが何処の誰なのかを知らされていないのかもしれなかった。失った息子の代わりに連れてこられたラーネフェルを我が子のように慈しみながら、いつしか、悲しい記憶を封じ込めて、自分の本当の息子なのだと思い込もうとしていたのかもしれない。
 父は、確実に本当のことを知っているはずだが――その父とは、戻ってから一度も顔を合わせていなかった。


 久しぶりに歩く町は、以前とどこも変わっていないように見えた。
 貴族街の大通り、その一歩外側にある「金打ち師小路」も、以前と変わらず、いや、以前にも増して活気に満ちている。槌をふるう賑やかな音が通りまで響き、宝石や貴金属を商う商人たちが行き交っている。王の婚礼の準備と、それに出席する貴族たちからの注文で大わらわなのだ。衣装をつくるための美しい布は飛ぶように売れ、機織り台に向かう織り子たちの手は休まることを知らない。サンダル職人たちは真新しいサンダルを次々に作り上げ、なめし皮職人はなめされたばかりの皮をせっせと型どおり切り取っている。
 それらの店を横目に眺めながら、ラーネフェルの足は、行きつけの食堂のほうに向いていた。昼にはまだ早いが、いい匂いが通りまで漂っている。
 「いらっしゃい! 若旦那、お久しぶりで」
顔なじみの店主は、いつもどおり調理台の向こうにいた。開店してまもない食堂には人もまばらだ。
 「景気はどうだい」
 「いやあ、王様がようやく奥方をお迎えになるってんで、ここんところ景気はいいですがね。しばらく見ませんでしたが、旦那はどちらへ。」
 「兵役についていたよ。クシュの砦まで行っていた」
 「へえ! そりゃあまた遠方だ」
言いながら、主人はいつものスープを皿によそい、パンと一緒にラーネフェルの前に差し出した。それから、何やら意味ありげな視線をちらちらと向けた。
 「それじゃあ、若旦那じゃなかったんですね。あの噂」
 「噂 ?」
 「ええ、なんでも、新しい将軍様が任命されたとかで。一人はとても若い、王のお気に入りだとか――」
スープに口をつけながら、ラーネフェルは表情を変えなかった。
 もう、噂が広まっている。
 このぶんでは、遠からずこの店に以前のようにスープを飲みにくることも出来なくなるだろう。将軍に任命されたからと言ってどうだというわけではないが、人目につきすぎるし、店の主人にも迷惑がかかる。
 「しばらく都を離れていたんで噂には疎くてな。何か面白い話があるなら、聞かせて貰いたいくらいだ。王様の婚礼の話は聞いたが、相手はどこの貴族の令嬢なんだ?」
 「ああーそう、そうですね。なんでも、相手はアメン神殿の神官長の娘――養女だそうで」
 「養女? 平民の娘か」
 「いやあ、生まれも育ちも大神殿なら、どこかの高官の忘れ形見なのかもしれませんね。素性は分かりませんが、綺麗な娘らしいですよ――あの頃は、ほら、熱病が流行って、貴族街もだいぶやられやしたから」
そうだ、というように後ろで耳を済ませていた町民が話を合わせる。
 「先代の王様も、第一王妃様も亡くなっちまったんだよなあ。」
 「王妃様のお生みになったお世継ぎの王子様もな。」
思わず、ラーネフェルは振り返って話しに加わった。
 「…王には、大臣フネフェルの妹が嫁いでいたこともあるらしい、が」
 「そのフネフェル様の甥っ子よ、今の王様ってのは。つまりは側室の子ってえわけさ。それで偉いお大臣にのしあがって」
 「いずれは宰相、大宰相も間違いなしさ、全く巧くやったもんさ。なあ」
 「いかにも文官の家の息子だわな、ありゃあ。あの王様の色の白さときたら――」
町人たちは屈託なく笑いあい、ちらちらとラーネフェルを見る。
 「…なあ、貴族さん、あんたまさか」
 「心配するな。衛兵に告げ口したりはしないさ。俺はたまたまこんな格好をしてるだけで、つい先日まで国境の砦でボロ布に上に寝ていた男だぞ。王や貴族の悪口なんざで腹たてるようじゃ、あそこは生き残れない」
どっと笑い声が起こり、一人が薄いビールの入ったかわらけを持ち上げた。
 「それじゃあ王様の婚礼と、若き帰還兵に乾杯しようや!」
 「おお、兄ちゃんの生還を祝って!」
ラーネフェルも応じて、スープを飲み干すと、パンの残りを飲み込んで店を出た。
 今の王が父の甥にあたるという話は知らなかった。いや、聞いたことがあったかもしれないが、忘れていた。父は異常なまでに家では仕事に関わる話はしなかったし、息子が貴族たちの社交の場に出て噂話などに染まるのを好まなかった。ラーネフェル自身も、国政や噂話にはあまり興味のないほうだった。だから、なのかもしれない。
 ただ、熱病が流行ったという話はティアからおぼろげに聞いた覚えはある。その頃、大勢の妊婦と新生児が死んだ。体力のない老人や病人も、根こそぎ命を落としたとも。前日まで健康そのものだったのに、傷から感染した者もいたという。ラーネフェルの実の父は熱病で死んだ、とセドは言った。母のメリエトが本当の息子を亡くしたのも、その頃か。とすれば、ラーネフェルが今の両親のもとに連れられてきたのは、ラーネフェルが実の親を失った直後だと推測できた。今の自分の年から逆算すれば、二歳か、三歳か。


