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<終焉の時>


 マーサの亡霊が消えたとき、かたん、と音がした。
 暗がりの中から、もう一つの白い影が姿を現す。ただし、こちらは亡霊ではなく、実体を伴って。ハロルドが掲げたランプの光に、首につけた金のトルクが光る。
 「ようやく集まったわね。」
 「イザベル…さん」
イザベルは、ユーフェミアにむかって笑いかける。「一年ぶりね。今年もまた、夏が来た」
 誰も言葉を発しない。宿の女主人、イザベルは、ゆっくりと水盤に近づいていき、壁から突き出した管を見上げる。
 「ここはねえ。ずっと昔、<大樹>から樹液を搾り取って、<蜜酒>と呼ばれる秘薬を作っていた場所なのよ。<大樹>はそのせいで弱り、根から枯れていった。”神々”が不老不死になったその日から、<アスガルド>の終焉は決められていたこと。たとえ<蜜酒>を巡る争いが起きなくても、いずれこの土地は見捨てられていた」
 「時を進めましょう、イザベル」
ユーフェミアは、マーサの墓を離れ、イザベルに一歩、近づいた。
 「私たちは様々な過去を見て来た。すべての過去は現在<いま>に繋がり、現在はその先へ繋がる出口を見つけた。」
右腕を差し出す。その腕に、クレイントンの森と館と記憶を受け継ぐ者の証である重たい腕輪が揺れる。
 イザベルは微笑んだ。
 「フリッカの記憶を受け継いだのね」
 「金の盃はどこに?」
イザベルはポケットからするりと、取っ手のない小さな盃を取り出した。ロードゥルの館や、王たちの玉座で見たのとよく似た、そして<協議の間>の天井に掘り込まれているものと同じ、古風な装飾が飾っている。
 「ハロルド」
大男はランプを足元に置くと、盃を両手で受け取った。
 「ナイフを。」
ハロルドに言われて、フェンリスは、ちょっと迷いながら、ここまで握り締めてきたナイフをイザベルが差し出した手に載せた。イザベルは、そのナイフを自分の手首に当てると、ぐっと押し付けた。すぐさま赤い血が滲み出し、雫となって器の中に滴り落ちる。
 「”黄金の盃が契りを結び、黄金の腕輪は記憶する。”」
イザベルが差し出したナイフを、ユーフェミアが受け取り、同じようにする。血は器の中に落ち、イザベルのものと交じり合った。リィムが声をあげ、何かを歌い始めた。ヨルムは、はっとして呟く。
 「”小人は歌い、巨人は唸る。異界の王よ、鍵をとれ。”」
リィムは、ぴょんとハロルドの腕に飛び乗り、腰から針の剣を抜いて、自分の小さな掌を突き刺した。雫が器の端を伝って、奥に落ちていく。最後にハロルドが、黄金の盃をイザベルに戻しながら、自分の指を傷つけ、その血を混ぜた。
 「これで揃った。エーシル、ヴァニール、アールヴ、ヨートゥン。――最初に大地を切り開きし、始まりの四つの種族の血が」
 「ヨートゥン?」
ルベットは、驚いた顔でハロルドを見た。
 「…そうだ。わしは、この土地で生まれた最後の巨人族の末裔」ぼそぼそと、大男は呟いた。「仲間はもう、誰もいない。地下世界に暮らし、くまなく歩き回ったが… 他には誰も、生き残っていなかった」
 「お前さんが、地下を旅しておったのは、そういうわけか…」
 「神々の世は去り、人は地に残される。」
イザベルは歌うように言いながら、盃を部屋の中心に置いた。それは今や、ハロルドが足元に置いたランプの弱々しい光など凌駕するほどに、白く、眩く、輝き始めていた。
 「大地の契約は解放される。王たちが定めし法は全て消えた。民は王に仕えることなく、騎士は主人を守ることなく、小人は夜の世界に生きることなく、巨人は地下に住まわずともよい。罪人は牢より解き放たれ、地に縛られし死者の魂は天へと還る。――この世界は海へと沈むだろう。」
言葉に呼応するかのように、部屋全体が揺れ始めていた。イザベルはナイフをフェンリスに返し、微笑んだ。
 「これで、あの子たちも自由になる。代わりに伝えておいてね。長い間、ごめんなさい、と…」
 「代わりなんて。イザベルさんが言えばいいんだよ、自分で」
宿の女主人は、ゆるゆると首を振った。
 「あたしは、行けない」
 「どうして?!」
答えずに、イザベルはルベットに視線をやった。
 「ルベット、長いこと宿を盛り上げてくれて、本当にありがとう。あんたがいてくれたお陰で、随分助かったわ」
 「…連中に、何て言えばいい。奴らめ、懲りずにまたここへ戻ってくるつもりだぞ。」
イザベルは笑った。
 「新しい<黄金のチェス亭>ね。それもいい」
落下してきた石の塊が、ハロルドの足元のランプを押しつぶす。天井に亀裂が入り始めていた。ぐずぐずしていたら、ぺちゃんこになってしまうだろう。
 「ヨルム」
熊野道の女主人は、何か言いたげな黒髪の少年のほうに、視線を移した。その眼差しは、あの、白い広間で見た少女のものと重なる。
 「過去なんて、掘り返してもそれ単体じゃ意味はないんだよ。あんたは、もう少し未来にも目を向けたほうがいいよ。シグルズにも言ったことさ」
 「――覚えておく」
小人が何か叫んで、ヨルムの袖口を引っ張った。もう行かなくては。脱出する時間が無い。
 「ユーフェミア!」
イザベルは、明るい声で叫んだ。「ここから先は… あんたたちが!」
 地面が割れた。振り返った時、ユーフェミアの目に映ったのは、宙に浮かんで輝き続ける黄金の盃と、崩れ落ちる<大樹>の根の中に消えていく、イザベルとハロルドの姿だった。



