【白蛇の章 5】


 戸が叩かれたのは、編んだ髪を念入りに確かめていたときだった。
 「ムトノジュメト? そろそろよ、支度は済んだの」 
 「すいません、もうちょっとです。今、仕上げを…」
慌てて最後のひと房を髪飾りにかけ終わると、鏡に向かって小さく首を傾げてみせ、寝台にかけておいた上着を取り上げる。
 「おまたせしました」
現れたムトノジュメトを見て、迎えの女性神官は、満面の笑みを浮かべた。
 「とても綺麗ね、特にその髪飾り、似合っているわ」
 「ありがとうございます。」
低い打楽器の音に混じって、シャン、シャンと甲高い音が聞こえてくる。神殿内での儀式を終え、神像が神輿に据えられて、この祭りの時だけ開かれる大門から外に出ようとしているのだ。"唄い手"たちはそこに並んで出立の歌を歌ったあと、自分たちの仕えるムト女神の乗る輿について、小神殿へと川ぞいの堤防の上を練り歩く。一日がかりの大仕事だ。小神殿まで距離はあまりないが、人でごったがえす中を行列はゆるゆると歩くため、小神殿に入るのは日が暮れる頃になる。
 空には雲ひとつなく、青く晴れ渡っている。神官たちの脇には日傘をさしかける従者がつくが、毎年、衣装の重さと暑さで倒れる者も出る。そうならないように、今日は気をつけなくてはならない。
 「あら」
同じ年頃の神官たちに混じって神殿の前に並んだとき、ムトノジュメトは、白い輿に乗ってじっと大門を見つめている人物に気がついた。両脇から大きなダチョウの羽根の扇子で煽がれ、傍らには従者が、冷たい水の入った盆を捧げ持っている。重たい金の首飾りと腕輪を身につけ、陰鬱そうな顔で冠を気にしている。
 『どうやらあれが国王のようですね』
肩のあたりで声がする。腕に巻きついている白蛇の姿は、今のところ、ほかの誰にも見えていない。
 『なんとまあ、ひょろっこいこと…』
 「しっ」
小さく咎めて、ムトノジュメトは周囲に合わせて覚えたとおりの唄を唱え始める。それは神を讃える長い呪文に独特の節をつけたもので、陽気に「歌う」というよりは、朗々と「謳い上げる」に近いものだった。少女たちの声とともに、輿はしずしずと大門から運び出される。参道を通り、向かう先は岸辺に繋がれた聖舟だ。ムト女神はそこでアメン、コンス両神と合流し、上流の、小神殿前の桟橋へと向かう。船には岸辺から引いて舟を動かすための綱がつけられ、川の両岸にはこの祭りのために集められた三十人ずつの男たちが待機している。
 輿が動き出すと、神官たちがそれに続き、ムトノジュメトも周囲とともに歩き出した。列は参道の縁いっぱいに並んだ観衆の前を通ってゆく。人々の視線は、列の中でも特に、この日のために念入りに着飾った少女たちに注がれていた。これほど沢山の視線を浴びたことのないムトノジュメトは、恥ずかしくなり、ずっと顔を伏せたままだった。自分の影の中で、白いサンダルが参道の敷石を踏んでいく。一定の間隔で進む列の歩みがあまりにも遅く感じられて、早く終わればいいのにと、そればかり考えていた。
 シャン、シャン。
 シストラムの立てる軽快な音は止むことを知らない。奏で手も疲れるはずだが、どこかで巧く交代しているのだろうか。
 シャン、シャン。
 舟が動き出し、少女たちは一息ついて木陰に入る。年かさの女性神官たちが駆け寄ってきて、疲れ果てた少女たちを叱咤して回る。
 「水を飲んで。少し休んだら、交代で列に沿って歩くの。いいわね」
 「はあい…」
 「それから、あなた」
ムトノジュメトは、呼ばれて顔を上げた。
 「俯きすぎよ。もっと顔を上げて。前を見て歩きなさい」
 「…はい…。」
重たい髪飾りを手で確かめて、彼女はため息をついた。祭りの"唄い手"が、こんなに大変だとは思わなかった。そうと知っていれば、どんなに無理をしてでも髪飾りはもっと軽いものに取り替えたのに。


