灰色の町の守護者…11


 いちど痩せ始めた月が生まれ変わって再び輝きを増し始める頃、灰色の谷の町にやって来てから二月めに入る頃、季節はゆっくりと変わり、風は涼しさを増しはじめる。
 光の中でぼんやりしていたメフェカトは、ふと、背中に投げかけられる視線に気がついて振り向いた。
 「何?」
 「…別に。あんた、少しはマシになってきたなって思って。」
パケトは、いつものように台座の上に寝そべって、ゆったりと尾を揺らしている。
 「もうすぐ、洪水の季節が終わるわ。石きりの仕事も終わりよ。人間たちは、畑を耕しはじめる。」
 「畑?」
 「そうよ。大いなるナイルが運んだ恵みが黒い土となって川岸に残り、それが穀物を育てる栄養となる。緑の芽生える、再生の季節よ。」
 「再生…。大地が蘇る…。」
 「そ。これで、蛇やなんかの連中も、少しは落ち着くといいけどね。」
大あくびをして、パケトは前脚に顔をうずめた。
 ここのところ、彼女は毎晩のように神殿の外に出かけていた。
 神は疲れない、なんて言うけれど、本当のところ疲れるときは疲れるのだ。メフェカトは、敵を追い払うことは出来ても殺せない。そのかわり、パケトは毎日ように蛇狩りに出かける。ときどき、申し訳なくも思う…でも、パケトは、笑って構わないと言う。
 守る神と、戦う神がいる。
 自分には戦える力はない。でも、だったらどうしてナイフを持っているんだろう。武器があるのに、使えないなんて…。
 うとうとと眠りはじめたパケトをそのままにして、彼は、ひとり神殿を後にした。


 町の日差しは明るい。日干しレンガの建物の谷間はひんやりとして、日向に出ると肌に強い日差しがてりつけてくる。
 今日も子供たちは元気にはしゃぎまわり、大人たちはそれぞれの仕事をする。どこかから、パンを焼く匂い。嫌な気配は全くしない。平和で、のどかで、何も問題のない昼下がり。
 石切り場に行ってみた。
 パケトの言ったとうり、川の水位は少しずつ下がり始めている。水の引いたところには、黒い、やわらかい土が残って、気の早い草の芽がちらほら顔を出している。人間たちの動きも緩慢で、以前のような威勢の良さは、ない。
 「…よーし! ここまでだ。足場を片付けて、道具の点検をしてくれ。」
太い声が飛ぶ。ネフェルトの父親だ。
 汗を拭きながら、あちこちから人々が集まって来る。手にしているのは…杭を打ち込むための木槌、水さし、木の杭、布切れ…。
 「今年のぶんは、これでだいたい終わりだ。ご苦労だったな。」
 「はー。最初の年にしては、けっこう切り出しましたねぇ、大将」
 「そうだな。しかし、これから10年も続くかもしれんぞ、この仕事は。なんたって、大きな墓になりそうだからな。」
横で聞いているメフェカトには、人間たちの話していることはよく分からなかった。
 10年?
 そんなにかけて墓をつくるのか。だったら、その王様という人は、よほど大きな人なのだろうか。それとも、体は人間と同じ大きさなのに墓が大きいだけ?
 「撤収したら、川の水が引くまではしばらく休みだ。それから、水路をつくって来年にそなえる。道具も準備せにゃならん。」
 「再来月には、また100人ほど来るそうだ。町の拡張もしなけりゃあな。」
 「報酬の物資は、いつ届くって? そろそろ穀物が切れそうだ」
人々は、話をしながら去っていく。ひとり、ネフェルトの父親だけが残って、道具類を片付けていた。
 その中に、三角に尖った黒っぽいものがある。
 金属の杭。石を割るときに使うもの。あの夜、蛇に襲われた夜に探していたものだ。

 「…ルサナイ…」
はっ、としてメフェカトは振り返った。
 嫌な気配はしなかった。
 なのに、蛇が…、小さな蛇が、岩の透間からこちらを覗いている。
 「ユルサナイ。我々ノ家…コワシタ…。」
ほんのちっぽけな、小指ほどの蛇だ。人間を襲いたくても出来ないだろう、まだ子供の蛇だった。だが、その強烈な視線に、メフェカトは射すくめられたように動けなかった。
 「人間ナンテ…。オ前ハ、人間ノ味方スル」
 「そうだよ。だって僕は、そのためにここにいるんだ。でも、でも君たちの家を壊すことは、悪いことだと思う。思うけど、人間たちはそれが仕事なんだ」
 「ソウダ…。オ前タチハ、人間ノ味方シテ、我々ヲ殺ス」
 「殺さない!」
側では、ネフェルトの父親が、何も気付かずに道具を片付け、整理している。
 「僕…殺さないよ。殺したくないんだ。でも、どうしていいか分からないんだ! 本当だよ。君たちが怒るのも分かる。でも、人間たちが石を切り出すのもわかる。僕は、人間たちを守らなきゃいけない…。」
いつの間にか、長い尾を持つものの姿はもうそこには無かった。
 それでも彼は、谷全体に聞こえるよう、話しつづけた。
 「分からないんだ、本当に! 戦いたくないんだ。どうすればいい? 殺しあわなきゃならないなんて、嫌だよ! 本当は…」
そうだ。
 「本当は、君たちとだって仲良くしたいんだ…。」
その呟きを、誰かが聞いた。
 誰かが甘いと言い、誰かが無理なことだと笑った。
 けれど、残る誰かはただ沈黙したまま、じっと、この若い神の横顔を見つめた。それは夜風の通る谷間の大地のように冷ややかで、昼の太陽の輝きを知らない洞穴のように暗い表情だった。


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