【黒犬の章 7】


 祭りの余韻がまだ町に残る頃、ラーネフェルを乗せた舟は、ゆっくりと岸を離れようとしている。
 「気をつけてね。すぐに帰れるわ、お父さんが取り直してくれるから…」
見送る母の目は涙に濡れ、せっかく引いた隈取も台無しだ。長く仕えてくれた召使や、家の下男たち、それに、顔見知りの貴族たちも野次馬と近所づきあいを兼ねて桟橋に並んでいた。ラーネフェルは、それら見送りの列に向けて舟から手を振った。王に下賜された短剣を腰に帯び、質素な腰布に日よけのマントだけ身に着けて、しばしの暇となる都の街並みを眺めながら。
 大祭の一ヶ月後には、神像が"大神殿"へと戻るもう一つの祭りが執り行われる。だが王の命は、それを待たずして発てというものだった。ラーネフェルにも異論はなかった。命じられるまま荷物をまとめ、すぐさま南へと川を遡る旅路に就いた。
 思えば、家を離れ、両親の手の全く届かぬところへ行くのは、これが初めてなのだ。
 そこは彼自身何もしらず、彼を知る者は誰もいない未知の場所。父の名の威光も届かず、彼の名は塵ほどの価値もない。心のどこかで、そんな日が来るのをずっと待ち望んでいたような気がする。ここから先は自分自身の足で歩むのだ。
 岸を離れると、舟は白い一枚帆を張った。風に乗って、川を遡るためだ。流れに逆らってゆるりと進みだす舟の舳先には、黒い水がちゃぷちゃぷと音を立てる。
 足元にうずくまっていた犬が、ぴく、と耳をそばだてた。
 「ん」
顔を上げ、振り返ったラーネフェルは、岸辺に立つ薄茶色い髪をした青年の姿を見とめた。ハルだ。川べりの土手の上から、何か言いたげな黒い瞳をじっとこちらに向けている。叫ぶでもなく、手を振るでもなく、ただ、じっと。
 話すべきことは既に話し、別れはすでに終えた。
 ラーネフェルもまた、手を振ることはせず、視線を舟の中に戻し、ハルの目の前を通り過ぎることを選んだ。ただ手だけは、首にかけた皮紐にあった。