 午後も遅くなり、舟から下ろされた神々の輿はようやく目的地の小神殿前の参道に差し掛かった。通り沿いには貴族街があり、裕福な人々は、自宅の二階テラスから行列が過ぎるのを眺めている。
 (そういえば、あの人は、この辺りに住んでいるはずよね…)
ムトノジュメトは、周囲の観衆の列に視線を走らせた。まさか、こんなところで会えるとは思っていない。だが、もしかするとどこかから見ているかもしれない、と思うだけで、自然と背は伸びた。もうじき、輿は神殿に入る。付き添ってきた下級の神官たちや"唄い手"たちは輿とは別に、前庭に設けられた席について聖牛を捧げる儀式を見守ることになる。居なくなったという聖牛のことを思い出したが、誰も何も言わないところを見ると、儀式は問題なく続行されるのだろう。じっとりと滲んだ汗を感じながら、ムトノジュメトは神殿へと続く最後の敷石を踏み越えた。
 神殿の前庭には四角く囲った柵があり、観衆がその周囲にめいめい席を設けて、儀式の始まるのを今か今かと待っている。薄闇の落ち始めた神殿を照らすために薪に火が灯され、炎が、神殿の高い天井や柱の浮き彫りを照らし出している。神々の神輿が、しずしずと神殿の入り口へ進んでゆき、階段の上に据えられる。これが、今日さいごの仕事のはずだ。少女たちは枯れた喉を振り絞って出迎えの唄を歌う。それが終わると同時に神官たちは場を王とその従者たちに譲り、脇へ退いた。
 一段高い特等席に腰を下ろして見守っていると、神殿脇に張られた天幕の中から、一頭の立派な雄牛が引き出されてくるのが見えた。 
 「あれが聖牛なの? 立派ね。」
 「盗まれたんじゃなかった?」
 「あら、確か戻ってきたって…」
周囲から、大役を終えて緊張の解けた少女たちの囁き声が響いて来る。ムトノジュメトは、腰を浮かせてよく牛を見ようと試みた。民衆の歓声とともに柵の中に迎え入れられたその牛は、妙にふらついて、酔っ払っているようにも見えた。
 「ビールを飲ませて、抵抗できなくしてるんだって」
 「へえ…それでツノにもああして押さえをつけて、倒すのね」
 「だって王様はあれじゃ…」
クスクスと声が漏れる。「やだ、はしたないわよ」
 その若き王はちょうど、輿を降りて上着を従者に手渡すところだった。代わりに重たそうな剣を受け取り、やや緊張した面持ちで、牛と向かい合っている。これは、聖牛を屠り、神々に捧げる儀式なのだ。ムトノジュメトは、思わず目を背けた。あんな美しい牛を殺してしまうなんて――しかも、あんな剣一本で。
 唐突に、牛が一声、大きく吼えた。
 周囲がざわめき、少女たちが悲鳴を上げる。ムトノジュメトは、はっとして視線を前庭に戻した。
 「牛が!」
 「どうしたんだ」
牛が大きく首を振って、角にかけた縄を握っていた従者たちを吹き飛ばすのが見えた。なんて力だろう、大の男が、まるで木の葉のように宙を舞って、観客席に突っ込んでゆく。怒声、悲鳴。柵に近い場所にいた観衆は、われ先に逃げ出そうとして大混乱に陥っている。牛はなおも暴れ続け、抑えようとする従者たちを次々に跳ね飛ばして王のほうに向かってゆく。
 と、彼女はその瞬間、視界の端から飛び出してくる青年の姿に気がついた。
 ――あの人。
 口元に手を当て、思わず立ち上がる。間違いない。あの時助けてくれた、広い背中の青年。突進してゆく牛の前に立ちはだかり、王を庇うように、…いや。王の手から剣をもぎ取るなり、青年は、迷い無く一直線に牛の喉目がけて突き通した。
 悲鳴が消えてゆく。
 ゆっくりと牛の体が力を失い、剣ごと地面に落ちる。声はなく、音も無く、呆然とした観衆の前には、返り血にまみれて立つその青年の姿しかなかった。
 やがて彼はゆっくりと牛の体から剣を引き抜き、膝まづきながら王の手に握らせた。我に返ったように、王の傍らにいた大臣の一人が大声で叫んだ。
 「儀式は終えられた! 無事、聖牛は王の手によって神々の饗宴へと捧げられたり!」
やや遅れて、神官たちが慌てたように音楽を奏ではじめ、我を取り戻した神官たちが朗誦を始めた。拍手と歓声。だがそれらは、王ではない、その場の主役に向けられているようにしか聞こえなかった。
 「何、今の?! 今の一体なに?」
 「あの人――誰なの?」
少女たちは既にさっきまでの恐怖はどこへやら、好奇心いっぱいにわれ先にと身を乗り出して、恥じらいもよそに口々に言葉を交わしている。
 「あれはラーネフェルだ、大臣の二番目の息子の」
 「大臣フネフェル殿のか。」
側で神官たちの話す声がムトノジュメトの耳にも届く。
 「あの暴れ牛を一太刀で? なんという膂力だ。武人なのか」
 「いや、成人してから職は得ていないと――なんでも父親は宮づとめをさせたいが、本人は嫌がっているとかで」
 「そりゃあれは宮廷に収まる身じゃなかろ。しかし――」
まるで遠い世界で話されていることのようだ。探していた人物は見つかった。しかもそれは、今日、父と話していたあの大臣の家の息子だという。
 (ラーネフェル…)
聞き覚えはないのに、何故か酷く懐かしい名前。呆然と立ちつくすムトノジュメトをよそに、儀式は淡々と、何事もなかったかのように進んでゆく。気がついたときには、あの青年の姿はもう視界からは消えていた。


