【黒犬の章 10】


 行く手の河岸に都が見えてきたとき、ラーネフェルは不思議な気持ちに襲われた。二ヶ月ぶりとはいえ、そう長く離れていたわけでもないというのに、奇妙な懐かしさと、不安の入り混じる気持ちがした。かつてそこを発った時とは何かが違っていた。
 あの日、ハルが見送っていた岸辺には、町外れの農夫が痩せた牛をひいてのんびりと仕事に向かおうとしている。大河の水位は下がりはじめ、河岸には黒い土が見えている。間もなく新たな緑の芽生えがその黒を覆い、新たな季節が始まるだろう。
 舟が岸につくと、かすかな振動で甲板が揺れた。立ち上がって荷物を一まとめにした袋を肩に背負い、桟橋の上に足をかける。祭りが終わっても、船着場には活気が溢れていた。間もなく行われる王の婚礼のため、宴の物資や祝いの品が次々と運び込まれているのだ。荷を担いで走り回る人足に、積荷を記録する商人。スリや不正な物資の輸入に目を光らせる衛兵が行き交い、売り買いの声が飛び交う。ラーネフェルがしばらくそれらを見回していると、一人の兵が近づいて来た。
 「失礼、南の国境砦からいらしたので」
 「ああ。そうだが」
 「では、貴殿がラーネフェル殿ですか」
頷くと、兵はとたんに緊張した様子で上級兵への礼の格好を取った。
 「無事のお戻りおめでとうございます。陛下より、出向かえの命を受けております」
 「一度、家に戻るつもりだったんだが。」苦笑して、ラーネフェルは肩の荷物を少し持ち上げた。「それとも、これの話を早く聞きたいのか」
 「内容は、存じ上げておりません」
 「いいだろう。誰か、家に戻ったことを知らせておいてくれないか。母は首を長くして待っているだろうからな」
ざわめきとともに、視線が自分に向けられるのを感じた。どうやら、ただ婚礼への出席のためだけに呼び戻されたのではないらしい。二月の間に以前より日に焼け、いっそう精悍になった彼の姿は、今や誰から見ても立派な武人だった。擦り切れた日よけのマントを翻し、戦場を乗り越えてきた風格を漂わせながら大股に歩くラーネフェルの姿に、すれ違う人々の目は否応無く吸い寄せられていた。あれはきっと将軍の一人だろう、と誰かが言い、婚礼のために呼び戻されたのだろう、と別の誰かが囁いた。だが今のラーネフェルは、ろくに物資も無い辺境の砦を守っていた、しがない一兵卒にすぎない。


