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<黄金のチェス亭>


 門は苔蒸して、周囲は沼地になっている。草が水の縁を覆い、月明かりの中で、青白い館は水面に浮かんでいるかのように見えた。
 フェンリスは、ぎゅっと胸のあたりを握り締めた。記憶の中にある、あの館の面影はどこにもない。にもかかわらず、炎に包まれていた光景が、目の奥をちらついて離れない。
 (どうかしましたか? フェンリス)
スコーティが、鼻面を足に押し付けてくる。
 「…あそこに寄って行くんだよね?」
 (ええ、出来れば。でも、父や仲間たちが無事なことを確認したら、すぐに出発しましょう)
スコーネルが、鼻をひくつかせで風の匂いを嗅いだ。
 (こんな満月の夜は… あの方が彷徨い出てこられる)
フェンリスは、それが誰なのかを知っていた。夢の中で会った、あの老人は、厳しそうな目をしていたが決して嫌な感じはしなかった。灰色の目は、村でよく話をするロッソ老人に良く似ていた。あの夜、無残に殺された、館の主ロードゥル。
 スコーティは、空に向かって一声、長く吼えた。応えるように、風に乗って、狼の遠吠えが聞こえてくる。館のほうだ。
 (皆は無事だ!)
ぱっと、狼たちの表情が明るくなる。月明かりのせいだろうか。彼らの表情が、まるで人間のようだ。
 「行こう!」
フェンリスは、狼たちとともに駆け出した。アーチ型の石組み、門の前に狼の群れが見える。月明かりの下で、灰色の毛並みが輝いている。
 群れに戻ると、たちまち二頭はくしゃくしゃにされた。仲間たちにもまれ、鼻面を押し付けられ、いたずらに甘噛みされて転がされる。フェンリスには、一番大きな黒々とした毛並みの狼が近づいてきた。群れの長、スコルだ。
 ――これが、あの、ロードゥルに付き従っていた戦士たちの成れの果てなのか。
 (はじめまして、赤毛の若者よ。私はスコル、この群れの長だ。娘を助けてくれたこと、礼を言うぞ)
「いいえ、大したことは。僕のほうこそ、スコーティとスコーネルに随分助けてもらったから。それより」
フェンリスは、膝をついて狼の目の前にナイフを差し出した。
 「これに見覚えはありますか?」
狼の、青い色をした瞳が大きく見開かれた。
 (…それは、フリッカ様がアールヴに命じておつくりになられたもの。我ら一族の力を封じ込めた守り刀だ)
 「”我らの一族力”?」
狼は、じっと彼を見つめている。何か言いたげに。
 フェンリスの脳裏で、何かが組み合わさっていく。魔女の呪い。満月の魔力。…夢の中で見た光景。どこかで聞いたことがある。かつて、満月の夜にだけ、その姿を変えるという獣人がいたと。遠い昔の、古い伝承…。
 答えを出すのは早急だ。それに、もう一つ知りたいことがある。
 「ロードゥルさんは何処? 僕、ロードゥルさんにも用があるんだ」
長の急変にうろたえている狼たちの群れを抜け、フェンリスは月明かりの庭へと真っ直ぐ入っていく。燃え落ちていても、はっきりと分かる。そこは、霧の先で見た幻の中、兵士たちが火を放った場所。狼と化したフェンリスが戦った場所だ。
 どこかから、うめき声が聞こえた。フェンリスは振り返り、テラスの上を見た。
 白い影が所在なさげに揺れている。こちらに背を向け、背中にぶら下げた首から見下ろしている。
 (フェンリス! 逃げて)
 (いけません、お館様。この方は客人です)
スコーネルとスコーティが揃って叫ぶ。白い影はややたじろいだが、ゆらゆらと揺れながら、まだその場に留まっている。
