【黒犬の章 1】


 一瞬の出来事だ。小さなうめき声を上げたあと、男は地面を舐めて動かなくなった。
 それを見届けてからラーネフェルが動き出すと、周囲を取り囲んでいた怯えた目の民衆がつられて波のように動いた。崩れかけた日干しレンガの軒がひしめき合う埃っぽい街角、ほぼ中天からこちらを見下ろす白く輝く太陽。強い日差しの作る濃い影が建物の隙間に落ちている。
 「おい」
ラーネフェルが声をかけると、周囲を取り囲んでいた波がざわりと動いた。
 「衛兵は? 呼んだのか」
 「い、いや…」
 「そうか。なら好都合だ」
呼んだところで、滅多に来ないのは分かっていた。ここは首都の中でも外れにあり、衛兵たちの管轄からは外れている。都市境界碑のその先に、流れ者たちが集まって勝手に作った法の監視の目の目の届かぬ日陰の町。殺人、物取り、強姦、あらゆる罪が野放しであり、己の身は己で守らねばならない。見回すと、さっきの少女の姿はもう無かった。


 悲鳴を耳にしたのは、密集した建物の作る影の隙間を縫うように真昼の熱を避けて歩いていた時だった。
 「離して。離してください…」
か細い少女の声に足をそちらに向けた。助けを呼んでいたのは、十を少し越えたばかりと見える、黒髪の少女だった。この辺りでは珍しい、清潔な白い布を纏っている。髪から発するかすかな香油の香りは、彼女が下級層に暮らしている身分ではないことを物語っていた。
 「おい」
ラーネフェルは、下種な顔をして少女の足を掴んでいる、しらみと垢だらけの男を見下ろした。ボロ布のような腰布だけを纏い、路端に引いた葦の茣蓙の上に寝そべって、昼間から酒の臭気を漂わせている。大方、物陰をねぐらにしている流れ者の一文無しだろう。ここは王国首都、人の集まる大都市には、どんなろくでなしにも、まっとうでない手立てでも、糊口を凌ぐ程度の稼ぎの口はある。
 男が返事をしないのを見て、ラーネフェルは小さなため息とともに、手にしていた杖で男の腕を荒っぽく突いた。その弾みで手が離れ、少女はよろめいて数歩、壁ぎわに離れる。路地は狭く、それ以上は離れようがない。
 「何するんでえ!」
苛立った様子で起き上がった男は、「お」と小さな声を挙げて、たるみきった顔ににんまりと下品な笑みを浮かべた。よくよく見れば、せっかくのお楽しみにちょっかいを出してきた若造のほうが上物ではないか。こんな町のごみためのような界隈ではまずお目にかかることのない、洗い立ての真っ白な薄透明の上着に金糸のベルト、腕輪に胸飾りまでつけている。どちらも上等な品だ。どこかの貴族か重臣の家の者か、いずれにせよ、お供も連れずたった一人でこんなところをウロついているとは、飛んで火にいるなんとやら。
 「よう兄ちゃん、分かってるんだろうな、この町はな…」
もはや少女のほうには目もくれず、大柄な宿無しは、いざ仕事とばかり、むくりと起き上がった。

 それから僅か四半刻後。
 男は今、呼び寄せた仲間たちとともに地面の上に仲良く伸びていた。

 「あの子は無事に逃げたのか」
ラーネフェルが問うと、取り囲む人々は顔を見合わせ、口々にさざめいた。知らないようだ。あの様子、――質素な身なりではあったが、この町には似つかわしくない雰囲気。中流階級の家の娘か、良い家の使用人か。道を間違えたか何かだろうか。
 まあいい。
 一度危ない場所だと覚えれば、二度とこんなところへ踏み込むまい。
 手にした杖を確かめると、ラーネフェルは歩みを進めることにした。少し足止めを食らってしまったが、約束の時間にはまだ間に合う。人の輪が割れて、沈黙とともに彼を通す。去ってゆく後姿に、多くの人々の視線が集まっていた。
 それが何者なの、はっきり知っている者はいない。だが、身なりからして王宮に近い貴族街か、その辺りの住人なことは間違いない。供の一人も連れず、いつしか定期的にこの界隈にやって来るようになったその若い男は、誰からともなく、"杖の貴人"と呼ばれるようになっていた。


