灰色の町の守護者…10


 風が…吹いた。
 「ごめんね…、ごめんね…。」
耳元で幾度も繰り返される幼い少女の声。
 「ごめんね。ほんとに、ごめんね…。」
泣きじゃくる声が揺れながら、遠ざかり、近づき、波のように体を包み込む。顔を濡らす熱い水は、多分…涙なのだ。
 慰めたくて、手を伸ばしたいのに、伸ばせない。体が動かない…麻痺した思考の中で、泣かないで、泣かないでという思いだけが何度も繰り返す。
 涙を止めてあげたい。
 どうして泣いているのか分からない。謝っているのは、自分に対してなんだろうか。怒ってなんかいない。泣かれると、自分も悲しくなってしまうから、泣かないで。
 「ごめん…ごめんね。メセス…メセス」
 (…? メセス…、僕のこと…?)

 「ちょっと、メフェカト!」
うつらうつらと眠りの中にいたメフェカトは、パケトの尻尾にはたかれて、一気に覚醒した。
 「え…あ、あれ?」
 「なに寝惚けてんのよ。起きた? わかるわね?」
 「えっ、分かる…って…。」
あたりを見回したメフェカトは、ぎょっとした。
 神像の前に、いつのまにか沢山のお供えがされている。いつもより人の気配が多い。
 「何でも、危ないところを神様が守ってくださったそうな」
 「闇の中で、青い目が光っていなさったとか。」
 「…え?」
 「あんたのことよ。昨日、人間を助けたでしょ。そのことがウワサになってんの。」
心なしか、パケトは自分のことでもないのに、やけに得意そうだった。尻尾をゆったりと振って、人間たちの拝礼するのを楽しそうに眺めている。
 「そんな、僕、大したこともしてないのに…。」
 「いいじゃないのよ。感謝されるのは嬉しいでしょ。」
 「……。」
 「あんたが、あんた個人として認識されなければ、あんたはいつかは消えてしまうのよ。まさか忘れたわけじゃないでしょうね。」
 「うん…。」
昨日の、分かったような気持ちが一気に萎んでしまった。
 感謝なんてされても、うろたえてしまうだけだ。でも、そうしないと、ここにはいられない…。
 「さて、と。あんた、ここはいいから遊びに行ってらっしゃいよ」
 「え? でも」
 「言ったでしょ。あんたは遊ぶのも仕事のうちよ。こんなとこで2人でジッとしてたってしょうがないじゃない。ほら、とっとと行った行った。」
追い払われるようにして、メフェカトはおもてに追い出された。人間たちが集まっているけれど、誰も彼には気がつかない。
 『見えないし、声も聞こえない』
それが当たり前なのだ。触れることも… あの、温かい涙のように…
 「あ!」
ぼんやり歩いていただけなのに、ネフェルトは目ざとく彼を見つけて駆け寄ってくる。小さな町だ。子供たちの遊び場も限られている。
 自分が人とは違う存在なのだという思いを、一瞬にして拭い去ってしまう。
 幼い少女の手が触れる。それは、温かい。夢でもなんでもなくて、現実として、今、そこにある。
 「…お父さん、ゆうべ、あそこで何してたの?」
 「え?」
ネフェルトは一瞬、きょとんとした目になり、それから---メフェカトを見上げる。
 「なんでしってるの? お父さんが行ってた、青い目のひとって、やっぱりメフェカトなの?」
 「……。うん…。」
 「お父さんは、そのひとは神様だって言ってたよ。」
 「うん…。」
 「メフェカトは、神様なの?」
問い詰められているような気がして、思わず口を閉ざしてしまう。それをはっきりと言ってしまったら、もう、子供たちとは遊べないような気がして。
 「ふうん…。そうなんだ…。じゃあ、えらいんだね。」
 「ううん、そんなことない! 僕、まだ生まれたばっかりだから」
 「生まれたばっかり?」
 「そうなんだ。僕、この町に来るまで何も無かったんだ、あ、あったのかもしれないけど、その…。何も覚えてない」
 「神様なのに?」
 「そうだよ。神様だって、生まれてすぐは、何も知らないんだよ。人間と一緒さ、人間だって、赤ん坊は何も知らない…」
自分でも、何を言っているのかよく分からなかった。
 けれど、ネフェルトの黒い瞳はじっと彼を見つめている。迷いなき眼差しを向ける。
 「じゃあ、メフェカトは、神様だけどあたしより子供なの?」
 「…うん、そう、かな…。そうかもしれない。よく分からないけど…。」
そう、よく分からない。人と同じに思えるのに、神と人とがどう違うのか、メフェカトには、うまく説明することが出来なかった。
 「他の人には、見えないんだ。僕。触ることも、話し掛けることも出来ない。…どうしてかな、ネフェルトだけは出来たんだ。だから…ネフェルトのお父さんも、僕のこと、分からないよね…。」
 「うん、でもお父さんね、神様に会ったってことはちゃんと覚えてたよ。毒のある蛇に襲われそうになったの、助けてくれたって。ありがとうね。」
言って、少女は笑った。
 たくさんの人間に感謝されて、たくさんのお供えを貰うより、その笑顔が何よりも嬉しかった。他の誰の笑顔よりも。