 「私の…、体…。」
亡霊は、擦れた声で呟いた。「体を… くれ」
 (フェンリス、何をぐずぐすしているんです。早く逃げてください! 今のあの方は、他人の体を欲して人を取り殺す)
 「大丈夫、僕は知ってる」
影がふわりと降りてきた。笑いながら、こちらに近づいて来る。在り得ない咆哮に手が曲がり、フェンリスに触れようとしたその時――
 「おじさん、自分の一族に何をするの? フリッカが知ったら悲しむよ」
フェンリスの言葉に、亡霊の手が止まった。少年は、ナイフをよく見えるように掲げた。月明かりに、銀色に輝く。
 「体がどこにあるのか知ってる。ついてきて」
彼は、記憶のまま崩れ落ちた館の入り口を潜った。廊下はほとんど原型を留めていない。部屋ーの入り口も。内装のすべて剥げ落ちた石組みの奥はカビっぽく、足元は土に埋もれていた。
 落ちた柱の向こう側に、空間があった。中には朽ちた木のベッド。もうほとんど形をとどめていない掛け布団と、枕の痕跡だけがあった。フェンリスは、繊維がぼろぼろと零れ落ちるのも構わず、掛け布団をめくった。
 覗きこんだ亡霊が、悲鳴にも似た歓喜の声を上げた。
 「わしの、体…!」
何も残ってはいなかった。小さな骨の欠片がほんのわずか、ネズミや虫たちのお目こぼしによって、小石のように散らばっているだけ。それで十分だった。
 それまで形を成していなかった亡霊が、次第にはっきりとしはじめた。首は元通りの場所に戻り、胸に空いた穴はふさがり、だらしなくたなびいていたマントは、威厳あるローブへと変わっていく。
 亡霊は、夢の中で会ったロードゥルそのままの姿になっていた。
 「…そうだ、思い出したぞ。そうだった。フリッカが言ったのだ。大地は滅び、<アスガルド>は死に絶える。…」
 「うん」
フェンリスは、頷いた。老人は灰色の目を細め、じっと彼を見た。
 「…そうか。お前が、遥か未来に来ると言っていた、我が一族の末裔か。そうか…」
スコルとその一族が、おそるおそる部屋に入ってくる。ロードゥルは振り返り、つつましく勢ぞろいしている家臣たちを見回した。
 「お前たちにも、ひどく永い事苦労をかけたな。わしは満足した。もうよい。この地で死に、朽ちてこの地に還ることが出来たのだ。そして未来を知ることが出来た。わしの望みは叶った…」
亡霊が薄れてゆく。スコルは一声、吼えた。
 (しかし、お館様! 我らはどうすれば!)
 「役目は終わったのだ」
消えながら、老人は静かに言った。「…お前たちは、お前たちの未来を歩むがよい。」
 白い炎が最後の尾を引いて消えたとき、館が揺れた。
 「地震?」
 (崩れる!)
狼たちが一斉に走り出した。フェンリスも、慌てて後に続く。地の底から湧きあがるような揺れは激しく、館も、館に接する塔も、次々とドミノ倒しのように崩れていく。水盤が割れ、泉の水が流れ出す。
 その揺れは、館だけではなく<アスガルド>全体のようだった。大地にひびが走り、どこか遠くのほうで火の手が上がるのが見えた。
 「火事?」
 (わかりません。風向きは、こちらに向いています)
スコーネルは、鼻を空に向けてひくひくとさせている。
  (…嫌な臭いです。さっきの黒い水のような)
また、地面がゆれた。
 「とにかく、行こう。<黄金のチェス亭>」
よろめきながら、フェンリスは言った。「…皆、一緒に行こう。ここでの役目は終わったんだ」
 スコルが咆哮を上げた。(行こう! 時は、来た!)
