【黒犬の章 9】


 薄雲がたれこめ、光の無い夜だった。
 明け方近く、動物たちは皆寝静まっている時刻。人気のない南の砦は静まり返り、かわりに北の砦には、いつもは無い明るい炎の光がちらちらと揺れていた。
 巡回の兵たちが、これみよがしに姿を照らしながら北の砦に近い小屋のあたりを重点的に歩き回っている。ただし、その範囲は川の一方、国境に近い北の砦のあたりに集中している。手勢が足りないため、そうせざるを得ないのだと誰もが思うだろう。そのかわり南側の砦のあたりは真っ暗でで、普段なら立っているはずの歩哨の姿もない。
 その砦に、闇に紛れて音も無く近づく影がある。黒い肌に輝る眼、そろそろと城壁に近づいて、中の気配を探る。打ち壊された扉はそのまま、門は開いている。明かりも、物音もなく、焦げた干し草の匂いだけが漂っている。影は、振り返って手で合図した。くぼ地に隠れていた仲間たちが、次々と姿を現して、砦に近づいてゆく。十人、二十人。
 先頭の一団が砦の中へ入り、気を緩めたその時だった。
 「今だ、かかれ!」
鋭い一声とともに、見張り塔の上で金板がカン、カンと打ち鳴らされた。次の瞬間、砦の中庭に入り込んだ蛮族たちの頭上には、石のつぶてが雨あられと降り注いでいた。
 「!」
意味不明な言葉で叫び声を上げ、彼らは逃げようとする。だが出口には、脇に隠れていた兵たちが殺到していた。逃げようと殺到する者、中の様子に気づかず押し入ろうとするもの、押し合いへし合いする側から長い槍が突き出され、次々と刺し貫いてゆく。
 ラーネフェルの作戦とは、こうだった。――北の砦に火をたいて、大人数が詰めているように見せかけながら、実際は最小限の兵だけを残して大多数を南の砦に集中させる。その上で、必ず砦を奪いにやって来るであろう敵を待ち伏せて、先手を打って仕掛けるのだ。
 どんな敵であれ、伏兵にうろたえない者はいない。ましてやそれが勝利の確実な戦での、最後の仕上げの瞬間に襲い掛かるものであれば。
 石つぶてと強襲で最初の一団はほぼ壊滅した。けれど、城壁の上から様子を見ていたラーネフェルの目には、荒野を越えてさらにもう一団の兵が押し寄せてくるのが見えていた。敵の本陣、手勢の半分は残しておいたのだ。賢明なことだ。だが、厄介なことになった。
 「敵襲! 東の丘より接近!」
数は――およそ二十か。相手は、ほぼ半分が無傷で残っていることになる。今のこちらと同じくらいの数だ。襲撃の鐘を聞けば北の砦に残った兵も応援も駆けつける手はずにはなっているが、間に合わないだろう。
 「ひるむな! 突撃ィィ!」
勇ましく叫んでウェムアメンが城壁の脇についた階段を駆け下りてゆくのが、若い兵たちは敢えて動こうとはしない。それはそうだ、とラーネフェルは思った。こんなところで命を晒して戦って、それが彼らにとって何になる。前線を省みない王と都の政治家たち。功績を立てても評価されるわけもない戦場。生きる場を得るため、蛮族たちは死に物狂いだ。こちらの兵は会ったことも無い王の婚礼の金などというものを守ろうとしている。賭ける命の価値が同じなら、賭ける対象の価値が戦意を決める。
 「これが、――戦場か」
槍を投げ捨て、ラーネフェルはひとつため息をついた。ウェムアメンには申し訳ないが、この戦略には、一つだけ読みが欠けていた。それは、戦う者たち、兵一人ひとりの「生き様」だ。
 腰から剣を抜いた。
 王に下賜された立派な剣は家に置いてきたから、今持っているのはただのなまくらだ。砦に残されていた誰かのお古を貰って、そのまま身に着けていた。錆びてはいるが、頑丈そうに見えたからだ。
 「付き合うぞ、司令!」
叫んで、彼は城壁から砂の上に飛び降りた。足元で細かな石がはじけ、皮の脛あてが軋む。脚に力を込め、全速力で駆け出すとき、風は体の周囲で弾けた。
 「うおおお!」
ウェムアメンが背後で吼えた。大きな傷の刻まれた腕を盾とともに誇らしげに掲げている。ラーネフェルは、その数歩前を駆けていた。目の前に、槍を構えた黒い塊が迫ってくる。その姿はまるで、何頭もの牛がツノを振りたてて向かってくる姿のようにも見えた。