 「ようやく、償いが済んだ、というわけだ」
落ちてくる瓦礫も気にせずに、ハロルドは地面にどっかと胡坐をかいて座っていた。
 「行かなくて、よかったのかい?」
 「…わしは、旧世界の生き物だ。ここ以外では生きられん。あんた同様にな」
 「ふふ、そうかい。」
笑って、イザベルも隣に腰を下ろした。金の盃の発する光は、もうほとんど見えない。
 宿の女主人は、スカートのポケットから何か四角いものを取り出して、ハロルドに見せた。それが何なのかは、ほとんど明かりのない暗がりの中でもはっきりと分かる。
 その写真を撮った日のことは、昨日のことのように思い出せた。ほんの五十年。わずか五十年前。過ぎてきた月日の、その長さに比べれば、ごくごく最近の出来事だった。
 「―― 長かったな」
 「そうだねえ。でも、待った甲斐はあったさ。あたしにはマーサがいて、あんたはシグルズと出会った」
 「ほかにも、面白い連中はいたさ、沢山」
 「そうだったね」
 「…楽しかったか?」
 「そりゃあね。人として生きて、このまま死ねたらどんなにいいか…って、何度も思ったもんさ」
 「フリッカや、マーサのようにか」
 「そうだね」
 「あの連中は、間違いなくそうするだろう。」
 「羨ましいよ。あたしには出来なかったこと。そうね。ユーフェミア、あの子なら大丈夫。あの子なら、あたしのように、力の使い方を間違ったりはしない。未来を望みどおりにしようとして、時の輪を歪めてしまうなんてことは――。」
静かに闇が降り注ぎ、光と音を消していく。