箱から小人たちが飛び出してきて、狼たちの背にぴょんと飛び乗った。緋色に染まる地平線に、主なき灰色の遺跡が、長く影を引いていた。



 揺れが大きくなっている。
 何度も壁にぶつかりながら、時折り降ってくる大小さまざまな岩を避けながら、ハロルドとローグは穴の中を手探りに進んでいた。
 「地下迷宮はほとんど入ったことがなかったが―― とんでもない場所だな。」
 「……。」
 「<大樹>の根っこが腐ったあとに出来た穴、だっけ? それに地下水の削った空洞とか」
 「…それだけじゃない」
大男は、ぼそぼそとした声で喋る。「大昔に、人間が掘った穴もある」
 この調子で、会話らしい会話はほとんど成立しないのだった。ことさら馴れ合う気はしなかったが、黙っていると居心地が悪いのも事実だった。ローグは、ひとつため息をついた。この狭い一本道では、気が合わない相手と道を異にすることも出来ない。
 「……お前は、少し変わったな」
ふいに、ハロルドのほうから話を振ってきた。
 「前に見たときより、人間らしい顔になった」
 「は? どういう意味だ、それは」
 「そのままの意味だ。生きる意味を見つけたのだろう。―― お前は、わしのようになるな。絶望するな。過去を戻せたとしても、死んだものは生き返らない」
ローグは、眉をひそめた。
 「何だ、それ。あんたも誰かの復讐を?」
 「違う」
ぱらぱらと落ちてきた土を払いのけ、ハロルドは、狭い空間に手をついた。
 「わしは独りだ。仲間はもう誰も生きていない。誰も… お前はまだ、独りではない」
力任せに通路を押し開く。石の塊が押しやられ、その向こうから光が差し込んでくる。ローグは眩しさに手をかざした。風だ。
 外に這い出すと、頭上に<大樹>の灰色の幹が見えた。上のほうには靄がかかり、焦げ臭い匂いがこの辺りまで迫ってきている。
 ハロルドは、荷物を入れた袋を背負い、既に坂を下り始めている。坂の下に、<黄金のチェス亭>の屋根が見えた。周囲は荒れているものの、まだ、建物としての形は無事だ。
 ほっとすると同時に、不安がよぎった。ヨルムやフェンリスは? 途中ではぐれてしまった、狼や小人たちは無事だろうか。火は、こちらに向かってその手を広げつつある。雨の後で地面は湿っているとはいえ、オイルについた火はその程度ではすぐには消えないだろう。
 気がつくと、ハロルドはもう随分先まで進んでいた。
 「おい、待てよ!」
ローグは剣を背負いなおし、慌てて後を追いかける。
 近づくにつれ、宿の荒れ果てた様子がはっきりしてきた。外に打ち捨てられていた軍の見張り台が倒れて、入り口のあたりに突っ込んでいる。馬小屋は崩壊し、二階のあたりには焼け焦げたような跡。屋屋根の一部が剥げてぽっかりと穴が空いている。庭はワームの残骸や体液で変色し、人間との争いの跡なのか、木切れや鉄くずが散らばっていた。
 「…イザベル」
こんなところに、たった一人で残って無事なのか?
 ハロルドは、入り口で待っていた。
 「行くぞ」
それだけいうと、先に立って中に入っていく。ローグもすぐ後ろに続いた。――


 目の前に広がっていたのは、見慣れた<黄金のチェス亭>のホールではなかった。
 五段の階段も、ドアベルも、ドアの脇に乾燥ハーブの束と一緒にかけられたドラゴンの首も、見たあらない。真っ白な部屋、天井は高く、床は鏡のように磨かれている。
 奥には玉座のような椅子が並んでいた。その一つに座っていた人物が、立ち上がる。
 「ヨルム!」
 「ローグ、無事だったのか。…そっちは?」
 「ハロルドだ。どうなってるんだ? <黄金のチェス亭>に入ったと思ったら、こんな――」
続けざまに、背後でドアが開いた。振り返ると、きょとんとした顔のフェンリスが、小人のリィムを肩に載せて立っている。
 「あ、あれ…?」
少年は、自分の両手を見、それから、足元と背後を確かめた。