 聖牛と対峙した、神殿でのあの一幕が瞼の裏に蘇る。
 ――そうだ。雄牛など怖くはない。

 飛び込みながら、彼は吼えた。槍の柄を狙って剣を振り下ろし、次々とそれを叩き折る。落ちた柄を拾い上げると、向かってくる者の鼻面に容赦なく叩き込んだ。杖の扱いなら慣れている。ずっと、それだけが身を守る術だった。槍の穂先が額をかすめ、血が視界にかかる。だが振り払う暇もあらばこそ、返す腕で槍を叩き折り、その使い手を砂の上に組み敷いた。城壁の上から、砦の入り口から、呆然とそれを見つめていた若い兵士たちの体に、ぞくりとするものが走った。
 「…おい」
 「ああ、…行かなくちゃ」
誰からともなく、一人、また一人と、手放しかけていた武器を握りなおし、走り出す。声はやがてうねりとなり、奔流となり、蛮族の群れめがけて襲い掛かる流れとなった。
 「うおおお!」
 「ううあああっ」
盾を手に身を守っていたウェムアメンは、砦のほうから雪崩うって押し寄せてくる兵たちを見て、心底驚いたような顔になる。「…あいつら」それから、既にずっと先を走るラーネフェルの背中に目をやった。彼の通った後には、まるでそこだけ草がなぎ倒されたかのように、敵の退いた道が出来ていた。


 いつしか、空が白みはじめていた。
 蛮族の大半は組み敷かれ、あるいは既に戦意を喪失していた。無事に逃げられた者がいたとしても、一人か二人だろう。それらを追うつもりは無かった。砦の襲撃が失敗に終わり、部隊が全滅したと仲間たちに触れ回ってくれるなら、そのほうが好都合だ。しばらくは、ここへの襲撃も無くなるだろう。
 最後の一人が武器を投げ捨てて地面に額をついて命乞いをするのを見届けてから、ラーネフェルはようやく足を止めた。夜明け前の風が火照った体を優しく包んで流れてゆく。上下する胸に汗と血がまじって流れる。辺りには黒々とした躯の山が築かれ、力尽きた仲間たちがそこかしこに座り込んでいるのが見えた。振り返ると、ウェムアメンもまた、半分砕けた盾にもたれかかって荒い息を吐いている。
 ラーネフェルが近づくと、男は、汗の下からにやりと笑って言った。
 「大した奴だよ、お前は。まるで戦の神<モントゥ>のようだったな。…いや」
若者の胸にかかっている石に目を留めて、彼は言った。「――先陣を切って軍勢を導く者。道を切り拓くもの<セド>のほうが相応しいのか。」
 「…セド?」
 「古い時代からいる――とても古い、灰色の山犬の姿をした神だ。軍旗の先頭に掲げられる」
ラーネフェルは足元に視線を落とし、首にかけた山犬の形をした石を握りしめた。
 「…そういうことか。」
東の空から、太陽が昇りはじめる。光が世界に満ちてゆく。
 北の砦からの援軍が乗る舟が岸辺についたのは、ようやくその時になってからだった。