 目指す小屋は、建物の密集する町を抜けたその先、砂漠に向かう谷の入り口にあった。扉は無い。入り口には隙間だらけの茣蓙が、申し訳程度にかけられている。
 「邪魔するぞ」
一声かけて茣蓙をめくると、すぐ側の炉辺で葦かごを編んでいた肉付きの良い女が顔を上げた。
 「あら坊ちゃん!」
目が合った瞬間、膝の上の糸くずを大急ぎで払い落としながら、炉辺から腰を上げる。
 「いらっしゃい、――どうしたんです? それ」
 「ん」
指されてはじめて、ラーネフェルは袖に青黒い汚れがついていることに気がついた。手で頬に触れると、指先にかすかな痛みが走った。
 「どこかで擦れたな」
 「また喧嘩なんでしょう」
笑いながら、女は台所の端の水がめに向かうと、濡らした布切れを手に戻ってきた。
 「さ、そこに座って。せっかくの男前が台無しですよ」
 「――ハルは?」
 「漁に出かけてますよ、じきに戻る頃のはずだけど。」
炉辺に腰掛けて手当てを受けながら、ラーネフェルは狭い小屋の中を見回した。土くれから作られた二部屋しかない家に、ヤシの葉を葺いて作った天井。家具と呼べるものは、水を入れる大きな甕と仕事道具を入れた籠が二つ、茣蓙が何枚か。あとは物入れの櫃ひとつない。
 この家を訪れるようになったのは、この女、かつて自分の乳母だったティアが任を解かれて勤めを辞めてからしばらく経った頃だった。雇い主だったラーネフェルの両親は、女に十分な退職金を支払っだ。だが、それだけで残りの生涯を楽に暮らしてゆけるほど、ここでの暮らしは楽ではない。年々上がる物価に度重なる日照りの被害、おまけに運悪く、仕事を辞めて何年も経たないうちにティアの夫は水の事故で亡くなってしまった。退職金は、墓を買い、夫の葬儀を執り行うために費やされてしまった。
 「やっぱり、こんなところで二人だけで暮らすのは厳しいだろう」
傷口に布を当てていた手を止め、女は、困ったような、優しい笑みを浮かべた。
 「また、そのお話なんですね…。」
 「俺に自由に出来るものは少ないが、名目をつけて給金を払うくらいは何とかなる。ハルを俺の従者にくれれば、あんたにもっと楽な暮らしをさせてやれるんだが」
 「気持ちは嬉しいですけどね、坊ちゃん。旦那様が嫌がりますよ。ここへ来てるのだって、きっともう知られてますよ。」
その言葉は暗に、女が乳母の任を解かれた時のことを指していた。
 父がなぜティアを辞めさせたのか、その理由にラーネフェルは薄々気づいていた。父は何かを恐れているようだった。ティアに会うことだけではない。ティアの息子、彼にとって乳兄弟にあたるハルと友人関係にあることにも、ことあるごとに「身分に相応しくない」などとケチをつけてきた。そんな父が、ハルを召抱えることを許してくれるはずもない。たやすく考えを変えるような人でないことは、ラーネフェルにも良く分かっていた。
 「せめて町に暮らせないのか。こんなところで二人きりで――夜盗に襲われたりは」
 「いいえ、危ないことなんて何もありませんよ。盗るものもないくらいの家ですからね。町より気楽でいいですよ」
そう言って、女は笑う。若い頃はさぞかし美しかっただろう容貌も度重なる苦労のためにすっかり衰え、目じりには深い皺が刻まれて、今では実際の年より二十歳も老けて見える。それがラーネフェルには辛かった。
 「旦那様も、お母様もお元気ですか」
 「ああ、変わりない。兄貴もね。そろそろ嫁をとるとか言って見合いをさせられてるらしいが」
 「まあまあ。ということは、坊ちゃんもあと何年かしたら?」
 「俺は今のところ女に興味はない」
 「でも息子がいないと、誰も跡を継いではくれませんよ」
 「家だの跡取りだのうんざりだ。」
口をすっぱくして父や母のいうことには、もう何年も前から耳を貸さなくなっていた。成長するごとに家での監視は厳しくなり、息がつまるようで、時に自分の生まれを呪いたくもなった。貴族の息子より、農夫の息子のほうが自由でよい。たとえ厳しく税を取り立てられようとも、少なくとも、自分の意思で出かけることくらいは出来るではないか。もっとも、その生まれにすら最近では、疑いを抱き始めていたのだが。
 日が傾きはじめている。窓代わりの小さな穴から差し込む日の角度に気づいて、ティアはちょっと首をかしげた。
 「…ハル、遅いわねえ。どうしたのかしら」
 「大漁なのかもしれないな。」
椅子がわりにしていたかまどの端から立ち上がり、ラーネフェルは立てかけてあった杖を手にとった。
 「また来る、ハルにもよろしく伝えてくれ」
 「ええ、お気をつけてね」
別れ際、戸口まで送ってくれたティアに家族の抱擁を交わし、彼は元来た町のほうへ続く小道を、ゆっくりと歩き出した。