 「スコーティたちは? 他の小人たちもいない。今、一緒にここへ入ってきたはずなのに」
 「どうやら、必要な人数分しか席はないみたいだな。」
ヨルムは肩をすくめ、今来た四人を見回した。「全部で九人だ。ここには、席が九つある。揃わないと先へ進めないらしい」
 「どういうことだ?」
ローグは、開かないドアを叩いたり引っ張ったりしているフェンリスのほうに呆れた視線を向けながら訊ねた。
 「イザベルが仕組んだことだ。それに、フリッカとマーサも一枚噛んでいるらしい」
 「それは… お前たちの先祖のことか?」
 「そうだ」
返事は、意外なところから返ってきた。全員が、そちらを振り返る。
 地下に住む大男、ハロルドは、ゆっくりと壇上に上がり、一つの椅子を撫でて確かめると、そこにどっかと腰を下ろした。”闇のしもべ”と、そこには記されている。
 「ずっと昔から、この日のために準備されてきたことだ。」
 「あんたは、うちの祖父さんのことも知ってるんだったな? 一緒に冒険をしたと」
 「…そうだ。」
ヨルムも席についた。リィムはぴょんぴょんと飛び跳ねて、ヨルムのすぐ隣の席へ。ローグは、少し迷ったがヨルムの正面の席に腰を下ろした。さっき少女イザベルが”恐れ知らずの剣”と呼んでいた、その席だ。フェンリスは、まだ部屋の中をうろうろしている。
 四人の真ん中には、丸テーブルが一つあった。何も載っていない、鏡のような一枚岩。そこに、身を乗り出したヨルムの顔が映っている。
 「あんたも、この日がくることを知ってたのか。いつからだ。祖父さんも知っていたのか?」
 「…過去は」
問いかけには答えず、ハロルドは、ぼそぼそとした声で言う。「決して変えることは出来ない。定まった未来も変えることは出来ない。だが摩り替えることは出来る。等価な別の出来事によって」
 「その話は、さっきイザベルから聞いた」
 「彼女たちは、ずっと”時”を待っていた…。」
ようやく諦めて玉座のほうにやってきたフェンリスが、目をしばたかせながら首を傾げた。
 「時を、待つ?」
 「そうだ。過去も未来も、作るのは”人”だ。必要な”人”が揃った時、来るべき未来は変更される。」
 「そのための九人か。」
 「かつてここは、<アスガルド>を治めた王たちの広間だった」
ハロルドは、俯きながらぼそぼそと続ける。「九人の王が揃わなければ、終焉の時は訪れない。その未来を、イザベルが変えてしまった。二人でも、三人でも、五人でも無理だった。全部で九人だ」
 「まさか、この俺も数に数えられているんじゃないだろうな」
ローグがひらひらと手を振った。「冗談じゃない。そんな大層なもんじゃないぞ、俺は」
 「そこは”恐れ知らずの剣”の席だそうだ」
と、ヨルム。「…予想するに、王であるか否かではなく、その席に相応しい”資質”を持った人間、という意味じゃないのか。過去に行われるべきだった、何らかの出来事を遂行する代役が必要なんだろう。」
 「僕はどこに座ればいいのかな…」
フェンリスは、空いている席を見回し、やや灰色がかった椅子に腰を下ろした。光の加減で、その席の背もたれに記された文字が、一瞬、浮き上がって見えた。

”獣の声を束ねる者”。 

 ヨルムは、ため息をついた。
 「…残りの予想がついたぞ。どうやら、俺たちはここで、あと何日か缶詰を食らうらしい。ギムレイからじゃあな」
 「外は燃えてる」
 「ここはが燃えないことを祈るしかないな。」
 「そんなー!」
フェンリスは、叫んで椅子の背もたれに勢いよく背中をもたせかけた。どのみち、ここからは出られない。出られたとしても、何の解決にもなりはしないのだ。
 信じて、待つしかなかった。



 その頃、ユーフェミアたちは、<アスガルド>のすぐ側まで来ていたのだった。
