【黒犬の章 6】


 低い打楽器の音に混じって、シャン、シャンと甲高い音が近づいてくる。神像を載せた神輿が、もうすぐそこまで近づいて来ているのだ。
 「母上、まだですか」 
 「もう少しよ。今、仕上げを…」
中庭に面したベンチで待たされているラーネフェルは、一つため息をついて雲ひとつない空を見上げた。女性の身支度というのは、どうしてこう時間がかかるのだろう。これならいっそ、母の付き添いは下男にでも任せて、自分は行かないと言い張れば良かった。
 「待たせたわね。さ、いきましょ」
振り返ると、いつになく着飾り、濃く目に隈取をいれた母が、にっこりと微笑みながら戸口に立っていた。手にはダチョウの羽根で作った小さな扇を持ち、手袋をはめた腕に小さな手提げをかけている。ラーネフェルが肘を出すと、メリエトはそこに腕を絡ませた。
 「お綺麗ですね」
 「でしょう? ふふ」
さすがに時間をかけただけはあって、と言いかけた言葉を飲み込んで、ラーネフェルは表通りへ歩み出た。既にそこも人で一杯だ。貴族街の表通りは、神殿の正門へと続いている。間もなく川から上がって来るであろう神輿は、この通りを抜けて、神々の家族が一ヶ月の間過ごすことになる小神殿へと向かうのだ。
 「ささ、急ぎましょ。牛追いを見逃してしまうわ」
メリエトが急かす。祭りの目玉の一つとなる牛追いの儀式、小神殿の前庭で行われる聖牛を屠る儀式が見たくて、うずうずしているのだ。どうしてそんな血なまぐさいものを見たがるのか、ラーネフェルには分からないが、母なりになにか面白いものがあるのだろう。通りに面した貴族街の住人たちは、のんびりと自宅のテラスから神輿の通り過ぎるのを眺めていて、動こうとしていない。確かに、今から先回りすれば、牛追いの儀式で良い席を取ることは出来そうだ。
 神殿の前庭には、牛を入れる柵がもうけられ、天幕の中に飾り立てられたまだら牛の姿がちらちらと見えている。
 「ああ、あの牛ね。居なくなったの戻ってきたのと大騒ぎしていたのは」
メリエトは弾む声で楽しそうに指をさす。牛が戻ってきた―― その報せは、すぐに大神殿に届けられたが、ハルが釈放されたのはそれから何日も経った後のことだった。衛兵たちは祭りの警護で手一杯で、そちらまで気が回らなかったらしい。また牛がひとりでに戻ってきたことで、ハルを犯人と決め込んでいた役人たちの報告書が宙ぶらりんになってしまったのもあった。結局、ラーネフェルが急かして、なんとか祭りまでに釈放にこぎつけたのだが、牢で面会したとき以来、ハルとは会っていなかった。
 まだあまり人は来ていないと思ったのに、既に前列の席はほとんど埋まっていた。空きを見つけて、ついてきた下男が折りたたみの椅子を置き、ラーネフェルとメリエトは並んで腰を下ろす。聖牛の捧げられる広場の奥には白い幕をかけられた一角があり、そこは"唄い手"たちと神官の席になっている。
 「お父さんたちは、どこまで進んだかしらねえ」
メリエトは、ダチョウの羽根の手扇をのんびりと動かしながら、神殿に近づいてくる音楽に耳を澄ませている。
 「もうそろそろでしょう」
と、ラーネフェルはそれとなく足元の黒犬の耳の後ろに手をやりながら答える。父は王の輿に、兄は神官たちととともに神像の輿に付き添っているはずだ。音楽と歓声、朗誦神官たちの朗々とした神々を讃える文句が空に響き、やがて、参道の向こうに列の先頭が姿を現した。
 「あっ、ほら。あそこにいるわ」
腰を浮かせて、メリエトは少女のように笑顔になった。列の先頭にあるのは、王の乗る天蓋つきの輿だ。左右から召使たちが大きな扇を振って風を送っている。両脇には宰相、大臣たち、警備兵。旗印と捧げ物を持った従者たちが一行を先導している。ラーネフェルは、遠目に王の姿を見つめた。青白く、細い面立ち。眼差しだけは強く正面を睨みすえているが、それさえもどこか虚ろに感じる。