 儀式が終わり、大神殿へと戻る途中で、ムトノジュメトは列を抜け出した。どうしても今夜のうちに会っておきたかった。道に迷うかもしれないことは考えなかった。それに、遠回りだとしても、今日の行列で辿った道を逆にゆけば神殿へと戻れる。祭りの夜は人通りも多く、危なくはないはずだ。
 人に何度も尋ね、ようやくフネフェルの家にたどり着いたのは、そこを捜し求めはじめてからずいぶん経った後のように思われた。
 もう夜も遅いというのに、屋敷にいた老召使は、突然たずねてきたムトノジュメトを何も聞かずに招き入れてくれた。おそらく彼女の慌てた様子と身なりから、そうしたほうが良いと判断したのだろう。
 「でもお気の毒ですが、お嬢さん。下の坊ちゃんはまだ、お戻りになってないんですよ。」
 「まさか…、お怪我を?」
 「いいえ。怪我ひとつありませんよ、一度戻って着替えられたあと、旦那様に呼ばれて神殿に戻られたんです」
では、行き違いになってしまったのだ。体中の力が抜けて、座り込みたい気分になった。だが、見知らぬ家でそんなことをするわけにもいかない。
 「少しだけ待たせていただけますか。少しでいいので」
 「勿論ですとも、お疲れのようですし、休んでゆかれるとよろしいでしょう。きっとすぐにお戻りになりますよ。」
ムトノジュメトは広間に通された。老召使が気を利かせて出してくれた冷たい果実汁で喉を潤しながら、彼女は、初めて見る"神殿ではない屋敷の中"を物珍しそうに見回した。壁は石ではなく漆喰を塗って作られ、真っ白で、ほとんど模様はない。床には彩色を施した大きなじゅうたんが敷かれ、低い卓や椅子は、上級神官が使っているもののように上等だ。
 「あら、おかえりなさいまし、坊ちゃん」
玄関のほうで老召使の声がして、胸を躍らせて立ち上がりかけたが、部屋に入ってきたのはラーネフェルではなく、どこか見覚えのある、…いや、一度神殿で話しかけたことのある、書記の青年だった。
 青年は、驚いた様子で部屋の入り口で足を止めた。
 「客人がいると言っていたが、君か」
しばらく考えて、ムトノジュメトは、ようやく名前を思い出す。
 「サナクトさん…、でしたっけ」
 「ああ。この間、蛇の名前を聞いてきたね」
 「そうでした」
席には腰を下ろさず、少し離れた柱にもたれかかるようにして立ちながら、サナクトは老召使の差し出した杯を受け取った。
 「君のお目当ては、弟かい。」 
 「そう…みたい、です」
大臣の二番目の息子、と神官たちは言っていた。この、どちらかというとひ弱そうなサナクトの弟があの"杖の貴人"とは、到底信じられない。ムトノジュメトがそう思ったのとほぼ同時に、サナクトは笑いながら自ら言った。
 「似てない、って思っているだろう」
 「え…」
思考を読まれたようで、ムトノジュメトは顔を赤くして俯いた。「ごめんなさい」
 「謝るってことは、やっぱりね。よく言われるんだ。あいつはあのとおり、力が強い。父は神殿づとめをさせて私の同僚にしたかったようだが、向いている職ではないな。」
 「あのう…。ご兄弟は、お二人なんですか」
 「そうだよ。この家には、両親と四人で住んでいる」
それ以上は聞けなかった。自分は、この家の娘ではないのか。
 「…聞いてもいいかな。弟には、何の用だったんだい。神殿住まいの君が、あいつと、どうやって知り合ったんだ」
 「助けてもらったんです、神殿で忘れ物をした人を追いかけていて道に迷ったとき…。そのお礼が言いたくて…」
 「ほほう」
サナクトは、面白そうな顔をして杯を干した。
 「運命の出会い、かな」
 「違います。そんなんじゃなくて…ただ…」
返答に困っているムトノジュメトの表情をしばし眺めていたサナクトは、やがて、近づいてきて自分の杯を卓の上に置いた。
 「だとしても、もう帰ったほうがいい。あいつは今夜、しばらく戻ってこないだろう。王に呼ばれたからね」
 「え…?」
 「今日のことで、何かお達しがあるらしい。お咎めを受けるにしろ、褒美を取らせられるにしろ、長くかかりそうだ。」
せっかく辿りついたのに。だが、確かにもう時間も遅い。あまり遅くなると、途中ではぐれたのかと仲間たちが心配するだろう。
 うなだれながら席を立つムトノジュメトに、サナクトが迷いながら声をかける。
 「送ろうか、お嬢さん。」
 「結構です。…お邪魔しました」
足取りは重く、胸のあたりが痛い。祭りの余韻に浮かれ騒ぐ町とは裏腹に、少女の心は沈んだままだった。