 上空から見ると<アスガルド>の崩壊は、一目瞭然だった。半分は真っ赤な火の海、もう半分はクモの巣のようなひび割れに覆われている。大地は瀕死の状態にあった。ひび割れは、<大樹>を中心にして広がっている。その根が作り上げた大地の結合が、根の死とともに緩やかに離れつつあるのだ。地下に出来上がった空洞は長年のうちに地表近くまで広がり、その空洞が端から崩落しつつある。いずれ、大地は割れ、<大樹>の残骸とともに海へ雪崩落ちるだろう。
 目的地は、すぐそこのはずだった。灰色の<大樹>の幹が、まるで壁のように視界を覆っている。飛行機はその側を旋回し、向きを変えた。
 「高度を下げる、つかまって」
ハリスの運転はなかなかのものだったが、いかんせん、着陸はそう簡単なものではなかった。満月の明かりがあるとはいえ、下は真っ暗な草原。速度と高度を下げるにつれ、状況は悪化していた。火事の煙りと霧で、月明かりさえ揺らいでいる。おまけに、<アスガルド>で着陸できそうな平野といったら、フランシェーロの町から宿へ続くあの一本道くらいしか見当たらない。その道は馬車一台分しかなく、少しでも逸れたら海へ一直線だ。
 「おお神よ、わしは信心深くはないが今なら祈ってもいいぞ」
 「冗談はよして、ルベット。頭下げて」
 「どだい、人が空を飛ぶなんて無理な話だったんじゃああ」
ユーフェミアは、騒ぐ老人を席に押し付けた。ハリスは、細心の注意を払いながら機体を道へ降下させていく。行く手の平原は燃えている。頼みの綱の滑走路は、月の光を受けて青白く伸びている。
 ごごん、と衝撃が床から伝わってきた。車輪が地面を擦っている。何度かバウンドしながら、機体は速度を下げていく。巻き上げられた砂埃が視界を覆った。
 座席に叩きつけられるような感覚とともに、体を支配していた重力から開放された。成功だ。
 ハリスは、まだ操縦桿を握り締めたまま、正面を睨んでいる。ルベットは、ぐったりして座席に沈み込んでいる。ユーフェミアは、ベルトを外すとハリスの肩を叩いた。
 「扉を開けて。行くわよ!」
 「あ、ああ」
放心していた彼は、我に返った。
 「ルベット。ほら、起きて!」
 「ううう…」
ユーフェミアの動きは素早い。半ば引きずるようにルベットを座席から引っ張り下ろすと、自らは<黄金のチェス亭>のほうへ駆けて行く。その入り口には狼たちがたむろしていたが、彼女の姿を見ると道を開けた。
 「…ひどいな」
ハリスは、煙に目をしかめ、鼻に袖口を当てながら呟いた。「ミサイルが火をつけたのか。この匂いは、天然オイルだな」
 「わしはもう、生きて帰れる気がせん」
とはいえ、引き返せるわけでもない。目的地はすぐ、そこだ。



 ドアを開けると真っ白な広間が目に入った。座っていた全員が、振り返る。
 「姉さん!」
 「ユーフェミア… それに、ルベット」
 「ハリス、お前もか」
光景が揺れた。天井から差し込む光が薄れていき、世界が暗転する。
 「な、何だ?」
――次の瞬間、そこは、薄暗い酒場のホールに変わっている。
 ユーフェミアたち三人は、ホールの入り口の階段の上に立っていた。ハロルドはカウンターの椅子に、フェンリスは台所入り口の木箱に。ローグは階段の中ほどに座っており、ヨルムとリィムは、宿泊客が酒を飲んでいた丸テーブルと座席に。他のテーブルと椅子は、ひっくり返ったり、壊れたりしてその辺りに散らばっている。窓はワームの侵入を食い止めようと打ち付けられたまま、
 ドアの横には、ローグが殺したニーズヘッグの首がかけられていた。
 「…戻ってきたのか」
ローグは、呟いて立ち上がった。「ここは、確かに<黄金のチェス亭>だな。」
 「ずいぶん荒れてるけどね」と、フェンリス。あの部屋から出られたということは、九人が揃ったということ。予想はしていたが、やはりこの組み合わせなのか――
 「どうやって、こんなに早く来たの? 姉さん」
 「質問は、あとだ。ともかくこれで、全員揃ったな」
ヨルムは、立ち上がってユーフェミアのほうに歩き出した。「それで? 次はどうすればいい」
 「…そうね」