 いつからだろう、自分の"生まれ"に疑問を抱き始めたのは。

 杖の先で地面を突き、行く手にひしめき合う下町の屋根を眺めながら、ラーネフェルは心の中で自問した。
 母の何気ない言動からか。鏡に映る自分が、父や兄と似ていないことに気づいた頃からか。
 ほっそりして色白な母にも増して、父や兄は小柄で、男にしてはひ弱な体格だった。文官の家系だから仕方がないのだが、滅多に外に出ず書庫に篭り日がな一日書類に向かっているおかげで、日焼けもせず、腕も細い。幼い頃からやんちゃ坊主で通っていたラーネフェルなどはその対極にあって、座学はとことん嫌い、屋根の上に登ったり、塀の上を走り回ったり、乳母や侍女を振り回しては楽しんでいた。成長するごとにその傾向は増し、今では、複数人の荒くれに絡まれてもやすやすと組み敷けるほどの立派な体躯の持ち主だった。彼としては武官の道に進みたかったが、父親の猛烈な反対に遭い、今も叶わずにいる。いつも手にしている杖は、剣を持つことを堅く禁じられたことに対する彼なりの意趣返しのつもりだった。
 両親の愛情に疑問を持ったことない。だが、いつもどこか、奇妙な余所余所しさを感じていた。
 あるいは自分は、父がどこか他所の女に産ませた子なのかとも疑ってみた。もしかすると乳母のティアが本当の母親なのではと考えてみたこともある。だが、ティアの息子、同い年のハルはラーネフェルとは似てもにつかず、実の兄弟とも思えなかった。
 自分の両親が何者で、自分は本当は何処の誰なのか。
 父が恐れているのが本当の出自を知ることだとしたら、ティアは何か知っているのか。
 両親との血のつながりのない確信が強まるにつれ、この世のどこにも居場所がないような不安が胸の中で大きくなってゆく。もしかしたら自分は本当は、こんな立派な服を着て、腕輪をつけて出歩くような身分ではないかもしれないのだ。だが、それを言葉にして両親に直接問うことはためらわれた。知ってしまうともう戻れない気がして、――今は、まだ。

