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最終章 ― 伝説と明日



 一年の間に、<アスガルド>はめまぐるしく変わった。

 海へと崩落した大地は、完全に海には沈まず、以前の高さの半分ほどの高さのなだらかな
大地となって、西の海<エンド・ブルー>に大きく突き出す半島となっていた。高地地方<ハイランド>との間にあった亀裂は、そのまま断崖絶壁として残された。地下に向かって穿たれた穴は、地下水が染み出して、浅い池になっていた。火事で焼けた大地には新たな緑が芽生え、草がそよいでいる。
 しかしそれはもう、以前の<アスガルド>のものではない。<大樹>は跡形も無く消え、<黄金のチェス亭>のあった場所も、他の遺跡も、過去を思わせる痕跡のすべてが大地の底に消えた。世界は生まれ変わり、今はじめて人の前に姿を見せる、処女地となったのだ。


 フランシェーロの町をはじめ損傷の激しかった周囲の町にも人が戻り始め、今では、人々にとって、ごく当たり前の日常が戻りつつある。ただ以前と少しばかり異なっているのは、以前は居なかった奇妙な生き物が、生活のそこかしこに住み着いていることだった。
 <アスガルド>が崩壊する前に逃げ出してきた生き物たちは、国中のいたるところに住み着いた。群れなすワームや不気味な夜目ツバメ、色鮮やかな蝶に花。おぞましいものも、美しいものも。オルガムやニーズヘッグのような危険な存在も相変わらずその辺にいたが、以前ほどの凶暴さは見せなかった。政府は根絶を断念し、それらとの共生の道を模索しつつある。あれほど恐れられたオルガムについても、政府は<黄金のチェス亭>で暮らしていた人々のアドバイスを呑んで、街灯の色を変えるという方法で対処することになった。なんのことはない、オルガムは、白い光を嫌うのだ。どうやらそれが、かの生き物にとっての挑発色であるらしい。恐ろしく奇怪な生き物は、淡いオレンジ色に輝くガス灯には、もはや何の興味も示さず、その外見と神出鬼没の生態以外に、恐れるものは何も無かった。


 <アスガルド>の大変化のあと、首相は浅い読みで国民や兵士たちを危険に晒したとして責任を問われ、支持率を大きく下げたが、その後の方向転換により何とか政権を保っている。裏でハリスの助言があったことは間違いない。<黄金のチェス亭>から引き上げた学者や、著名人たちの一部は、政府の作る特別対策室の一員となり、そこからの意見も大きく取り上げられるようになっていた。彼らの強い要望により、新しく生まれ変わった<アスガルド>は、今後、国立自然公園として保護されることになるはずだった。まもなく、第一陣の調査隊が送られ、今後は最低限の道や、宿などの施設が建設されていくことという。
 その用地を選定するための先遣隊には、<黄金のチェス亭>に暮らしていた人々も参加していた。彼らは海にほど近い、真新しい草の生い茂る草原で、黄金のチェスの駒をひとつ見つけた。盤と仲間たちを失い、もはや生きた魔力を失った、それは女王の駒であった。やがてそこには新たな<黄金のチェス亭>が建つだろう。


 スコルたち人狼の一族は、今も<アスガルド>に住んでいる。伝説上の一族が実在すると知らされた時は世間に大層な驚きが走ったが、それもすぐにおさまっていった。一夜にして起きた<アスガルド>の大変化と、そこから現れたほかの奇妙な生き物たちを見慣れるにつれ、人間の姿をしているだけ普通だと思うようになっていった。はるかな過去から来た彼らは、新たな住民として認められていた。
 かつての首都ミッドガルドにも、新たな住民があらわれた。小人たちは白昼に姿を現し、闊歩するようになっていた。彼らの言葉は難解で、小人たちはひどく気まぐれだったが、人間と敵対するつもりはないようだった。手先の器用な小人たちは、角砂糖のひとつか二つで大喜びで繕い物や修繕をやってくれるので、むしろ町の人たちにとって好ましい隣人となりつつあった。