 ――そして間もなく、世界は静寂に包まれた。



 宿の入り口に飛び出すのと、狼たちが飛び込んでくるのは同時だった。
 「スコーネル、スコーティ!」
 (フェンリス!)
 (ああ、良かった。もう、すぐそこまで火が。早く逃げないと間に合いませんよ)
宿は半分崩れかけ、その庭先まで炎の舌が迫っていた。垣根がパチパチと音をたて、立ち上る煙が、薄れ始めた夜の濃紺を灰色に染めている。<大樹>の表面には根元から残された幹のてっぺんに至る大きなひびが入り、今にも割れてしまいそうに見える。
 「―― <アスガルド>が崩れる」
ヨルムは、呆然と呟いて足元の大地に走るひび割れを見つめた。「<大樹>の死とともにそうなる運命だったんだな。時が戻って、遅れていた崩壊の時が今ようやく、現在に届いた」
 「皆、こっちだ!」
ハリスは先を走っている。「ここから脱出するぞ!」
 「え、何?」
 「飛行機械だよ、わしらはそれでここまで来たんだ」
と、ルベット。「帰りも乗るのは、気がすすまんが…」
 フェンリスの表情が翳った。
 「それって、何人乗り?」
 「何人…とは」
 「定員オーバーじゃないかな。きっと」
 「皆は先に行って」
振り返ると、ユーフェミアはまだ、宿の入り口に立っていた。「私はまだ、やることがあるの」
 「やることって。姉さん」
 「ここまでじゃないわ。まだ、終りじゃない」
彼女は、崩れ落ちようとしている<大樹>を見上げた。「運命の振り子は、まだ揺れるのをやめない。最後に一つだけ。それで未来は決まる」
腕輪が光った。ヨルムは頷く。
 「…分かった。それが姉さんの役目なら」
 「じゃあ、僕らも…」
 「俺たちは行くんだ、フェンリス」
 「でも!」
ユーフェミアは、微笑んで弟たちに先に行くよう手で促した。ヨルムは、渋るフェンリスの肩を押して歩き出した。ローグの姿が、まだ見えないことには気づいていた。
 飛行機の運転席には、既にハリスが乗り込んでエンジンをかけようと試みていた。
 「煤にだいぶやられてる。飛ぶのは無理かもしれないが、とりあえず道を走ることは出来そうだ」
「僕は走っていく。スコーティたちと一緒に」
フェンリスが言った。
 「逃げられるよ、狼の足なら」
 「…フェンリス」
 「大丈夫、戻ったりしないよ。姉さんが行けっていったんだし。…」
少年は、言葉を詰まらせた。涙が零れそうなのを、必死で我慢している。少なくとも、もう会えない人がいる。全員で再会する日は、ニ度とこないのだ。
 ヨルムは、弟のくしゃくしゃの赤毛に手をやり、幼い頃によくそうしたように、軽くこづいた。
 「町で待ってる。必ず追いつけ」
 「うん」
飛行機のエンジン音が響き渡る。ハリスが、うまく起動に成功したらしい。席には、ルベットと小人のリィムが先に乗り込んでいる。ヨルムも乗り込み、ドアを閉めた。
 ひびわれた大地を滑走路代わりに、煤でところどころ黒くなった飛行機は、その翼をきらめかせ、よろめきながら舞い上がる。後ろのほうの地上には、狼に姿を変えたフェンリスが、他の狼たちと一緒に走っているのが見えた。そして、その後ろには、燃え尽きた黒に、赤々とした炎がヒビを彩る大地が広がっていた。
 月は白く最後の輝きを放ち、東の空は明るくなりだしている。灰色に傾いた<大樹>は光から逃れるかのように、西の海へ折れた梢を差し伸べる。
 だが、風景を感傷的に眺めている余裕はなかった。
 がくん、がくんと機体が揺れた。
 「どうした?!」
 「まずい、エンジンが止まりそうだ」
 「落ちる!」
ルベットが悲鳴を上げた。大地が迫ってくる。
 「機首上げろ、ハリス!」
 「くそ…っ、上がれっ」
その時、リィムが歌いだした。聞き取りにくい、あの早口の古典語で。歌声は空気を震わせ、奇妙な反響を生んだ。地面が迫ってくる。その地面が白く変色していく。
 「駄目だ! みんな、つかま…」
激突するかに思われた瞬間、窓の外が真っ白になった。
 ぼすっ、という柔らかな音とともに、機体はマシュマロのようなものの中に包まれた。何度かジャンプして、地面にめり込むようにして止まる。ヨルムは頭を振り、ずりおちた眼鏡を直してベルトを外した。なんとか、生きている。しかしどうやって助かったのか――
 変形したドアは、白いものに押し付けられて、なかなか開かなかった。力任せにひっぱると、その弾みで窓が落ちた。何かもこもこしたキノコのようなものが、機体を包み込んで受け止めているのだ。
 いや。
 キノコそのものだ。ヨルムは気づいた。あの、研究室の地下に繁殖していたものと同じ。
 「…まさか、お前」
ヨルムは、自分の服にしがみついてぶらさがっているリィムに目をやった。小人は目を回していたが、口元だけはニィッと笑っている。なるほど。犯人は、彼らアールヴだったというわけだ。辺りには、摩擦熱で焼け焦げたキノコの香ばしい匂いが漂っている。
 そこは、フランシェーロの町の入り口だった。
 放棄された見張り台、そこかしこに爆撃の跡、放置された車に、転がったままのワームの死体。戦場跡だ。
 振り返ると、森の彼方にかすかに灰色に霞む<大樹>の姿が見えた。
 「…姉さん、フェンリス」
呟いて、ヨルムは白い息を吐いた。夜明けの時が近い。