ユーフェミアは、ちょっと首をかしげ、考え込んだ。「イザベルは、どこかしら。」
 「俺が最初に到着したときには、ここにいた。本物じゃなかったが」
 「じゃあ探してみましょう。皆、手分けして。」
彼女は、手を叩いた。「必ずどこかにいるはずだから。」


 全員が、<黄金のチェス亭>の中に散らばった。ハリスは<協議の間>へ。初めて実物を目の当たりにする、宿の名の由来でもある黄金のチェスをしげしげと見ている。ルベットは自室。仲間たちの部屋も丹念に覗き込んでいく。ローグは、ユーフェミアとイザベルの部屋のある辺りに来ていた。部屋があることは知っていても、訪ねたのは初めて。とくにイザベルの部屋は、この宿の”住人”たちの誰も、おそらく一度も訪れたことは無かっただろう。
 その部屋は、きちんと片付けられていて、シーツの皺に至るまで整えられ、ほとんど生活観が感じられなかった。机の上には、からっぽの写真立て。それ以外に目に見える私物は何も無かった。
 ユーフェミアは、台所から続く裏口の外へ出てみた。潮風が心地よい。風だけは、以前と変わらない。そこには誰も居なかったが、当たり前のように月明かりが照らす海は静かで、燃え続ける大地とは別世界のようだった。
 「姉さん!」
台所に隣接した食料庫のほうから、フェンリスの声がした。
 「ここ、これ見て」
食料庫の奥に、小さな扉が一つ。普段は鍵がかかっていたはずだが、今は開いている。その奥には、ユーフェミアも入ったことがない。
 「いつもイザベルが腰に鍵を下げてたところだわ。この先に特別な酒蔵があるって」
 「じゃあ、そこにいるのかも!」
 「行ってみましょう。」
ユーフェミアは、散らばっていた仲間たちを呼び集め、扉を潜った。ホールから<協議の間>へ続くのと同じくらいの広さしかない狭い通路は、岩をくりぬいたようになっていて、その実、<大樹>の根っこの中を突き抜けているのだった。明かりもなく、足元は暗い。階段で何度も転びそうになりながら、一行は地下へ地下へと降りていく。
 どのくらい降りただろう。
 ようやく辿りついた開けた場所には、ひんやりとして乾いた、地下迷宮とよく似た古代の空気が満ちていた。
 ハロルドが、持っていた携帯用のランプに灯を入れた。明かりは弱々しく、部屋の全てを隅々まで照らし出すほどの光は生み出せない。中は、ほとんどがらんどうだった。申し訳程度に壊れた樽がいくつか。奇妙なことに、壁から大きな管が何本も突き出し、その下に大衆浴場ほどもある石の水盤が作られている。
 「湧き水?」
 「いや、この壁は<大樹>そのものだぞ」
ヨルムは石化した壁に走る年輪の跡を叩いて言った。「ここは、見たところ根っこの中だ。<大樹>から何かを採っていた跡じゃないか?」
 「……おい、ユーフェミア?」
ローグは、ユーフェミア一人がその場を離れていくのに気がついた。彼女は何かを見つめたまま、まっすぐに暗がりのほうへ向かっていく。
 「どうしたの、姉さん」
 「む、あれを」
向かっていく暗がりの奥を、ハリスが指差した。ちらちらと、白っぽいものが揺れている。宙に浮かんで、まるで陽炎のよう。おぼろげな微笑を浮かべて… 

 ユーフェミアは、幻のように揺れる女性の前で、足をとめた。
 足元には、小さな石の墓標がある。文字も何も刻まれていない墓標だったが、それが誰のものなのか、彼女には分かっていた。
 「ここにいたのね」
ユーフェミアが手を差し出すとともに、宙に浮かぶ亡霊もまた、手を伸ばした。
 「マーサ・クレイントン…」
赤毛の女性が、ゆっくれと微笑む。過去と現在、亡霊と生者、――二人の手が触れ合った瞬間、様々な情景が一気に流れ込んで来て、意識の中を通り過ぎていった。それは、マーサの見てきたもの、ここに隠されていた、彼女だけの記憶なのだった。


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