【白蛇の章 6】


 まるで夢を見ているかのように、時はあっという間に流れていた。

 何一つ自分のことだとは認識できないまま、気が付けばムトノジュメトは王の婚約者と呼ばれるようになり、住まいも離宮に移されて大勢の侍女たちにかしづかれる身分となっていた。大祭の日から数えて二ヶ月、婚礼の準備は着々と進んでいる。その日が来れば、彼女は"王の第一王妃"と呼ばれることになる。何もかもが悪い冗談のようだった。することもなく、日がな一日、椅子にかけて池でも眺めているか、身づくろいをしているほかにない。掃除も、刺繍も、洗濯も、侍女たちが勝手にやってくれる。水を飲もうと立ち上がれば目の前に冷えた杯が差し出され、着替えようとすれば清潔な替えの衣がもう準備されている。あまりに窮屈な生活だった。大神殿にいた頃も自由はほとんど無かったが、少なくとも、自分の身の回りのことくらいは自分で好きに出来た。友達と気さくな会話を交わすことも出来た。
 煽いでいた扇を取り落とし、ムトノジュメトは腰掛けていた椅子から立ち上がる。長い帯とひだのあるスカートが脚にからみついて歩きづらい。おまけに、金糸のサンダルは、糸の縫い目が指に食い込んで痛いのだ。よくこんなものを履いて暮らせるものだ、と彼女は思った。それとも、家の中でまで輿にかつがれて移動しているのだろうか。
 「どちらへ」
柱の間を抜けようとしたとき、目ざとく侍女が声をかけてくる。
 「…いちいち、行き先を告げる必要があるの?」
苛立たしげに返しながら、彼女は立ち止まらずに進んだ。侍女がついてくるのが分かる。一人になりたかった。だが、この離宮の中で、一人になれる場所などありはしないのだ。ムトノジュメトに歩き回ることが許されている範囲は限られている。中庭を巡る回廊をひとめぐりし、二階のテラスから王宮の庭を眺め、川のきらめきを遠くに望んだら、それでおしまい。三日に一度は教育係が宮廷の作法と婦人の心得を教えにやってくるほか、養父のアメンエムハトも時折尋ねてくるが、そのほかに彼女と接する者は誰もいなかった。そう、未来の夫となる王でさえも、この離宮にやってくることは無かった。
 その青年とまともに顔をあわせたのは、見合いの日、たった数時間だけだった。
 初めて会ったそのときから、ムトノジュメトには分かっていた。生白い肌をして、浮かぬ顔で椅子に腰を下ろした弱々しい青年は、肩書きこそ"王"であるものの、実際は周囲の老獪な大臣たちの傀儡でしかない。長く話していると咳き込む血の気の無い表情は、誰に言われなくともこの王の体があまり丈夫ではないことを示していた。痩せて、王冠に押しつぶされるようにして金の玉座に座す若者の、何かに怯えるような大きな黒い瞳だけが印象に残った。
 ムトノジュメトを前にして、王が問うたのはただ一言。
 「お前は余に何を望む」
それは不思議な、そして意外な問いかけだった。彼女は答えた。
 「ご自身の平穏と安寧を、陛下。この国をあまねく照らす太陽の子たる者に、大いなる幸あらんことを。」
笑って、王はひとつ咳をした。
 「お前自身の幸せは?」
 「私は今日まで生きてこられたことが幸せです。」
 「それはなんとも、…ささやかな幸せだな」
それから、脇にいたアムンエムハトを呼び寄せて何事か囁くと、王はすぐに退出した。養父の顔が喜びに輝くのが分かり、対照的に、ムトノジュメトの心は打ち沈んだ。
 ――夫として迎えることが嫌なのでは無い。
 ――嫌うには、あまりにも相手のことを知らなさ過ぎる。
ただ、不安だった。そして、二度と自由に出歩くことのない身分になることが悲しくもあった。ワティとは二度と会えまい。神殿の顔見知りたちとも。
 彼女は、見晴らしのよい二階のテラスに上がって、遠い川の流れを見つめた。その先には、対岸の赤茶けた崖が見えている。王宮は都の一番奥にあり、大神殿からも、川からも遠い。大通りの賑やかな雑踏も、人々の暮らす気配も、ここには風に乗ってかすかに届くばかりだ。見えているのに、ひどく遠い。逃げ出したいのに、戻る場所もない。
 瞬きをして、ムトノジュメトはふと、視線を王の住まいたる宮殿へと続く参道に向けた。供をつれ、足早に、こちらに向かってくる男の姿があった。養父アメンエムハトだ。肩からは立派なヒョウの毛皮をかけている。娘の婚儀に合わせて大神官、"神の第一預言者"の地位へ上がることが決まっているためだ。
 テラスで待っていると、ほどなくして、アメンエムハトが二階に上がってきた。
 「いやあ、暑い暑い。ここは涼しくてよいな」
肉付きのよい手に握り締めた布で汗を拭き拭き、アメンエムハトは椅子にどっかりと腰を下ろした。そんなに暑いならヒョウの毛皮など脱いでしまえばいいのに、と思いながら、ムトノジュメトは侍女たちが冷たい水を運んでくるのを黙って見ていた。
 「何か御用ですか、お養父様」
 「うむ、いよいよ婚儀が近づいてきたので様子を見にな。明日は、最後の衣装合わせと付き人との打ち合わせだろう?」
その予定だった。衣装も飾りもつつがなく仕上がって、今は侍女たちが大事に部屋に飾っている。重たい王妃の冠には、黄金の蛇ではなく蓮の花があしらわれていた。
 「楽しみだな、お前の花嫁姿は。さぞかし美しかろう。国中から人が集まるぞ。お前を見るためにな」
 「私ではなく王を、でしょう? 私など」
ムトノジュメトは、自嘲して視線を表の風景に向けた。「ついこの間まで、町の娘たちと一緒に祭壇の拭き掃除をしていたというのに」
 「それもまた花嫁修業だと思って、忘れなさい。間もなくお前はアメン大神官の娘として王の第一王妃となり、やがては"王の母"となる」
 「―――。」

