【黒犬の章 8】


 赤く干からびた大地に照りつける陽光は容赦なく、細い川の流れはその只中にあって絶えることはなくとも心細い。岸辺のほんの僅かな緑に張り付くようにして建つ幾つかの小屋だけが、この日差しから身を守ってくれる唯一の昼の居場所だ。
 ラーネフェルは、足元の小石を一つ拾い上げ、力を込めた。熱に冒されたそれは、手のひらの中で砕けて指の間から崩れ落ちてゆく。ここでは岸壁の石さえも砂に還ろうとしている。時折お情けのように吹き抜けてゆく風さえも熱を孕み、決して涼しさは与えてくれない。
 クシュの砦、大河<イテルゥ>の聖なる水源より遥か上流、神々の守護する黒い土地を離れたその先に広がるのは、赤茶けた不毛の大地だけ。国土の南方国境にあたるこの地域では、細い川の流れは深く切り込んだ崖をえぐるように音を立てながら、曲がりくねって流れている。
 砦を守っているのは、二十人ばかりの兵だ。
 もう少し上流の川の反対側にも別の砦があり、そこにも兵がいて、交代で周辺を巡回している。もっとも、真昼の日差しの中を歩き回るのは辛い。実際は、各地に点々と設けられた泥の小屋を、順繰りに回っているだけだ。小屋は金鉱から不定期にやってくる荷運びの通る道に沿って設けられている。目的は、金を運ぶ道を狙う盗賊の牽制だ。ここのところ、クシュの有力な豪族が手勢を使って荷運びを襲わせては、気勢を上げているという。そのために砦は疲弊し、傷を負って帰国を余儀なくされた兵も多いという。補充の兵が送られてこないため、今では一つの砦にわずか二十余人の手勢しかいない。道を守る任務は、既に厳しくなっている。
 「おーい、新入り!」
一段高い丘の上から、呼び声が谷に響き渡る。ラーネフェルが顔を上げるのと同時に、足元で前足に頭を乗せていた犬も目を開いた。呼んでいるのは、砦の司令官のようだ。腰を上げると、彼は軽い足取りで岩のごろごろした斜面を一気に駆け上がった。
 「お呼びでしょうか」
 「ああ。どうせ暇だろ? ちょっと付き合えよ」
にやにやしながら男が指したのは、卓がわりの丸石の上に乗せられたセネト盤だった。升目に分けられた板の側には、二人ぶんの駒とさいころが揃っている。ラーネフェルは苦笑して、背後を振り返った。ほんの少し登っただけだというのに、小さな丘の上からは周囲の風景全体が見渡せる。ここいらで最高の展望だ。それだけに、この小屋に詰める者には見張りという重要な役割が課せられるはずだが――今となっては、一番風の通りがいいからという理由で、この司令官が部下の目を盗んで休むためだけの場所になっている。
 まあいい。
 こんな昼間から襲ってくる盗賊はいないし、金の運搬もしばらくは無い予定だ。
 「お受けしましょう」
石の前に腰を下ろすと、相手も盤に向かった。相手は、ラーネフェルよりはるかに年かさで、肩幅も広く歴戦の士といった雰囲気だった。長年の砦づとめで黒く日焼けした太い腕には、古い傷が白く刻まれている。初めてこの砦を訪れた日に、男は、ウェムアメンと名のった。そして、腕の傷はかつて王の盾持ちをしていた時に負ったのだと、誇らしげに言って笑った。
 最初のさいころを振りながら、ウェムアメンはちらとラーネフェルの表情を伺う。
 「少しは慣れたかい、えっ?」
 「ええ、お陰様で。」
音をたてて転がった二つのさいころの目を確かめ、太い指が駒をちょいとつまんで動かした。次はラーネフェルの番だ。下の小屋でおのおの休んでいる兵たちからは、あぐらをかいて盤に向かい合う二人の姿は見えない。見えたとしても、気にするかどうかは謎だ。暑さを避けるために昼寝をしているか、川で釣り糸でも垂れているか。そうでもしなければ、この何もない荒野では長くは続かない。
 「来て、そろそろひと月になるのか。お坊ちゃま育ちには厳しいかと思ったが、案外もってるもんだな」
 「いいえ、厳しい場所ですよ。正直ここまでとは思ってもみませんでしたが」
 「はは。貴族の坊ちゃんが送られてくるって聞いた時ぁ、ワシはてっきり三日と持たず逃げ帰るかと思ったがね。」