 王の行列は神殿の入り口で止まり、追い越すようにして神々の乗る神輿が神官たちを伴ってしずしずと進んでくる。先頭は、羊の舳先を持つアメン神の舟形の神輿。続いてハゲワシの頭を持つムト女神の、最後に月神コンスの神輿が続く。それぞれに仕える神官たちを伴い、次々と神殿の奥の所定の場所に進む。すべての神輿が神殿の前庭に到着すると、ひときわ大きな音とともに楽器が鳴り止み、行列を形成していた人々が散らばった。後から王の神輿が中庭に進んできて、ゆっくりと降ろされる。
 日が翳り始め、神殿の周囲には用意されていた薪に火が放たれていた。薄青い闇が迫る中、金の冠をかぶせられ、花輪をかけた斑牛が柵の内側に引き立てられてくる。いつの間にか、狭い前庭は人で溢れている。輿を降りた王が上着を侍従に預け、剣を受け取ると、大きな歓声が上がった。神官が祝詞を唱え、神々にむかって拝礼する。音楽が戻ってきた。パチパチと音を立てる薪の音、ざわめき、衣擦れの音。灯りに照らされた王の白い横顔、濃く化粧した面持ちは緊張でこわばり、重たい剣を鞘から抜くとき、細い腕は僅かに震えた。身に着けた金の首飾りと腕輪の重みのせいだ。斑牛はたっぷりとビールを飲まされ、酔いでよろめきながら上半身裸の王と対峙している。角に引き綱をつけられ、左右から押さえつけられているのだ。とどめを刺すことは、そう難しくはない。だが――
 唐突に、牛が一声、大きく吼えた。
 「牛が!」
甲高い悲鳴が上がる。
 「どうしたんだ」
大きく首を振って、角にかけた縄を握っていた従者たちを吹き飛ばしたのだ。辺りは騒然となった。慌てて飛び出した勢子や従者たちが牛の背中に飛びつこうとするが、猛烈に暴れだした斑牛は、前足をふんばり、背を大きく逸らして近づく者すべてをなぎ倒す。踏みしだかれた土が舞い上がり、逃げようとして押し合いへしあいする見物人たちは恐慌を来たしている。顔をこわばらせ、腰を浮かしたメリエトを、ラーネフェルは素早く下男の腕に預けた。
 「安全な場所へ、早く」
 「は、はい」
言いながら、視線は牛の姿を追っている。何故急に―― まさか、今になってまだ、"死にたくない"などと――
 「抑えろ、早く!」
父の声だ。見れば、呆然としている王の傍らで、若者の肩を抱いてどこかへ連れていこうとしている。だが、判断する能力を失っているのか若者は、剣を握り締めて硬直したまま動こうとしない。角に縄をかけたまま、斑牛は鼻息も荒く、ゆっくりとそちらを振り返る。王を守る兵も、勢子も神官たちも、みな牛に突き倒されて動けないでいる。
 このままでは、王が巻き添えになる。
 ラーネフェルは柵を飛び越え、走った。
 牛が突進してくる。構わず王に飛びついて、その腕から剣を奪い取ると、父と王の塊を背に庇うように向かってくる斑牛に向かって一歩、踏み込んだ。
 黒い瞳が煌く。
 斑牛の双眸が覗き込んでくる。そして満足げに頭を上げ――


 腕に、鈍い感触と衝撃が伝わってきた。踏ん張った両足にずしりと重みがかかり、次の瞬間、手の甲に熱いどろりとしたものが流れるのを感じた。
 「――お、」
ぽたり、ぽたりと赤い雫が砂の上に落ちてしみ込んでゆく。
 「お前、ラーネフェル…」
呆然としたような父の声。ラーネフェルは、牛の瞳から生気が消えてゆくのを感じながら剣の柄から手を放した。それと同時に、どさり、と牛の頭と肩が足元に落ちる。剣は喉から首の後ろへ貫いていた。かすかに痙攣していた牛の足も、やがて動きを止めた。 
 静寂がその場を支配していた。いや、薪のはぜる音だけは、聞こえていたか。
 灯りに照らされて、血にまみれて牛追いの柵の中に立つ青年の姿だけが浮き上がって見えた。
 「屠殺の神<ヘリシェフ>だ…」
だれかが呟き、それと同時に漣のように声が、音が戻ってくる。息を吹き返したのは、父も同時だった。
 「ラーネフェル! お前、王の聖牛を!」
 「失礼しました」
牛の首から剣を抜くと、ラーネフェルは自らの衣の裾でそれを拭い、膝まづきながら、つ、と王の前に両手で差し出した。
 「どうぞ、とどめを。陛下」