 ――ミッドガルドでは、折れた塔は再建されなかった。首都機能は第二首都ギムレイに移り、今後はミッドガルド中央大学を中心とした学術都市になる予定だ。今は町の区画整理が進められている。ヨルムは、仮に建てられた研究室の窓からそれを眺めて暮らしている。大学の敷地内の半分は燃えてしまったが、もう半分は幸いにしてほとんど無傷だった。その中に、大図書館が含まれていたのは、ヨルムにとって喜ばしいことだった。
 季節は巡り、再び夏が訪れていた。
 お化けキノコに巻きこまれたギュンターは、命に別状はなかったものの精神に異常を来たし、キノコ恐怖症から大学を去っていた。何しろ今では、雨が降るたびに大学構内に色かたち様々なキノコが生えるのだ。巨大なものから、豆粒ほどのものまで。小人たちがよく歌っているのを彼は知っていた。食べたり、何かに利用するためにそうしているのかと最初は思っていたが、半分くらいは、ただ面白がっているだけなのだ。小人とはそうした種族らしい。本人の望むと望まざるとに関わらず、今や国で唯一の「アールヴ学者」と位置づけられてしまったヨルムは、ため息交じりにそう結論した。やるべきことは、沢山あった。祖父の残したノートのまとめ、<アスガルド>の失われた遺跡と、再現できる限りの過去の伝承の記録。――それらは全て、もう戻ってこない、失われた”過去”だ。イザベルは、もっと未来を見るように彼に言った。だが、過去が無ければ未来もない。今、こうしていることが、明日に繋がっているのだと… ヨルムは、そう思うことにしていた。
 「ヨルム先生!」
部屋の入り口でどさっと音がして、学生が顔を覗かせた。
 「言われてた資料! 持ってきましたよ」
 「そこにおいといてくれ」
 「あと、お客さんです」
 「それもそこに… 客?」
顔を上げると、入り口に、にこやかな笑顔でひらひらと手を振るハリスがいる。長かった髪は切り、ぴったりとした上品なスーツにネクタイまで締めて、学生だった頃の面影は、殆ど無い。
 「やあ、ヨルム先生。お忙しそうですね」
 「やめてくれ。…その呼び方は、まだ慣れないんだ」
 「いいじゃないか。歴史あるミッドガルド中央大学、史上最年少の教員。それも<アスガルド>の異変を見抜き、この国を救った英雄の一人となれば、誰も文句は言わないさ」
 「英雄ねえ。」ヨルムは、皮肉めいた笑みを浮かべた。「…世間を納得させるためのデッチ上げに利用されただけだろ」
 「何かと理由をつけないと、世の中は満足しないんでね。君の姉さんの力や、<黄金のチェス亭>の秘密なんて、本当のことを説明したって誰も信じないよ」
そう言って、彼は雑多なものが詰まれたままになっているヨルムの研究室の中を見渡した。
 ハリスは、大学を卒業後、父のもとに戻り、秘書として経験を積んでいる。家系柄、いずれは父の後を継いで政治家への道を歩むのだろう。今ですら、政界には彼に一目置く仲間がいるという。彼もいずれ時が来れば、この国の代表となるべく、多くの支持者を引き連れて、しかるべき舞台に立つのだろう。
 「そう、英雄といえば、彼はどうしてる? ローグ」
 「さあ。」
 「さあ、って。」
 「あっちはあっちで、適当にやるんじゃないか。姉さんなら、自分のことはよく分かってるだろうし。」
ハリスは肩をすくめたが、何も言わなかった。
 今や、ローグも英雄扱いだった。ただし、ヨルムとは違う意味で。