 『…泣かないで。笑っていて…。』

 誰かに伝えたくて、伝えられなかったその思い。
 「そうだ、お父さんは?」
 「うん、おしごと。ゆうべね、おしごとの道具を忘れてきたから、探しに行ってたの。」
 「そっか。…お仕事か」
メフェカトは、石切り場のほうに目をやった。
 白い岸壁に簡単な足場が組まれ、石きりの音が谷間に甲高く響く。
 灰色の岩に木のくさびを打ち込み、水をかけて木を膨らまし、その勢いで石を割る。割った石は形を整えられ、船に乗せて川下へと運ばれる…。
 その石で墓をつくるのだ、とパケトは言っていた。
 人間たちの王のために、大きな墓を。
 「王様って、どんな人なんだろう…。」
 「おうさま?」
 「ネフェルトのお父さんたちが切り出した石は、王様のお墓になるんだろ。その王様って、どんな人なんだろうって思って。」
 「神様でも会ったことないの? あえないの?」
 「うん…。僕、この町の外のこと、何も知らないんだ。」
ネフェルトは、首をかしげた。
 「あのねえ、王様はねえ、おおきな家<ペル・アア>に住んでいて、えらい人で、軍隊を持ってるんだって。都にいるのよ。」
 「都?」
 「そう。おーーーっきな町。あたしも行ったことないの。この町の、なんびゃくばいも大きくて、ものすごく高い壁があって…。」
ネフェルトの語る”王様”というのは、ずいぶん立派で、エライ人のようだった。神ではないのに、神のような、不思議な人間のことらしかった。
 その人間に命じられて、この灰色の谷の町に住む人々は、石を切り出している。
 でも、そのため、谷に住む蛇たちは住処を追われて人間を恨んでいる……。
 「どうしたの、メフェカト。すごくむずかしい顔してるよ。」
 「え、そう?」
気がつかないうちに、考え込んでいたようだった。この幼い少女に尋ねても、きっと分かるまい。どうして、人を襲うような存在がいるのか、なんて。
 遠くで、誰かがネフェルトの名前を呼んでいる。
 「あ、あたし、行かなきゃ」
 「うん。それじゃ」
かけていく少女を出迎えるのは、以前も見かけたことのある年配の女性だ。ふくよかで柔らかい顔立ちは、どこかネフェルトにも似ている。彼女の言っていた、「叔母さん」なのかもしれない。少女の母親は、ずっと前に亡くなったはずなのだから。
 …人は、死んでしまう。死んで、いなくなる。だから墓をつくる。
 死んだらどこに行くのだろう。神は、人と同じように死ぬことがあるのだろうか?
 そんなことさえ、ついさっきまでは考えたことも無かった。

 『死なないで…メセス…』

 メセス、それは、誰の名前なのだろう。呼んでいたのは、一体誰だったのだろう?


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