 ――小屋を訪れたのは、クシュ行きが決まった次の日のことだった。


 一歩中に入ったときから、悪い予感が的中していることを感じた。荒らされたままほとんど修理されていない泥レンガの壁、覆いのない入り口。割れた甕のかわりに端の欠けた椀がひとつ、ぽつんと火の消えた台所に置かれている。
 二部屋しかないうちの奥の寝室で、お情け程度に敷かれたボロ布の上にティアは横たわっていた。
 「どうして…」
 「母さんは、ここのところ心臓の調子が悪かったんだ」
傍らで壁にもたれたままりハルは、死んだような表情で目は虚ろだ。「それで…。」
 どちらかというとふくよかだったティアの体からはごっそりと肉が落ち、目は落ち窪んで、胸は激しく上下している。荒い息を吐きながら、ティアはなんとか起き上がろうともがいた。慌ててハルが手を差し伸べる。
 「母さん…」
 「ハル、あれを。あれを持ってきて」
 「ここにあるよ」
ハルはそう言って、足の下に隠してあったボロ布で包んだものを取り出した。ティアは視線で、ラーネフェルにそれを受け取るよう促した。布は埃っぽく、指先で触るだけで繊維がぼろぼろと崩れる。中から現れたのは、黒塗りの、上等の香木で出来た箱だった。
 「それは、坊ちゃんがお屋敷に来られたときに身に着けていたものなんです」
 「俺が?」
 「今まで黙っていて、申し訳ありませんでした。坊ちゃん…、あなたは」痰が絡み、呼吸が荒くなる。ハルが慌てて椀を取りに走る。息子に支えられながら水を飲み下し、額に汗を浮かべたティアは、ほんの少し前までとはまるで別人のようにやつれ果てている。
 もう、長くは持たない。
 だからなのか。
 「…あなたは、フネフェル様の本当のお子様ではないんです」
吐き出すように言って、乳母は涙を一粒、落とした。
 「ずっと黙っていて申し訳ありませんでした」
 「謝るな。そんなこと、とっくに気づいていたさ。お前が悪いわけじゃない。でも、何故なんだ? 俺は一体、どこから連れて来られたんだ」
 「…奥様のお子様が亡くなったのです」
囁くように言って、ティアは大きく息をついだ。「奥様の二人目のご子息が亡くなられて、代わりに同じ年頃の男の子が連れてこられたのです。それで、代わりに育てるようにと。旦那様はそれ以上、なにも仰いませんでした。私も、それ以上のことは伺っておりません。ただ、その時に坊ちゃんが身に着けていたものだけは隠しておきました。…焼き捨てるように言われたのですが」
 「それが、これなのか」
ラーネフェルは箱を開けた。時を経た香りがふわりと漂う。中に白い布きれが見えた。古くなってはいるが、上等な亜麻布だ。それに金糸の刺繍の入った小さなサンダルが一そろい。細い腕輪が一つ。それから――灰色の、すべらかな石で出来た犬の形をした首架けのお守り。
 じっと手元を見つめていたラーネフェルは、やがて、ぽつりと言った。
 「それじゃあ、俺がどこの誰なのかは、お前も知らないんだな」
 「……。」
返事は無い。
 「ラーネフェル、君」
 「いいんだ。俺は今の家族を壊すつもりはない。理由はどうあれ、俺をここまで育ててくれた」
箱を閉ざし、首に架けていた重たい胸当てを外して差し出す。
 「打ち明けてくれてありがとう、ティア。これは礼だ、受け取ってくれ」
 「そんな、坊ちゃん。受け取れません、それは坊ちゃんが旦那様にいただいたものでは…それに私は…」
 「交換だ。お前が取っておいてくれたものとのな」
痩せた手をとって無理にそれを握らせると、ラーネフェルは箱を小脇に抱えて立ち上がった。後ろは見ない。かつて親しんだ乳母のやつれた顔を見ていると、涙腺が切れてしまいそうな気がした。
 小屋を出るとすぐに、ハルが後を追ってきた。
 「待て、ラーネフェル。何処へ行くんだ?」
 「どこって」
 「どこか遠くへ行く気だろう。…君にはずっと、本当の兄弟のように良くしてもらった。見ていれば分かる」
振り返って、彼は小さく口元に笑みを浮かべた。
 「さすがだな、ハルは。本当はそれを言いに来たんだが、ティアのあんな姿を見てたら、とても言い出せなくて」
 「まさか…町を離れるのか」
 「ああ。じきに、クシュの国へ行く。王の命で」
見る間にハルの顔がこわばるのが分かった。「あの、王の?」
 「祭りの日に、王を指し置いて聖牛を手にかけた。その罰だ。もっとも、俺は昔から軍人になりたかったから、願ったりだよ」
 「だけど――」
言いかけたハルの言葉は、それ以上続かない。唇を噛み、そばかすだらけの青年は息を押し殺すようにして俯いた。
 「戻ってくるんだろう?」
 「そうだな、半年か――そのくらい経ったら、おそらく」
 「それまで母さんはもたない」
拳を握り締め、搾り出すように言った。「どうすればいい? 母さんも、君もいなくなったら、おれはどうすれば…」
 「これも持っていけ」
ラーネフェルは、箱から犬の形の石だけを取って、残りをハルに返した。
 「生活の足しになるだろ」
 「そんなの…」
目じりのあたりをしきりと拭い、流れ落ちようとする熱いものを隠しながら、ハルはまたきつく唇を噛んだ。
 荒野の赤。
 空の青。
 川辺の緑。
 流れてゆく風の無色。
 穏やかな日差しのさすほとんど波のない川面を、大きな帆を張った船がゆったりと上流へ遡って行く。

 ハルと過ごしたのは、それが最後だった。


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