 ローグは闇の中にいた。
 気がついた時には周囲には何も見えず、もはや昇っているのか下っているのかも分からない。だいぶ前から、地鳴りの音も消えていた。ここは、どこだ。確かに、地上へ出る狭い階段を駆け上っていたはずなのに。
 先を走っていたはずのルベットたちの後姿は見えない。すぐ後ろにいたはずのユーフェミアの気配も感じ取れなかった。
 彼は足を止めようとした。
 と、何か生暖かいものが足に触れ、後ろから突き上げてくる。多分、カーラだろう。
 「…止まるな、ってことか?」
呟いて、彼は片足を踏み出す。いやに重い。手を突き出すが、壁の感触がない。どうなっているのだろう。あと、どのくらい歩けば?
 このまま、立ち止まってしまってもいい。どのみち、地上に戻ったところで行く当てなどないのだ。<アスガルド>がなくなってしまう。少なくとも、元の<アスガルド>ではなくなる。そうなれば、生きていける場所は―― 賞金首のお尋ね者で、時代遅れの剣に頼るしかない乱暴者が、残された世界に居場所など…。

 ”お前は、わしのようになるな。”

はっとした。これは…ハロルドの言葉だ。

 ”お前はまだ、独りではない”

脳裏に蘇ってくる。それと同時にもう一つの声が。

 (こっちよ)

すぐ側で、聞こえた気がした。
 「…ユーフェミア?」
足が軽くなった気がした。
 (あなたには、まだ―― やるべきことがある)
うっすらとした光が行く手に見えている。ローグは力を振り絞り、最後の数歩を走った。
 そこは、<黄金のチェス亭>の中ではなかった。大地に空いた穴、振り返ると周囲には何も無かった。宿のあった跡さえ、何も。人が、一人だけ立っていた。見覚えのある腕輪と、くすんだ長い赤い髪。背の高い――、
 「やっと来た」
ユーフェミアは、笑って手を差し出した。その手を掴みながら、ローグも笑う。
 「…よう、お前一人か?」
 「皆は先に行った。私はまだ、ここで見届けるべきものがあるから」
穴から這い出した時、足元に、何かが舞い降りてきた。灰ではない。手を差し出すと、それは、掌の熱に触れてすぐに消えてしまった。
 「雪?」
灰色の空から次々と舞い降りてくる、それは確かに雪だった。今は夏だったはずなのに。それに、火も消えている。空は灰色に曇り、辺りは瞬く間に真っ白に染まった。本当なら凍えるほど寒いはずなのに、何も感じない。幻なのだろうか。
 「…暗がりの中で、あんたの声が聞こえた」
ローグは、雪を見上げているユーフェミアに言った。「何故、分かった。俺が、あの時迷っているって」
 「そんな気がしたから。もしかして、自分には戻る場所がないとか、待ってる人がいないとか、そんなことを考えるんじゃないか、って」
見透かされた気がした。
 多分、ハロルドも分かっていたのだ。巨人族の最後の生き残りとして、孤独に生き、絶望を知った男は、自ら孤独になろうとしていた男に、自分と同じ道を歩んでは貰いたくなかった。
 「見て」
ユーフェミアは、傾いた<大樹>を見上げた。乾いた軋み音を立てて、幹が割れていく。半分は、海へ雪崩落ちる。もう半分は、その場にゆっくりと沈んでいく。長年のうちに梢の上に積もった土は、そこに生えた樹や草もろとも落下する。
 「<アスガルド>の最期か。」
ユーフェミアは頷いて、目を閉じ、静かに言葉をつむぎだした。



 あなたは滅びの時をお知りになりたい
 やがて来る死の運命を


 世界の柱は崩れ落ち
 大地は炎に包まれる
 
 海は泡立ち、大地は沈む
 王たちは 法のくびきを解き放ち
 過ぎ去りし時は 霧の彼方


 ―― されど、人はまた舞い戻る


 やがて緑の大地が浮かび上がり
 鷲は空を飛ぶだろう
 神々の滅び去ったのちに
 世界は巡る環の中で
 新たな光に照らされる


目を開くと、ユーフェミアは、満足したように笑みを浮かべた。
 「未来は、書き換えられたわ」
 「書き換えられた?」
 「ええ、そう。<アスガルド>は滅びない。<大樹>の死と共に人の住まない荒野になるはずだったこの土地を、決して見捨てない人たちが今はいる。私は知っている。イザベルのしたことは、無駄じゃなかったわ…」
ぱっ、と頭上が輝いた。雪が消えてゆき、切れた雲の合間から、淡く緑色に輝く帯が踊りながら姿を現した。
 「オーロラだ」
ローグが声を上げる。「冬の<アスガルド>でも滅多に見られないのに…」
世界を包み込むように、その光は色を変えながら空一杯に広がっていき、やがて光の中に消えた。太陽が昇る。間もなく、夜明けだ。ユーフェミアは腕輪に手をやり、そして目を閉じた。瞼の裏に、フリッカの記憶――ある一つの光景が浮かんでくる。
 それは、かつて途中まで訪れて途切れてしまった、”アスガルド最後の日”の光景だった。



