ゆっくりと日が暮れて、東の空低く月が昇って来る。
人々は家に帰りつき、夕食を摂り、早く眠る。目を覚ましているのは、ただ夜に活動をはじめる荒野の生き物たちと、人ならざるものたちばかり。
「まったく、もう! あんたときたら!」
「だって、…呼んでも振り向かないで行っちゃったのは、パケトだろ」
「呼べば聞こえたわよ! どうせ人間にはバレないんだから、もっと大きな声で呼びなさいよ。ったく」
パケトの怒り声が、神殿の中にわんと響く。メフェカトはただ頭を抱えて小さくなっているしかなかった。
「しかも…子供に姿を見せるなんて、どういうこと? 神ってのは、ホイホイ姿を見せて出歩くものじゃないのよ!」
「ごめん…。でも、見えるなんて思わなかったんだ。」
「見えるよう願えば見えるわよ。相手がちっちゃな子供で、しかもあんたが神らしくない神だったから、まだ良かったようなものの。もう二度と姿を見せちゃダメよ、いい、分かった?!」
「分からない…。」
「あんたね!」
「だって、分からないんだ本当に。どうして見えたり見えなかったりするのか、どうして僕はここにいるのか、何をすればいいのか…よく、分からないんだ…。」
口を開きかけたパケトは、泣き出しそうなメフェカトの表情に気がついて、やめた。
叱っても、自分がどうして叱られているのか分からなければ、意味がない。
「まったく。あんたって、本当にただの子猫なのねぇ。」
大きく溜息をついて、彼女は祭壇の端に腰を下ろした。
「まだ何も分かっちゃいない。あーあ、こんなんで本当に大丈夫なのかしら。」
「……。」
「なに、そんな目で見つめないでよね。アタシが悪いことしてるみたいじゃないの。」
パケトは眉を顰めて耳を寝かせる。
「人間って、みんなお父さんとお母さんがいるんだよね?」
「そうよ。当たり前じゃない。」
「じゃあ、神は? 僕には、そういうの、いるの?」
昼間、ネフェルトと話したことを思い出していたのだ。パケトは一瞬口篭もったあと、気まずそうに答えた。
「どうして、そんなこと聞くのよ。いるっていえば、いるのかもしれないけど…会ってみたいの?」
「ううん。別に、そういうんじゃない」
「なら気にしなくていいのよ、そんなこと。あんたは人間じゃないのよ、ちゃんとした、決まった親がいるわけじゃないし、親に育てられるわけでもない。あんたの体は、…その体は、ここの人間たちがもともと住んでいた町から持って来た、神像と同じまがいものよ。」
「まがいもの?」
「今はね。あんたは、元の町の守護神の一部でしかない。尻尾の先みたいなものよ。あんたがあんた自身にならなくちゃ、あんたは、いつか消えてしまうんだから。」
最後のほうは、半ば訴えるような口調だった。そうして欲しい、そうさせるために自分がここにいるんだというようだった。
メフェカトは、考え込むように俯いた。
「分からなくてもいいわよ。あぁ、もう。あんた、知恵の神にでもなるつもり? やめてよね、そんな学者みたいな顔するのは。」
「……。」
「ったく。」
何が気に障ったのか、灰色の猫は騒々しく立ち上がると、ひょいと飛び降りて、窓のほうへ近づいていった。
「どこ行くの?」
「散歩よ、散歩。あんたにばっかり付き合ってらんないわ。いい? 夜の間は外に出ちゃダメよ。迷子になっても知らないからね。」
それだけ言うと、パケトは月夜の窓辺に姿を消した。一人残されたメフェカトは、壁にもたれたまま、ぼんやりと空を見上げる。
人間たちは眠っている。
けれど、人間ではない彼は、眠くならない。それどころか、月に誘われて、昼間より頭が冴えてくる気がする。
「僕って、…何の神なんだろう。」
ふいにそんなことを考えついた。知恵の神…では、ない気がする。かといって、戦うこともあまり向いていなさそうだ。歌ったり踊ったりすることも、絵を描くことも、何かを作ることも知らない。
自分の掌に視線を落とした。
人間と同じ形の手だ。
ネフェルトの、小さな手を大きくしたような形の手だ。
「…あ、…」
思い出すと、昼間と同じ胸の奥がぎゅっと熱くなるような感じを覚えた。
何かが、頭の奥から語りかけようとしているように感じた。
青白く照らされる川辺の町を見下ろす崖の上まで来たとき、パケトは、立ち止まって岩の上を見上げた。
黒い犬が一匹、待っていたように座っている。しかし、その犬は、パケトと同じように影を持たない。この世の存在ではないのだった。
「納得いきません。」
パケトが、ゆっくりと口を開いた。
「どうして、あの者を寄越したのです? ナイル本流から離れているとはいえ、あそこは、紅海と都を繋ぐ道の一端にあります。『生まれたて』のものを配置するとは、少し無謀すぎではありませんか?」
黒犬が静かに答える。
「大神たちの意向だ。新しくつくられる町には、その町とともに発展する神が必要だと考えたのだろう。」
「それにしても、無謀すぎます。あのコは、まだ、戦うことも、敵が何であるかも知らない。守るべきものが何なのかも、分かっていないでしょうに」
「不服なのか? パケト。」
語気を荒げた影をたしなめるように、穏やかな口調で言う。
黒犬は、大神たちと各都市を守る守護神たちとを橋渡しする、道しるべと伝令の神、ウプウアウトと呼ばれていた。
「あの者なら、自分が何をすべきかは、分かっているはずだ。たとえ今は無力な存在であっても、大切なのは『人』を思う気持ちだ。それさえあれば、道を誤ることはない。」
「でも――」
「案ずるな。我々も、遠くから様子を見ている。そなたは、自分の役目を果たすだけでよい」
月の光が、眠りについた谷と人々の暮らす町を照らしながら過ぎてゆく。
「行きたまえ、パケト。あの者には、まだ多くの君の助けが必要だ。」
夜空には星々が満ち、白く、無数にきらめきながら、天の女神の体を彩っている。闇にゆらめく黒犬の姿は消え、あとには、一筋の風だけが残った。