 ふいに、生暖かい風が首筋を撫でた。
 足を止め、彼は視線を道沿いの荒野に向けた。何かがいる――こちらを見ている。

 杖の鉤型に曲がった持ち手に力を込めた。日はまだ西の空にかかり始めたばかり、夜盗が出てくるには早すぎる。それとも、人気の無い郊外なら昼でも足がつかないと踏んでいるのか? 崖へと続く荒野には、かつて家だった跡がそこかしこに破片となって積み重なり、大きな凸凹の死角を作っている。ラーネフェルが歩調を速めると、気配も近づく速度を速めた。ついてくる。数は多くない。一人か。
 開けた場所まで来ると彼は足を止め、何者かがついてくる方向を振り返って睨みつけた。
 「何の用か」
気配が立ち止まり、しばしの沈黙があった。
 やがて、ゆるゆると影が動いた。
 砂と瓦礫の後ろから音も無く滑り出してきたのは―― 一頭の犬だ。耳の先から尻尾の先まで真っ黒な、ほっそりとした体を持つ漆黒の犬。まるでそこだけ太陽の光が避けて通ったかのようだ。ラーネフェルは、杖を挙げながらゆっくりと身構えた。
 その犬には、影が無い。
 「死者を連れてゆく砂漠の化け物か? 太陽<ラー>の見ている時間に出てくるとは酔狂なことだ」
軽い足取りでラーネフェルの目の前までやってきた犬は、歩みを止め、つ、と首を彼に向けた。金色の双眸、赤い舌。
 『さて。その逆とは考えないのかね? ラーネフェルよ』
びくりとして、彼は口元を引きつらせた。逆、とは? それに何故、自分の名を知っている。
 『私はお前に用があって来たが、化け物ではない。その逆だ』
 「神の使いとでもいうのか。ならばいずこの神の使いか。」
 『さてな。それは私自身にも分からん』
 「――何?」
 『名と姿を失って久しいのだ。それを取り戻してくれる人間を探していた。私の気配を感じとれた人間はお前が最初なのだ。だから、声をかけた』
ラーネフェルは、呆れて杖を降ろした。つまりこの犬は、自分が何者か覚えていないのだ。それなのに、化け物ではなく、神だという。
 「名を失った神なぞ聞いたことがない。信仰を失った神は消えるものだ。」
 『そのはずだがね、どうやら何か契約が残っているらしいのだ』
 「契約?」
 『私の元の存在意義だよ。何かを守護するとか―― 何かを司るとか―― そんな果たすべき役目が、私の本質としての何かが辛うじて必要としてくれているようなのでね』
地面にぺたりと尻をつき、犬は赤い舌をだらりと垂らしたままハッハッと息をしている。口が動いている気配はなく、この低い声がどこから聞こえてくるのかも分からない。まるで闇を犬の形に固めたようなそれは、ラーネフェルが信じるかどうかを推し量るように彼の表情を伺っている。
 「……。」
ラーネフェルは、空を見上げた。太陽は間違いなく、そこに輝いている。万物の命を育む光、世界の秩序を作り出す存在、神々の長にして始祖なる太陽の神ラーの乗る金の舟、その舟が天空を駆ける間は、いかなる冥界の化け物も地上に姿を現すことはないといわれている。
 「そのお前の名と姿とやらを見つけることで、俺にどんな利益がある?」
 『お前の知りたがっていることを教えてやれる』
 「…何?」
 『私はお前の名を知っている。お前が生まれたときのことも覚えている。』
 「俺の――」
 『血を分けた両親のことも知っている』
青年の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。この犬が何者かは知らないが、神にしろ神の使いにしろ他の何かにしろ、――賭けてみる価値はあるではないか。
 「いいだろう。」
踵を返し、ラーネフェルは町へ向けて歩き出した。「ついて来い」
 黒犬は腰を上げ、音も無く後に従った。西の地平線へ向かう太陽の舟から発する低い光に照らされて、青年の影が長く伸びる。その影にぴったりと同化するように、犬は、そこにいた。



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