 その夜は、疲れ果てていたのか、寝台に横になるとあっというのに眠りに落ちた。
 深い深い眠りの中、彼女は、誰かを追いかけていた。けれどどんなに走っても、決して追いつけない。
 (行かないで)
遠ざかってゆく背中。差し出した手は空しく空を切り、気がつけば、一人取り残されている。
 (行かないで…お兄さん…!)
これは夢だ。何度も言い聞かせ、何度も寝返りをうつ。けれど疲れた体は眠りを欲し、夢から解放してくれない。泣きながら座り込む自分は、いつしか幼い少女に戻っていた。転んで石にぶつけた膝。でももう、おぶってくれる少年はいない。
 『立ちなさい』
穏やかな、だが厳しい声がすぐ側で、彼女に告げる。
 『立ち上がるのです、ムトノジュメト。泣いていては駄目。あなたはもう大人なんですよ』
 (…大人)
 『ええ、一人前の女性です。一人前の…』
 (大人になったら、一緒に暮らせるって…)

 瞳を開けたとき、明かりとり窓から差し込む日差しは淡く、夜はまだ明けていなかった。涙の跡を確かめ、解くのを諦めて寝たせいでくしゃくしゃになった髪を押しやりながら、ムトノジュメトは、重たい体をひきずって寝台の端に腰掛けた。枕元で、白い影が動く。
 「あなた、また、あたしの夢に干渉したでしょう」
 『うなされていたものですから。』
 「余計なお節介よ。分かってる。あたしはもう、大人よ」
うっすらとした明け方の光に照らされた部屋の中には、寝る前に脱ぎ散らかしたままの上着やサンダルが散乱している。ひどい部屋。ひどい髪型。それにきっと、顔もひどいことになっているだろう。
 昨夜のことは、今も胸に突き刺さって疼いている。だが少なくとも、目指す相手は見つけられたのだ。家も分かった。また会いにゆけばいい。そう思うことにして、ムトノジュメトは髪を梳かしにかかった。神像が小神殿へ移って、今日から一ヶ月は下級神官たちは暇になる。交代で小神殿へ奉仕に行くほかは、しばらく仕事が無い。一ヶ月後にまた神像が大神殿に戻る祭りがあるが、それはずっと小規模なものだ。今日は皆、一年で最も忙しい時期を終えて、気が抜けているはずだった。