 足は自然に、下町を通り抜ける道を辿っていた。町はずれの貧民街を抜けて、家並みの途切れる荒地に出ると、一筋ついたわだちのような細い道を辿ってゆく。
 犬と最初に出会った道、ティアの家へと通じる道だ。首にかけた灰色の石は、母に見つからないよう布の下に隠している。だが、この道を歩いていると、その石がじんわりと暖かくなり、直接語りかけてくるような気がするのだ。
 覚悟はしていたが、予想以上の荒廃ぶりだった。あれからたった二月と少ししか経っていないというのに、小屋は荒れ果てて、半ば土くれに還ろうとしている。ティアやハルの暮らしていた痕跡は、もはや消え去ろうとしている。
 岸辺のほうから、牛の声がする。取って返したラーネフェルは、牛を引いて通りかかった農夫を呼びとめた。
 「すまない、この辺りの小屋で暮らしていた親子がいただろう。どこへ行ったか知らないか」
 「ん? あの、母親と暮らしてた若いのかね? さあなあ… 母親が死んじまって、葬儀が終わったら姿を見なくなっとまったな。もう、二月も前のことだ。」
それでは、やはりティアは永遠の旅路に就いてしまったのだ。それもラーネフェルが発ってすぐに。
 農夫に礼を言うと、彼は、重い足取りで町への道を辿った。最後に見た、川べりに立つハルの黒い目は、今はどこにあるのだろう。


 町を一回りして家に戻ると、母と、王宮からの使いが待ち構えていた。
 「やっと戻ったのね。」
 「お戻りをお待ちしていましたよ、東の国境の将軍様がお戻りになったとかで、すぐに来てほしいと」
 「仕事か」
ため息をついて、ラーネフェルは母の差し出したマントを羽織り、帯を身につけた。面倒だが、仕事用の正装である以上は仕方が無い。
 「そのみっともない杖は置いていきなさい。」
 「わかりました」
 「それと――その、子供じみた犬の首飾りも」
はっとして、ラーネフェルは思わず服の上からそれを押さえた。隠しているつもりだったのに、母は気づいていたのか。
 ばつが悪そうに笑いながら、ラーネフェルは答えた。
 「ある人からの形見わけで、無くす訳には行かないいかないんですよ。ただのお守りです。目立たないようにしておきますよ」
 「…ラーネフェル」
 「行ってきます。」
先導する使いとともに、休むことなくラーネフェルは王宮に向かう道を歩き出した。腰に帯びた剣は、つい先日までクシュの砦で帯びていた古びた剣とは違った意味で重たい。背負わされた肩書きにも、担うことになった役割にも、未だ慣れた気がしなかった。