 <アスガルド>が生まれ変わった後、渋るローグを無理やり連れ帰ったのはユーフェミアだった。<アスガルド>はもう、人が隠れて暮らせる場所では無かったし、彼の首にかけられた賞金は、まだ有効だったからだ。クレイントンの森なら、司法の手はそう簡単に伸びてこない。ユーフェミアは、ローグを森に匿うつもりだった。
 幕切れはあっけなく訪れた。
 首相は自ら記者の前で、<アスガルド>の生き物に襲われて負傷した夜のことを語ったのだ。そこで命を助けてくれた恩人がいたこと、その恩により、ローグ・フラウムベルグにかけられた賞金と罪状を首相命令により取り消して、過去の罪に対する賠償は自ら肩代わりする、と。
 ローグはひどく嫌がり、そして呆れていた。
 「これじゃ、首に賞金かけられるより恥ずかしいじゃないか。生き恥だ!」
 「明日から、道を歩けばねだられるのは命じゃなくてサインね。」
と、ユーフェミア。「良かったじゃない。また肩書きが増えるわよ。十年逃げ切って首相の命を救った賞金首! 百年後にはサガになって歌われるわ。」
 「勘弁してくれ…」
そんなわけで、注目を集めること、人に構われることが何より苦手なローグは、それからずっと森の館に閉じ困ったきりなのだった。
 もっとも、閉じこもりきりといっても、そう窮屈な暮らしではなかった。
 森はどこか<アスガルド>に似て、静かで、浮世離れしていて、森の周囲に広がる広大な荘園や村も、彼が誰であろうと、館の客人であること以上は何も詮索はしなかった。
 お尋ね者となり、放浪の旅を始めてから、はじめて手に入れた平安だった。もはや剣の時代は過ぎ去ろうとしている。その足元に、黒い女神の姿は無かった。


 ルベットは、ミッドガルド中央大学の客員教授に、と強く請われたものの固辞し、今は<アスガルド>に近い、復興中のキースという小さな町で執筆活動に勤しんでいる。植物学の論文ではなく、半世紀に渡る<黄金のチェス亭>での暮らしと、そこでの出来事をまとめた半ば自伝のような物語の本だ。その本は完成すれば膨大な量になるだろう。それを完成させることが、自分のさいごの役目なのだと彼は言った。
 全てが終わったあと、ルベットは、近頃はめっきり老け込んで見えた。しじゅう咳をして、背中を丸めて暮らしている。きっとイザベルの入れてくれるブランデー入りの紅茶が無いからだろう、と愚痴っては、様子を見に来たフェンリスを困らせている。
 フェンリスは、スコルの一族とともに<アスガルド>で暮らしながら、そこでのめまぐるしい変化を定期的に連絡して寄越した。知らせは政府調査室に、ミッドガルド中央大学にいるヨルムのもとに、それから、クレイントンの森のユーフェミアのもとにも届けられている。<アスガルド>には、かつてロードゥルの館があったと思しき辺りに最初の小さな村が作られていた。新しい歴史は、そこから始まる。やがてその場所で新たな命がこの世に生まれ、また別の命がこの世を去るだろう。


 ユーフェミアは、館の二階にある自分の部屋で、手帳を開いている。
 かつて<黄金のチェス亭>で働いていたころ、意味もわからず言葉の断片をびっしりと書き込んだ手帳だ。あの頃は、まだ自分の力がよく分からずに、ただ次から次へと浮かんでくる言葉を、消えないうちにとひたすら書きとめていた。マーサはあそこに眠っていて、色々なことを教えてくれていたのに、気がついたのは後になってからだった。
 でも、そんなものだ。
 未来は訪れてみなければ形が分からない。どんなに目を凝らしても、見える未来は断片だけ、それも大抵の場合は。ほんの些細な切っ掛けで変わる。
 誰しも、時が過ぎ去ってから、過去の選択に、その意味に気づくことになる。
 今日は誰かの見た未来、今日は明日の自分が知る昨日。過去は現在<いま>につながり、現在は、明日に繋がる。今までも、そしてこれからも。時は繋がっていく。

 人の命の続く限り――。



Fin.


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