 身支度を整えて部屋を出てみると、案の定、神殿の中は閑散としていた。羽目を外して騒いだ年長の神官たちは、まだ寝静まっている。起きているのは長年神殿に勤めている年かさの奉公人か、年長者の手前、昨日あまり騒がなかった若い神官たちくらいだ。もう昼過ぎだというのに参拝者もおらず、こんなに静かな大神殿は一年のうちこの時期だけだ。
 歩いているうちに、足は何となく、あの祠堂へと向かっていた。空っぽで、昨日までと何も変わらない。ぐるりと回ってみると、以前は気づかなかった、神に捧げ者をする王と王妃の浮き彫りが裏側にあるのを見つけた。礼拝する二人の背後には、旗印の上に座る犬と、その足元に首をもたげた蛇の姿がある。
 「これもきっと、あなたの仲間なのね」
蛇は返事をしない。祠堂を後に、ムトノジュメトは散歩を続けた。編んでいない長い髪が風に靡いて、心地よい。もうあんな重たい飾りはうんざりだ。聖池を通りすぎ、ムト神殿へ戻る参道へ差し掛かり、今は閉ざされている大門脇の通用口から中に入ろうとしたとき――ちょうど、中から駆け出してくる男とばったり出会った。
 「こちらでしたか、ムトノジュメト様」
 「あたしですか?」
少女は、まじまじと男を見た。見覚えはない。だが、自分の名を知っている…
 「お父上が、神官長がお探しですよ。すぐいらしてください」
 「あら」
何だろう。昨日の帰りが遅かったことが知られたのだろうか。

 父の使いの男に案内されて、向かったのは普段は書記や上級神官たちが仕事をしている執務室だった。今日は書記たちも休みをとっていて、誰もいない。
 「来たか。お前は下がりなさい」
男を下がらせると、アメンエムハトは目の前に立つ娘の姿を、じっくりと眺め回した。まるで値踏みされているようで、ムトノジュメトは、少し居心地が悪くなった。
 「御用は何でしょう」
 「何、お前に会わせたい人がいるのだ」
 「会わせたい人?」
 「婿候補だよ、先方が気に入ってくれればだがね。聞いて驚くんじゃないぞ。相手は陛下、国王様だ」
 「えっ…」
ムトノジュメトの脳裏に、昨日見た、青白く強張った表情の若者の姿が過ぎった。震える手で剣を握っていた、――あの人と?
 アメンエムハトは、養女の驚きを、嬉しさから来る緊張と受け取ったらしい。満足げに頷くと、娘の肩に手をかける。
 「なあに、そう心配することはない。気難しいお方だが、お前のその美しさがあればきっとお気に召すだろう。なんといっても選ばれれば第一王妃となれるのだからな」
 「でも、あた…私は、まだ…」
 「お前ももう、立派な大人だからな。」
頭を殴られたような気がした。その言葉は、今朝方、蛇に言われたものと同じ。"唄い手"としてのお披露目――一人前の神官として大役を担うこと――成人の儀式。分かっていた、ワティだって言っていた、それなのにまさか、こんなに早く。
 「考えさせて…ください」
 「何を考えるのだ? こんな良い話があるかね。それとも王よりも優れた婿はこの世に存在しない」
 「でも…」
 「見合いの日取りは決めてある。吉日を選んでな。婚約発表は、神々のお戻りになってからになるだろう。楽しみだな、ムトノジュメト?」
俯きかけるのをこらえ、ムトノジュメトは、父の胸のあたりを見つめるので精一杯だった。婚約? まだ見合いもしていないうちから? いや、おそらくこれはもう決められた話なのだ。王自身も逆らうことは出来ない。大人たちの、後見人たちの決めた縁組み。あの日、大臣フネフェルと神殿の廊下で会話していた光景が蘇ってくる。あの時にはもう既に、彼女の未来は決められていた。
 『おめでとうございます、ムトノジュメト。』
その時、忘れかけていた蛇が、耳のすぐ側で囁いた。『私が目覚めた理由が今ようやく分かりましたよ、お姫様。私の果たすべき役割は、あなたを守ることです』
 「……。」
拳を握り締め、彼女は踵を返した。
 こみ上げてくる思いを、どうしていいのか分からない。誰に話せばいいのかも分からない。いや、たった一人だけ。会いたい、今すぐに。あの人に遭って確かめたい。


 使いに出した父の従者が、ラーネフェルの動向を持ち帰ったのは、次の日の午後遅くなってからのことだった。
 「王に命じられて、兵役のためクシュへと旅立った」と。


前へTOP次へ