 向かった先は、通りに面した広間のような部屋だった。半二階にあり、川までの大通りが見渡せるよう開かれていながら、背後の重たい二重の扉を閉ざせば、誰も中の様子を伺い知ることは出来なくなる。重要な会議に使われる部屋なのだな、とラーネフェルは直感した。そして、ここへ来るまでに通ってきた彩色のされた階段に刻まれていた弓と矢の文様が、この部屋の性格をおのずと語っていた。
 彼が入っていくと、テラスに立って街並みを見下ろしていた白髪の男が振り返った。堂々たる体躯の、見上げるような大男だ。部屋の中央にある卓と椅子には、重たげな剣と盾がたてかけられ、従者たちが、脱いだばかりと思われる皮を継ぎ張りした胴あてを持ち去るところだった。
 東の国境にある砦を守る大将軍、セトナクトだ。
 「お前が、新たに任命されたという将軍か」
ラーネフェルが無言に会釈をすると、男は値踏みするように、その出で立ちを眺めた。
 「軍務の経験は」
 「ひと月です。先日までクシュに」
 「ほう。ウェムアメンに会ったか」
驚きつつ、彼は頷く。
 「ご存知でしたか」
 「あれは古株だ。十の頃から先代王に仕えた。へそ曲がりでなければ、将軍職についていてもおかしくはなかったのだが」
後ろ手に組んでいた腕を解きながら、男はゆっくりとラーネフェルの脇を通り過ぎ、扉を半開きにしたまま何を待っている様子の侍従に声をかけた。 
 「残りの連中はどうした」
 「呼びにやっていますが――」
戸惑ったような声。一つ小さくため息をつくと、男は手を振り、扉を閉めて下がるよう合図した。かすかな軋む音と供に扉が閉ざされてしまうと、部屋は、空にだけ開かれた空間となった。卓に直接腰掛けながら、男は大きな手でそこに置かれた水差しをとり、杯に注いだ。
 「お前いがいに、あと三人いるのだがな、"将軍"は。」声に嘲りと苛立ちの色が滲む。「うち二人は軍務についたこともない、貴族の若造だ。ひと月だろうが、南の砦で逃げ出さずにやれたなら、お前はだいぶマシなほうだろうよ」
 「光栄です」
差し出された杯の片方を受け取ると、白髪の男は小さく首を振った。
 「嘆かわしいことだ。」
自分のほうの杯を一気に干すと、すぐに二杯目を継ぎ足しにかかる。
 「国境の守りが危ないというのに、婚礼なんぞのために呼び戻しおって、あの小僧め。今がどんな時期か、全くわかっておらん。」
小僧、というのが王のことだと気づいたが、ラーネフェルは、敢えて不敬だなどと指摘はせず、そしらぬ顔をしておくことにした。
 「東の砦は危ないのですか」
 「ああ。街道には夜盗が跋扈し、隣国は離反を目論んでいる。銅山の守りも手薄だ。全く手が足りておらん。このままでは、異国から人や品の入ってくる道を失うことになる」
 「…南の砦も似たようなものですよ」
金を運ぶ道への襲撃は、ここのところ、激しくなってきているとウェムアメンは言っていた。先日の襲撃を退けたことでしばらくは猶予が出来ただろうが、いずれまた、蛮族たちは襲ってくる。彼らの求める、絶えない水と豊かな土地がそこにあるのだ。大河<イテルゥ>の潤し続けるこの国の黒い大地は、誰にとっても垂涎の的だ。
 また一つため息をついて、セトナクトは杯を置いた。
 「中央の役人どもは、出世と蓄財にしか興味がない! 権力争いにうつつを抜かして、前線のことなど気にかけん。あのひ弱な王が即位してからだ、こうなったのは。先代王が健在であられた頃ならば…。」
 「……。」
 「おっと、いかん。愚痴っぽくなってしまったな。そういえば、お前はフネフェルの息子だったな。王とも血縁――許せ」
 「いえ」
小さく首を振り、彼は言った。「王が国防に興味がないのは、問題だと自分も思います」
 「ふむ」
セトナクトは顎のごついヒゲをしごきつつ、じろりとラーネフェルを見やった。 
 「不思議なものだな。お前は、何処かで遭ったことが在るような気がする。いや、大臣のフネフェルのことではないぞ。だが…あれは、いつだったか。…年を取ると、物忘れが酷くなっていかん」
 「気のせいでしょう。」
杯を卓に置きながら、ふと、彼は足元に灰色の犬がいないのに気がついた。見れば、その辺りを嗅ぎまわっている。誰にも姿が見えないからいいようなものの、まるでそのへんの野犬のようだ。
 青年が思わず口元に笑みを浮かべたのに気づいて、老将軍は訝しげな顔をする。
 「何ぞ面白いものでも見えたか」
 「いえ。――そういえば、一つ伺ってみてもよろしいですか」
 「何か」
 「将軍のところでは、軍旗にセドを掲げることがありますか」
ヒゲをしごく指が、一瞬止まった。 
 「道を拓くもの、か。灰色の山犬の姿をした神だな。」
 「ええ」
 「あれは――昔は、よく掲げたものだが。そう、先代王の気に入りの守護神だったのでな。先祖伝来の戦の守護神だとか」
ラーネフェルの表情に浮かんでいた笑みが消えた。
 「失礼ながら、セトナクト殿はいつから王に仕えておいででしたか」
 「先代の王の御世の、治世三年の頃からだ。今から二十年以上前になるかな。あの頃の王は壮健であられた。」
 「かつての同僚に、灰色の山犬を崇めた軍人は居ませんでしたか」 
 「はて…他には…」太い眉を寄せ、天井を見上げる。「王の縁者になら、いたかもしれんが…。あれは、特殊な神だからな。わしらには全く分からんが、軍旗を掲げるとき、王はいつも、軍の先頭を走る灰色の犬が見えていると仰っていた――。」