砦のすぐ北、急流を下った先の船着場からは、定期的に都へ行く舟が出ている。集めた金を乗せて運ぶためだ。その舟に乗り込めば、いつでも都へ帰ることは出来た。もちろん兵役の放棄は処罰の対象となるが、船頭に袖の下を渡して逃げ帰った兵士も、少なくはないのだという。
 さいころを振り、駒を進める。ころころ、カツン。黒犬は、興味深そうにウェムアメンの手元を見つめ、フンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。その姿が見えないウェムアメンが気づいた様子もなく手を動かしているのが可笑しかったが、いつしかラーネフェルにとっては、それが当たり前の光景になりつつあった。
 「…しかし、お前さんも難儀なこった。お大臣の家に、しかもあのフネフェル殿の家に生まれて、こんな僻地に厄介払いされるとはな。」
 「そうでしょうか」
 「ああ。何せ、あのお大臣様の妹君は、ワシの仕えた前の王の妃の一人だったのよ。お子も産んでね。二番目の王子だ、多分。」
一瞬、ラーネフェルは手を止めた。
 「…そんな話は、聞いたことがないですね」
 「そうかい。まあ昔の話さ。無理やり側室としてねじ込んだって話だよ、本当のところは知らんがね。それで王に取り立てられて、大臣に出世したんじゃなかったかな」
長いこと話し相手もいなかったのか、ウェムアメンは実に良く喋った。聞けば、下層階級の出だが、かつては都に住んでいたという。それが、仕えていた前王の死後、前線の砦に送られ、それ以来帰国命令も出ないまま、ここに留め置かれることになったのだという。
 「ま、悪口を言うつもりもねぇんだが――今の王様は、ありゃあ駄目だろうな。ほとんど赤ん坊で即位したようなもんでな。後宮で、女官たちに囲まれて大きくなったような男に軍事が分かるわけもないね。政治は宰相と大臣たち任せだ。この砦がひどい有様なのも、王が注意を払わないからだろうな。ここだけじゃねえ、北の、東の国との国境なんかもっと酷いだろう。物資も人も、何もかも足りん」
パチリ、ころころ。風に吹かれていても滲み出してくる汗を拭い、時折、傍らの水差しから水を汲み、二人は黙々と盤の上の駒を進め続ける。
 「ここの士気が低いことは、最初に見た時から思いました」
 「そりゃあ、士気なんて上がろうわけもないさ。ここに来てる連中のほとんどは、辺境からな、税が払えなくて代わりに兵役に来てるような連中なのよ。王が興味を持たないのに、何かしたところで出世なんぞあるわけ無い。命は惜しいさ、誰だってな」
 「あなたもそうなんですか」
 「勿論さ。お前さんは違うのかい」
 「……。」
ぱちり。駒を進め、ラーネフェルは小さく呟いた。「次であがりですよ」
 「おお?! な、なん…むむ」
声を上げ、ウェムアメンは顎に指を当てて低く唸った。犬がにやにやしながら手元を覗き込んでいる。しばらく盤を睨んでいたウェムアメンだったが、やがて、大きく息を吐いて背をのけぞらせた。
 「…はあ。また負けか。まったく、お前にはちっとも勝てんなあ」
 「では、持ち場に戻ります」
 「ああー、まあ待て。待てって。もうひと勝負」
 「何度やっても同じですよ」
 「わからんぞ? 次は…」
ウェムアメンが言いかけたときには既に、ラーネフェルは盤を片付けはじめていた。傷の残る腕を上げ、ぽりぽりと頭をかいて、ウェムアメンは視線を若者の横顔に沿わせた。
 「不思議だなあ。お前さんを見てると、妙に昔のことを思い出す。」
 「昔というと」
 「ワシがまだお前さんくらいだった頃、陛下にくっついて、東の国へ遠征に行った頃のことだ。ああ、そうだ。前の王陛下も強かったな。」思い出すように、男は口元に笑みを絵かべた。「セネトでは一度も勝てたためしが無かった」
盤を閉じ、ラーネフェルは小さく一つ会釈をして、丘を元いた小屋にむかって滑り降りた。すぐ後ろに、犬がついてくる。サンダルの下で乾いた小石が砕け、赤茶けた砂埃が舞って汗ばんだ肌にはりつく。小屋の作る日陰に寝そべっていた若い兵がうっすらと目を開け、やって来たのがラーネフェルだと確かめると、元のように目を閉じた。
 「また司令の与太話に付き合わされてたのかい? 大変だねえ。あんたも」
 「まあな。同郷のよしみだ」
 「はあ。年寄りは昔話が好きで困るよ」
