灰色の町の守護者…21


 体は、自然に動いた。
 戦い方を知っていたわけではない。だが、常に自然とともに生きる獣たちにとって、その程度のことは、ごく自然に、生まれたときから身に付けていたものなのかもしれない。
 メフェカトは、町から離れようと谷間を駆けていた。
 月明かりが二つの影を照らし出す。人間には見えない、神と精霊との真の姿を映し出す。視界の端に小さくなって怯える人間たちの町を後に、黒と青と、金と銀とが入り乱れる。
 「どうした…逃げ回ってばかりか」
吐き出す空気と一緒に、蛇が嘲る。尾が崖を打ち、飛び散った毒液が岩を溶かした。このまま時間が経てば、いずれ追い詰められてしまうのは分かっている。
 それでも、メフェカトは、やはり戦えなかった。近くにいるほどに、相手の、激しい怒りの奥にある哀しみが感じられたからだ…。
 とん、と、背中が岩壁に触れる。行き止まり。
 そこは、石切り場の対岸にある、手付かずの切立った灰色の壁だ。
 「終わりだな」
するする、と、目の前に蛇が迫る。口の中に、ちらりと牙が見えた。目にすると体が震える、記憶に染み込んだ恐怖を思い出す。けれど----。
 「消えろ!」
 「…!」
メフェカトは、ぐっと奥歯でこらえてナイフを振りかざした。戦うためではない。それは、守るために。
 口を開き、今まさに彼目掛けて襲いかかろうとしていた蛇は、突然の違和感に動きを止めた。何か、見えないものに阻まれたように、前に進めない。
 「これは…」
金属、黒っぽいナイフの表面が、かすかに振動している。
 「戦うための武器じゃないよ。これは…誰かを傷つけるためのものじゃない…。」
メフェカトのすぐ後ろにある、閉ざされた石の扉に気がついた。
 そう。そこは、単なる切立った崖ではなかった。追い込まれたのではなく、「誘い込まれた」のだ。人間たちが作った、新しい「住処」へと。
 「貴様…。まさか…。」
抗おうと、蛇が身をくねらせる。しかし、メフェカトは引き戻そうとする。蛇はのた打ち回り、四方の見えない壁にぶつかってうめいた。
 「結界だと?! 下級神が、この…」
メフェカトの深い呼吸に合わせるように、石の扉が、ゆっくりと開く。丁寧に聖なる文字の刻み込まれた岩壁の向こうに、心地よく静かな暗がりが続いている。蛇の目がそこに吸いつけられていた。
 「…そうか。我をここに封じ込めるつもりだな? それで終わったと思うのか。愚かな。貴様たちは、何故」
声は、しまいまで聞こえないで途切れた。形作っていた幾多の精霊たちが、散らばって溶けていく。暗くただよっていた体はひとつひとつが小さな輝きとなって、風のように、暗がりの中に吸いこまれてしまった。
 メルカが内側に封印の文字を刻んだ扉が、静かに、ゆっくりと閉ざされる。闇が消えていく。メフェカトの手の中で、金属のナイフが振動するのを止めた。
 その武器は、ただの一度も蛇の体を傷つけることは無かった---そしてこれからも。メフェカトは今ようやく、自分に与えられた力と、自分の持つ力の意味を、知ったのだ。
 ふらふらと地面に座り込んだ彼は、緊張していた息をほぐした。岩は、ぴったりとと閉ざされている。誰かがそこを壊さない限り、中に封じられた精霊たちは出てこられない。だが、それは、いつまで続くだろう…?

