第10章 巨人エッケの挑戦



 いつしか日は暮れ、辺りは闇に包まれようとしていた。
 町を避け、森で野宿をしようと馬を進めていたディートリッヒは、何か得たいの知れないものの気配に気がついて歩みを止めた。獣たちの声がしない。暗闇の中からは、不気味なほど静まり返った冷たい風が吹いて来る。
 森で野宿をするのは、初めてのことではなかった。ヒルデブラントと狩りに行ってはぐれたとき、ハイメと城を抜け出したとき、森は、仮の宿りとなって優しく眠りを包んでくれた。
 だが、今は…。

 彼は、きつく拳を握り締めた。
 あの頃、自分は誰にも負けないと思っていた頃は、何も怖くなかった。森の獣たちも、化け物さえも恐ろしいと思ったことがなかった。だが、今はどうだろう。
 自分がただの子供のように震えていることに気付いた彼は、奥歯を噛んでさらに馬を進めた。こんなところで引き返すわけにはいかない。無様に負けたまま城に戻れば、誰かがきっと指をさし笑うだろう。そして―――
 ざああっ、と、頭上の木々が揺れた。
 強い風が吹き、生臭い血の臭いが辺りいっぱいに広がる。ファルケがいなないて首を振った。何か危険がある、と言うのだろう。
 「落ち着け、ファルケ。どうした。何がいるんだ。」
ディートリッヒは、ハイメに教えられたとうり馬を落ち着かせようとたてがみを撫で、耳もとに囁いた。風が強まっている。森の奥…、木々の間か。
 馬を下りた彼は、剣に手をかけたまま、おそるおそる木立の奥を覗き込んだ。
 果たして、そこには―――、常人ならざる力で引き裂かれた牛の死骸が、モミの木の枝一面にひっかけられ、ぽたぽたと生臭い血を滴り落としていた。
 それは、胸がむっとするような光景だった。内臓や皮が散乱し、まるでクリスマスの飾りのように風に揺れている。月もなく、弱い星明りだけが照らしているのは幸いだった。昼間なら、きっと色鮮やかな鮮血が木々を真っ赤に染めているのを見てしまっただろうから。
 ここで初めて、デーィトリッヒは、ふもとの町を通るとき聞くともなしに耳にしたうわさを思い出した。この辺りの山には、エッケとファゾルドという兄弟の巨人が出るという。その二人は山の上に城を構え、ふもとの人間たちに気まぐれに無理難題を押し付けたり、攫って召し使いにしたりする。しかもひどい乱暴もので、気に入らないとみるや否や、女子供も容赦なく撃ち殺すという話だった。
 自分には関係ない、と思っていた。どうせ、通り過ぎるだけの町だと。自分の国のことでもないのだと。
 けれど、こんな光景を見せ付けられても、自分はまだ、関係ないと思うのだろうか。それが正しいことなのか?
 『力ある者には、力無き者を守る義務があるのです、ディートリッヒ様。それが、王たる者の務め』
 ヒルデブラントはそう言った。いちど負けた身でも、それは変わらないのか? 負けたことが恥ずかしくて逃げ出してしまうような自分でも、力ある者と言えるのか?

 そんなことを考えながらも、ディートリッヒの足は、自然と後退していた。巨人を探して戦おうという気にはなれなかった。もし、また負けてしまったら。今度は、勝負を止めてくれるヒルデブラントはいない―――。
 「はあっはっはっは!」
 「…!」
ごうっ、とモミの木を揺らす轟音。
 どさっ、と重い音がして、目の前に殺したばかりの牛が降って来た。はっとして、ディートリッヒは後ろへ飛び退る。その場所へ、木上から何か巨大なものが地響きとともに飛び降りてきた。
 「まぁた町の連中がくだらぬ用心棒など雇ったか?! だが甘い甘い甘いわ! このワシに勝てる人間など…ん?」
闇色の中に、双眸が不気味に光る。天に広がるぼさぼさの髪の毛が、辛うじて分かった。
 「お前は…何だ?」
 「何でもない。ただの通りすがりだ」
と、ディートリッヒは弱々しく答えた。今まで向かい合ったこともない巨大な相手に、彼は、生まれて初めて心の其処からの恐怖を感じた。
 「行かせてくれ。あんたとは関係ない」
 「いんや、そうはいかん。ここを通りかかった者は、誰であれ、このワシ、エッケ様の下僕にならねばならんのだ。それとも、ワシのこの名剣エッケザックスの餌になるか、だな。ひゃひゃひゃ」
巨人は、腰から一振りの剣を抜き放って、闇の天空に翳した。それは巨大で鋭い光を宿しており、ひとめでかなりの業物と知れた。
 「…さぁ、どうする。土下座してワシの子分になるか?」
それまで萎んでいたディートリッヒの胸に、かっと炎が灯った。どんなに打ちひしがれていても、自信をなくしていても彼は王の子である。誰にも屈しないという誇りは持っていた。ましてや、このような非道で下品な巨人の前にヒざま付くなど、たとえ首を刎ねられても出来ぬこと。
 「何だ、その目は。」
エッケは、ディートリッヒの表情が気に食わなかったようだ。
 「従う気は無いようだな。ならば、死ね!」
言うなり、巨人は彼の頭上めがけて巨剣エッケザックスを振り下ろしてきた。常人には振るうことの出来ないほどの大剣が、唸り声を上げ、物凄い勢いで空を切る。
 ディートリッヒも腰から剣を抜き放った。

 キィン!