 王宮の奥に入るのは、記憶にある限り初めてのことだった。にも関わらず、一歩踏み込んだ途端、懐かしいような気がしたのは何故なのだろう。
 柱に支えられた高い天井が見下ろす謁見の間に通され、待つことしばし。
 「陛下のおなりです」
先触れがやって来て頭を垂れ、続いて、供をひきつれた王が御簾の奥から歩みだしてきた。ラーネフェルは膝をつき、王が玉座に腰を下ろすのを待った。
 「大儀であったな。面を上げよ」
顔を上げると目の前に、以前見たときより一回り痩せ、ますます青白くなった王の顔があった。
 「クシュの砦はどうであったか。その様子だと、さぞかし腕を振るったようだな」
 「蛮族どもの大軍に強襲を受けました。被害は甚大です。早急に支援を送らねば、金の回廊は絶たれましょう」
 「ほう。砦が落ちでもしたたか」
 「落ちました」
一瞬、王の顔色が変わる。だが、「――が、奪われずに済みました」つづけざまに言い、ラーネフェルは傍らの荷の中から、箱を取り出した。
 「こちらに、蛮族どもの首領の腕が証拠の品としてございます」
 「退けたのか。して、敵は何人だったのだ」
 「四十名ほど。真昼に南のとりでが襲撃され、ひとたまりもありませんでした。」
王は眼を輝かせて身を乗り出す。「どうやって倒したのか」 
 「それは――」
話しかけたとき、小さく咳払いする音が柱の影から聞こえた。王は、むっとしたもののすぐに居住まいを正し、落ち着かなさげに視線を彷徨わせた。 
 「そちを呼び戻したのは他でもない。まもなく行われる余の婚礼に同席させるためだ。もちろん大臣のたっての願いでもあったのだが…」
合図を送ると、控えの間から侍従たちが現れた。手には、手に帯と立派なマントを手にしている。
 「立て、ラーネフェル」
立ち上がると、侍従たちが素早く駆け寄って、彼のくたびれたマントを外し、代わりに手にしたマントを身に付けさせ、金の帯を巻いて腕輪を嵌めさせる。何事かといぶかしんでいると、王が口を開いた。
 「お前はクシュの砦での任務を忠実にこなし、余のために尽くしてくれた。よってその功を讃え、兵を従える者に任命する。」
 「――?」
髪を複雑な形に整えた侍従が、金の飾りを揺らしながら、気取った足取りでクッションに乗せた鞭を王の前に差し出した。王はそれを取り上げると、正面に、ラーネフェルに向けて突き出した。 
 「取れ」
 「しかし、…それは」
軍を指揮する者の鞭、将軍だけが持つことを許された物――
 「余はお前にやると言っているのだ。お前が屠ったあの牛で作ったのだぞ」
にやりと笑い、王は尚も促した。「取れ」
 おずおずと、ラーネフェルは両の手でそれを受けた。金の延べ板を巻いて分厚いなめし皮を束ねたそれは所詮は装飾用で、見た目よりは軽いはずだったが、今の彼にはひどく重たく感じられた。
 「―ーお受けいたします」 
 「うむ。存分に勤めよ」
話は、それで終わりのようだった。
 謁見の間を退出すると、扉を守っていた衛兵たちは、哀れなほど緊張した面持ちで、はるかに年下の、新しく誕生した上級仕官への礼をとった。何だか不思議な感覚だ。手にした鞭の感触は、すぐに馴染めるものではない。
 「ラーネフェル」
振り返ると、そこに兄が立っていた。
 「おめでとう、将軍殿。あっという間に立場を追い抜かれてしまったな」
 「これは父上のはかりごとですか?」
 「まさか。この話を聞いて卒倒しかかっていたよ」
苦笑しながら、こちらへこい、と合図を送ってくる。ラーネフェルは、後ろにつき従う小さな少年侍従に荷物を任せたまま、サナクトの後について歩き出した。
 「もう一人の、東の国境を守っている将軍が老齢なのでね。婚礼にあわせて、新しく何人かの将軍を任命することになっていたようだ。その中の一人として、お前に白羽の矢が立ったというわけだ。」
 「なぜ俺に?」
 「さあ。陛下の覚えめでたく、…とでも言うべきかな。何しろあれだけのことをしでかしたんだ、印象には残るだろうな」
中庭に望む静かなテラスに出たところで、サナクトは足を止め、弟にクッションを勧めた。「ここは僕の部屋だ。今度から、僕も王宮づとめの財務長をやることになった」
 「そちらは、父上の差し金ですか。」
 「だろうね。」
笑って、兄は召使の差し出す杯を受け取った。干した果物とパン菓子の乗った皿が二人の間の敷物の上に置かれ、冷たい湿った布が、汗を拭うために手渡される。
 「旅の疲れもまだ癒えていないだろうに、呼び出されて大変だったな」
 「何、大して疲れてはいませんよ。じっとしていると、体が鈍ってしまう」
 「はは、さすがだ」
サナクトは、布で汚れをふき取っている弟の姿を、じっと見つめている。
 「…将軍様、か。立派なものだな。やっぱり、凄いよ。お前は」
 「何ですか、急に」
 「名ばかりではない、本当の地位だ。誰もが認める。それに引き換え僕は、父の決めた道、父に貰った地位だ。もっと優秀な書記なんていくらでもいる。」
 「その書記が、兄上以上に善良とは限りませんがね。」
召使に汚れた布を渡し、代わりに杯を受け取りながら、ラーネフェルは言った。「一人の正直者は、千の黄金を積むに相応しい。」
 「正直者? 僕がか? ははっ、どうしてそんな。買いかぶりすぎだ」
 「そうですか? 俺は本当にそう思っていますが」
 「ただの臆病者――僕は。嘘がつけないんじゃない。嘘をつく勇気もないだけだ。嘘をつきたくない臆病者は、どうすると思う。――"耳を塞ぐ"んだ」
ラーネフェルは、黙って杯を空けた。冷たい水が体じゅうに染み渡り、静かな庭園に響くかすかな鳥の声が聞こえてくる。
 「お前が発ったあと、母上はひどく取り乱されて、一時期寝込んでいたよ。」
弟が腰を浮かしかけるのに気づいて、サナクトは慌てて押しとどめる。「一時だけだ。すぐに持ち直して、今は何事もなく元気でお暮らしだ」
 「…そう、ですか」
 「そのときな。母上が仰ったんだ。お前に謝っておきたいことがある、実の母親から引き離してすまなかった、と」
 「……!」
零れたパンくずを目当てに、小鳥たちがテラスの端に舞い降りてきた。小さくさえずりながら、おそるおそる、二人の男の足元に近づこうと様子を伺っている。
 「薄々感じてはいたんだがな。お前はどうやら、僕の本当の弟ではないらしい」
 「――俺もそうだろうと思っていましたよ。乳母のティアが暇を出されたのは、その秘密を知っていたからでしょう」
 「だろうな。だが、気づいていたならどうして?」
 「血が繋がっていようと、いまいと、ずっと一緒に暮らしてきた家族でしょう? 貴方は俺の兄上で、父上と母上は両親だ。それ以外に俺の家族はいない」
 「…それでいいのか、お前は。」
 「何か訳があったんでしょう。父上か母上が話したくなったら、そのときでいい。俺は、今の自分に満足している」
サナクトは、小鳥たちに視線を向けている弟の横顔を見つめている。指を洗うための水盤の水に光が反射し、パンをちぎる逞しい腕のあたりを照らしている。
 ふっ、と笑って、サナクトは杯を置いた。
 「敵わないな、お前には。――」
パンくずをくわえた小鳥たちが、意気揚々と一斉に空に飛びたってゆく。残りを口に放り込むと、ラーネフェルは立ち上がった。
 「それではお暇します、兄上。」
 「ああ。母上によろしくな」
馴染まないマントを脱いで小脇に抱え、去ってゆく弟のほうを、サナクトは振り返ることか出来なかった。たまらなく不安であるとともに、例えようもない惨めさが込み上げてくるのを抑えきれない。あまりに大きな器を見せつけられると、その器が身近にあればあるほど、人は、己の矮小さを思い知らされ、苦しくなるのだ。だが憎しみなど抱けるはずもない。いっそ憎めたなら楽だったろうに、何の下心もなく兄と慕ってくれる相手を、どうして憎むことなど出来ようか。
 杯を握り締めたまま、彼はじっと、角度を変えてゆく柱の影を眺めながら、その場に留まり続けていた。



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