ごろりと寝返りを打って、若者は、小屋の冷えた壁に背をつけた。
 ウェムアメンの言ったとおり、ここには、食うに食われず故郷を発ってきたような貧しい家の若者たちばかりが集まっていた。ある年数、兵役を勤め上げれば、退職金を貰って故郷に戻れる。ただそれだけのために、出来れば自分がいる間は穏便にことが済めばいいのにと願っているばかりの、ろくに訓練も受けていない哀れな兵士たちだ。武器や防具の類はほとんど無い。それどころか、食料の配給さえしばしば滞った。都から着く船が、食料を乗せてくることを忘れるのだ。いや、都を出るときは積まれていたのかもしれないが、川を遡るうちどこかで忽然と消えてしまう。誰かがくすねているのか、事故で無くなってしまうのか。そんなことは良くある話だ、とラーネフェルは思った。舟に誰の息がかかっているかなど分かりはしない。抗議の手紙を書いたところで、それが無事に届くとは限らない。戦況の報告書ですら、封を切られずに王の手元に届けられているとは信じていなかった。だからラーネフェルも、家への手紙をことづける際は当たり障りのないことをだけを書いた。途中で誰かに読まれてしまうことを恐れたのだ。
 一度だけ、都からの手紙も届いた。それは母からで、思わず笑ってしまうほどの長さだった。紙が勿体無い。そこには、数ヶ月もすれば戻れるだろうということも神々の祭りがつつがなく終わり神々の座は大神殿に戻ったこと、王が婚約し、婚儀のしたくで町が大わらわだということ、父のこと、兄のこと…、それから最後には、体に気をつけるようにと何度も何度も念を押して締めくくられていた。
 ほんのひとつき前だというのに、都の屋敷で暮らしていた頃が、まるで遠い昔のことのようだ。
 今のラーネフェルは、粗末な腰布に擦り切れた皮の脛あてだけを身に着けた新米の一兵卒だ。素焼きの椀から薄いビールをすすり、夜は貧しい家の息子と肩を並べて地べたで眠る。明かりなどない漆黒の闇、汗と垢の匂いの充満する狭い小屋。都に暮らしていた頃、横目に見ながら素通りしていた貧民街と良く似た暮らしが、ここにあった。明日の食べものを心配し、暑さに何度も寝返りを打ちながら眠りに落ちようと苦労する、そんな人生があろうとは、少し前の自分なら想像もつかなかったことだろう。

 "しかし、そこにこそ、この国の安泰がある。"

ラーネフェルは、かつて兄に言った言葉を心の中で繰り返した。今、ここで若い兵士たちが苦しんでいるからこそ、国境の平和は保たれ、南の鉱山で採れた金は都へと運ばれ。王や貴族たちの身につける豪奢な飾りは、危険な鉱山で身をとしている鉱夫たちや、重たい原石を担いで荒野を越える荷担ぎたち、それに、その道を守る兵士たちの血と汗によって、作られている――。


 カン、カンと唐突に、甲高い音が辺りに響き渡った。寝そべっていた兵たちが弾かれたように飛び起きる。
 「南からの応援要請だ!」
 「南、二の砦! 襲撃だ!」
丘の上からウェムアメンの太い声が飛ぶ。「襲撃、南二の砦! 北三と北一はそのまま残れ。残りは全員出撃!」
 谷間に声が響き渡り、点在する小屋へと指令を伝えてゆく。指令の声を聞いた瞬間から、ラーネフェルは盾と槍を手に川沿いを走り出していた。南二の砦はラーネフェルが普段詰めている一番北の砦から川を渡って反対側にあり、対岸では最も大きな砦だ。
 川を渡るための小さな舟は、幾つかある。そのうちの一艘は既に、近い小屋にいた数人を乗せて岸を離れようとしていた。
 「乗せてくれ!」
岸を蹴って、舟の舳先に飛び乗る。舟は大きく揺れたが、沈むことはなく、先頭で櫂をあやつる年かさの若者はそのまま進み続ける。振り返ると、同じ小屋で寝そべっていた若い兵士が、ようやく追いついて岸辺で息をついでいるのが見えた。次の舟が準備されようとしている。すぐに追いついてくるだろう。
 やがて流れの先に、南二の砦が見えてきた。砦の入り口が破られ、火がかけられようとしている。煉瓦を積み上げた低い城壁の上では、そこに詰めていた味方の兵と、黒い肌に泥で模様を描いた蛮族とがもみ合っているのが見えた。ラーネフェルたちの見ている前で、壁の上にいた一人が槍に貫かれ、両手を宙に差し上げたまま頭から落ちていく。多勢に無勢、砦に詰めている二十人ばかりに対して、押し寄せているのはその二倍もの人数だ。