 "では、今の私は何なのですか?"

喉まで出かかった問いかけを、彼女は苦労して飲み込んだ。触れた壁のひんやりとした感覚が、心に染み渡ってゆく。表情は変えるまい。声音にも決して怪しまれるような変化はもたせるまい。そう誓い、静かに彼女は口を開いた。
 「聞いてもよいですか、お養父様。国中と仰いましたが、どなたが来られるのでしょう? 大臣がたも全員?」
 「勿論だとも。大臣は言うに及ばず、宰相殿も、東の国境から将軍も還ってくるぞ。」
 「女性は来るのかしら」
 「ああ、大臣たちは妻や子も連れてくる。」
 「神殿にいた人たちは来ないのかしら。私と一緒に暮らしていたような女の人たちは」
 「司祭長は来るぞ――それからムトの神官長は。」
 「そうなの、残念だわ。じゃあ、昔馴染みの人は余り来てくれないのね。――給仕や、当番の神官や、神殿の書記たちも…」
 「そうだなあ。ああ、神殿の書記なら何人かは来るだろう。大臣の家の息子はな」
 「あら、そうね。確か、お養父様と話をしていたあの方――あの大臣、名前は何だったかしら。フネフェル様でしたっけ…。あの人のご子息も神殿の書記だと聞いたことがあります」
数秒ほどの間。声色を保ちながら、ムトノジュメトは指先をそっと腕にからまる蛇にやった。養父には見えていない、その蛇に。
 「――あの方の奥様も来られるの?」
 「ああ、息子二人も一緒にな。」
彼女は、微笑みながら振り返った。

 「皆様のご家族に会えるのが楽しみです。」



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