灰色の町の守護者…7



 感謝されても、ちっとも嬉しくなかった。
 危険な毒蛇が殺されているのが見つかって、神様のご利益だ有り難いと町の人々から沢山の貢物を貰っても、メフェカトの心は沈むばかりだった。
 「何よ。暗い顔しちゃってホント、だらしない。蛇一匹で腰がひけちゃってさ」
祭壇の端に座って、すまし顔の猫はゆったりと尻尾を振っている。神官の祈りなど、どうでもいいらしかった。
 「…パケトは、よく平気でいられるね。」
 「あんたが意気地なさすぎなのよ。」
そうかもしれない。
 けれど、もしもあの時、何も考えずに蛇を殺していたら、きっと今よりもずっと後悔していただろう。
 「どこ行くのよ」
声をかけるパケトにも答えずに、彼は、ふらりと表に出た。
 石切り場に現われた毒蛇がいなくなったことで、町の人々の表情も穏やかだ。警戒もしていない。子供たちは昨日までと同じように通りで声をたてて遊び、女性たちは、織物をしたりパンをこねたりする傍ら、道端で楽しそうに話をしている。
 彼の視線は、自然にネフェルトを探していた。


 歩いているうち、いつの間にか町のはずれまで来ていた。
 そこは、彼が町に来る途中通った道だ。灰色に切立った崖の間を通って、この町にたどり着いた。目が覚めたとき、自分はすでに今の自分で、何も覚えていなくて、歩き方も、自分がどういう存在なのかも、よく分かっていなかった。
 でも、ここにくる前は…。
 ここに来るより前は、どこにいたのだろう。覚えているのは、あの、暗い闇の中に居たことだけだ…。
 「船はめぐる 天の船 東から生まれて西にきえゆく…」
はっ、として、彼は辺りを見回した。
 いた。
 小さな影が、積み上げた日干し煉瓦の影に合わさって揺れている。
 ネフェルトは、ひとりだった。町はずれのこの場所で、川の支流が流れ込む泥の中に足を突っ込んで、歌いながら泥をこねて遊んでいた。
 「あ、メフェカトだ」
姿を見せた彼を見つけて、泥まみれの少女の顔が、見る間に太陽のように明るくなった。
 「一人で、なにしてたの?」
 「歌ってたの。ねえ知ってる? 太陽はねえ、船に乗って空のうえと地面のしたを旅してるんだよ。」
沈んでいた気持ちも忘れさせてしまうほど、幼い少女の声は弾んでいる。
 「どうしたの?」
メフェカトの表情に気がついて、首をかしげた。
 「…蛇を殺せなかったから、叱られたんだ。」
彼はすなおにそう答える。それ以外に、どう答えたらいいか、分からなかった。
 「あたしも蛇、こわいよ。見つけたら逃げちゃうの」
 「そうじゃないんだ。僕は、毒蛇を見つけたら、殺さなくちゃ駄目なんだって。それが仕事なんだ」
 「お仕事なの? あのね、あたしのお父さんは、石切り場で、かんとくさんして、はたらいてるの。それでね、たいへんだから、ときどき休みたくなるって。メフェカトも、そう?」
 「…分からない。」
本当に、分からなかった。人間を守ることが役目なのだというのは分かるけれど、蛇たちだって、この谷に住んでいるのだ。蛇をみんな殺してしまうなんて、出来なかった。
 「ほんとは、やりたくないんだ…。でも、パケトがやらなくちゃいけないって」
 「パケト? パケト様って、猫の姿した神様だよね」
ネフェルトは、なんでも知っている。メフェカトは、なんだか何も知らない自分が恥ずかしくなった。
 「蛇を殺すのは平気みたいだった。」
 「そうよ、知らないの? パケト様ってね、わるい蛇を追い払って、あたしたちを守ってくれるんだよ。それでね、歌が好きなの。パケト様のお祭りには、歌ったり、踊ったりするのよ」
そうなんだ、と、漠然と思った。---パケトは、「パケト」という名前は本当の名前ではないと言っていた。同じ名前の神はたくさんいるのだと。でも…パケトという名前の神は、みんな同じなのかもしれない。
 もしかすると、自分と同じ名前の神もたくさん…
 その神たちは、蛇を殺すことをためらったりしないのだろうか。
 「ねえ、歌、教えてあげよっか」
ネフェルトが腕を引っ張った。
 「歌?」
 「うん。こんどね、神様のおうちに行って歌うんだよ。」
そう言って、少女は歌いだした。太陽の船が、空を巡って、西の地平線に沈んでいく歌だった。まだ未熟な、鼻にかかったような高い声は、心地よく、メフェカトの耳をくすぐる。優しい、声だった。どこか懐かしい。
 そうだ、ずっと前にも、こんなふうに…
 誰かが歌ってくれた。
 「疲れを知らぬ星たちが、船の漕ぎ手となって…」
 「北のそらをめぐるとき…」
知らず知らずのうちに、彼も、声を合わせて歌いだしていた。
 「じょうずだね、知ってるの? この歌」
 「分からない…。」
 「メフェカトって、なんでも『分からない』って言うんだね。大人なのに、ヘンだね。」
ネフェルトが笑った。メフェカトも笑っていた。
 「僕、蛇を殺すのは嫌だけど、みんなのことは守りたいって思うんだ。」
 「なに? それ。」
 「僕はネフェルトのこと、大好きだよ。」
ちょっと首を傾げたあと、少女は明るい、澄んだ声で答えた。
 「うん、あたしも、メフェカトのこと大好きだよ!」
 「……。」
やはり、胸の奥で、何かが疼いた。
 忘れられない何かがそこにある。今ここにいる自分になるより前、ここではないどこかにいたとき、同じように―--好きだと言ってくれた人がいた。
 「僕、もう行くよ。また叱られちゃう」
 「また、来る?」
 「うん。また来るよ、また明日」
 「じゃ待ってる。それじゃあね、またね」
メフェカトが去っていくのを待って、少女はまた歌いだした。
 その声を遠くに聞きながら、彼は、次第に強まっていく何かの思いを感じていた。ひんやりした、建物の影に背中を押し付けて考え込んだ。これは、何と呼ぶべきものなのだろう、と。
 ふと気配がしたのに気がついて、彼は顔を上げた。
 「パケト…。」
いつから、そこにいたのだろう。灰色の毛並みの猫が、じっと彼を見上げる。
 てっきり何か言われると思ったのに、彼女は何も言わず、ただ、踵を返しただけだった。
 「待って、パケト。僕…」
 「いいわよ。言わなくったって。あんた、意気地なしなんだもの。蛇退治はあたしがやればいいんでしょ。」
怒っているとも、諦めているともつかない中途半端な口調だった。どうしていいのか分からず、メフェカトは、黙って立っているしか出来なかった。
 本当は自分がやらなければなならないことのはずなのに、嫌なことを押し付けてしまう。
 でも、自分がやれといわれたら、絶対に出来ない。
 「僕…、やっぱり役立たず、なのかな…。」
どうしようもなく惨めな思いに捕らわれて、彼はしゃがみこむ。
 その頭上で空は青く輝きながら広がり、通りには、元気な子供たちの声が満ち溢れていた。


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