 「なんてことだ」
櫂をとる若者の手が、一瞬止まる。
 「急げ、今ならまだ助けられる」
 「しかし…」
 「早くしろ!」
ラーネフェルに急かされ、若者はしぶしぶと櫂を動かしはじめる。だが、城壁の上にいた蛮族たちも、それに気づいた。一人が鋭い叫び声を上げると、その言葉が砦の周りで略奪と殺戮に興じていた仲間たちにも伝わってゆく。撤退の合図だ、とラーネフェルは思った。援軍が来るのを見て、いったん退くのだ。わざわざ危ない橋を渡らなくてもよいと判断したのだろう。
 舟が砦に着いたときには、そこは、すでに荒らされ尽くしたあとだった。
 積み上げられた干草がくすぶり、食料を奪われて空になった壷や籠が入り口に散乱している。まだ息のある兵が血にまみれて呻いている側で、息絶えた躯が敵味方入り乱れて転がっていた。誰も口を開かない。ただ呆然と、目の前の惨状を眺めている。
 ほんの一瞬のことだ。
 ほんの僅かな時間に、成す総べなく砦は落ちた。川の対岸に一つずつ、北と南の要所を守っていた砦の片割れだ。それが今、失われた。しかも真昼間の襲撃でだ。今までは、数人が夜闇に紛れて奇襲をかけてくるだけだったのに、…こんなに堂々と、正面から。後から来た舟から降りた兵たちも、それは同じだった。
 「何をしている、手を貸せ」
ラーネフェルの声で、彼らはようやく我に返る。
 「けが人の手当てをするんだ。まだ息のある者は、北の砦へ。死者は後でいい。急がないと日が暮れる」
 「あ、ああ。分かった」
慌てて、仲間の兵たちが散らばってゆく。死者は三人、怪我人は十人。そのうち重症なのは五人。戦力は半分になった。対して、相手の被害はほとんどない。これでは到底、次の襲撃は耐えられないだろう。
 (砦を放棄する、ということになるのか…)
彼は、目の前の泥れんがの壁を見上げた。どちらにせよ、都に状況を報告して増援を願わねばならないが、それには時間がかかるし、その間、残っている兵と北の砦だけで持ちこたえなくてはならない。それは、不可能に近い。
 (この砦を敵に奪われれば、北の砦も落ちるだろう)
蛮族の襲撃が少人数で散発的だったのは、この辺りには長期間滞在できる根城がなく、はるか内陸にある村から遠征してこなくてはならないからだ。その彼らにみすみす拠点を与えることはだけは、何としても避けねばならない。だが、残る兵力では、どちらか一方だけでも守りきることは容易では無い。
 視線を、敵の去っていった方角に向ける。
 起伏の激しい荒野の奥へ深入りすることは危険すぎ、土地に住む者でなければ道に迷ってしまうだろう。戦うならば、おびき出すしかない。
 (今夜、…あるいは明日か)
この辺りに拠点に出来る場所はなく、水場はこの川沿いだけだ。四十人もの手勢を連れているからには、相手も水や食料の確保に苦労しているはずだ。南の砦から奪っていった食料程度では、すぐに尽きてしまうだろう。
 負傷者を運んで北の砦にとって返したラーネフェルは、その足で、ウェムアメンのもとを訪れた。
 「司令、ご報告があります。奴らは南の砦を奪うつもりかと」
 「分かっている」
苛立ちながら、しかし半ば諦めた様子で、男は腕組みをしたまま丘からの眺めを凝視していた。
 「援軍が来るのは、早くても半月後になるだろう。それまで、この北の砦だけで持ちこたえられるかどうか…くそっ、こんな時に。王のご婚儀だとかで、大量の金が要り用だと言われているのによう」
 「南の砦を放棄すればこちらが不利になる。策があります」
 「策?」
 「仕掛けてくるなら遅くとも明日の夜。うまくいけば、こちらは被害を出さずに奴らを追い返せます」
男は、じろりと若者を睨んだ。
 「実戦経験もない甘ったれが何を言う、…と、言いたいところだが、ほかならぬお前さんだからな」にやりと、口元を歪めた。「言ってみろ、坊主。どうするつもりだ」
 「奴らも、我々が砦を放棄すると思っているはず。そこを逆手に取ってもおびき出すんですよ。…」



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