まだフネフェルに抱えられたままの王は、蒼白な顔のまま、震える手でそれを受け取り、よろめきつつラーネフェルの側に立って既に息絶えた雄牛の眉間に剣をつきたてた。はっとして、フネフェルは叫んだ。
 「儀式は終えられた! 無事、聖牛は王の手によって神々の饗宴へと捧げられたり!」
やや遅れて、神官たちが慌てたように音楽を奏ではじめ、我を取り戻した神官たちが朗誦を始めた。拍手と歓声。だがそれらは、王ではない、その場の主役に向けられているようにしか聞こえなかった。


 儀式の終わった後、ラーネフェルは一人、神殿へと呼び戻されていた。
 失神寸前だった母を家まで送り届け、血にまみれた服を取り替えたところで父の使いが呼びに来たのだ。
 「本日の儀式のことで、お話があるそうです」
叱られるのだろうな、とラーネフェルは思った。勝手なことをした。本来なら、神聖な儀式の場に部外者が入り込むことは許されない。おまけに神の御前だ。
 「母上には何も言うな。俺は先に休んだことにしておいてくれ」
下男にそう言いつけて、家を出た。町はまだ祭りの余韻に酔いしれて、無礼講の宴で通りからも屋敷からも人々の騒ぐ声が響いて来る。月明かりが照らす道には人々が行き交い、物陰で恋人たちが抱き合い、酔っ払った若者たちは肩を組んで調子はずれの歌を歌っている。平和な夜だ。ついさっき、危うく王が命を落とすところだった出来事さえ、今は人々のいい酒の肴にされていることだろう。
 町の喧騒とは裏腹に。既に観衆の去った神殿の入り口には、煌々と灯りが灯され、見張りが立っている他は、静かなものだった。
 前庭の柵はすっかり片付けられていたが、牛が殺された時の血はまだ洗い流されず、今も生々しくそこにこびりついている。
 「来たか」
振り返ると、柱の影に兄が立っていた。浮かぬ顔で、肩からかけた布に入れていた腕を取り出す。
 「待っていた。父上は奥の間だ、案内しよう」
 「まだお仕事ですか」
 「何。こっちはもう終わりだ、お前を案内したらすぐ帰る」
ラーネフェルは、並んで歩くサナクトのほうをちらりと見た。こうして並んで歩くのさえ、何年ぶりだろう。背丈だけはラーネフェルと同じほどだが、肩幅はその半分くらいだ。ずっと書き物机に向かっているせいで白い肌は、夜の闇の中では蜻蛉のように見える。
 「ここだ」
サナクトは、薄布の帳の前で足を止め、弟のほうを見た。「…あまり緊張するなよ」
 不思議に思いながら、ラーネフェルは帳の奥に目を凝らした。父と、誰かもう一人そこにいるようだ。
 「失礼します」
頭を下げながら帳を捲った彼は、はっとしてその頭をさらに低く垂れた。正面の高椅子に腰を下ろしているのは紛れもない、王陛下だ。
 「座れ」
傍らにはべる父の疲れたような声。言われるまま、ラーネフェルは王の前に膝をついた。
 「まずは、出すぎた真似のお詫びを」
 「よい」
頭上から降ってくる声は甲高く、まだ声変わりもしていないのかと聞き間違うようだ。
 「聞けばそなた、まだ職にはついておらぬとか。」
 「は」
 「不肖の息子でして…」
 「そなたには聞いておらぬ」
王の一声で、フネフェルは口をつぐむ。視線を感じた。自分は値踏みされているのだ、とラーネフェルは思った。
 「軍事職を希望か」
 「さようです」
 「ふむ。先ほど見せた武勇に鮮やかな腕前、さもありなん」
香油の匂いが、つんと鼻をついた。母のつけているものと同じ、女の部屋で嗅ぐ匂い。椅子がかすかに軋み、目の前に王の足が見えた。
 「面を上げよ、ラーネフェル。そなたは余の兵となってもらうぞ」
 「は」
ラーネフェルの目の前に、一振りの短剣が差し出されている。金の鞘に象嵌細工をした、高価な品だ。柄の部分は優美な曲線を描き、小さな蓮の花の模様が刻み込まれている。彼はそれを、両手で受け取った。
 「行き先は、クシュの国だ」
 「クシュですと?!」
フネフェルの悲鳴にも似た声が響く。「陛下、それはあんまりにも――」
 「いえ。それで結構です」
ラーネフェルは断固とした口調で言った。「陛下は何をお望みでしょうか」
