灰色の町の守護者…9



 なぜだかは、分からない。
 その感覚は嫌なものだということだけは、はっきりと分かった。
 暗い夜の町を、メフェカトは一人走っていた。人間たちはみな家に帰り、灯りを消して眠りについている。動くものは夜行性の虫や小動物ばかりだ。それも、人の町まで出てくるものは、ほとんどいない。
 かすかな物音がした。
 メフェカトは、目を細め、辺りを伺う。薄い星明り、寝坊した月がまだ地平線から姿を見せない闇の中で、誰かが動いていた。
 近づこうとした彼は、思いがけず強い気配に阻まれて足を止めた。その気配は、物音の方向からしている。近づこうとすると、その気配が濃くなる。強い敵意と、激しい憎悪。
 「おかしいな、何処に…」
誰かが、動きながら独り言を言っている。この場所は危険だ。それを伝えなければならない。気分が悪くなるのをこらえながら、メフェカトは、じりじりと呟きと物音の聞こえるほうへ近づいていく。
 「ううん…」
ごりっ、と、石を退ける音がする。しゃがみこんでいる人の背中が見えた。と同時に、気配がすばやく動く。
 「あ、あった! これだ」
 「…!」
何かが、ようやく地平線を越えようとする月の光に照らされて、黒く浮き上がる…その足元に、近づく何かがいる…。

 「危ない!」

 考える間もなくメフェカトは叫んで飛び出していた。はっ、として人間が振りかえる。
 「うわっ?!」
シャア、シャアと空気を吐き出すような鋭い音がして地面に蠢いていた何かが、見えない壁に弾かれて跳んだ。
 蛇だ。
 いや――、蛇の形をした"何か"だ。狙っていた人間に噛み付けなかった蛇は、なおも鎌首をもたげ、こちらに向かって来ようと身構えている。メフェカトは、咄嗟に人と蛇との間に飛び込んで両手を広げた。自分でも思っていなかったほど、力強い言葉が飛び出した。
 「やめろ! ここから立ち去れっ」
 「守護者…邪魔スル…ナ」
蛇のシュウッという声が、確かにそう聞こえた。
 言葉が通じたのか?
 分からない。問い返そうにも、蛇はすぐさま身を翻し、闇の中に溶けるようにして姿を消してしまったからだ。
 静けさが、辺りに落ちてくる。
 ほっ、とすると同時に、体じゅうの力が抜けた。張り詰めていた気持ちが緩んで、腕が下りる。
 「良かった…。」
振り返ると、さっきの人間が、驚いた表情のまま固まっていた。
 「あの…」
どこかで見たような気がした。町の人間すべてを覚えているわけではないけれど、どこかで。
 ---そうだ、ネフェルトの父親だ。
 「ああ、あ…」
 「……?」
姿が見えているらしかった。突然現われた、変わった外見の少年に驚いている。
 でも、どうして?
 「メフェカト!」
振り返ると、路地にパケトが立っていた。
 「なにボサっとしてんのよ。早く来なさい!」
 「あ、…うん、」
有無を言わさぬ口調に促されて、彼は、振り返りながらその場を後にした。理由を問いただすより、彼女がまた前のように、心配して追いかけて来てくれたのが嬉しかった。
 町外れまで来たとき、パケトはようやく足を止め、ついて来たメフェカトを振り返った。
 「何やってたのよ。ああいう場面では、姿を消さないと。」
 「…消す?」
 「『見せる』ことが出来るんなら『見えなくする』ことだって出来るでしょう。ったく、何も意識してなかったの?」
 「うん…。」
正直に言って、どうして見えたり見えなかったりするのか、自分がいま誰かに見られているのかどうか、なんて、分からないのだ。
 パケトは深い溜息をつく。
 「あんた、まだ自分の力をちゃんと分かっていないのね。なんとか、守護の結界は使えてるようだけど…」
 「守護の結界?」
 「そうよ。いま使ったでしょ? 守護者なら誰でも持ってる力だけどね。それより、あんた、気配は読めたの?」
メフェカトは、自信なく頷いた。あの、気分が悪くなるような嫌な気配が、パケトが「敵」と呼ぶものの気配だとすれば、分かった。
 「そ。あたしも、嫌な気配を感じたから駆けつけたのよ。そしたらあんたのほうが先に来てるじゃない。ちょっとびっくりしたけど。」
 「役に立ってる?」
 「少なくとも今回は、ね。お陰で、あの人間がケガしなくて済んだわ」
パケトは灰色の尾を振って歩き出す。メフェカトも、あとに続いた。
 「ねえ、パケト。あのとき、蛇が喋ったんだ」
 「当たり前よ。前もそうだったでしょ?」
 「蛇って…しゃべるものなの?」
 「喋るわよ。普通の蛇は喋らないけど、あたしたちの感じる敵は、普通の蛇じゃないもの。といっても、人間にはどのみち分かりゃしないけどね。人間には、あたしたちの敵の言葉は分からない。…あたしたちの声だって、聞こえないんだから。」
 「え?」
意外な言葉だった。
 パケトは、前脚でぽりぽりと頭をかく。
 「そんな顔しないでよ。まるで天から星が降って来たみたいじゃない。」
 「いや、だって…。」
 「あたしたちは、人間じゃないの。人間たちの世界に属するものじゃないのよ。」
その言葉は、あまりにも深く、今まで信じていたものを断絶するような気がした。
 「神の言葉を聞き取ったり、気配を感じたりするためには、本来なら沢山の修行が必要だわ。普通の人間では、神の姿を目にしても理解することが出来ない。それは、未知なるものを前にしたときの畏れよ、弱い生き物は動けなくなってしまう…。そのために神官がいるの。」
 「でも…僕…。」
 「そうね。あんたと仲良くしてる女の子は少し違うみたい。たぶん、子供だから無知だっていうこともあるんでしょうけど、あんたと波長が合うのよ。潜在的に、神官としての素質を持ってるのね。でもそれは特別な例よ。あたしも、あんたも、人間とは違う。普通に言葉を交わすことは出来ない。…そして、あたしたちと言葉を交わす『敵』も、人間たちと同じ世界に属するものではないわ。」
パケトの、諭すような言葉がひとつひとつメフェカトの耳に染み込んでいく。
 人ではないということ。
 声も聞こえず、姿も見えないのが当たり前だということ。
 ここにいるのに、ここにはいない、人の世界には属していない、自分たちと、『敵』のこと…。
 人に代わって、人ではないものと戦うために神は生まれた。人とともに生きながら、人に望まれながら、人々を人ではないものから守るためにここにいる。
 「パケト、僕…。」
 「今はまだ、分からなくてもいいわよ。思うように動いていれば、自然にわかって来る。言葉になんかしなくていい。あんたは、知恵の神じゃないんだから、ね。」
 「うん…。」
茶化すようなパケトの言葉も、今はとても優しく聞こえた。ほんの少しだけ、胸のわだかまりが溶けた気がする。
 自分がなぜ、何のためにここにいるのか、分かったような気がする、月の夜だった。


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