 何かが、すぐ側で動いた。
 「やれやれ。やっと、少しは静かになるかしらね。」
そこには、奇妙な存在が、上半身だけで立っていた。
 目は黄色、皺だらけの肌は、薄い緑と茶色。よく見るとそれは、細かな鱗がびっしりと覆っているためだった。ちろりと出した舌は細く、先が長く二つに分かれている。
 目でとらえた奇異な姿に、理性は反射的に身構えようとしたが、体は、動かなかった。
 敵ではない、と、本能が告げている。だが、ざらざらとした声は耳障りで、背中を甞められているような、ぞっとする不快感を伴っていた。
 「よくやったわねえ。あたしたちが金属を嫌いだってこと、どうして知ってたんだい?」
 「金属、が、嫌い…?」
 「知らなかったのかい。人間たちは銅だか鉄だかの楔を使って石を切り出すだろう。わたしたちは、その音が嫌だったのさ。耳ざわりで、体中切り裂かれるような気がする。」
 「あの、あなたは。」
姿は、どことなく人間に近いけれど、気配は自分たちとも人間たちとも、他の生き物たちとも違う。内側からは、さきほどの蛇と同じものを感じるのに、敵意だけが無い。
 当惑したようなメフェカトの表情を見て、鱗の肌をした老女は笑った。
 「ホホホ、精霊って言ってもねえ、色々いるということ。わたしは人間は嫌いだけど、あんたたち”神”も、嫌いってわけじゃぁないのさ。何事にしろ、ドタバタするのは嫌いなのよ。争わずにコトが済めば、それでよし。…信じる?」
敵だとしても…疲れきったメフェカトには、もう、戦う力は残されていない。そのことを知っていて、敢えて挑発しているかのような口ぶりだった。
 ちいさく頷いたメフェカトを見て、老女はざらざらとした声で甲高く笑った。
 「素直な坊やは、大好きさ。アンタみたいな守護者なら、わたしらとも、少しは仲良くやっていけるかもしれないわね。」
月の光が降りてくる。
 「少しだけ、昔話を聞いておくれでないかい?」
老女は静かに、口を開いた。
 「この谷間に、わたしたちが住む理由を。わたしたち、<その名を失いし者>たちのことを。」
 「その名を…?」
 「この谷はね、ずっと昔、今の人間たちが移り住むずっと前にも、町があった。ちっぽけな…だけど、一時は豊かな町だった。名前は”マアディ”。わたしたちが覚えているのは、その名だけさ」
砂まじりの風が、吹き抜けていった。月明かりに浮かび上がる、白い切り立った崖は、ここに今の人々が住む以前から、人為的に切り崩され、岩肌の一部を晒していた。
 「だけど、いつしか人間たちは、町を捨てた。もっと豊かな生活を求めて、大きな河の流れる地方へ行ったんだろう。日干し煉瓦で造られた建物はすべて朽ち、土に戻っていった。人が住んだ跡も、記憶も、最後にわたしらの名を呼んだ人間の声も薄れて、わたしらは、ただの”精霊”になった。…わたしらは、置き去りにされた」
 「守るべき町をなくした、守護者たち…。」
 気がつくと、無数の影が崖の上や、透間に見えていた。
 蛇だけではない。その他の生き物の形もしている。
 サソリや、トカゲや、…その他のものは、よく分からなかったけれど。知らないうちに、多くの精霊たちが、この谷間の出来事を見ていたのだった。人に敵意を持つものも、そうでないものも。
 ここは、人間だけの場所ではないのだ。
 もともと住んでいた、たくさんの存在がいる。人も、神も、むしろ後からやって来て住み着いた新参者に過ぎないのだ…。
 「どうして、その人間たちについていかなかったの? 彼らがここを去ったのなら、守護者である、あなたたちも」
 「わたしらは、この”土地”の守護者さ。そこに人が住んでいようと、いまいと、変わらない。自らが生まれた場所を護り、自らの土地と運命をともにする。…だからこそ、”あれ”は、自らの一部である、この土地が削られ、運ばれてゆくのが許せなかったんだよ」
老女は、ゆるりと首をもたげて、切り立つ岩壁を見やった。中にうごめく激しい怒りの気配は、いまだ納まることを知らない。
 かつて呼ばれた、自らの名すら忘れた、かつての守護者。それは、たとえ一時にせよ、人々の護り手であったはずのもの。
 「…どうすれば、いいんですか?」
 「知れたことさ」
彼女は振り返って、金に輝く目でメフェカトの、青い瞳に射るような視線を投げつけた。
 「”あれ”を、かつての姿に戻せばいい。神は、その名と、人の祈りの声によって神となる。それは、あんた自身がよくわかっているはずさ。」
メフェカトは、
 「わたしらの記憶にあるのは、唯一つの名――。かつて、最初にこの土地に足を踏み入れた人間が声にした、永遠なる名…。」
 「マアディ?」
 「そう」
老女は満足げに微笑み、体をうねらせた。その姿に一瞬だけ、白い女神の姿が重なり…だが、その色は、背景の石灰岩の岩に溶けて、すぐに消えた。
 集まっていた、たくさんの精霊たちの気配が消えていった。

 「そうだ、バステト」

 メフェカトは慌てて立ち上がった。こんなところで呆けて場合ではない。まだ、一つが終わったに過ぎないのだ。
 空も白み始めていた。夜明けが近い。


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