 被害は、予想より少なくて済んだ。
 二度目の襲撃では、怪我人は五人、死者は無し。対して相手側は、捕虜十二名、死者二十名。その中には指導者と思われる、目立つ模様を体に描いた、大きな耳輪を嵌めた大男も混じっていた。ウェムアメンはその男の右腕を切り落とし、証拠の品として王に送る報告書につけることにした。
 「大手柄だな、あの王が褒美をくださるかどうかは分からないが」
一時は全滅の危機もあったのに、けろりとして上機嫌なウェムアメンに、ラーネフェルは呆れたような顔をしてみせた。
 「苦戦して全滅しそうだ、くらいは書いたほうがいいですよ。しばらくは何も無いにしても、今のままでは戦力が足りないでしょう」
 「ああ、まあ。そうだな」
にやけた顔を引き締め、紙に向かおうとした司令官だったが――その表情は、またすぐに緩んでしまう。
 「なあ、ラーネフェル。ワシはな、久しく忘れていた感覚を思い出したよ。前の王様と戦っていた頃のことをな。あれは、恐ろしくもあり――胸躍る時間でもあった」
 「ええ」
戦場と相対するとき、今までに無く血が滾るのをラーネフェルも感じていた。見の守りも無く向かってくる武器の前に身を晒しているというのに、不思議に怖いとは感じなかった。家で待つ母や家族のことも、友人たちのことも頭から消えうせ、あるのは、ただ「敵を打ち倒す」という気持ちだけ。その瞬間、彼はラーネフェルではなく、軍の先陣を切って走る灰色の犬になっていた。
 ウェムアメンの元を辞したあと、ラーネフェルは、南の砦との間を往復する舟の行き交う流れが見下ろせる高台に登って腰を落ち着けた。背後に、犬のついてくる気配がある。振り返らずに、彼は話しかけた。
 「見つけたな、お前の名前」
 『うむ』
風にぴんと立てた尾がなびく。腕を差し出すと、灰色の鼻面がその下にもぐりこんできた。黒かった犬の毛は今やほとんど灰色になり、背中の一筋だけが黒いまま残されている。陽光に照らされたその毛は、月のような銀色に輝いた。
 「…俺の父親は、軍人だったんだろう?」
 『然り。軍の指揮官、兵を総べ、我が旗印を掲げた者。偉大なる戦士であった。私は彼を守り、幾多の戦場を駆けた』
 「で、今は俺を?」
 『そのようだな。私の役目はどうやら、お前を守ることだったようだ』
犬は、ラーネフェルを見上げて赤い舌を垂らした。ラーネフェルも笑って、犬の湿った鼻面をかいてやる。
 「有難いよ。お前が、自分を思い出したとたんふいに居なくなってしまうんじゃないかと思っていた」
言ってから、彼は、ふと手を止めた。
 「――お前が眠りについたということは、父は死んだのか」
 『そうだ。お前が幼い頃に、熱病の床でな。その直後、私の感覚は閉ざされ、お前を見失った』
 「何故?」
 『おおかた、私の祠が壊されたか神像が失われたのだろう。私は一族の守り神だった。かつては住まいの庭に我が祠があったのだよ』
 「ふうん。てことは、俺は少なくともそれなりに上流階級の出なんだな。父は将軍か何かだったのか」
 『さて。人間のそういった階級はよく分からぬ。ただ大勢の兵を従えていたことは確かだな』
 「母は?」
 『似合いの強い女だった。女にしては珍しく私を気に入ってくれていてな。――その石の飾りは、お前の母が、私に色が似ているからとお前のために特別に作らせたものなのだ』
ラーネフェルは、首から提げた石に視線を落とした。確かに、子供が齧っても問題ないような大雑把なつくりで、特に高価な石というわけでもない。しかしそれは紛れもない、実の母から贈られた、彼の生まれの証なのだ。
 「…母も、もういないのだろうか」
 『おそらくな。それについては覚えていないが、生きていれば、私が彷徨うこともなかっただろう』
 「……。」
風が吹き抜けてゆく。焼けた土の匂い、目の前に広がる赤い不毛の大地。実の両親の記憶は、自分の中には無い。あるのは、妹と信じていた幼い少女と遊んだ記憶だけ。だがそれも、この犬の記憶の中には無い時代の出来事だ。
 カン、カカン、と、見張り台のほうから板の打ち鳴らされる音が響いてきた。援軍要請の緊急信号ではない。
 「舟だ! 都からの舟が着いたぞ」
ほどなくして、理由を告げる叫び声が上がった。立ち上がって、ラーネフェルは北の砦の向こうに視線を巡らせた。確かに、いっぱいに上げた白い帆の先が川向こうに見えている。だが、次の定期船が来るのはもう少し先のはず。
 丘を駆け下りるとすぐ、ウェムアメンがやってきた。なにやら不満げな顔つきだ。
 「帰還命令だ」
言いながら、王の紋章いりの勅令書を掲げた。「フネフェルの息子ラーネフェル、婚礼の儀に出席せよ、と書かれている。良かったな、都へ戻れるぞ。」
 「ですが――」
言いかけた若者の肩を、男はぽんと叩く。
 「心配するな、ここのことは任せておけ。それにお前が戻って援軍をさっさと遣してくれればいい話だろう? なあ」
周囲を取り囲んでいた若い兵士たちが、口々にそうだと声を上げた。
 「あんたは、こんな辺境のしょっぱい砦にいつまでもいる人じゃない。分かってるよ」
 「せいぜい出世して、戻ってきてくれよな! そん時は、酒と食いもんをたっぷり頼む」
 「楽しかったぜ。短い間だったけど」
 「…皆」
砦にいた一月たらずの間に、寝食をともにした兵たちとの間にはいつしか、友情にも似た感覚が芽生えていた。去りがたい気持ちと、故郷へ戻れることへの喜びは相殺しあい、ともすれば、前者が勝ってしまいそうになるのを、彼は心の奥に押しとどめた。
 「――必ずまた戻ってきます。それまで、どうかお達者で」
 「ああ。報告書はお前に託すぜ、お前自身の口から都の平和ボケした連中に語ってやってくれ」
頷いて、ラーネフェルはそう多くは無い荷物を纏めにかかった。今日、ラーネフェルとともに砦を後にするのは、先だっての戦いで命を落とした兵たちと、戦えない傷を負った者たち。
 ウェムアメンと残る仲間たち全員に見送られて、舟は、都へと続く川の流れをゆっくりと下って行った。



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