第9章 王者の迷走



 ディートリッヒの傷は、時とともに少しずつ癒えていった。5箇所の大きな傷も、若い体力で難無く塞がれ、とうに、動き回っていてもいい頃だった。
 しかし、彼は、今だ寝室から出てこようとはせず、誰とも会いたがらない。ヒルデブラントやハイメでさえ、ほとんど口を利くことはなかった。
 「体の傷は癒えても、心の傷を癒すことは難しい。…あとは、若自身で立ち直っていただくしかない。」
そう言って、ヒルデブラントはディートリッヒが自らの意思で皆の前に出てくるのを待つよう伝えた。むろんハイメはブーブー文句を言ったが、きつく言いつけられて、結局は折れた。
 「乗ってもらえないんじゃ、お前も退屈だろ? ファルケ。オレも退屈なんだよね。あーあ、早く元気になんねーかなあ、ディートリッヒ。」
などと、厩に通っては馬に愚痴っていたのだが。
 「……。」
一通り愚痴ってから、ハイメがいなくなるのを隠れて待っていた人影があった。他ならぬ、ディートリッヒその人である。

 彼は、何か思いつめたような顔をして愛馬ファルケの前に立った。誰にも見られないよう部屋を出てきたので、気付かれてはいないはずだ。見つかれば、どこへ行くのかと訊ねられる。見つからないうちに、出発しなくてはならない。
 手綱を引き、そっと厩から出ようとして…
 「どこへ行く」
 「わぁ?!」
振り返ると、そこにヴィテゲが立っていた。
 「な、何だよ…何か用なのか。」
まだ少し拗ねたような顔をして、ディートリッヒはヴィテゲの傍を通り過ぎようとする。
 「師匠に声をかけていかないのか。」
 「い、いいだろ…そんなこと、どうだって。僕はもう子供じゃない。どこへ行こうと、僕の勝手だ。」
と、そのとき、ヴィテゲが言った。
 「逃げるなよ。」
 「なっ…」
 「必ず戻れ。いいな。あいつらは、お前を信用している。オレはかまわないが、お前はそれでいいのか?」
彼の表情はいつもどおり無表情だったが、その声には、普段はない力が篭もっていた。
 「……。僕は、北へ行く」
馬に飛び乗りながら、ディートリッヒはそう答えた。
 「北へ行くのに飽きたら、戻ってこよう。」
 「そうか。―――」
厩の入り口から、強い風が吹き込んだ。
 蹄の音を響かせて、ファルケは城の裏庭を越えて走り出す。数人の衛兵がそれに気付いて声を上げたが、誰も制止することしは出来ない。

 ディートリッヒがベルンを出たことは、すぐさまヒルデブラントたちにも伝えられた。
 「何だと?! ディートリッヒ様がお一人で!」
真面目なライナルトは、真っ青になって叫んだ。
 「なんということ。王に、一体どのように申し開きをすればいいのか…。」
 「いや、しなくていいじゃん、申し開き
 「ハイメ! 貴様という奴はどこまでお気楽なのだ! もし、このままディートリッヒ様がお戻りにならなかったら、どうするつもりなのだ! だいたい貴様、テーブルは足をのせるところでは無いぞ?!」
 「はいはい。心配しなくたって戻って来るって。あいつだってたまには一人になりたいんだろ。」
渋い顔で溜息をつきながら、彼はテーブルの上から足を退けた。しかし、相変わらず長椅子に寝そべった格好だけは正さない。ライナルトは、はああっと深い溜息をついた。
 ヴィテゲが戻って来たのは、ちょうどその時だった。
 「どこへ行っていたのだ、ヴィテゲ。若がいなくなった話は聞いたのか。」
ヒルデブラントが訊ねる。
 「…ディートリッヒは、北へ行くと言っていた」
 「なんだと?」
 「さっきそこで会った。飽きたら戻って来ると言っていた。」
 「おい貴様…、お止めしなかったのか?!」
ライナルトはなおも怒鳴りつける。
 「必要ない」
 「馬鹿者! ええい、どいつもこいつも…何たる体たらく…家臣の名折れ」
 「怒鳴り過ぎると早死にするぞ、ライナルト。」
 「戦場で死ぬなら悔いは無いッ!」
 「…ダメだこりゃ。」
肩をすくめて、ハイメは椅子から立ち上がった。
 「師匠、オレは万一に具えて後を追ってみる。なに、見つけても手を出しゃしねーよ。あんたとしても、このままディートリッヒを放ったらかしとくのは体裁が悪いだろ?」
 「うむ。お主を探しに行かせたことにすれば、表向き注意もそらせよう。」
 「ならば、私も…」
 「ライナルト、お主は駄目だ。ディートリッヒ様がご自分でお戻りになられるかもしれぬからな。いつ戻られても良いよう、ねぎらいの準備をしておれ。」
ライナルトは、不服そうな顔をしながらも、分かりましたと言って部屋を下がった。ハイメも部屋を出て行く。
 ヒルデブラントは、腕組みをしたまま、じっと椅子にかけていた。

 『はじめての敗北―――おそらく、若は迷っておられるのだろう。だが、言葉で言ってもわかるまい。若には、ご自分で学んでもらわねばねばならない。真に王たる者に必要なのはいかなるものか。それは、単なる腕っ節の強さや剣の技量ではない。本当の強さは、もっと別にあるのだということを。』―――ヒルデブラントの日記より

 ディートリッヒは、雨の中も風の中も、立ち止まることなく馬を走らせつづけていた。
 幾つもの森を潜り抜け、見たこともない町を通り過ぎて、やがてベルンが遠く果てしなく続く地平線の向こうに消えるまで。それはまるで、何かから逃げようとするかのようだった。
 「…。このまま行けば、僕は、僕でないものになれるのか…。」
走りながら、彼はそんなことを考えていた。
 無様に負けて、地面に膝をついたとき頭が真っ白になった。勝てないと分かって、死を覚悟したとき、浮かんで来たのは恐怖だけだった。
 それが恥ずかしかった。
 死にたくないあまり、逃げようとまで思ったことを、自分は知っている。自分自身で、自分の誇りを汚したことが分かっている。今の自分には、もう、王者でいる資格は無いような気がしていた。
 『お前は、それでいいのか?』
ヴィテゲの言葉が蘇る。
 信じてくれているヒルデブラントやハイメを裏切ることは許されない。何より、そんなことをすれば、最後まで残った自分のかけがえのない誇りまで捨ててしまうような気がする。
 でも、だったら、どうすればいい? このまま、何もせずに戻れるのか?

 迷いながら、彼は走りつづけた。
 走って、いつしか険しい岩山にたどり着いていた。暗い色のモミの木に覆われたその山こそ、巨人族の兄弟、エッケとファゾルドの城のある魔の山だった。
 だが、ディートリッヒは、まだそのことに気が付いていない…。



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