 それから後の会話は、よく覚えていない。
 言い訳をしながら遅れてやって来た"将軍"たちとの会話はそこそこに切り上げ、ラーネフェルは、王宮をあとに、大神殿へ向かって歩いていた。月明かりの照らす道、足元には灰色の山犬がつかず離れず、足音もなく付き従っている。
 「今日、あそこで何を嗅いでいたんだ」
 『あの場所には、以前にも行ったことがある。それでな』
 「昔の自分の残り香でも探していたのか?」
犬は、赤い舌を垂らして耳をぴくりと動かした。
 「――あの大男の将軍のことも、知っているのだろう」
 『知っている。お前の父は信頼していたようだ』
 「最初から、父の名を聞いておけばよかったな。」
衝撃は、まだ頭のどこかに余韻を引いて残っていた。月を見上げると、軽い頭痛を感じた。足元に落ちる影は一つ。従者は灰色の犬だけだ。
 古参の将軍セトナクトの話では、先代王は、大神殿の中、主神殿のすぐ裏手に、セド神の祠堂を立てていたという。今はもう誰も顧みることがなく、まだそこにあるのかも分からないと言っていた。だが、ラーネフェルには予感があった。祠堂がもう無かったとしても、そこに行けば思い出す、と。かつて自分は――そこに連れられて行った事がある。
 参拝の時間はとっくに終わり、参拝用の大門も閉ざされていたが、神官を呼び出して名を告げると、門番は慌ててかんぬきを開けた。何しろ将軍の一人が礼拝をしたいというのだ。主神殿の中には、戦の神モントゥの祠もある。特別な任務を帯びたものが何やら思いつめた様子で祈願しにきているのに、理由を問いただすわけにも、刻限を守れと門を閉ざすわけにはいかなかった。
 人のいない主神殿の中は静まり返り、小さな明かりが道案内を兼ねて申し訳程度に幾つかともされているばかり。太い列柱の奥に広がる闇の底は見えず、静寂の中には何事かのおわす気配が漂っている。
 サンダルが白い砂利を踏む音だけが響く。緑の果樹が生い茂る中庭を通り抜け、記憶を辿るように外壁のほうへ回り込む。ほとんど人の出入りしない一角には、掃き清められていない石の参道がうっすらと延びている。この先だ、と思った。歩調を速め、ラーネフェルは枯れた木の先に続く石壁の隙間から道の先へ踏み込んだ。
 「…これだ」
暗がりの中に、色あせた祠堂が聳え立っている。浮き彫りは土ぼこりでうっすらと汚れ、扉は失われており、がらんとした空虚な暗闇が口をあけている。
 足元で犬が唸った。
 『私は、かつて此処に居た』
 「そうだろうな。ここがこうなってしまったから、だからお前は――」
階段を登り、祠堂の周りをぐるりと回る。背後には、山犬の頭を持つ神に捧げものをする王と王妃の姿。扉の脇には、旗印の上に鎮座する山犬の姿と、その足元に鎌首をもたげた聖蛇の姿。もう長いこと、誰も顧みることなく空っぽのまま放置されてきたのだろう。
 入り口に回って、そこから周囲を見回すと、記憶が蘇ってくるようだった。
 祖母が連れてきてくれたのは、ここだった。
 荒れ果ててはいるが、かつてはよく手入れされた緑の庭がここにあった。そして、当時まだ鮮やかさを残していた山犬の浮き彫りに見守られながら、ここで、妹だと教えられた幼い少女と遊んだのだ。
 「あれは…夢じゃない」
彼は、自分の手のひらを見下ろした。摑んだ小さな手のぬくもりも、背負った重みも。いつか一緒に暮らせるようになる、と誓ったことも。だが、あの少女が今どこでどうしているのか、一体誰に聞けばいいのか。名前さえ分からない。ティアが知らなかったということは、おそらく母も――可能性があるのは、父だけだ。そう、父だけは、すべてを知っていたはずだ。自分がどこの誰で、どこから、どうやって連れて来られたのかということも――


 背後で、砂を踏む小さな音がした。 
 はっとして振り返ったラーネフェルは、月明かりの中、慌てて壁の影に隠れるほっそりした影を見止めた。
 「誰だ」
神殿の中とはいえ、こんな夜更けに、人気のない一角に誰かがやってくるとは。壁の向こうで、小さな吐息が聞こえる。さっき一瞬、長い髪が見えた。おそらく女だろう。だが、アメン神殿に女性神官? ラーネフェルは、相手が自分から姿を現すのを待った。
 月が細い体を照らし出す。
 薄布を身に纏い、編んだ長い髪を垂らしたそれは、幼さを残した美しい少女だった。いつか下町で会った少女だと気づくまでに、そう時間はかからなかった。神殿に仕えているとは聞いたが――だが、何故、ここにいる?
 驚いているラーネフェルとは裏腹に、少女は何故か、心底嬉しそうな顔をした。何か言いたげに口を動かしたが、それは言葉にならず、涙とともに、地面に落ちていった。



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