 舞い落ちる灰の中、茫然と座り込んでいる少女がいる。片方の目は凍てつく海の青、もう片方の目は黄金の色。頬には焼けどの跡、切り傷、そして涙。
 人の気配を感じて、少女は弾かれたように振り替える。
 「どうして、ここに…」
足をとめ、腕輪の主は、首を傾げる。
 「戻ってきていたの、フリッカ…? いつ… どうして…」
少女はぼさぼさの髪を振り乱し、フリッカのスカートにしがみつく。「どうして! 止めてくれなかったのっ こうなるって知ってたなら…」
悲鳴にも似た叫びと嗚咽。言葉は喉に絡まり、それ以上出てこない。
 「変えられた未来は、その行方が定まるまではっきりとは見えないわ…。私には、どうしようもなかった。」
 「うあああっ」
 「このままでは、世界が…。」
燃え盛る<大樹>から次々と落ちていく枝葉を見上げ、フリッカはため息をついた。
 「…駄目ね。私の力では。未来が遠すぎる… 霞んで見えない」
 「どうしよう、あたし、とんでもないことを! みんな死んだ、みんな死んじゃった!」
 「落ち着いて、イザベル。」
泣きじゃくる少女の痩せた肩を抱き、その女性は、決して優しくはない口調で言った。
 「償いとは言わないけれど、変えてしまった未来は、あなた自身が戻しなさい。私には見えない未来のその先を、あなた自身が見届け、責任を取るの。それが、未来を”視”る者の責任よ。」
降り注ぐ灰の中、凛とした声が命じる。
 「立ちなさい、イザベル」
少女は細い足を踏みしめ、涙をぬぐいながら立ち上がる。
 「今からずっと先、何百年か、何千年か分からないけれど、私の血を引く者がこの地へ戻ってきます。私はその子に伝言を残しましょう。あなたの友だちとなってくれるように、と」
 「友…?」
 「そう、友だち。その子が、あなたの力になってくれる――」
それから時は流れ、遥かな道程の果てに、現在へと繋がっていく。



 フェンリスは、眩しさに目を細めながら起き上がった。
 朝日が正面から照らしている。確か記憶では、空が白む中、スコルたち狼の群れとともに、フランシェーロの町へと続く一本道を走っていたはずなのだが。
 目を擦り、ふとその手を見て、人間の手に戻っていることに気がつく。ナイフは足元に落ちていた。ナイフの表面には、さざ波のような光が反射している。振り返ると、すぐそこに波打ち際があった。
 「…海だ」
潮風と、穏やかな波の音。切り立った崖が消え、海から先は、なだらかな斜面が続いている。まるで別の場所に来てしまったかのようだ。また、過去の世界の幻なのか? それとも…。
 「フェンリス」
呼ばれて、少年は振り返った。そっくりな顔をした青年が二人、微笑みながら覗き込んでいる。灰色の髪と、青い瞳。
 懐かしい―― そう、懐かしい笑顔だ。
 「分かるよ。」
うなづいて、フェンリスは指差した。
 「そっちがスコーティで、そっちがスコーネルだね」
 「正解です」
スコーティは、にっこり笑った。
 「それから、こっちが妹の」
後ろに隠れていた少女を引っ張り出す。青い瞳の、そうだ、あの幻の中、裏口でフェンリスを見つけて館の中に招き入れてくれたメイドの少女。
 「セリーナといいます。ほら、ちゃんとお礼を言いなさい」
少女は何も言わず、頬を真っ赤に染めて兄たちの後ろに隠れてしまった。
 「あはは」
笑って、笑いながら、フェンリスは零れてくる涙を拭った。笑うべきところのはずなのに、どうしても、涙が止まらない。
 「――私たちの、長い満月の夜は終わりました。」
静かに、スコーティが言った。
 「旦那様も、あの魔女も、<大樹>とともに過去囚われていた多くの魂も… 皆、自由になった」
 「<アスガルド>は生まれ変わりました」
と、スコーネル。「それでも我々は、ここに残るつもりです。あなたと共に見てきた、ここの外の世界は、なんというか…我々には少々住みにくい場所のようでしたからね」
 「そうかもね。」
きらめく海の水を浴びながら、狼から人に戻った他の人々が歓声を上げている。朝の太陽の輝きに、海は黄金色に輝いて見えた。どこまでも続く、黄金の地平線。
 「あ、見て!」
少女が沖合いに指をさす。「くじらっ!」
 黒々とした大きな背が、海面に浮かんでいた。その背から高々と吹き上げられた潮に、色鮮やかな虹が輝いた。


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