 火花が飛び散り、辺りが昼間のように明るく照らし出される。ディートリッヒは巨人の醜く歪んだ顔を、そして巨人は、端正な顔立ちの燃える瞳の若者を見た。
 剣を引き、ともに数歩後ろ下がりながら、彼らは互いに睨みあった。いまや、大気には戦いの緊張が満ち満ちている。
 「この剣は、小人アルベリッヒの手による名剣。それを受け取めたということは、その剣はアルベリッヒのもう一振りの名作ナーゲルリングに違いない。と、いうことは貴様…、ベルンのディートリッヒだな?!」
 「いかにも!」
と、今や隠そうともせず、ディートリッヒは声高らかに答えた。
 「貴様に個人的な恨みがあるわけではないが、人々に災い成すと聞いては見過ごすわけにはいかない。巨人エッケよ、貴様の悪行もこれまでだ!」
エッケは、あざ笑うかのようにこう言った。
 「ふん。それはこっちのセリフだ、小僧。ワシはお前が来ることをずっと前から知っていたのさ。ワシの女房は占いが得意だ。ディートリッヒ、お前、最近一騎打ちに負けたのだろう? その傷も癒えぬうちから、よくぞノコノコど出てきたものだ。ま、負け犬にしちゃ上等だと誉めてやるよ。」
 「何だと…。」
 「貴様は人間の男にしてはたいそう小奇麗だということではないか。ワシの娘たちが、お前に会いたがっている。縄に縛られて瀕死の体でも、死体となって転がっている姿でもどちらでも良いから、とな! わっはっはっは」
 「…貴様。そのような侮辱をしたこと、今すぐ後悔させてやる!」
ディートリッヒは剣をかざし、巨人に踊りかかった。相手は自分の何倍もある大男だ。しかし、今の彼の胸には、もはや最初の恐怖は欠片も残っていなかった。
 打ち合わされる剣戟は激しく、飛び散る火花は辺りを真昼のように明るく照らす。怒りが体を奮い立たせ、気力を満たす。冷たい夜の風が、鎧の下の肌を冷やした。
 激しい戦いの衝撃に、巨人エッケもディートリッヒもいつしか血を流していた。しかし、ディートリッヒは傷を負っていない。血は、ヴィテゲとの一騎打ちで受けた傷の一部が開いて滲み出したものだった。
 巨人は、荒い息をつきながらニヤリと笑う。
 「さすがだな、ディートリッヒよ。貴様の名、知れ渡るだけのことはある。」
 「……。」
ディートリッヒは、何も言わず、巨人に飛び掛ってその手から武器を払った。巨剣エッケザックスは転がって地面に突き立ち、エッケは、ふらふらと地面に膝をついた。血を流しすぎて、立っていられなくなったのだ。

 冷たい風が吹いていた。
 「ワシの負けだ、…殺せ、ディートリッヒ」
 「それは駄目だ。お前は、悔い改めて良き事をする。私の部下になるのだ」
 「ムリだ。汚れた巨人族の魂は、天の国には入れない。新しい南の国の神がそう決めたのだ。それに、ワシの妻と娘たちが許さない。あれは、恐ろしい女たちだ。血と肉を欲している。ワシが負けたと知れば、女たちはワシの肉を食らって次の夫を選ぶだろう。」
 「…何という愚かな。」
エッケは、にっと笑って彼を見上げた。
 「それが巨人族といものだ。愚かしく、乱暴で、神も友情も信じない。もっとも凶暴なものが王となる。」
 「ならばお前は王にはなれないのだな。」
 「そういうことだ。あとはワシの兄、ファゾルドが王となるだろう。ファゾルドは、どんな相手も一撃のもとに殴り殺す力を持っている。」
そこまで言うと、巨人は、深くひとつ溜息をつき、もう一度繰り返した。
 「殺せ」と。
 ディートリッヒは、彼の望むとおりにした。それが本人にとって最大の救いならば、そうするほかに方法はないのだ、と。

 重たい首が大地に落ち、体が血の海に沈んだとき、彼は軽い眩暈を覚えた。勝った…という誇らしげな気持ちとともに、忘れていた恐怖が蘇って来たのだ。
 と、ふと、彼は戦いに紛れて今まで気付かなかった気配に気がついた。いつから其処にいたのか―――
 声がした。
 「お見事でした、王よ」
 「誰だ!」
振り返って剣を向けようとしたディートリッヒは、はっとした。現れたのは巨人や化け物ではない。旅人風の格好をした、二人の男だった。
 「武器をお納めください。私たちは敵ではありません。」
と、片方の男が言って優雅に軽く礼をした。
 「あんたたちは…一体。」
 「途中から見ていた。助太刀は、無用だろうと思ってね」
もう一人は、武人だと一目でわかる。ただの通りすがりでないらしいことは、ディートリッヒにも分かった。
 「こんなところで何をしている?」
 「あなたと同じですよ、ディートリッヒ様。この辺りに出るという巨人を退治しに来たところが、先を越されてしまったようです。少し残念でしたがね」
 「…お前にはそうでもないのだろう、フォルカー。誰が倒しても、その現場をじかに見ることが出来たのだから、また新しい詩が作れる」
 「それはそうですが。」
にっこりと微笑んだ男は、ディートリッヒのほうに向き直って言った。
 「さて、話はここまで。お疲れでしょう、どこか血の臭いのしないところへ行って少し休みませんか? ここは、あまり野宿には相応しくないようだ。」
 「……。」
拒む理由は、ディートリッヒには見つからなかった。

 さて突然現れたるこの二人、敵ではないようだけど一体何者? もうすでに正体が分かってしまったニベルンク・ファンには、ちょっと嬉しい誤算かな?
 意味もなく現れたわけではないこの二人。続きは一体どうなるやら。



[もどる]