 「南の蛮族どもが余の領土を荒らし、国境の砦をたびたび襲っているという。そなた行って、きゃつらを討伐して参れ」
 「仰せのままに」
その一瞬、ラーネフェルは王の顔を間近に見つめた。かすかに蒼ざめて痩せた顔の真ん中で、黒い瞳は見えない何かに怯えるように大きく見開かれている。何か言いたげに唇を動かしたが、それは声にはならなかった。椅子に戻ると、王は一つ、大きく息を吐いた。
 「行け。」
頭を垂れ、踵を返して帳を押し上げると、剣を握ったまま振り返りもせずに歩き出す。香油の香りがまだ体にまとわりついているような気がする。ひんやりとした風の吹き抜ける神殿の奥からは、そこに収められた神像から発せられる気配が、ひたひたと染み渡るようだった。だがそれとは別に、足元についてくる気配がある。視線を向けなくとも分かる。犬は今、誇らしげにぴんと耳と尾を立て、赤い舌を垂らしながら、ラーネフェルの側を歩んでいる。


 屋敷に帰り着くと、入り口で灯りを掲げて待っていた老召使が、ほっとした表情でラーネフェルを受け入れた。
 「おかえりなさいまし、入れ違いでございましたね」
 「入れ違い?」
 「先ほどまでお客様がお見えでしたよ。サナクト様が対応されておいででしたが」
誰だろう。訝しがりながら広間へ向かうと、サナクトがぼんやりとソファに架けているのが目に入った。
 「誰か来ていたそうですが」
 「ああ、神殿の"唄い手"のお嬢さんがね。お前に助けられた礼が言いたいと言っていた」
あの娘か。
 ラーネフェルは、何日か前に後をつけてきたどこかの下男のことを思い出していた。してみると、あの娘は、神殿に仕える女性神官だったのか。
 「礼など良いと言ったのに。名前だけでここを探し当てて来たんですか」
 「そうらしい。また来ると言っていたが――そっちは…」
サナクトは、弟が卓の上に置いた短剣に目を留めた。一目で王に下賜されたものと分かる、立派なつくりだ。
 ひとつため息をついて、杯をあおる。
 「父上の心配されていたとおりになってしまったな。」
 「それもまた、天の定めたもうたものですよ。クシュへ行くことになりました」
 「クシュに? ――南の果てじゃないか、それも国境に近い。あそこは今、小競り合いが続いていると」
 「構いません。そのほうが面白い」
首を振り、年長の青年は目を伏せた。
 「戦いなど。日に焼かれ、苦い水を飲み、汗と血にまみれて堅い地面に眠る生活など、私には到底無理だ」
 「ですが、そこにこそ、この国の安泰がある。平民だけに血を流させ安穏としていることは疑問です」
 「まるで軍人のようなことを言うのだな。」
 「今日からは軍人ですよ。どんな役職に就けられるにせよ」
 「――母上が聞いたら、卒倒するぞ。」
微かに胸が痛んだ。確かに、それだけが気がかりだった。
 「…心配なさいませんよう。無事に戻りますよ」
 「だといいんだがな」
それきり会話は途切れた。父はまだ戻らず、母と侍女たちは既に眠りについている。兄におやすみを言い、ラーネフェルも部屋を辞した。他ならぬ王の命だ、クシュ行きを変更することは出来ない。もしかすると今頃、父はまだ空しく王に思い直しを懇願しているかもしれなかったが、受け入れられる気はしなかった。
 これは罰でもあるのだろう。
 儀式を台無しにしたラーネフェルに対する王の意趣返し。だがそうだとしても、結局は彼が望んだものを与えてくれたのだ。
 「…嬉しそうだな、お前」
部屋へ続く階段を上りながら、ラーネフェルは足元に向かって話しかけた。
 「しばらく、お前のほうの用事は続けられそうにないが」
 『…なに。結局、行きつくところは同じだ』
部屋の戸を開けると、ぴんと尾を立てた犬がさっさと先に滑り込んだ。はっとして、ラーネフェルはその姿に目を凝らした。
 一瞬、何かと重なったのだ。
 「お前…」
どこかで見た姿だと思った。だが、はるかな記憶の彼方にあるそれの名までは、思い出すことが出来ない。


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